第87話 章邯
李信が討たれたことで、鉅鹿を囲んでいた秦軍の一角は完全に崩れた。
項羽の楚軍が裂け目へ食い込み、そこへ俺たちや諸侯の軍まで加わったことで、李信軍はもはや立て直しが利かない。兵の後退が周囲へ波及し、包囲網そのものが崩れ始めていた。
その状況を見た章邯の判断は早かった。
「撤退する」
幕下の将たちが息を呑む。
「李信殿の軍は崩れた。諸侯まで動き始めた以上、ここに残れば全軍を失う。甬道は捨て、動ける兵から退かせよ」
「兵糧は」
「運べる分だけでよい。残りは置いていけ」
章邯は、ここまで築いてきた長大な補給路にも、大量に蓄えた兵糧にも執着しなかった。敗れた時に何を捨てるべきかを即座に決められるあたりは、やはり並の将ではない。
秦軍主力は、包囲網が完全に潰れる前に北西へ退き始めた。
◆
楚軍はすぐには追わなかった。
追えなかった、と言った方が正しい。
三日分の食糧だけを持ち、退路まで断って鉅鹿へ突っ込んだ兵たちは、連戦ですでに限界に近かった。勝ちはしたものの腹は減り、負傷者も多く、秦軍が捨てた陣には大量の兵糧が残されている。
「まず食わせろ!」
龍且の声が響き、楚兵たちは秦軍の倉を確保し始めた。
穀物、干し肉、塩、馬の飼料。戦い続けるために必要なものが、そこには山ほど残されている。
項羽も無理な追撃は命じなかった。
だが、他の諸侯は違った。
李信が討たれ、秦軍が退き始めたと知るや、今度は各軍が競うように章邯の後を追い始めた。
「敗残の秦軍を討て!」
「章邯の首を取れ!」
つい昨日まで秦軍を恐れて遠巻きにしていた者たちが、今度は先陣を争っていた。
その動きを見た瞬間、俺は馬へ向かった。
「蒙恬。行くぞ」
「章邯を追われるのですか」
「ああ。諸侯より先に追いつく」
「討つためではございませんね」
「降ろす」
ここで諸侯に追いつかれれば、話し合う余地などなくなる。
彼らが欲しいのは章邯の首だ。
俺は少数の騎兵だけを選び、すぐに秦軍の後を追った。
◆
退却する秦軍の足は速かった。
ただ、整然としているとは言い難い。
李信軍から逃げ込んできた兵が混じり、負傷者を抱えた部隊も多い。後方では何度も隊列が詰まり、そのたびに将たちが怒鳴って流れを作り直している。
そして、そのさらに後ろ。
砂煙が上がっていた。
「諸侯軍です」
蒙恬が振り返った。
「かなりの数がこちらへ向かっております」
「急ごう」
このままでは追いつかれる。
章邯の秦軍がどれほど優秀でも、疲れ切った状態で複数の諸侯軍に追いつかれれば全滅を免れない。
俺たちは速度を上げた。
◆
夕刻近くになって、ようやく秦軍後衛へ追いついた。
こちらの旗を見た秦兵が慌ただしく武器を構える。
「扶蘇軍!」
「追撃だ!」
「待て!」
俺は兵を止め、使者だけを前へ出した。
「公子扶蘇が、章邯将軍と話をしたい。戦う意思はない」
しばらく返事を待った。
その間にも、背後の地平から上がる砂煙は少しずつ近づいてくる。
やがて秦軍の中から一騎が現れた。
章邯だった。
「まさか、公子御自身が追ってこられるとは」
「他の連中より先に話したかった」
章邯は俺の背後を見た。
遠くに迫る諸侯軍の砂煙が見えている。
「なるほど」
それだけで事情を察したらしい。
「では、お話を伺いましょう」
◆
「俺に降ってくれ」
遠回しなことを言っている時間はない。
章邯は驚きもしなかった。
「お断りいたします」
「咸陽に戻っても無事じゃ済まないだろ」
「承知しております」
「李信は死んだ。鉅鹿は敗北だ。趙高なら責任を全部お前に被せるかもしれない」
「でしょうね」
「だったら何で戻る」
章邯は少し黙った。
背後から、かすかに馬蹄の響きが聞こえ始めている。
「公子には、理解し難いかもしれません」
「何が」
「私が陛下をお慕いしていることが、です」
「胡亥を?」
「はい」
章邯は穏やかに答えた。
「陛下が未熟であることは存じております。政に疎く、趙高殿へ頼りすぎていることも、敗軍の将である私を守ってくださるとは限らないことも」
「それでも?」
「それでも、です」
迷いはなかった。
「陛下は私を必要としてくださいました。囚徒を兵へ変える策を認め、軍を預け、勝った時には喜んでくださった。私は、それが嬉しかった」
「それだけで命まで差し出すのか」
「私には、それだけではありません」
章邯は少し笑った。
「公子にとっては愚かに見えるのでしょう」
「愚かだよ」
思わず答えていた。
「殺されるかもしれない相手のために死ぬなんて、俺には分からない」
「そうでしょうね」
章邯は怒らなかった。
「ですが、人が誰を愛するかは、損得だけでは決まりません」
その言葉に、俺は返す言葉を失った。
◆
背後の音が大きくなった。
今度は俺にも分かる。
諸侯軍が近い。
章邯も振り返り、砂煙を見た。
「時間がありませんね」
「だから降れ。お前だけじゃない。兵もまとめて受け入れる」
その言葉に、章邯の目が初めて揺れた。
「……兵も?」
「ああ。武器を置けば殺させない。俺のところへ来たくない奴は、落ち着いたら帰してもいい」
「諸侯が認めますか」
「認めさせる」
「項羽も?」
そこだけは、すぐには答えられなかった。
章邯はその沈黙を見て、小さく笑った。
「正直な御方ですね」
「でも、このまま残れば全員死ぬ」
俺は秦軍を見た。
疲れた兵たち。
負傷者を支えている者。
それでも武器を捨てず、将の命令を待っている。
「お前が意地を張れば、この兵たちまで巻き込まれる」
章邯は長く黙った。
馬蹄の響きは、さらに近づいている。
やがて章邯は自分の兵を振り返った。
「……そうですね」
声が変わった。
諦めではなかった。
何かを決めた声だった。
「この者たちまで、私の恋に付き合わせる道理はありません」
「なら」
「公子に、お願いがございます」
◆
章邯は配下の将たちを呼び寄せた。
集まった者たちは、不安そうに俺たちと背後の砂煙を見比べている。
「ここより先、私は軍を率いぬ」
「将軍?」
章邯は腰の剣を抜き、地面へ置いた。
「お前たちは公子扶蘇へ降れ」
ざわめきが広がった。
「何をおっしゃいます!」
「我らも将軍とともに!」
「ならぬ」
章邯の声は強かった。
「この敗戦の責は私にある。お前たちがここで死ぬ必要はない」
「ですが」
「鉅鹿からここまで、よく従ってくれた」
兵たちを見渡す。
「囚徒だった者もいる。地方から集められた者もいる。秦への忠義でここまで来た者ばかりではなかろう。それでも私の命令を聞き、戦ってくれた」
章邯は深く頭を下げた。
「もう十分だ」
将たちの中には泣き始める者もいた。
俺は嫌な予感がした。
「章邯」
「公子。この兵たちをお願いいたします」
「お前も来い」
章邯は首を振った。
「それはできません」
「何でだよ!」
「私は陛下を裏切れません」
背後で、諸侯軍の先頭が見え始めた。
もう時間はほとんどない。
「だからって死ぬ必要はない!」
「ございます」
章邯は静かに言った。
「私が生きて公子へ降れば、兵たちも『将とともに裏切った者』として追われます。ですが、敗軍の将が責を負って死に、兵が生きるために降ったのであれば、話は違う」
俺は言葉を失った。
「それに」
章邯は僅かに微笑んだ。
「最後まで陛下の将でいたいのです」
◆
章邯は地面へ置いた剣を拾った。
秦兵たちが騒めく。
「将軍!」
「おやめください!」
俺も馬から降りた。
「待て、章邯!」
近づこうとすると、章邯は剣を自分の首元へ当てた。
「来ないでください」
「馬鹿なことするな!」
「公子」
その顔は、不思議なくらい穏やかだった。
「私は陛下を愛しております」
「分かった。もう分かったから、生きろ!」
「そして、この者たちも大切です」
背後に並ぶ秦兵へ視線を向ける。
「だから、どちらも捨てたくありません」
胡亥を裏切らない。
兵たちも死なせない。
その二つを同時に選ぶために、章邯は自分だけを切り離そうとしている。
「そんな選び方しかないのかよ」
「私には、これしか思いつきませんでした」
馬蹄が迫る。
諸侯軍の旗が、もうはっきり見えている。
このまま両軍がぶつかれば、疲れ切った秦兵に勝ち目はない。
章邯は最後に配下を見た。
「生きよ」
それだけ命じた。
そして刃を引いた。
◆
「章邯!」
駆け寄った時には、もう遅かった。
血が地面へ落ち、章邯の身体が崩れる。
兵たちの間から悲鳴が上がった。
俺は膝をつき、その身体を抱き起こしたが、呼吸は急速に弱くなっていく。
「何で……」
声が掠れた。
章邯は薄く目を開けた。
「兵を……」
「分かってる。分かってるから」
「お願いいたします」
それが最後だった。
腕の中から力が抜けた。
◆
「全員、武器を捨てろ!」
俺は立ち上がると、秦兵たちへ向かって叫んだ。
「もう戦う必要はない! 章邯は、お前たちを生かすために死んだ! ここで戦って後を追うな!」
兵たちは動けずにいた。
その間にも諸侯軍が近づいてくる。
「旗を下ろせ! 降伏の印を出せ!」
蒙恬もすぐに動いた。
「武器を一か所へ集めよ! 負傷者は中央へ! 扶蘇軍の旗を前へ出せ!」
秦兵たちは少しずつ武器を置き始めた。
俺たちの旗の下へ、敗残の秦兵が集まっていく。
その直後、諸侯軍の先頭が到着した。
「秦軍を渡せ!」
怒号が飛ぶ。
「章邯の首はどこだ!」
俺はその前へ馬を出した。
「この兵たちは俺に降った。もう敵じゃない」
周囲に緊張が走った。
だが今は、譲る気になれなかった。
背後には、章邯が命と引き換えに残した兵たちがいる。
◆
その夜。
俺は章邯の亡骸の前に座っていた。
最後まで、理解できなかった。
殺される可能性が高いと分かっている胡亥を愛し、それでも裏切らない。
同時に、配下を道連れにはせず、自分の死で逃がす。
俺なら選ばない。
俺は死ねと言われても生きた。
何を失っても、まず生き残る道を探してきた。
だからこそ、章邯の選択は俺の価値観とは真逆だった。
「……分からない」
隣にいた蒙恬へ言った。
「はい」
「愛してるなら、生きて会いに行けばいいだろ。兵を大切に思うなら、一緒に生きればいい。それなのに、何で自分が死ぬんだ」
蒙恬は少し考えた。
「章邯殿にとっては、生きることより捨てられぬものがあったのでしょう」
「そんなもの、あるのか」
尋ねてから、俺は黙った。
蒙恬も答えなかった。
俺には章邯の価値観は分からない。
だが、自分の愛のためだけに兵を死なせることはしなかった。
最後の最後で、自分の命を使って配下を生かした。
その事実だけは、否定できなかった。
俺は夜遅くまで、章邯の亡骸の前から動けなかった。




