第85話 破釜沈船
安陽に留まり続ける楚軍では、日に日に不満が膨らんでいた。
兵糧は減り、冷たい雨の中で兵は疲れている。それでも上将軍の宋義は進軍を命じず、秦と趙が互いに消耗するのを待つという姿勢を崩さなかった。前へ進むべきだと主張する項羽との対立も、もはや一部の将だけが知る話ではなくなっていた。
そんな中、范増が項羽の幕舎を訪れた。
「分かったぞ」
入ってくるなり、范増はそう言って一通の書付を卓上へ置いた。
「何がだ」
「宋義が、なぜこの地で動かぬのかだ」
項羽の目が細くなる。
范増は座ることもなく話し始めた。
「先日の宴で送り出した娘、宋襄は斉へ向かった。ただの使者としてではない。斉で大臣の地位を得る話が、すでに進んでいる」
「娘を大臣に?」
「ああ。そして話はそれだけではない」
范増が書付を指で叩いた。
「宋義は、秦が勝っても楚が勝っても自分が生き残れるよう、斉との繋がりを作っている。娘を斉の中枢へ送り込み、自分たちの逃げ道を確保しているのだ」
項羽はすぐには答えなかった。
兵を動かさず、秦と趙が削り合うのを待つ。
それ自体は慎重な軍略として理解できた。
だが、その裏で自分の娘を斉へ送り、楚軍がどう転んでも己の身を守れるよう手を打っているのだとすれば、意味が変わる。
「確かなのか」
「私も最初は疑った。だから斉へ向かった者、宋襄の供をした者、宋義の側近に繋がる者まで調べた。娘を斉の大臣にする話は間違いない」
范増の声は低かった。
「宋義は勝機を待っているのではない。どちらへ転んでも自分だけは沈まぬ場所を作りながら、楚軍をここへ繋いでいる」
項羽の拳がゆっくり握られた。
兵たちは薄い粥を啜っている。
鉅鹿では趙が秦軍に囲まれている。
その間に上将軍は、自分の娘の行く先を整えていた。
「……叔母上が死んだ後、あの女は楚軍を預かった」
「そうだ」
「それで最初に考えたのが、自分が生き残る道か」
范増は答えなかった。
答える必要もなかった。
◆
「斬れ」
しばらくして、范増が言った。
項羽が顔を上げる。
「宋義を斬れ、項羽」
その声に迷いはなかった。
「上将軍だぞ」
「だから斬るのだ。このまま従えば、楚軍は安陽で腐る。兵糧を失い、士気を失い、やがて鉅鹿が落ちた後でようやく腰を上げることになる」
「私が上将軍を斬れば、軍が割れる」
「それは私が抑える」
范増は即座に答えた。
「龍且と鍾離眜にも話す。龍且には兵を押さえさせ、鍾離眜には各陣を回らせる。お前が宋義を斬った直後に命令系統を組み直せば、大きな乱れにはならぬ」
「二人は従うと思うか」
「お前が本当に進むならな」
范増は項羽を真っ直ぐ見た。
「兵が求めているのは、上将軍の首ではない。進む者だ。秦と戦うためにここまで来た兵を、鉅鹿へ連れていく者を待っている」
項羽は黙っていた。
宋義を斬る。
それは軍議で意見を通すのとは違う。一度剣を抜けば、もう元には戻れない。
「お前が決めろ」
范増は言った。
「項梁から何を託されたのか。その答えを、今出せ」
項羽の脳裏に、定陶で別れた叔母の姿が浮かんだ。
楚を頼む。
そう託された。
その楚軍が今、敵を前にして飢えている。
項羽は立ち上がった。
「龍且と鍾離眜を呼べ」
范増は静かに頷いた。
◆
翌朝、項羽は少数の側近だけを連れて宋義の幕舎へ入った。
宋義は朝の軍議を始めるところだった。
「何だ、項羽。また進軍の話なら昨日答えたはずだ」
「今日は別の話だ」
「何?」
「宋襄を斉へ送ったな」
宋義の表情が僅かに変わった。
「それがどうした」
「大臣にするためだと聞いた」
「斉との関係を深めるためだ。何か問題があるか」
「お前自身の逃げ道でもあるのだろう」
幕舎の空気が張り詰めた。
宋義はしばらく項羽を見た後、鼻で笑った。
「それを調べて何になる。外交の一つや二つで騒ぐとは、やはりお前は戦場しか知らぬ」
「外交なら構わぬ」
項羽は一歩進んだ。
「だが兵を飢えさせ、趙を見殺しにしながら、自分の娘だけは斉へ送り込む。それを楚のためと言われても、私は信じられぬ」
「無礼だぞ」
「上将軍であることを忘れたことはない」
「ならば命に従え。全軍はここに留まる」
「もう従わぬ」
宋義の顔から笑みが消えた。
「……何だと」
「お前には楚軍を預けておけぬ」
その言葉と同時に、項羽は剣を抜いた。
宋義もようやく立ち上がったが、遅かった。
「項羽、貴様!」
「兵を前へ進めぬ上将軍なら、ここで退け」
剣が振るわれた。
宋義の身体が崩れ、卓へ手をつき、そのまま地へ倒れた。
幕舎の中にいた者たちは動けなかった。
項羽は血のついた剣を下げたまま、周囲を見渡した。
「宋義は楚軍を止め、己の保身を図った。ゆえに私が斬った」
誰も声を上げない。
「異を唱える者は、今ここで言え」
沈黙が続いた。
幕舎の外から、兵たちのざわめきが聞こえ始める。
上将軍が斬られたという報せは、すでに軍中へ広がり始めていた。
◆
だが混乱は、項羽が予想していたより小さかった。
「持ち場を離れるな!」
龍且が馬上から声を張り上げ、動揺して集まり始めた兵をそれぞれの陣へ戻していく。
「上将軍の身に異変があったことは事実だ! だが秦軍が消えたわけではない! 武器を置くな、隊を崩すな!」
一方、鍾離眜は各部隊の将を順に集め、宋義が斬られた経緯と今後の命令を伝えていた。感情で兵を煽るのではなく、上将軍不在による指揮の空白を作らないことを優先し、必要な配置だけを淡々と整えていく。
その中央で、范増が楚軍の諸将を集めた。
「今、秦軍は鉅鹿を囲んでいる。ここで軍を割れば、喜ぶのは章邯だけだ」
居並ぶ将たちを見渡し、范増は続ける。
「宋義亡き今、誰が全軍を率いる。答えは一つしかあるまい」
視線が項羽へ集まった。
項羽は血を拭った剣を腰へ戻し、諸将の前へ進んだ。
「私は宋義を斬った。その責は負う」
逃げるつもりはなかった。
「だが、斬ったからにはこの軍を鉅鹿まで連れていく。秦と戦うのが嫌な者は今ここで去れ。進む者は、私についてこい」
しばらく沈黙があった。
最初に前へ出たのは龍且だった。
「ようやく戦えるなら、文句はねえ」
続いて鍾離眜が頭を下げる。
「軍が進むのであれば、従います」
一人、また一人と諸将が頭を下げていった。
こうして項羽は、楚軍の上将軍となった。
◆
進軍命令が出たのは、その日のうちだった。
長く安陽に留め置かれていた兵たちは、命令が伝わると一斉に動き始めた。隊列を整え、残った兵糧を荷車へ積み、武器を確認しながら北へ向かう準備を進めていく。
項羽は先頭に立った。
もう待たない。
鉅鹿へ行く。
章邯を討つ。
その意志だけは、誰にも止められなかった。
やがて楚軍は黄河へ到着した。
対岸へ渡れば、鉅鹿まではもう遠くない。
船が次々と兵を運び、最後の部隊が岸へ上がる。兵たちは当然、渡河に使った船を岸へ繋ぎ、兵糧や炊事の道具もそのまま運ぼうとしていた。
そこで項羽が命じた。
「船を沈めろ」
兵たちの動きが止まった。
「……何と?」
「聞こえなかったか。船を沈めろ。それから釜を壊せ」
今度は周囲の将たちまで顔を見合わせた。
龍且だけは、しばらくして楽しそうに笑い始めた。
「なるほど。そう来るか」
鍾離眜は笑わなかった。
「上将軍。本当に退路を断たれるおつもりですか」
「ああ」
項羽は楚兵たちを見渡した。
「持っていく食糧は三日分だけでいい。それ以上はいらぬ」
ざわめきが広がる。
范増は黙って項羽を見ていた。
「三日のうちに勝てなければ、我らは食うものを失います」
鍾離眜が確認する。
「そうだ」
「敗れれば、河を渡って逃げることもできません」
「そうだ」
項羽は迷わず答えた。
「だから勝つ」
単純な言葉だった。
だが、その声には揺らぎがなかった。
「鉅鹿では、秦軍が趙を囲んでいる。周囲には救援に来た諸侯がいるが、誰も秦へ斬り込もうとしない。ならば我らが最初に行く」
項羽は秦軍のいる北を指した。
「後ろに船があると思えば、苦しくなった者から逃げる。釜があれば、明日の飯を考える。そんなものは要らぬ。三日分だけ食え。その間に秦軍から残りを奪う」
兵たちの顔つきが変わっていった。
「勝てば食える。負ければ死ぬ。それだけだ」
項羽は剣を抜いた。
「私は逃げぬ。だからお前たちにも、逃げ道は残さぬ」
◆
やがて最初の船へ火が放たれた。
縄を切られた船が流れ、炎に包まれながら沈んでいく。別の場所では兵たちが炊事用の釜を地面へ叩きつけ、割れた土器が岸辺へ散った。
最初は戸惑っていた兵たちも、次第に声を上げ始めた。
「三日で秦を破るぞ!」
「項梁様の仇を討て!」
「楚軍を侮った秦兵どもに思い知らせろ!」
声が重なり、軍全体へ広がっていく。
龍且が大声で笑いながら武器を掲げ、鍾離眜はすでに三日分の食糧を各隊へ割り振るため兵を動かしていた。范増だけは騒ぎの中で静かに目を細め、ようやく動き始めた楚軍を見つめている。
項羽は振り返らなかった。
背後では船が沈み、釜が砕かれている。
戻る場所はなくなった。
前にいるのは、叔母を討った章邯と、鉅鹿を囲む秦の大軍。
「進め!」
項羽の号令とともに、楚軍が動いた。
三日分の食糧だけを背負い、退路を自ら断った軍勢が、鉅鹿へ向けて一気に北へ駆け始めた。




