第86話 鉅鹿の覇王
鉅鹿の朝は、南から響いてきた喊声で始まった。
楚軍だった。
これまで周囲に陣取っていた諸侯とは違い、秦軍の威容を前にしても足を止めない。隊列を整えたまま包囲網へ迫り、その先頭には一際大きな女がいた。
項羽。
遠目にも分かる巨躯と、兵の先頭に立つ姿だけで誰なのか察しがついた。俺は前世の知識として、この女が鉅鹿で名を轟かせることを知っている。
それでも、実際に目の前へ現れた姿は想像以上だった。
「来ましたね」
隣で蒙恬が呟く。
ここ数日、俺たちは四隊に分かれ、秦軍を休ませないための攻撃を続けてきた。大きな損害を与えることより、警戒を解かせず、何度も兵を動かして疲労を積ませることを狙った戦いだった。
その秦軍へ、今度は退くつもりのない楚軍が正面からぶつかろうとしている。
「船を沈めて釜まで割ったってのは、あいつか」
黥布が言った。
「ああ」
「馬鹿だろ」
口ではそう言いながら、黥布の目は項羽から離れなかった。
やがて楚軍の先頭が秦軍へ達した。
◆
迎え撃ったのは李信だった。
王離が戦死したと処理された後、その兵の多くも李信の指揮下へ加わっている。秦軍の外周を守る兵力としては十分であり、李信自身も楚軍を正面から受けるつもりで布陣していた。
「弩兵、射て! 射った者から左右へ開け!」
一斉に矢が飛び、楚軍の先頭で何人もの兵が倒れた。
項羽は止まらなかった。
自ら前へ出て秦兵の列へ踏み込み、武器を振るう。
次の瞬間、盾を並べていた兵たちがまとめて崩れた。
開いた隙へ楚兵が押し寄せる。
「……何だ、あれ」
黥布の声から、いつもの余裕が消えた。
もう一度、項羽が武器を振るう。
正面の秦兵が後ろの兵ごと押し倒された。
俺は隣を見た。
黥布が戟を握る手が、ほんの僅かに震えている。
「黥布」
「見るな」
「震えて」
「うるせえ」
黥布はすぐに握り直した。
それでも目は項羽から外さない。
「……あんな力、ありかよ」
黥布にそこまで言わせる相手だった。
◆
李信は、正面で受け続けるのは危険だとすぐに判断した。
「中央を下げろ! 左右から包め!」
秦兵が動き、突出する項羽の周囲へ回ろうとする。
力の強い将ほど前へ出る。
ならばその周囲を削り、孤立させればいい。
李信はそうして幾度も戦場を生き抜いてきた。
名もない兵から武功だけで将軍まで上り、六国との戦でも結果を残した。楚で大敗したことはあったが、それでも戦場から消えず、再び大軍を率いるところまで戻ってきた。
ただ、その敗戦以降、胸に残り続けたものがある。
蒙恬への対抗心だった。
自分が失敗した後、蒙恬は北辺三十万を預けられ、秦最強とまで呼ばれた。始皇帝からの信頼も、兵の規模も、自分が欲しかったものをすべて手にしていた。
だが今、その蒙恬は逆賊とされた扶蘇に従い、大軍も失っている。
一方、自分は秦軍の主力を率いている。
ここで項羽を討てばいい。
鉅鹿を守り、章邯とともに反乱を鎮めれば、咸陽へ凱旋した時に誰も自分を軽んじることはできない。
(大将軍)
その地位が、手の届くところにあるように思えた。
◆
「道を開けろ!」
李信が前へ出た。
兵が左右へ退き、その先で項羽も足を止める。
「お前が李信か」
「知っているようだな」
「叔母上の軍を潰した秦将だ」
「ならば覚えておけ。腕力だけで戦場は勝てん」
李信は剣を構えた。
黥布とも何度も渡り合っている。
重い一撃を受け流し、隙を突く戦いには慣れていた。
だから項羽にも対応できると思っていた。
項羽が踏み込む。
速い。
だが、見えている。
李信は半身になり、剣を斜めに合わせた。
正面から受けず、力を外へ流す。
これまで何度も使ってきた動きだった。
刃がぶつかった。
その瞬間、李信の腕から感覚が消えた。
受け流せない。
剣ごと押し込まれる。
それでも李信は、まだ負けたとは思っていなかった。
この一撃を凌げばいい。
間合いを変え、次で崩す。
項羽を討てば、大将軍になれる。
その確信だけは、最後まで揺らがなかった。
項羽が武器を振り抜いた。
剣も鎧もまとめて断たれ、李信の身体が地へ崩れた。
◆
「……」
俺たちは言葉を失った。
李信は弱くない。
黥布と正面から渡り合い、俺たち二万を押し返した将だ。
その男が、一合だった。
黥布も黙っていた。
やがて小さく息を吐く。
「……今は、あいつとはやらねえ」
「珍しいな」
「死にてえわけじゃねえ」
冗談ではなかった。
それだけ項羽の一撃が異常だった。
◆
李信の死は、すぐに軍中へ広がった。
「李信将軍が討たれた!」
「楚将に斬られた!」
ただでさえ秦兵は疲れていた。
俺たちが昼夜を問わず攻撃を続けたことで、まともに休めていない兵も多い。そこへ大将が目の前で討たれ、さらに項羽が前へ出てくる。
中央の一部が下がると、それに引きずられるように隣の部隊も崩れ始めた。
項羽は逃げる兵を追わず、まだ隊列を保っている場所へ向かう。楚軍もその後ろから押し込み、開いた裂け目を広げていった。
「今だ」
俺はすぐに各隊へ命令を出した。
「李信軍へ圧力をかける。ただし深追いはするな」
黥布、楊端和、蒙恬の各隊も動く。
今までなら、こちらが近づけばすぐに李信の命令で兵が回ってきた。
もう、その声はない。
秦軍は楚軍と俺たちの両方へ対応しきれず、包囲網の一角が大きく崩れた。
◆
その様子を見て、それまで動かなかった諸侯もようやく進み始めた。
「秦軍が崩れた!」
「今なら勝てる!」
燕や斉をはじめ、周囲に陣取っていた軍勢が次々と戦場へ雪崩れ込む。
秦軍が強いうちは遠巻きに眺め、誰かが先に戦うのを待っていた者たちだった。
項羽が道を開き、李信を討った途端、一斉に群がってきた。
項羽は一度だけ後方を振り返った。
その顔に喜びはなかった。
「……今さらか」
地面へ唾を吐く。
「勝てると分かってから来るなら、最初から援軍など名乗るな」
隣の龍且が笑った。
「放っとけ。秦兵を狩ってくれるなら使える」
「ああ」
項羽はすぐに前を向いた。
「だが、誰が最初に動き、誰が後から来たかは覚えておく」
それだけ言うと、もう諸侯には興味を示さなかった。
その先には、まだ章邯がいる。
◆
李信軍は壊れた。
だが秦軍全体が敗れたわけではない。
俺は遠く、章邯の本陣がある方角を見た。
その前を項羽が進んでいる。
李信を討ったことすら、本人にとっては途中の出来事にしか見えなかった。
「……あれが項羽か」
隣で蒙恬が小さく息を吐いた。
「敵には回したくありませんね」
「本当にね」
黥布も、珍しく何も言わなかった。
名前だけ知っていた覇王が、今はもう目の前にいる。
そして鉅鹿の戦場は、その女を中心に大きく崩れ始めていた。




