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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第4章 秦の終焉

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第89話 もう一つの西進

 鉅鹿(きょろく)で項羽(こうう)が秦の主力と激突し、天下の耳目を集めていた頃、そこから遠く離れた南方では、もう一人の男が関中《かんちゅう》を目指して西へ進んでいた。


 沛公・劉邦(りゅうほう)。


 楚王・心(しん)が掲げた「先に関中へ入り、咸陽を平らげた者を関中王とする」という約定を受け、項羽(こうう)とは別の軍を率いて西進している男である。だが、その進み方は項羽(こうう)とはまるで違っていた。


 敵の大軍がいるなら正面から叩き潰し、その屍を踏み越えて進むのが項羽(こうう)ならば、劉邦(りゅうほう)はそもそも強敵の待つ場所へ行こうとしない。そして、その劉邦(りゅうほう)に道を示しているのが張良(ちょうりょう)だった。


◆


「函谷関(かんこくかん)へ向かうべきではありません」


 軍議の席で張良(ちょうりょう)がそう告げると、劉邦(りゅうほう)は広げられた地図から顔を上げた。


「関中へ入るなら函谷関(かんこくかん)じゃないのか?」


「普通に考えれば、そうなります。だからこそ、秦も最も備えているのです」


 張良(ちょうりょう)は細い指を地図の上へ滑らせた。


「函谷関(かんこくかん)は関中の正門。秦が長年守りを固めてきた要害です。そこへ正面から軍をぶつければ、たとえ突破できても相応の損害を覚悟しなければなりません」


「じゃあ、どこから入る?」


「南です」


 指が止まった先には、武関(ぶかん)の名がある。


「武関(ぶかん)を越えます。多少の遠回りにはなりますが、我々の目的は函谷関(かんこくかん)を落とすことではありません。先に関中へ入り、咸陽へ至ることです」


 劉邦(りゅうほう)は腕を組み、しばらく地図を眺めてから、あっさりと頷いた。


「なら、そっちでいいな」


 張良(ちょうりょう)が僅かに眉を上げる。


「反対なさらないのですか?」


「何で?」


「天下に名高い函谷関(かんこくかん)を避ければ、臆したと笑う者もいるでしょう」


 劉邦(りゅうほう)は一瞬きょとんとした後、肩を竦めた。


「好きに笑わせとけばいいだろ。楚王は『函谷関(かんこくかん)を落とした奴を王にする』なんて言ってない。先に関中へ入った奴を王にするって言ったんだ。だったら、わざわざ一番固い門を叩く必要はない」


 その答えに、張良(ちょうりょう)は小さく笑った。


 この男には、項羽(こうう)のような圧倒的な武はない。名門の出でもなければ、兵法を究めた将でもない。だが、自分より賢い者の言葉を聞くことを恥じず、己の面子より実利を選べる。


「では、武関(ぶかん)を目指しましょう」


「ああ。そうしよう」


 こうして劉邦(りゅうほう)軍は、秦の正門たる函谷関(かんこくかん)を目指さず、南から武関(ぶかん)へ向かう道を選んだ。


◆


 その西進は、予想していたよりも順調だった。


 秦の主力は北へ集められている。章邯(しょうかん)を中心とする大軍が鉅鹿(きょろく)方面へ投入されているため、劉邦(りゅうほう)の進路に残されたのは、各地の郡県を守る守備兵や急ごしらえの部隊がほとんどだった。


 もちろん、弱い相手しかいないからといって、戦わずに進めるわけではない。


 ある県城へ続く街道では、数千の秦兵が陣を敷いて待ち構えていた。


「来たねえ!」


 その姿を見た瞬間、嬉しそうに声を上げた女がいた。


 樊噲(はんかい)。


 大柄で筋骨逞しく、細かい策を考えるより身体が先に動く性分である。戦となれば真っ先に前へ出たがり、敵が多ければ多いほど機嫌がよくなる。


「樊噲(はんかい)、待てよ。まだ陣形が整ってないぞ」


 劉邦(りゅうほう)が声を掛けた時には、もう遅かった。


「整うまで敵が待ってくれるのかい!」


 樊噲(はんかい)は豪快に笑うと、手勢を率いて敵陣へ突っ込んでいった。


 秦兵が槍を揃えて迎え撃つと、樊噲(はんかい)は巨大な盾を前へ構え、そのまま槍衾へ身体ごとぶつかった。穂先が盾へ突き立っても足は止まらず、腰を落として一気に押し込む。


「そんなもんで止まるかぁっ!」


 前列の秦兵が耐え切れず後ろへ倒れ込み、密集した隊列が崩れた。そこへ樊噲(はんかい)の手勢が雪崩れ込み、中央に大きな亀裂が走る。


 樊噲(はんかい)の強さは、単なる膂力だけではない。


 自分が先頭へ立つことで、後ろの兵まで勢いづかせる。敵陣へ飛び込むその背中そのものが、軍勢を前へ押し出す力になっていた。


◆


「……また始まったわね」


 その様子を見て溜息をついたのが、曹参(そうしん)だった。


 樊噲(はんかい)とは何もかもが対照的で、声を荒らげることも少なく、戦場でも表情を大きく変えない。敵を何人倒したかより、自軍がどれだけ崩れずに前へ進めているかを気にする女だった。


「左翼は前へ出すぎないで。樊噲(はんかい)に合わせる必要はないわ。中央が開いたら二陣を入れて、右翼はそのまま敵の側面を押さえて」


 淡々と命令を飛ばす。


 樊噲(はんかい)が開けた穴へ兵が一斉に殺到すれば、軍全体が細長く伸びてしまう。曹参(そうしん)は後続を整えながら前進させ、その突破口を軍全体の勝利へ変えていった。


「曹参(そうしん)! こっち来いよ! もう崩れるぞ!」


 遠くから樊噲(はんかい)が叫ぶ。


「分かっているわ」


「なら早く来い!」


「あなたが早すぎるのよ」


「勝ってるんだからいいだろ!」


「あなた一人ならね。後ろには何千人もいるの」


 樊噲(はんかい)が勢いを作り、曹参(そうしん)がその勢いを軍として形にする。性格は合わなくても、戦場では不思議なほど噛み合っていた。


◆


 やがて秦軍の一角が耐え切れなくなり、後方へ退き始めた。


 その動きを離れた場所から眺めていた女が、僅かに口元を緩める。


「やっと私の番ね」


 灌嬰(かんえい)だった。


 騎兵を預かる彼女は、樊噲(はんかい)のように正面から敵陣へ飛び込むことを好まない。かといって曹参(そうしん)のように軍全体を細かく整えることにも興味は薄く、彼女が見るのは敵の動きそのものだった。


 どこへ逃げるのか。


 どこに隙が生まれるのか。


 いつ追えば、最も少ない力で敵を仕留められるのか。


「灌嬰(かんえい)様、追撃を?」


「まだよ」


 副官を制し、灌嬰(かんえい)は逃げる兵ではなく、その左右を見た。


 砂煙。


 旗の動き。


 街道の先の林。


 伏兵が潜んでいる気配はない。


「……本当に逃げているわね。なら、行きましょう」


 剣を抜く。


 数百の騎兵が一斉に動いた。


 ただし、逃げる秦軍の真後ろへは向かわない。大きく横へ膨らみながら走り、敵の進路の先へ回り込む。


 秦兵が異変に気づいた時には、すでに遅かった。


「前方に敵騎兵!」


「馬鹿な、さっきまで横にいたはずだぞ!」


 灌嬰(かんえい)は馬上で楽しそうに笑った。


「逃げる方向を教えてから走り出すんだもの。先回りしてくださいと言っているようなものよ」


 前には灌嬰(かんえい)。


 後ろからは樊噲(はんかい)と曹参(そうしん)の軍が迫る。


 挟まれた秦軍は、ほどなく武器を捨てた。


◆


「強いねえ、うちの女たちは」


 少し離れた丘から戦況を眺めていた劉邦(りゅうほう)が、感心したように呟いた。


 隣にいた張良(ちょうりょう)が横目で見る。


「他人事のように仰いますね」


「だって俺が前に出ても、樊噲(はんかい)より強くないし、曹参(そうしん)より軍を動かすのも上手くない。馬に乗ったって灌嬰(かんえい)には勝てないぞ」


「随分と堂々と仰いますね」


「本当のことだからな」


 劉邦(りゅうほう)には、自分が天下無双の英雄だという思い込みがない。


 できないものはできない。


 分からないものは分からない。


 だから、できる者へ任せる。


「俺、案外何もしなくていいんじゃないか?」


「それはいけません」


 張良(ちょうりょう)が即答した。


「何でだよ」


「皆を働かせるのが沛公のお役目です」


「それ、仕事なのか?」


「非常に重要なお仕事です」


「楽そうだな」


「そう思っていられるうちは、大丈夫でしょう」


「どういう意味だ?」


 張良(ちょうりょう)は答えず、僅かに笑った。


◆


 西へ進むにつれ、劉邦軍の前に現れる秦軍は少なくなっていった。


 戦えば勝つ。


 勝っても、降った兵を殺さない。


 門を開いた県では略奪を禁じ、降伏した役人も必要があればそのまま使った。


 その噂が、軍より先に西へ伝わっていく。


「降る者には手を出すな。武器を捨てた奴も殺すな。民家から勝手に物を取るのもなしだ」


 劉邦(りゅうほう)がそう命じると、樊噲(はんかい)が露骨に嫌そうな顔をした。


「酒も?」


「駄目だ」


「一杯くらい」


「駄目だ」


「じゃあ金払えば?」


「それならいい」


 樊噲(はんかい)は自分の懐を探り、すぐに顔をしかめた。


「金がねえ」


「じゃあ飲むな」


「沛公、あんた鬼か」


「秦兵に言われるならともかく、何でお前に言われるんだよ」


 周囲から笑いが起きる。


 だが、こうした小さな積み重ねが効いていた。


 劉邦軍へ降れば殺されない。


 財産を根こそぎ奪われることもない。


 抵抗して兵を失うくらいなら、最初から門を開けた方がいい。


 そう考える者が少しずつ増え、劉邦(りゅうほう)が到着する前から降伏をめぐる話し合いを始める県さえ出てきた。


◆


 秦は弱っていた。


 かつて六国を滅ぼした巨大な帝国は、まだ地図の上では広大な領土を持っている。だが、その内側では反乱が広がり、地方の統治は揺らぎ、各地の守備兵は援軍が来るかどうかさえ分からないまま戦わされていた。


 何より、頼りにしていた強兵の多くは北へ向かっている。


 秦が最も強い兵を鉅鹿(きょろく)へ集めたことによって、皮肉にも関中へ至る南の道は薄くなっていた。


 張良(ちょうりょう)は、その綻びを見逃さない。


 強敵を倒す必要などない。


 強敵のいない場所を進めばいい。


◆


 ある夜、張良(ちょうりょう)は再び地図を広げた。


 劉邦(りゅうほう)だけでなく、樊噲(はんかい)、曹参(そうしん)、灌嬰(かんえい)も集まっている。


「ここまで来ました」


 張良(ちょうりょう)の指が地図の上を進み、一点で止まった。


 武関(ぶかん)。


 関中の南を守る門だった。


「ここを越えれば、いよいよ関中です」


 樊噲(はんかい)が拳を掌へ打ちつけた。


「やっと関所らしい関所か。今まで歯応えのない奴ばっかりだったから、退屈してたんだよ」


「あなたは敵が強くないと不満なの?」


 曹参(そうしん)が呆れたように言う。


「当たり前だろ。戦なんだから」


「私は弱い方がいいわ。味方が死なないもの」


「それじゃ面白くないだろ」


「戦を面白さで評価しないで」


 二人のやり取りを聞きながら、灌嬰(かんえい)は地図を覗き込んだ。


「武関(ぶかん)を抜けた後は?」


「関中を北西へ進みます」


 張良(ちょうりょう)の指がさらに奥へ動いた。


 その先にある名を見て、全員の表情が僅かに変わる。


 咸陽《かんよう》。


 始皇帝が天下を統べた都。


 秦という巨大な帝国の心臓だった。


「ここまで来たんだな」


 劉邦(りゅうほう)が呟いた。


 沛を出た頃には、咸陽などあまりに遠い場所だった。


 それが今では、地図の上で手を伸ばせば届きそうなところまで近づいている。


「項羽(こうう)はどうしてるかな」


「おそらく今頃、北で秦の主力と戦っているでしょう」


 張良(ちょうりょう)が答えた。


「大変だな」


「随分と他人事ですね」


「だって俺たちは南にいるんだから仕方ないだろ」


 劉邦(りゅうほう)は笑いながら、地図の武関(ぶかん)を指で叩いた。


「楚王との約束は、先に関中へ入った者が王になる、だったよな?」


「その通りです」


「なら急ごう。項羽(こうう)が強い秦軍と戦ってくれてる間に、俺たちは先に関中へ入る。わざわざ苦労して勝つ必要なんかない。楽に勝てるなら、その方がいい」


 樊噲(はんかい)が不満そうに鼻を鳴らし、曹参(そうしん)は「その方が助かります」と頷く。灌嬰(かんえい)は咸陽までの道を眺めながら、次に騎兵を走らせる場所を考え始めていた。


 張良(ちょうりょう)だけは何も言わず、劉邦(りゅうほう)の背中を見ていた。


 項羽(こうう)は最強の敵を打ち破り、天下へ己の強さを示しながら進む。


 劉邦(りゅうほう)は最強の敵がいる場所を避け、人を使い、降伏を受け入れ、なるべく血を流さずに進む。


 二人のやり方はどこまでも違っていたが、目指している場所だけは同じだった。


 関中。


 そして秦の都、咸陽。


 鉅鹿(きょろく)で天下を震わせる轟音が鳴り響いている陰で、もう一人の男は派手な武名を求めることもなく、秦の懐へ静かに入り込もうとしていた。


 劉邦(りゅうほう)の軍はそのまま武関(ぶかん)を目指し、さらに西へ進んでいった。


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