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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第4章 秦の終焉

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第87話 章邯

 李信(りしん)が討たれたことで、鉅鹿(きょろく)を囲んでいた秦軍の一角は完全に崩れた。


 項羽(こうう)の楚軍が裂け目へ食い込み、そこへ俺たちや諸侯の軍まで加わったことで、李信(りしん)軍はもはや立て直しが利かない。兵の後退が周囲へ波及し、包囲網そのものが崩れ始めていた。


 その状況を見た章邯(しょうかん)の判断は早かった。


「撤退する」


 幕下の将たちが息を呑む。


「李信(りしん)殿の軍は崩れた。諸侯まで動き始めた以上、ここに残れば全軍を失う。甬道は捨て、動ける兵から退かせよ」


「兵糧は」


「運べる分だけでよい。残りは置いていけ」


 章邯(しょうかん)は、ここまで築いてきた長大な補給路にも、大量に蓄えた兵糧にも執着しなかった。敗れた時に何を捨てるべきかを即座に決められるあたりは、やはり並の将ではない。


 秦軍主力は、包囲網が完全に潰れる前に北西へ退き始めた。


◆


 楚軍はすぐには追わなかった。


 追えなかった、と言った方が正しい。


 三日分の食糧だけを持ち、退路まで断って鉅鹿(きょろく)へ突っ込んだ兵たちは、連戦ですでに限界に近かった。勝ちはしたものの腹は減り、負傷者も多く、秦軍が捨てた陣には大量の兵糧が残されている。


「まず食わせろ!」


 龍且(りゅうしょ)の声が響き、楚兵たちは秦軍の倉を確保し始めた。


 穀物、干し肉、塩、馬の飼料。戦い続けるために必要なものが、そこには山ほど残されている。


 項羽(こうう)も無理な追撃は命じなかった。


 だが、他の諸侯は違った。


 李信(りしん)が討たれ、秦軍が退き始めたと知るや、今度は各軍が競うように章邯(しょうかん)の後を追い始めた。


「敗残の秦軍を討て!」


「章邯(しょうかん)の首を取れ!」


 つい昨日まで秦軍を恐れて遠巻きにしていた者たちが、今度は先陣を争っていた。


 その動きを見た瞬間、俺は馬へ向かった。


「蒙恬(もうてん)。行くぞ」


「章邯(しょうかん)を追われるのですか」


「ああ。諸侯より先に追いつく」


「討つためではございませんね」


「降ろす」


 ここで諸侯に追いつかれれば、話し合う余地などなくなる。


 彼らが欲しいのは章邯(しょうかん)の首だ。


 俺は少数の騎兵だけを選び、すぐに秦軍の後を追った。


◆


 退却する秦軍の足は速かった。


 ただ、整然としているとは言い難い。


 李信(りしん)軍から逃げ込んできた兵が混じり、負傷者を抱えた部隊も多い。後方では何度も隊列が詰まり、そのたびに将たちが怒鳴って流れを作り直している。


 そして、そのさらに後ろ。


 砂煙が上がっていた。


「諸侯軍です」


 蒙恬(もうてん)が振り返った。


「かなりの数がこちらへ向かっております」


「急ごう」


 このままでは追いつかれる。


 章邯(しょうかん)の秦軍がどれほど優秀でも、疲れ切った状態で複数の諸侯軍に追いつかれれば全滅を免れない。


 俺たちは速度を上げた。


◆


 夕刻近くになって、ようやく秦軍後衛へ追いついた。


 こちらの旗を見た秦兵が慌ただしく武器を構える。


「扶蘇軍!」


「追撃だ!」


「待て!」


 俺は兵を止め、使者だけを前へ出した。


「公子扶蘇(ふそ)が、章邯(しょうかん)将軍と話をしたい。戦う意思はない」


 しばらく返事を待った。


 その間にも、背後の地平から上がる砂煙は少しずつ近づいてくる。


 やがて秦軍の中から一騎が現れた。


 章邯(しょうかん)だった。


「まさか、公子御自身が追ってこられるとは」


「他の連中より先に話したかった」


 章邯(しょうかん)は俺の背後を見た。


 遠くに迫る諸侯軍の砂煙が見えている。


「なるほど」


 それだけで事情を察したらしい。


「では、お話を伺いましょう」


◆


「俺に降ってくれ」


 遠回しなことを言っている時間はない。


 章邯(しょうかん)は驚きもしなかった。


「お断りいたします」


「咸陽に戻っても無事じゃ済まないだろ」


「承知しております」


「李信(りしん)は死んだ。鉅鹿(きょろく)は敗北だ。趙高(ちょうこう)なら責任を全部お前に被せるかもしれない」


「でしょうね」


「だったら何で戻る」


 章邯(しょうかん)は少し黙った。


 背後から、かすかに馬蹄の響きが聞こえ始めている。


「公子には、理解し難いかもしれません」


「何が」


「私が陛下をお慕いしていることが、です」


「胡亥(こがい)を?」


「はい」


 章邯(しょうかん)は穏やかに答えた。


「陛下が未熟であることは存じております。政に疎く、趙高(ちょうこう)殿へ頼りすぎていることも、敗軍の将である私を守ってくださるとは限らないことも」


「それでも?」


「それでも、です」


 迷いはなかった。


「陛下は私を必要としてくださいました。囚徒を兵へ変える策を認め、軍を預け、勝った時には喜んでくださった。私は、それが嬉しかった」


「それだけで命まで差し出すのか」


「私には、それだけではありません」


 章邯(しょうかん)は少し笑った。


「公子にとっては愚かに見えるのでしょう」


「愚かだよ」


 思わず答えていた。


「殺されるかもしれない相手のために死ぬなんて、俺には分からない」


「そうでしょうね」


 章邯(しょうかん)は怒らなかった。


「ですが、人が誰を愛するかは、損得だけでは決まりません」


 その言葉に、俺は返す言葉を失った。


◆


 背後の音が大きくなった。


 今度は俺にも分かる。


 諸侯軍が近い。


 章邯(しょうかん)も振り返り、砂煙を見た。


「時間がありませんね」


「だから降れ。お前だけじゃない。兵もまとめて受け入れる」


 その言葉に、章邯(しょうかん)の目が初めて揺れた。


「……兵も?」


「ああ。武器を置けば殺させない。俺のところへ来たくない奴は、落ち着いたら帰してもいい」


「諸侯が認めますか」


「認めさせる」


「項羽(こうう)も?」


 そこだけは、すぐには答えられなかった。


 章邯(しょうかん)はその沈黙を見て、小さく笑った。


「正直な御方ですね」


「でも、このまま残れば全員死ぬ」


 俺は秦軍を見た。


 疲れた兵たち。


 負傷者を支えている者。


 それでも武器を捨てず、将の命令を待っている。


「お前が意地を張れば、この兵たちまで巻き込まれる」


 章邯(しょうかん)は長く黙った。


 馬蹄の響きは、さらに近づいている。


 やがて章邯(しょうかん)は自分の兵を振り返った。


「……そうですね」


 声が変わった。


 諦めではなかった。


 何かを決めた声だった。


「この者たちまで、私の恋に付き合わせる道理はありません」


「なら」


「公子に、お願いがございます」


◆


 章邯(しょうかん)は配下の将たちを呼び寄せた。


 集まった者たちは、不安そうに俺たちと背後の砂煙を見比べている。


「ここより先、私は軍を率いぬ」


「将軍?」


 章邯(しょうかん)は腰の剣を抜き、地面へ置いた。


「お前たちは公子扶蘇(ふそ)へ降れ」


 ざわめきが広がった。


「何をおっしゃいます!」


「我らも将軍とともに!」


「ならぬ」


 章邯(しょうかん)の声は強かった。


「この敗戦の責は私にある。お前たちがここで死ぬ必要はない」


「ですが」


「鉅鹿(きょろく)からここまで、よく従ってくれた」


 兵たちを見渡す。


「囚徒だった者もいる。地方から集められた者もいる。秦への忠義でここまで来た者ばかりではなかろう。それでも私の命令を聞き、戦ってくれた」


 章邯(しょうかん)は深く頭を下げた。


「もう十分だ」


 将たちの中には泣き始める者もいた。


 俺は嫌な予感がした。


「章邯(しょうかん)」


「公子。この兵たちをお願いいたします」


「お前も来い」


 章邯(しょうかん)は首を振った。


「それはできません」


「何でだよ!」


「私は陛下を裏切れません」


 背後で、諸侯軍の先頭が見え始めた。


 もう時間はほとんどない。


「だからって死ぬ必要はない!」


「ございます」


 章邯(しょうかん)は静かに言った。


「私が生きて公子へ降れば、兵たちも『将とともに裏切った者』として追われます。ですが、敗軍の将が責を負って死に、兵が生きるために降ったのであれば、話は違う」


 俺は言葉を失った。


「それに」


 章邯(しょうかん)は僅かに微笑んだ。


「最後まで陛下の将でいたいのです」


◆


 章邯(しょうかん)は地面へ置いた剣を拾った。


 秦兵たちが騒めく。


「将軍!」


「おやめください!」


 俺も馬から降りた。


「待て、章邯(しょうかん)!」


 近づこうとすると、章邯(しょうかん)は剣を自分の首元へ当てた。


「来ないでください」


「馬鹿なことするな!」


「公子」


 その顔は、不思議なくらい穏やかだった。


「私は陛下を愛しております」


「分かった。もう分かったから、生きろ!」


「そして、この者たちも大切です」


 背後に並ぶ秦兵へ視線を向ける。


「だから、どちらも捨てたくありません」


 胡亥(こがい)を裏切らない。


 兵たちも死なせない。


 その二つを同時に選ぶために、章邯(しょうかん)は自分だけを切り離そうとしている。


「そんな選び方しかないのかよ」


「私には、これしか思いつきませんでした」


 馬蹄が迫る。


 諸侯軍の旗が、もうはっきり見えている。


 このまま両軍がぶつかれば、疲れ切った秦兵に勝ち目はない。


 章邯(しょうかん)は最後に配下を見た。


「生きよ」


 それだけ命じた。


 そして刃を引いた。


◆


「章邯(しょうかん)!」


 駆け寄った時には、もう遅かった。


 血が地面へ落ち、章邯(しょうかん)の身体が崩れる。


 兵たちの間から悲鳴が上がった。


 俺は膝をつき、その身体を抱き起こしたが、呼吸は急速に弱くなっていく。


「何で……」


 声が掠れた。


 章邯(しょうかん)は薄く目を開けた。


「兵を……」


「分かってる。分かってるから」


「お願いいたします」


 それが最後だった。


 腕の中から力が抜けた。


◆


「全員、武器を捨てろ!」


 俺は立ち上がると、秦兵たちへ向かって叫んだ。


「もう戦う必要はない! 章邯(しょうかん)は、お前たちを生かすために死んだ! ここで戦って後を追うな!」


 兵たちは動けずにいた。


 その間にも諸侯軍が近づいてくる。


「旗を下ろせ! 降伏の印を出せ!」


 蒙恬(もうてん)もすぐに動いた。


「武器を一か所へ集めよ! 負傷者は中央へ! 扶蘇軍の旗を前へ出せ!」


 秦兵たちは少しずつ武器を置き始めた。


 俺たちの旗の下へ、敗残の秦兵が集まっていく。


 その直後、諸侯軍の先頭が到着した。


「秦軍を渡せ!」


 怒号が飛ぶ。


「章邯(しょうかん)の首はどこだ!」


 俺はその前へ馬を出した。


「この兵たちは俺に降った。もう敵じゃない」


 周囲に緊張が走った。


 だが今は、譲る気になれなかった。


 背後には、章邯(しょうかん)が命と引き換えに残した兵たちがいる。


◆


 その夜。


 俺は章邯(しょうかん)の亡骸の前に座っていた。


 最後まで、理解できなかった。


 殺される可能性が高いと分かっている胡亥(こがい)を愛し、それでも裏切らない。


 同時に、配下を道連れにはせず、自分の死で逃がす。


 俺なら選ばない。


 俺は死ねと言われても生きた。


 何を失っても、まず生き残る道を探してきた。


 だからこそ、章邯(しょうかん)の選択は俺の価値観とは真逆だった。


「……分からない」


 隣にいた蒙恬(もうてん)へ言った。


「はい」


「愛してるなら、生きて会いに行けばいいだろ。兵を大切に思うなら、一緒に生きればいい。それなのに、何で自分が死ぬんだ」


 蒙恬(もうてん)は少し考えた。


「章邯(しょうかん)殿にとっては、生きることより捨てられぬものがあったのでしょう」


「そんなもの、あるのか」


 尋ねてから、俺は黙った。


 蒙恬(もうてん)も答えなかった。


 俺には章邯(しょうかん)の価値観は分からない。


 だが、自分の愛のためだけに兵を死なせることはしなかった。


 最後の最後で、自分の命を使って配下を生かした。


 その事実だけは、否定できなかった。


 俺は夜遅くまで、章邯(しょうかん)の亡骸の前から動けなかった。

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