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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第4章 秦の終焉

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第86話 鉅鹿の覇王

 鉅鹿(きょろく)の朝は、南から響いてきた喊声で始まった。


 楚軍だった。


 これまで周囲に陣取っていた諸侯とは違い、秦軍の威容を前にしても足を止めない。隊列を整えたまま包囲網へ迫り、その先頭には一際大きな女がいた。


 項羽(こうう)。


 遠目にも分かる巨躯と、兵の先頭に立つ姿だけで誰なのか察しがついた。俺は前世の知識として、この女が鉅鹿(きょろく)で名を轟かせることを知っている。


 それでも、実際に目の前へ現れた姿は想像以上だった。


「来ましたね」


 隣で蒙恬(もうてん)が呟く。


 ここ数日、俺たちは四隊に分かれ、秦軍を休ませないための攻撃を続けてきた。大きな損害を与えることより、警戒を解かせず、何度も兵を動かして疲労を積ませることを狙った戦いだった。


 その秦軍へ、今度は退くつもりのない楚軍が正面からぶつかろうとしている。


「船を沈めて釜まで割ったってのは、あいつか」


 黥布(げいふ)が言った。


「ああ」


「馬鹿だろ」


 口ではそう言いながら、黥布(げいふ)の目は項羽(こうう)から離れなかった。


 やがて楚軍の先頭が秦軍へ達した。


◆


 迎え撃ったのは李信(りしん)だった。


 王離(おうり)が戦死したと処理された後、その兵の多くも李信(りしん)の指揮下へ加わっている。秦軍の外周を守る兵力としては十分であり、李信(りしん)自身も楚軍を正面から受けるつもりで布陣していた。


「弩兵、射て! 射った者から左右へ開け!」


 一斉に矢が飛び、楚軍の先頭で何人もの兵が倒れた。


 項羽(こうう)は止まらなかった。


 自ら前へ出て秦兵の列へ踏み込み、武器を振るう。


 次の瞬間、盾を並べていた兵たちがまとめて崩れた。


 開いた隙へ楚兵が押し寄せる。


「……何だ、あれ」


 黥布(げいふ)の声から、いつもの余裕が消えた。


 もう一度、項羽(こうう)が武器を振るう。


 正面の秦兵が後ろの兵ごと押し倒された。


 俺は隣を見た。


 黥布(げいふ)が戟を握る手が、ほんの僅かに震えている。


「黥布(げいふ)」


「見るな」


「震えて」


「うるせえ」


 黥布(げいふ)はすぐに握り直した。


 それでも目は項羽(こうう)から外さない。


「……あんな力、ありかよ」


 黥布(げいふ)にそこまで言わせる相手だった。


◆


 李信(りしん)は、正面で受け続けるのは危険だとすぐに判断した。


「中央を下げろ! 左右から包め!」


 秦兵が動き、突出する項羽(こうう)の周囲へ回ろうとする。


 力の強い将ほど前へ出る。


 ならばその周囲を削り、孤立させればいい。


 李信(りしん)はそうして幾度も戦場を生き抜いてきた。


 名もない兵から武功だけで将軍まで上り、六国との戦でも結果を残した。楚で大敗したことはあったが、それでも戦場から消えず、再び大軍を率いるところまで戻ってきた。


 ただ、その敗戦以降、胸に残り続けたものがある。


 蒙恬(もうてん)への対抗心だった。


 自分が失敗した後、蒙恬(もうてん)は北辺三十万を預けられ、秦最強とまで呼ばれた。始皇帝からの信頼も、兵の規模も、自分が欲しかったものをすべて手にしていた。


 だが今、その蒙恬(もうてん)は逆賊とされた扶蘇(ふそ)に従い、大軍も失っている。


 一方、自分は秦軍の主力を率いている。


 ここで項羽(こうう)を討てばいい。


 鉅鹿(きょろく)を守り、章邯(しょうかん)とともに反乱を鎮めれば、咸陽へ凱旋した時に誰も自分を軽んじることはできない。


(大将軍)


 その地位が、手の届くところにあるように思えた。


◆


「道を開けろ!」


 李信(りしん)が前へ出た。


 兵が左右へ退き、その先で項羽(こうう)も足を止める。


「お前が李信(りしん)か」


「知っているようだな」


「叔母上の軍を潰した秦将だ」


「ならば覚えておけ。腕力だけで戦場は勝てん」


 李信(りしん)は剣を構えた。


 黥布(げいふ)とも何度も渡り合っている。


 重い一撃を受け流し、隙を突く戦いには慣れていた。


 だから項羽(こうう)にも対応できると思っていた。


 項羽(こうう)が踏み込む。


 速い。


 だが、見えている。


 李信(りしん)は半身になり、剣を斜めに合わせた。


 正面から受けず、力を外へ流す。


 これまで何度も使ってきた動きだった。


 刃がぶつかった。


 その瞬間、李信(りしん)の腕から感覚が消えた。


 受け流せない。


 剣ごと押し込まれる。


 それでも李信(りしん)は、まだ負けたとは思っていなかった。


 この一撃を凌げばいい。


 間合いを変え、次で崩す。


 項羽(こうう)を討てば、大将軍になれる。


 その確信だけは、最後まで揺らがなかった。


 項羽(こうう)が武器を振り抜いた。


 剣も鎧もまとめて断たれ、李信(りしん)の身体が地へ崩れた。


◆


「……」


 俺たちは言葉を失った。


 李信(りしん)は弱くない。


 黥布(げいふ)と正面から渡り合い、俺たち二万を押し返した将だ。


 その男が、一合だった。


 黥布(げいふ)も黙っていた。


 やがて小さく息を吐く。


「……今は、あいつとはやらねえ」


「珍しいな」


「死にてえわけじゃねえ」


 冗談ではなかった。


 それだけ項羽(こうう)の一撃が異常だった。


◆


 李信(りしん)の死は、すぐに軍中へ広がった。


「李信(りしん)将軍が討たれた!」


「楚将に斬られた!」


 ただでさえ秦兵は疲れていた。


 俺たちが昼夜を問わず攻撃を続けたことで、まともに休めていない兵も多い。そこへ大将が目の前で討たれ、さらに項羽(こうう)が前へ出てくる。


 中央の一部が下がると、それに引きずられるように隣の部隊も崩れ始めた。


 項羽(こうう)は逃げる兵を追わず、まだ隊列を保っている場所へ向かう。楚軍もその後ろから押し込み、開いた裂け目を広げていった。


「今だ」


 俺はすぐに各隊へ命令を出した。


「李信(りしん)軍へ圧力をかける。ただし深追いはするな」


 黥布(げいふ)、楊端和(ようたんわ)、蒙恬(もうてん)の各隊も動く。


 今までなら、こちらが近づけばすぐに李信(りしん)の命令で兵が回ってきた。


 もう、その声はない。


 秦軍は楚軍と俺たちの両方へ対応しきれず、包囲網の一角が大きく崩れた。


◆


 その様子を見て、それまで動かなかった諸侯もようやく進み始めた。


「秦軍が崩れた!」


「今なら勝てる!」


 燕や斉をはじめ、周囲に陣取っていた軍勢が次々と戦場へ雪崩れ込む。


 秦軍が強いうちは遠巻きに眺め、誰かが先に戦うのを待っていた者たちだった。


 項羽(こうう)が道を開き、李信(りしん)を討った途端、一斉に群がってきた。


 項羽(こうう)は一度だけ後方を振り返った。


 その顔に喜びはなかった。


「……今さらか」


 地面へ唾を吐く。


「勝てると分かってから来るなら、最初から援軍など名乗るな」


 隣の龍且(りゅうしょ)が笑った。


「放っとけ。秦兵を狩ってくれるなら使える」


「ああ」


 項羽(こうう)はすぐに前を向いた。


「だが、誰が最初に動き、誰が後から来たかは覚えておく」


 それだけ言うと、もう諸侯には興味を示さなかった。


 その先には、まだ章邯(しょうかん)がいる。


◆


 李信(りしん)軍は壊れた。


 だが秦軍全体が敗れたわけではない。


 俺は遠く、章邯(しょうかん)の本陣がある方角を見た。


 その前を項羽(こうう)が進んでいる。


 李信(りしん)を討ったことすら、本人にとっては途中の出来事にしか見えなかった。


「……あれが項羽(こうう)か」


 隣で蒙恬(もうてん)が小さく息を吐いた。


「敵には回したくありませんね」


「本当にね」


 黥布(げいふ)も、珍しく何も言わなかった。


 名前だけ知っていた覇王が、今はもう目の前にいる。


 そして鉅鹿(きょろく)の戦場は、その女を中心に大きく崩れ始めていた。


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