第88話 勝者たちの夜
鉅鹿の戦いが終わった翌日、楚軍から使者がやって来た。
李信は討たれ、章邯も死んだ。秦軍の包囲は崩れ、戦場では負傷者の手当てや捕虜の整理、放棄された兵糧の回収が始まっている。勝った側も疲れ切っており、歓声よりもまず休息を求めている者の方が多かった。
「上将軍・項羽様が、公子扶蘇様にお会いしたいと申しております」
俺としても断る理由はない。
あの李信を一撃で斬り、動かなかった諸侯まで戦場へ引きずり出した女だ。今後まったく関わらずに済む相手ではないし、俺自身も一度は直接話してみたかった。
◆
項羽の天幕へ入ると、すでに諸侯の将たちが集まっていた。
鉅鹿が秦軍に包囲されている間、遠くに陣を構えたまま動かなかった者たちである。それが今では楚軍の勝利を讃え、項羽へ恭しく頭を下げている。
その中央に座る項羽は、いかにも退屈そうだった。
だが俺が入ると、少しだけ表情を変えた。
「お前が公子扶蘇か」
「そうだ」
周囲の何人かがこちらを見たが、項羽本人は礼の細かいところなど気にしていないらしい。
「聞いたぞ。私たちが来る前から秦軍へ仕掛けていたそうだな」
「正面から勝てる兵力じゃなかったから、四方から小さく攻めては逃げていただけだよ」
「それでも戦った」
項羽はそこで、居並ぶ諸侯へ目を向けた。
「こいつらは見ていただけだったがな」
天幕の空気が僅かに重くなる。
何人かが気まずそうに視線を落としたが、項羽は構わず続けた。
「しかもお前は秦の公子だ。秦軍と戦う理由はいくらでも言い訳できただろうに、それでも逃げなかった」
「目的があったから残っただけだ」
「それでいい」
項羽の口元が上がった。
「私は、戦わぬ者が嫌いだ。強い敵を前にしても動いた者なら、敵だろうが何だろうが嫌いではない」
「俺は今のところ敵じゃないと思うけどな」
「なら、もっといい」
随分と単純だ。
だが、その単純さは嫌いではなかった。
「気に入ったぞ、扶蘇」
「それはどうも」
俺が答えると、項羽は少しだけ考えるように顎へ手をやった。
そして、唐突に言った。
「どうだ。私の婿にならんか」
「……は?」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
天幕の中まで静かになる。
「待て。今、何て?」
「だから、私の婿にならんかと言った」
「いや、なんでそうなるんだ」
「血筋は悪くない。戦場から逃げぬ。男としても珍しい。十分だろう」
「十分って何がだ!」
思わず声が大きくなった。
項羽は数瞬、困惑する俺の顔を眺めていた。
そして腹を抱えて笑い始めた。
「はははっ! 冗談だ、冗談! そんな顔をするな!」
「分かるか!」
「お前、戦場では随分しぶとかったのに、こういう話には弱いのだな」
「初対面でいきなり婿になれって言われて平然としてる男がいるか!」
項羽はますます楽しそうに笑った。
どうやら完全に遊ばれたらしい。
◆
そのやり取りを、范増は黙って見ていた。
秦の長公子。
その肩書きだけなら、国を追われた男に過ぎない。だが扶蘇は各地の秦兵を吸収しながら軍を立て直し、鉅鹿でも諸侯が動かぬ中で秦軍へ攻撃を続けた。
秦を憎む者だけではない。
胡亥の政権を見限った秦人まで、この男の旗の下へ集まり得る。
そこが厄介だった。
(危険じゃな)
范増の中では、すでに警戒すべき相手という位置に入っている。
だが今すぐ手を出すわけにはいかない。
項羽は明らかに扶蘇を気に入っている。今しがた婿にするとまで冗談を飛ばしたほどだ。この場で排除を考えれば、相手より先に項羽の逆鱗へ触れかねない。
(今は見るだけでよい)
范増は何も言わず、胸の内だけに留めた。
公子扶蘇がどこまで大きくなるのか。
楚にとって利用できる相手なのか、それともいずれ争う相手になるのか。
判断するには、まだ早い。
◆
楚軍は鉅鹿で一日の休息を取ることになった。
勝ったとはいえ、黄河を渡ってからほとんど休まず進み、そのまま秦軍と激突した兵たちは限界に近い。負傷者を手当てし、秦軍が放棄した兵糧を整理し、軍を立て直さなければ次へ進むこともできなかった。
そして、楚軍にとって鉅鹿は終点ではない。
次の目標は関中。
その西では、すでに別働隊として劉邦が進んでいる。
項羽も休息を終えれば西へ向かうつもりだった。
俺たちも同じように疲れていた。
「今日はもう休もう」
陣へ戻った俺は、全軍へそう命じた。
「見張りだけ残して、あとは食って寝てくれ。馬も休ませろ。明日のことは明日考える」
ここへ来てから、俺たちもまともに休んでいない。
秦軍を眠らせないために四隊へ分かれて動き続け、王離を救い、項羽の戦いに加わり、そのまま章邯まで追った。
今夜くらいは戦から離れてもいいだろう。
◆
日が落ちる頃には、秦軍から接収した酒と食糧を使って、陣のあちこちで小さな宴が始まった。
俺の天幕にも蒙恬、蒙凛、楊端和、黥布が集まり、人目を避けて王離も顔を出している。
もちろん、表向きには王離は死んだことになっている。
そのため、ここにいることを知っている者はごく限られていた。
「……やっぱり、俺にはまだ分からないんだよな」
酒杯を手にしながら俺が漏らすと、蒙恬がこちらを見る。
「章邯殿のことでございますか」
「ああ」
俺は頷いた。
「胡亥に殺されるかもしれないことまで分かっていた。それでも愛しているから裏切れないって言って、自分は死んだ。兵を助けたかったっていうのは分かる。でも、そこまでして相手に殉じる気持ちは、どうしても理解できない」
蒙恬は少し考えてから酒杯を置いた。
「私は、分からなくはありません」
「蒙恬も?」
「はい。相手が自分を大切にしてくれるから愛する、とは限りません。理屈で好きになったのでなければ、理屈で嫌いになることも難しいのでしょう」
そう言われると、返しづらい。
楊端和も静かに口を開いた。
「私も、理解はできます」
「楊端和までか」
「相手に捨てられたからといって、それまで抱いていた想いまで、その瞬間に消えるものではございません」
その声音には、妙な実感があった。
俺はそれ以上聞かなかった。
「何だ。俺だけ鈍いみたいじゃないか」
「男だからじゃねえか?」
黥布が酒を飲みながら笑う。
「お前も男だろ」
「だから俺も分かんねえよ」
「なら黙ってろ」
笑いが起きた。
そこで王離が、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、扶蘇様」
「ん?」
「祖母上との約束は、まだ有効なのでしょうか」
嫌な予感がした。
「……何の約束?」
「私を扶蘇様の妻にするというお話でございます」
俺は酒を喉へ詰まらせた。
◆
「何ですか、それ」
蒙凛がすぐに食いついた。
驚いているのは王離の話そのものに対してであって、蒙恬と俺の関係を初めて知ったわけではない。そこはとっくに承知している。
蒙恬も静かに酒杯を置いた。
なぜか楊端和まで姿勢を正している。
「待て、王離。あれは王翦が勝手に言った話だろ」
「祖母上はかなり本気でした」
「本人同士で何も決めてない」
「扶蘇様は明確には拒否なさいませんでした」
「拒否する隙をくれなかったんだよ!」
黥布が横で笑い始めた。
「今日二回目じゃねえか」
「何が」
「婿だの妻だの」
「思い出させるな!」
昼間には項羽から婿にならないかと冗談を飛ばされ、夜になったら今度は王離だ。
何なんだ今日は。
「そもそも無理だよ」
俺は王離へ言った。
「お前は今、死んだことになってるだろ」
「……確かに」
「公子扶蘇が『戦死した王離を妻にします』なんて言ったら、戦死偽装が全部ばれる。今は妻にするも何もない」
王離は少し考えてから頷いた。
「では、私が生きていることを公にできるようになった後で」
「先送りしただけじゃないか!」
「約束は約束ですので」
「俺は約束してない!」
黥布の笑い声がさらに大きくなった。
◆
「扶蘇様」
蒙凛がじっとこちらを見る。
「何?」
「王氏からそのような話が出ていたことを、なぜ私には教えてくださらなかったのですか」
「決まった話じゃなかったからだよ」
「でも母上とのことは知っています」
「それとこれとは別だろ」
「別だからこそ、聞いているのです」
蒙凛はむっとした顔で蒙恬を見る。
「母上はどう思うのです?」
「今はどうにもならないでしょう。王離殿は亡くなったことになっているのだから」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味?」
「分かっているでしょう!」
妙な空気になってきた。
そこへ王離が真面目な顔で加わる。
「そもそも蒙恬殿は、扶蘇様の正式な妻ではございませんよね」
蒙恬が微笑んだ。
「王離殿?」
「婚姻の儀を行っておられないのであれば、私は間違ったことを申しておりません」
「ええ。間違ってはいないわね」
「ならば、私にも正式な妻となる資格がございます」
蒙恬は酒杯を持ったまま、やけに落ち着いていた。
その態度が蒙凛には気に入らなかったらしい。
「母上、余裕ぶらないでください」
「あら、私が?」
「そうです。その顔です」
「顔まで怒られるの?」
「扶蘇様とすでにそういう関係だからって!」
俺は頭を抱えた。
その事実自体は蒙凛も以前から知っている。
問題は、それを蒙恬が余裕の根拠にしているように見えることだった。
「私は別に余裕ぶってなんていないわよ」
「ぶっています!」
「事実を知っているから慌てていないだけ」
「それを余裕ぶっていると言うのです!」
母娘喧嘩が始まった。
◆
俺は助けを求めるように楊端和を見る。
さっきから妙に静かだった。
「楊端和?」
「はい」
「顔、赤くない?」
「酒のせいでございます」
「そんなに飲んでたっけ」
「酒のせいでございます」
二度言われた。
これ以上聞くのは危険な気がした。
今度は黥布と目が合う。
にやにやしている。
「……何だよ」
「いや。面白えなと思って」
「お前は完全に他人事だな」
「そりゃそうだろ。女が三人四人集まって男一人を取り合ってんだ。酒の肴には最高だ」
その言葉で、俺は別のことを思い出した。
黥布は男が好きだった。
急に嫌な予感がした。
「待て。お前までこっちに来るなよ」
「何の話だ?」
「その笑い方やめろ!」
黥布はますます楽しそうに笑った。
「安心しろ。今のところ公子様は好みじゃねえ」
「今のところって何だよ!」
「扶蘇様、うるさいです」
蒙恬に叱られた。
「何で俺が怒られるんだ!」
◆
しばらくして、蒙恬がわざとらしく溜息をついた。
「もう。皆でよってたかって扶蘇様を困らせるなんて、可哀想でしょう」
「蒙恬……!」
ようやく味方が現れた。
そう思った俺が甘かった。
「母上が一番余裕ぶっているではありませんか!」
蒙凛がすぐに噛みついた。
「そんなことないわよ」
「あります!」
「だって、扶蘇様とはもうそういう関係なのだし」
「だから、それを理由に余裕ぶらないでくださいと言っているのです!」
「事実を言っただけでしょう?」
「母上!」
再び二人が言い合いを始める。
王離は興味深そうに眺め、楊端和は俯いたまま酒を飲み、黥布は完全に見世物として楽しんでいる。
俺は静かに立ち上がった。
一歩ずつ天幕の入口へ向かう。
誰もこちらを見ていない。
最後に黥布とだけ目が合った。
頼むから黙っていてくれ。
黥布は笑いながら酒杯を掲げた。
どうやら見逃してくれるらしい。
俺はそのまま天幕を抜け出した。
◆
外では兵たちの宴がまだ続いていた。
俺も焚火のそばへ座り、兵から酒を一杯もらった。勝利を喜ぶ声を聞きながら夜風に当たっているうちに、章邯の最期も、項羽の武も、少しだけ遠い出来事のように感じられた。
随分と長く外にいたと思う。
天幕へ戻った頃には、さすがに中も静かになっていた。
黥布は酒壺を抱えたまま眠り、王離も壁にもたれて目を閉じている。蒙凛は卓へ突っ伏し、楊端和もすっかり酔い潰れていた。
「……ようやく静かになった」
「逃げた御方が言うことですか?」
背後から声がして振り返る。
蒙恬だけが起きていた。
「起きてたのか」
「ええ。扶蘇が戻ってこないので」
皆が眠った後だからこその呼び方だった。
「戻るの怖かったんだよ」
「私たちがそんなに怖いですか?」
「さっきの光景を見て聞いてる?」
蒙恬は小さく笑った。
それから俺のそばへ来ると、腕を回して抱き寄せる。
「お疲れさまでした」
さっきまでの騒ぎとは違う、柔らかな声だった。
俺もようやく身体から力を抜き、蒙恬の背へ腕を回した。
「蒙恬もな」
鉅鹿へ来てから、二人きりでこうして触れ合う時間はほとんどなかった。
蒙恬は胸元へ頬を寄せたまま、少し笑う。
「今夜くらいは、私だけの扶蘇でいてくれる?」
「王離に聞かれたら、正式な妻じゃないって言われるぞ」
「今は眠っているでしょう」
「蒙凛は?」
「もっと起こしてはいけないわね」
二人で声を殺して笑った。
明日になれば、またそれぞれの軍が動き始める。
項羽は関中を目指し、劉邦もすでに西へ進んでいる。俺たちも、いつまでも鉅鹿へ留まってはいられない。
だから、その夜だけは先のことを考えなかった。
久しぶりに触れる蒙恬の温もりに身を預けながら、長く続いた戦の緊張をゆっくり解いていった。




