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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第4章 秦の終焉

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第88話 勝者たちの夜

 鉅鹿(きょろく)の戦いが終わった翌日、楚軍から使者がやって来た。


 李信(りしん)は討たれ、章邯(しょうかん)も死んだ。秦軍の包囲は崩れ、戦場では負傷者の手当てや捕虜の整理、放棄された兵糧の回収が始まっている。勝った側も疲れ切っており、歓声よりもまず休息を求めている者の方が多かった。


「上将軍・項羽(こうう)様が、公子扶蘇(ふそ)様にお会いしたいと申しております」


 俺としても断る理由はない。


 あの李信(りしん)を一撃で斬り、動かなかった諸侯まで戦場へ引きずり出した女だ。今後まったく関わらずに済む相手ではないし、俺自身も一度は直接話してみたかった。


◆


 項羽(こうう)の天幕へ入ると、すでに諸侯の将たちが集まっていた。


 鉅鹿(きょろく)が秦軍に包囲されている間、遠くに陣を構えたまま動かなかった者たちである。それが今では楚軍の勝利を讃え、項羽(こうう)へ恭しく頭を下げている。


 その中央に座る項羽(こうう)は、いかにも退屈そうだった。


 だが俺が入ると、少しだけ表情を変えた。


「お前が公子扶蘇(ふそ)か」


「そうだ」


 周囲の何人かがこちらを見たが、項羽(こうう)本人は礼の細かいところなど気にしていないらしい。


「聞いたぞ。私たちが来る前から秦軍へ仕掛けていたそうだな」


「正面から勝てる兵力じゃなかったから、四方から小さく攻めては逃げていただけだよ」


「それでも戦った」


 項羽(こうう)はそこで、居並ぶ諸侯へ目を向けた。


「こいつらは見ていただけだったがな」


 天幕の空気が僅かに重くなる。


 何人かが気まずそうに視線を落としたが、項羽(こうう)は構わず続けた。


「しかもお前は秦の公子だ。秦軍と戦う理由はいくらでも言い訳できただろうに、それでも逃げなかった」


「目的があったから残っただけだ」


「それでいい」


 項羽(こうう)の口元が上がった。


「私は、戦わぬ者が嫌いだ。強い敵を前にしても動いた者なら、敵だろうが何だろうが嫌いではない」


「俺は今のところ敵じゃないと思うけどな」


「なら、もっといい」


 随分と単純だ。


 だが、その単純さは嫌いではなかった。


「気に入ったぞ、扶蘇(ふそ)」


「それはどうも」


 俺が答えると、項羽(こうう)は少しだけ考えるように顎へ手をやった。


 そして、唐突に言った。


「どうだ。私の婿にならんか」


「……は?」


 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。


 天幕の中まで静かになる。


「待て。今、何て?」


「だから、私の婿にならんかと言った」


「いや、なんでそうなるんだ」


「血筋は悪くない。戦場から逃げぬ。男としても珍しい。十分だろう」


「十分って何がだ!」


 思わず声が大きくなった。


 項羽(こうう)は数瞬、困惑する俺の顔を眺めていた。


 そして腹を抱えて笑い始めた。


「はははっ! 冗談だ、冗談! そんな顔をするな!」


「分かるか!」


「お前、戦場では随分しぶとかったのに、こういう話には弱いのだな」


「初対面でいきなり婿になれって言われて平然としてる男がいるか!」


 項羽(こうう)はますます楽しそうに笑った。


 どうやら完全に遊ばれたらしい。


◆


 そのやり取りを、范増(はんぞう)は黙って見ていた。


 秦の長公子。


 その肩書きだけなら、国を追われた男に過ぎない。だが扶蘇(ふそ)は各地の秦兵を吸収しながら軍を立て直し、鉅鹿(きょろく)でも諸侯が動かぬ中で秦軍へ攻撃を続けた。


 秦を憎む者だけではない。


 胡亥(こがい)の政権を見限った秦人まで、この男の旗の下へ集まり得る。


 そこが厄介だった。


(危険じゃな)


 范増(はんぞう)の中では、すでに警戒すべき相手という位置に入っている。


 だが今すぐ手を出すわけにはいかない。


 項羽(こうう)は明らかに扶蘇(ふそ)を気に入っている。今しがた婿にするとまで冗談を飛ばしたほどだ。この場で排除を考えれば、相手より先に項羽(こうう)の逆鱗へ触れかねない。


(今は見るだけでよい)


 范増(はんぞう)は何も言わず、胸の内だけに留めた。


 公子扶蘇(ふそ)がどこまで大きくなるのか。


 楚にとって利用できる相手なのか、それともいずれ争う相手になるのか。


 判断するには、まだ早い。


◆


 楚軍は鉅鹿(きょろく)で一日の休息を取ることになった。


 勝ったとはいえ、黄河(こうが)を渡ってからほとんど休まず進み、そのまま秦軍と激突した兵たちは限界に近い。負傷者を手当てし、秦軍が放棄した兵糧を整理し、軍を立て直さなければ次へ進むこともできなかった。


 そして、楚軍にとって鉅鹿(きょろく)は終点ではない。


 次の目標は関中《かんちゅう》。


 その西では、すでに別働隊として劉邦(りゅうほう)が進んでいる。


 項羽(こうう)も休息を終えれば西へ向かうつもりだった。


 俺たちも同じように疲れていた。


「今日はもう休もう」


 陣へ戻った俺は、全軍へそう命じた。


「見張りだけ残して、あとは食って寝てくれ。馬も休ませろ。明日のことは明日考える」


 ここへ来てから、俺たちもまともに休んでいない。


 秦軍を眠らせないために四隊へ分かれて動き続け、王離(おうり)を救い、項羽(こうう)の戦いに加わり、そのまま章邯(しょうかん)まで追った。


 今夜くらいは戦から離れてもいいだろう。


◆


 日が落ちる頃には、秦軍から接収した酒と食糧を使って、陣のあちこちで小さな宴が始まった。


 俺の天幕にも蒙恬(もうてん)、蒙凛(もうりん)、楊端和(ようたんわ)、黥布(げいふ)が集まり、人目を避けて王離(おうり)も顔を出している。


 もちろん、表向きには王離(おうり)は死んだことになっている。


 そのため、ここにいることを知っている者はごく限られていた。


「……やっぱり、俺にはまだ分からないんだよな」


 酒杯を手にしながら俺が漏らすと、蒙恬(もうてん)がこちらを見る。


「章邯(しょうかん)殿のことでございますか」


「ああ」


 俺は頷いた。


「胡亥(こがい)に殺されるかもしれないことまで分かっていた。それでも愛しているから裏切れないって言って、自分は死んだ。兵を助けたかったっていうのは分かる。でも、そこまでして相手に殉じる気持ちは、どうしても理解できない」


 蒙恬(もうてん)は少し考えてから酒杯を置いた。


「私は、分からなくはありません」


「蒙恬(もうてん)も?」


「はい。相手が自分を大切にしてくれるから愛する、とは限りません。理屈で好きになったのでなければ、理屈で嫌いになることも難しいのでしょう」


 そう言われると、返しづらい。


 楊端和(ようたんわ)も静かに口を開いた。


「私も、理解はできます」


「楊端和(ようたんわ)までか」


「相手に捨てられたからといって、それまで抱いていた想いまで、その瞬間に消えるものではございません」


 その声音には、妙な実感があった。


 俺はそれ以上聞かなかった。


「何だ。俺だけ鈍いみたいじゃないか」


「男だからじゃねえか?」


 黥布(げいふ)が酒を飲みながら笑う。


「お前も男だろ」


「だから俺も分かんねえよ」


「なら黙ってろ」


 笑いが起きた。


 そこで王離(おうり)が、ふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、扶蘇様」


「ん?」


「祖母上との約束は、まだ有効なのでしょうか」


 嫌な予感がした。


「……何の約束?」


「私を扶蘇様の妻にするというお話でございます」


 俺は酒を喉へ詰まらせた。


◆


「何ですか、それ」


 蒙凛(もうりん)がすぐに食いついた。


 驚いているのは王離(おうり)の話そのものに対してであって、蒙恬(もうてん)と俺の関係を初めて知ったわけではない。そこはとっくに承知している。


 蒙恬(もうてん)も静かに酒杯を置いた。


 なぜか楊端和(ようたんわ)まで姿勢を正している。


「待て、王離(おうり)。あれは王翦(おうせん)が勝手に言った話だろ」


「祖母上はかなり本気でした」


「本人同士で何も決めてない」


「扶蘇様は明確には拒否なさいませんでした」


「拒否する隙をくれなかったんだよ!」


 黥布(げいふ)が横で笑い始めた。


「今日二回目じゃねえか」


「何が」


「婿だの妻だの」


「思い出させるな!」


 昼間には項羽(こうう)から婿にならないかと冗談を飛ばされ、夜になったら今度は王離(おうり)だ。


 何なんだ今日は。


「そもそも無理だよ」


 俺は王離(おうり)へ言った。


「お前は今、死んだことになってるだろ」


「……確かに」


「公子扶蘇(ふそ)が『戦死した王離(おうり)を妻にします』なんて言ったら、戦死偽装が全部ばれる。今は妻にするも何もない」


 王離(おうり)は少し考えてから頷いた。


「では、私が生きていることを公にできるようになった後で」


「先送りしただけじゃないか!」


「約束は約束ですので」


「俺は約束してない!」


 黥布(げいふ)の笑い声がさらに大きくなった。


◆


「扶蘇様」


 蒙凛(もうりん)がじっとこちらを見る。


「何?」


「王氏からそのような話が出ていたことを、なぜ私には教えてくださらなかったのですか」


「決まった話じゃなかったからだよ」


「でも母上とのことは知っています」


「それとこれとは別だろ」


「別だからこそ、聞いているのです」


 蒙凛(もうりん)はむっとした顔で蒙恬(もうてん)を見る。


「母上はどう思うのです?」


「今はどうにもならないでしょう。王離(おうり)殿は亡くなったことになっているのだから」


「そういう意味ではありません」


「では、どういう意味?」


「分かっているでしょう!」


 妙な空気になってきた。


 そこへ王離(おうり)が真面目な顔で加わる。


「そもそも蒙恬(もうてん)殿は、扶蘇様の正式な妻ではございませんよね」


 蒙恬(もうてん)が微笑んだ。


「王離(おうり)殿?」


「婚姻の儀を行っておられないのであれば、私は間違ったことを申しておりません」


「ええ。間違ってはいないわね」


「ならば、私にも正式な妻となる資格がございます」


 蒙恬(もうてん)は酒杯を持ったまま、やけに落ち着いていた。


 その態度が蒙凛(もうりん)には気に入らなかったらしい。


「母上、余裕ぶらないでください」


「あら、私が?」


「そうです。その顔です」


「顔まで怒られるの?」


「扶蘇様とすでにそういう関係だからって!」


 俺は頭を抱えた。


 その事実自体は蒙凛(もうりん)も以前から知っている。


 問題は、それを蒙恬(もうてん)が余裕の根拠にしているように見えることだった。


「私は別に余裕ぶってなんていないわよ」


「ぶっています!」


「事実を知っているから慌てていないだけ」


「それを余裕ぶっていると言うのです!」


 母娘喧嘩が始まった。


◆


 俺は助けを求めるように楊端和(ようたんわ)を見る。


 さっきから妙に静かだった。


「楊端和(ようたんわ)?」


「はい」


「顔、赤くない?」


「酒のせいでございます」


「そんなに飲んでたっけ」


「酒のせいでございます」


 二度言われた。


 これ以上聞くのは危険な気がした。


 今度は黥布(げいふ)と目が合う。


 にやにやしている。


「……何だよ」


「いや。面白えなと思って」


「お前は完全に他人事だな」


「そりゃそうだろ。女が三人四人集まって男一人を取り合ってんだ。酒の肴には最高だ」


 その言葉で、俺は別のことを思い出した。


 黥布(げいふ)は男が好きだった。


 急に嫌な予感がした。


「待て。お前までこっちに来るなよ」


「何の話だ?」


「その笑い方やめろ!」


 黥布(げいふ)はますます楽しそうに笑った。


「安心しろ。今のところ公子様は好みじゃねえ」


「今のところって何だよ!」


「扶蘇様、うるさいです」


 蒙恬(もうてん)に叱られた。


「何で俺が怒られるんだ!」


◆


 しばらくして、蒙恬(もうてん)がわざとらしく溜息をついた。


「もう。皆でよってたかって扶蘇様を困らせるなんて、可哀想でしょう」


「蒙恬(もうてん)……!」


 ようやく味方が現れた。


 そう思った俺が甘かった。


「母上が一番余裕ぶっているではありませんか!」


 蒙凛(もうりん)がすぐに噛みついた。


「そんなことないわよ」


「あります!」


「だって、扶蘇様とはもうそういう関係なのだし」


「だから、それを理由に余裕ぶらないでくださいと言っているのです!」


「事実を言っただけでしょう?」


「母上!」


 再び二人が言い合いを始める。


 王離(おうり)は興味深そうに眺め、楊端和(ようたんわ)は俯いたまま酒を飲み、黥布(げいふ)は完全に見世物として楽しんでいる。


 俺は静かに立ち上がった。


 一歩ずつ天幕の入口へ向かう。


 誰もこちらを見ていない。


 最後に黥布(げいふ)とだけ目が合った。


 頼むから黙っていてくれ。


 黥布(げいふ)は笑いながら酒杯を掲げた。


 どうやら見逃してくれるらしい。


 俺はそのまま天幕を抜け出した。


◆


 外では兵たちの宴がまだ続いていた。


 俺も焚火のそばへ座り、兵から酒を一杯もらった。勝利を喜ぶ声を聞きながら夜風に当たっているうちに、章邯(しょうかん)の最期も、項羽(こうう)の武も、少しだけ遠い出来事のように感じられた。


 随分と長く外にいたと思う。


 天幕へ戻った頃には、さすがに中も静かになっていた。


 黥布(げいふ)は酒壺を抱えたまま眠り、王離(おうり)も壁にもたれて目を閉じている。蒙凛(もうりん)は卓へ突っ伏し、楊端和(ようたんわ)もすっかり酔い潰れていた。


「……ようやく静かになった」


「逃げた御方が言うことですか?」


 背後から声がして振り返る。


 蒙恬(もうてん)だけが起きていた。


「起きてたのか」


「ええ。扶蘇が戻ってこないので」


 皆が眠った後だからこその呼び方だった。


「戻るの怖かったんだよ」


「私たちがそんなに怖いですか?」


「さっきの光景を見て聞いてる?」


 蒙恬(もうてん)は小さく笑った。


 それから俺のそばへ来ると、腕を回して抱き寄せる。


「お疲れさまでした」


 さっきまでの騒ぎとは違う、柔らかな声だった。


 俺もようやく身体から力を抜き、蒙恬(もうてん)の背へ腕を回した。


「蒙恬(もうてん)もな」


 鉅鹿(きょろく)へ来てから、二人きりでこうして触れ合う時間はほとんどなかった。


 蒙恬(もうてん)は胸元へ頬を寄せたまま、少し笑う。


「今夜くらいは、私だけの扶蘇でいてくれる?」


「王離(おうり)に聞かれたら、正式な妻じゃないって言われるぞ」


「今は眠っているでしょう」


「蒙凛(もうりん)は?」


「もっと起こしてはいけないわね」


 二人で声を殺して笑った。


 明日になれば、またそれぞれの軍が動き始める。


 項羽(こうう)は関中《かんちゅう》を目指し、劉邦(りゅうほう)もすでに西へ進んでいる。俺たちも、いつまでも鉅鹿(きょろく)へ留まってはいられない。


 だから、その夜だけは先のことを考えなかった。


 久しぶりに触れる蒙恬(もうてん)の温もりに身を預けながら、長く続いた戦の緊張をゆっくり解いていった。


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