第84話 安陽
楚軍は鉅鹿を目指して北上していた。
上将軍として全軍を率いるのは宋義、その下で次将を務めるのが項羽である。項梁を失った楚軍にとって、これは新たな指揮体制になってから初めての大規模な遠征であり、趙を救うという大義に加えて、定陶で項梁を討った秦軍へ雪辱する意味もあった。
少なくとも、項羽はそのつもりでいた。
ところが軍が安陽まで進んだところで、宋義は全軍を止めた。長い行軍の後で兵を休ませ、遅れている補給を待つ程度なら項羽も異を唱えるつもりはなかったが、五日が過ぎ、十日が過ぎても進軍命令は出なかった。
「まだ動かぬのか」
項羽は軍議の席で、地図を見ていた宋義へ尋ねた。
「動かぬ。今はその時ではない」
「趙は鉅鹿で秦軍に囲まれている。こちらが止まっている間にも、城は追い詰められているのだぞ」
宋義はそこでようやく顔を上げたが、表情に焦りはなかった。
「だからこそ待つ。秦は趙を攻め、趙は生き残るために抗う。両者が削り合い、秦軍が疲れたところへ我らが入る方が損は少ない」
「その間に鉅鹿が落ちればどうする」
「落ちる前に動けばよい」
「それがいつだと聞いている」
項羽の声が低くなる。
宋義は指先で地図上の駒を動かした。
「章邯は強い。定陶で項梁殿を討ち、その後も各地の反乱軍を破っている。その軍へ真正面から突っ込むのは、勇敢ではあっても賢明とは言えぬ」
「叔母上が討たれたからこそ、私が討つ」
「仇討ちで楚軍を動かすな、項羽」
宋義の声音は冷静だった。
「これは楚の軍だ。お前一人の怒りを晴らすための軍ではない。秦を破るにも趙を救うにも、まず楚軍を残さねばならぬ」
理屈だけなら、項羽にも理解できた。秦と趙を削り合わせ、疲弊したところを叩くのは軍略として間違ってはいない。
だが、その間にも鉅鹿では兵と民が死んでいる。
何より、目の前にいる章邯は、項梁を討った敵だった。
「私は待つためにここまで来たのではない」
「ならば、待つことを覚えろ」
宋義はそう言って再び地図へ目を落とした。
話は終わりだという態度だった。
項羽はしばらくその横顔を睨んでいたが、それ以上は言わず幕舎を出た。
◆
さらに日が過ぎた。
雨が続き、冷たい風も吹き始めると、楚兵の疲労は目に見えて深くなった。補給の到着も遅れ、部隊によっては粥を薄くして配るしかないほど兵糧が乏しくなっている。
それでも宋義は進軍を命じなかった。
項羽は陣内を歩き、兵たちの様子を自分の目で確かめていた。濡れた薪のそばに座り込む者、泥にまみれた履物を乾かす者、僅かな粥をゆっくり口へ運ぶ者がいる。
「項羽将軍」
一人の兵が慌てて立とうとした。
「座っていろ」
「ですが」
「その飯まで冷えるぞ」
兵は戸惑いながら座り直した。
項羽は椀の中を見た。
水ばかりが多く、米は僅かしか浮いていない。
「これが今日の夕餉か」
「はい」
「昨日も?」
「……はい」
項羽は何も言わなかった。
そのまま陣を歩き続けたところで、後ろから范増が追いついてきた。
「また上将軍と揉めたそうだな」
「ああ」
「何と言われた」
「秦と趙が疲れるまで待つ、と」
項羽は足を止めずに答えた。
「理屈は分かる」
「お前まで同じことを言うか」
「理屈が分かることと、今の判断が正しいことは別だ」
范増は周囲の兵へ目を向けた。
「待つなら、待てるだけの兵糧が要る。兵に目的を理解させ、士気を保つことも要る。何もせず止まるだけなら、敵より先にこちらが腐る」
項羽が横目で見ると、范増は続けた。
「だが、お前も怒りをそのまま兵へ見せるな。上将軍と次将が互いを敵のように睨んでいると知れば、軍まで割れる」
「もう皆知っているだろう」
「だからこそだ」
項羽は周囲を見回した。
確かに兵たちの視線がこちらへ向いている。
上将軍は進まない。
次将は進むべきだと言う。
その対立を知らぬ者など、もうほとんどいなかった。
◆
数日後、項羽は軍中へ酒や肉が運び込まれているのを見た。
「これは何だ」
荷を運んでいた兵へ尋ねると、女は一瞬ためらってから答えた。
「上将軍の御子息、宋襄殿が斉へ赴かれるとのことで、その送別の宴にございます」
「宴?」
「はい」
項羽の視線が、積まれた酒甕と肉へ向く。
「兵には薄い粥を食わせているのにか」
答えは返ってこなかった。
兵を責めても仕方がない。
項羽はそのまま宋義の幕舎へ向かった。
中ではすでに酒が注がれ、料理が並べられていた。上座には宋義がおり、その傍らには息子の宋襄が座っている。
項羽が入ってくると、周囲の声が次第に小さくなった。
「何の用だ」
宋義が尋ねる。
「兵が飢えている」
「知っている」
「雨に濡れ、腹を空かせている。その横でこれは何だ」
項羽は卓上の料理を見た。
「我が子を斉へ送る宴だ。斉との関係を固めることも軍略のうちであろう」
「今でなければならぬのか」
「今だからだ」
「兵の腹よりも大事か」
幕舎の空気が一気に張り詰めた。
宋義もさすがに眉を寄せた。
「項羽。言葉を慎め」
「私は兵の前で言ったわけではない。ここで聞いているだけだ」
「何を聞きたい」
「いつ進む」
宋義が黙った。
「十日以上ここにいる。趙から救援要請を受けて来たはずだ。なのに鉅鹿へ近づきもせず、兵糧を減らしながら待ち続けている。いつまでだ」
「時が来るまで待つ」
「だから、その時はいつだ」
「秦が疲れた時だ」
「鉅鹿が落ちてからでは遅い!」
項羽の声が幕舎に響いた。
「趙を救うために来た軍が、趙が滅びるのを待ってどうする。秦が疲れることを待っている間に、こちらの兵まで疲れ切っているではないか」
宋義の顔から余裕が消えた。
「お前は武には優れている。敵の前へ出れば兵も奮い立つ。それは認めよう。だが、戦は勇気だけで勝てるものではない」
「知っている」
「ならば上将軍の命に従え」
「上将軍の命なら、軍を損なっても従えと言うのか」
「項羽!」
宋義が卓を叩いた。
宴席の者たちが息を呑む。
だが項羽は退かなかった。
「私は章邯を討ちたい。叔母上の仇だからだ。それは否定しない。だが今ここで進むべきだと言っているのは、それだけではない」
項羽は幕の向こうへ視線を向けた。
「外の兵を見ろ。あの者たちは秦と戦うためにここまで歩いてきた。勝てる時を選ぶのは将の仕事だが、戦わぬまま兵を飢えさせ、士気を失わせることを策とは呼べぬ」
「ならば、お前ならどうする」
「進む」
項羽は迷わず答えた。
「鉅鹿へ行き、秦軍を見る。その上で戦い方を決める。ここで地図を眺めながら、敵が勝手に弱るのを待つつもりはない」
しばらく二人は黙って向かい合った。
やがて宋義が低い声で言う。
「却下する。全軍はこのまま安陽に留まる」
項羽の拳が強く握られた。
それでも、その場では抜かなかった。
「……分かった」
短く答え、幕舎を出る。
◆
外では冷たい雨が降っていた。
項羽が自陣へ戻る途中、道の両側にいた兵たちが次々とこちらへ目を向けた。誰も声をかけなかったが、その視線に込められたものは以前より明らかだった。
進みたい。
戦いたい。
このまま待っているだけでは何も変わらない。
そんな思いを、項羽自身が勝手に読み取っているだけなのかもしれない。それでも、安陽に留まる日が長くなるほど、兵たちの目が宋義ではなく自分へ向き始めていることだけは確かだった。
「項羽」
范増が隣へ並んだ。
「宴へ行ったな」
「ああ」
「どうだった」
「何も変わらぬ。宋義は待つと言った」
「そうか」
范増はそれ以上すぐには言わなかった。
二人は雨の中をしばらく歩いた。
「兵が私を見ている」
やがて項羽が言った。
「見ているな」
「何を求めていると思う」
「それを私に聞くな。お前自身が一番分かっているだろう」
項羽は答えなかった。
脳裏に浮かんだのは、定陶で死んだ項梁だった。
叔母は最後まで楚を再び立たせようと戦った。
その後を託された自分が今していることは、安陽で雨を眺めながら、秦と趙が互いに弱るのを待つことだった。
「叔母上なら、どうしただろうな」
范増は少し考えてから答えた。
「それも私に聞くな」
「意地が悪いな」
「お前が決めなければ意味がないからだ」
項羽は足を止めた。
振り返れば、雨の向こうに宋義の幕舎が見える。その中では上将軍の命令が全軍を縛り、楚軍を安陽へ留め続けていた。
項羽はしばらくその灯りを見つめた後、再び自分の陣へ向かって歩き出した。二人の対立はもはや軍略の違いだけでは済まなくなりつつあった。




