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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第4章 秦の終焉

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第90話 指鹿為馬

 鉅鹿(きょろく)から届いた報告は、咸陽(かんよう)の宮廷に重く落ちた。


 李信(りしん)戦死。章邯(しょうかん)もまた死亡し、秦軍は大敗。さらに王氏の陣を襲った扶蘇(ふそ)軍との戦いの中で、王離(おうり)まで討死したという。焼けた遺体は損傷が激しかったものの、身につけていた鎧や残された大剣、周囲の兵の証言から王離(おうり)本人と判断されていた。


 その報せを携え、趙高(ちょうこう)は一人の女を訪ねた。


◆


 王賁(おうほん)は、この二年間を咸陽(かんよう)で半ば囚われるように過ごしていた。


 牢へ入れられているわけではないが、屋敷の周囲には監視が置かれ、外出や人との面会も自由にはならない。娘である王離(おうり)を秦軍へ従わせるための人質であり、その事実は王賁(おうほん)自身が誰より理解していた。


 その二年の間、胡亥(こがい)から夜の誘いが届いたことも一度や二度ではない。王氏の将であり、戦場を知り、自分へ決して媚びようとしない王賁(おうほん)に、胡亥(こがい)は以前から強い興味を抱いていた。


 だが、王賁(おうほん)は一度も応じなかった。


 露骨に拒めば王離(おうり)へ害が及ぶかもしれないため、病を理由にしたこともあれば、身体が優れないと断ったこともある。それでも胡亥(こがい)の寝所へ向かうことだけは避け続けてきた。


 だから趙高(ちょうこう)が屋敷へ現れた時も、王賁(おうほん)は最初、また同じ話かと思った。


「今日は何だ」


「鉅鹿(きょろく)より報せが届きました」


 その一言で、王賁(おうほん)の表情が変わった。


「……王離(おうり)か」


「はい」


 趙高(ちょうこう)は余計な前置きを挟まなかった。


「王離(おうり)将軍は敵襲を受けた陣を守るため自ら出撃し、その後の火災に巻き込まれて戦死したとのことです。遺体も確認されております」


 王賁(おうほん)は差し出された書へ手を伸ばさなかった。


「本当に、王離(おうり)なのか」


「遺体は激しく焼けておりましたが、鎧、大剣、周囲の兵の証言が一致しております。最後まで秦の将として戦ったそうです」


「……そうか」


 それだけを答えた。


 趙高(ちょうこう)は慰めの言葉を口にすることなく、一礼して部屋を去った。


 その静けさが、王賁(おうほん)にはかえって残酷だった。


◆


 一人になった後も、王賁(おうほん)は長い間その場から動かなかった。


 自分がここで耐えている限り、娘は生きている。いつか状況が変われば、王離(おうり)も自分も解放されるかもしれない。その僅かな望みだけを支えにして、この二年間を過ごしてきた。


 だが、そのために秦軍へ残った娘が死んだ。


「……馬鹿娘が」


 ようやく漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。


「母など捨てればよかったものを」


 王離(おうり)が逃げられなかった理由の一つが、自分だったことは分かっている。母を人質に取られていたから秦軍へ従い、望まぬ戦いを続け、その果てに命まで失った。


 そう考えた瞬間、二年間守り続けてきたものが急に空虚になった。


 その夜、再び胡亥(こがい)の使者が訪れた。


「陛下がお召しです」


 いつもなら断っていた。


 だが王賁(おうほん)はしばらく使者を見つめた後、静かに立ち上がった。


「……分かった」


◆


 胡亥(こがい)は、王賁(おうほん)が来たと聞いて心底驚いた。


「本当に来たのか?」


「はい。すでに外でお待ちです」


 驚きはすぐに喜びへ変わった。


 二年間、何度誘っても応じなかった女が、自分から寝所まで来たのである。胡亥(こがい)には、その理由を深く考える発想がなかった。


「ようやく俺の魅力に気づいたか」


 部屋へ入ってきた王賁(おうほん)は、その言葉にも反応しなかった。


「ずっと意地を張っていたんだろ。最初から来ればよかったのに」


 王賁(おうほん)は俯いたまま、否定も肯定もしなかった。


 娘を失った今、もう何を守って拒み続けるのかさえ分からなくなっていた。胡亥(こがい)が近づき、その身体へ腕を回しても抵抗する気力が湧かなかった。


 その沈黙を、胡亥(こがい)は受け入れられたのだと思った。


 夜が深くなり、王賁(おうほん)の頬を涙が伝った。


 娘のために耐えてきたはずだった。


 その娘がいないのなら、自分などどうなってもいい。


 そんな投げやりな思いだけが胸の底に残り、王賁(おうほん)は目を閉じた。


 胡亥(こがい)は、その涙の意味に気づかなかった。


◆


 同じ頃、南では劉邦(りゅうほう)軍が武関(ぶかん)へ迫っていた。


 秦の関中を守る門である以上、武関(ぶかん)にも相応の守備兵はいる。しかし函谷関(かんこくかん)ほどの兵力はなく、秦軍主力を鉅鹿(きょろく)へ集中させた影響は明らかだった。


「中央へ強く圧力を掛けます。ただし、突破そのものを狙う必要はありません」


 張良(ちょうりょう)は関の守りを見ながら説明した。


「樊噲(はんかい)殿が敵の注意を引きつけ、曹参(そうしん)殿が後続を整える。その間に灌嬰(かんえい)殿の騎兵を側方へ回します。守る場所を増やせば、どこかが必ず薄くなります」


「分かった。じゃあ今回も、得意な奴に得意なことをやらせよう」


 劉邦(りゅうほう)はそれだけ聞いて頷いた。


 攻撃が始まると、予想どおり最初に飛び出したのは樊噲(はんかい)だった。


「ここまで来て門前払いなんて御免だよ! さっさと開けな!」


 大盾を構え、矢が降る中を正面から進む。守備兵が中央へ集まり、樊噲(はんかい)の部隊を押し返そうとするが、そこで曹参(そうしん)が兵を交代させながら圧力を保った。


「樊噲(はんかい)、前へ出すぎないで。あなた一人が入れても後続が詰まったら意味がないわ」


「分かってるよ!」


「分かっている人は、もう少しこちらを見るものよ」


「戦ってる時に細かいこと言うな!」


 その二人が守備兵を正面へ引きつけている間に、灌嬰(かんえい)は騎兵を率いて関の側面へ回り込んだ。


「なるほど。正面に兵を集めすぎね」


 狭い道の先にいる守備兵を確認し、灌嬰(かんえい)は口元を緩めた。


「守っていない道があるなら、使わせてもらいましょう」


 騎兵が一気に入り込んだ。


 側面へ兵を回せば正面が薄くなり、正面を守れば灌嬰(かんえい)が奥へ入る。守備側が対応に迷った僅かな時間を、樊噲(はんかい)と曹参(そうしん)は見逃さなかった。


 やがて防衛線の均衡が崩れ、武関(ぶかん)の門が開いた。


◆


 劉邦(りゅうほう)は開かれた門を通り抜け、しばらく先で馬を止めた。


「ここから先は?」


「関中です」


 隣の張良(ちょうりょう)が答えた。


 秦が天下を支配するための本拠。その内側へ、函谷関(かんこくかん)を攻めることなく入り込んだことになる。


 劉邦(りゅうほう)は振り返って武関(ぶかん)を見た後、再び前を向いた。


「じゃあ、いよいよ咸陽(かんよう)だな」


「はい。ここから先は、秦の心臓部です」


 劉邦(りゅうほう)軍は関を抜け、そのまま西から北へと進路を変えた。


 咸陽(かんよう)までは、もう遠くない。


◆


 武関(ぶかん)陥落の急報は、その日のうちに咸陽(かんよう)へ向かった。


 本来なら途中で処理され、胡亥(こがい)の耳へ入らなかった可能性もある。しかし混乱した官署を抜けた一人の伝令が、運悪くと言うべきか幸運と言うべきか、そのまま宮中まで駆け込んだ。


「陛下、急報にございます! 武関(ぶかん)が陥落し、沛公・劉邦(りゅうほう)の軍が関中へ侵入いたしました!」


 胡亥(こがい)は、しばらく何を言われたのか理解できなかった。


「……何を言っている」


 伝令が戸惑う。


「武関(ぶかん)が落ちたなどと、どうしてそんな話になる。反乱はもう鎮圧されたんじゃないのか」


「陛下、それは」


「章邯(しょうかん)がいるだろう! 李信(りしん)も、王離(おうり)もいた! なぜ反乱軍が関中まで来ている!」


 叫びながら、胡亥(こがい)はようやく一人の名前を呼んだ。


「趙高(ちょうこう)!」


 呼ばれた趙高(ちょうこう)は、慌てる様子もなく前へ出た。


「これはどういうことだ。俺は何も聞いていないぞ!」


「陛下。この者はどうやら、ひどく混乱しているようです」


「混乱?」


「はい。武関(ぶかん)が陥落したなどという報告は、私のもとには届いておりません」


 伝令の顔色が変わった。


「な、何をおっしゃる! 私は確かに前線から」


「虚報をもって陛下を惑わせたか」


 趙高(ちょうこう)は兵へ目を向けた。


「斬れ」


「お待ちください! 私は事実を!」


 伝令は抵抗する暇もなく引きずられていった。


 胡亥(こがい)は、その光景を呆然と見ていた。


「……では、本当に間違いなのか?」


「もちろんでございます」


 趙高(ちょうこう)は穏やかに答えた。


 そして何事もなかったように、部屋の壁へ目を向ける。そこには狩りの様子を描いた絵が掛けられており、何頭かの獣が草原を駆けていた。


「ところで陛下、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」


「……何だ」


 趙高(ちょうこう)は絵の中の一頭を指した。


「あれは何でございましょう」


 突然の問いに、胡亥(こがい)は困惑しながら絵を見る。


「鹿だろう」


「いいえ」


 趙高(ちょうこう)は静かに首を振った。


「あれは馬でございます」


 胡亥(こがい)は思わず笑った。


「何を言ってるんだ。どう見ても鹿じゃないか。角まであるぞ」


 趙高(ちょうこう)は言い返さなかった。


 代わりに、周囲へ立つ臣下たちを見回した。


「皆はどう思う?」


 一瞬、部屋が静まり返った。


 臣下たちは絵を見るより先に、趙高(ちょうこう)の顔を見た。


 やがて一人が頭を下げる。


「……馬にございます」


「私にも、馬と見えます」


「間違いなく馬かと」


 一人が答えると、後に続く者は早かった。


 胡亥(こがい)の顔から、少しずつ笑みが消えていった。


「待て」


 もう一度、絵を見る。


 鹿だった。


 どう見ても鹿でしかない。


「鹿だろ……?」


 今度は誰も同意しなかった。


「馬にございます」


 返ってくる答えは、それだけだった。


 胡亥(こがい)はゆっくりと周囲を見回した。


 臣下の誰一人、自分の顔を見ていない。


 皇帝である自分が鹿と言っているのに、趙高(ちょうこう)が馬と言えば、全員が馬と答える。


 その時、先ほど斬られた伝令の言葉が頭へ戻ってきた。


 武関(ぶかん)が落ちた。


 劉邦(りゅうほう)が関中へ入った。


 もし、あれが本当だったら。


 自分は反乱が鎮圧されたと思っていた。


 だが、それすら自分へ見せられていた世界に過ぎなかったのではないか。


「……趙高(ちょうこう)」


「何でしょう、陛下」


 いつもと変わらない穏やかな表情だった。


 その顔を見た瞬間、胡亥(こがい)はようやく理解した。


 自分が命じたから天下が動いていたのではない。


 自分の命令を外へ伝える者がいて、外から届くものを自分へ見せる者がいた。その人間が何を伝え、何を隠すかを決めれば、皇帝である自分の見る天下など簡単に作り替えられる。


 玉座に座っているのは自分だ。


 だが、その玉座の周囲を支配しているのは別の人間だった。


 胡亥(こがい)は、もう一度壁の絵を見た。


 鹿は、何も変わらず鹿の姿をしている。


 それでも、この宮中では趙高(ちょうこう)が馬と言えば馬になる。


 その事実を前にして、胡亥(こがい)は初めて、自分が皇帝でありながら何一つ自由に見ていなかったことを知った。


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