第83話 眠らぬ牙
鉅鹿の俺たちの陣へ戻った時、王離はすでに王氏の将ではなくなっていた。
王氏の鎧も、あの巨大な大剣も、戦死を偽装するため炎の中へ残してきた。今は北辺兵と変わらない簡素な装いに身を包み、手にしているのもどこにでもある戟一本だけである。
「しばらくは、その姿でいてもらう」
「承知しております。王氏の大剣を振るえば、私が生きていると触れ回るようなものですから」
そう答えながらも、王離は無意識に腰のあたりへ手を伸ばし、そこに何もないことに気づいて苦笑した。
「……妙な心地です。身体が軽すぎます」
「そのうち新しい武器は用意するよ。ただ、大剣はしばらく駄目だな」
「では、今までより小さなものを」
「普通の大きさで頼む」
久しぶりに王離らしいやり取りができたことに、少しだけ胸が軽くなった。
けれど、その穏やかな時間は長く続かなかった。
◆
陣の奥へ入った王離の足が、突然止まった。
少し先で槍を手入れしている女がいる。
楊端和だった。
「……なぜ」
掠れた声が漏れた。
楊端和も顔を上げ、王離に気づく。その表情が強張るより早く、王離は大股で歩み寄っていた。
「なぜ貴様がここにいる!」
胸倉を掴み、そのまま身体を持ち上げる。
楊端和の足が地面から離れた。
「王離!」
俺と蒙恬がすぐに駆け寄ったが、王離は手を緩めなかった。
「扶蘇様、この女は函谷関で我らを裏切りました! 蒙恬殿を殺そうとし、軍を崩し、その結果として母上と私は殿に残ることになったのです!」
怒鳴る声の奥にあるのは、単なる憎しみだけではなかった。
「母上は囚われ、私は胡亥に降るしかなくなった。今度は名まで捨てなければ戻れなかった。それなのに、なぜこの女が扶蘇様のおそばにいるのです!」
楊端和は抵抗しなかった。
掴み上げられたまま、静かに王離を見返している。
「申し開きはございません」
「ならば!」
「私がしたことでございます。王氏を窮地へ追いやり、王賁殿を囚われの身とした原因の一つが私であることも否定いたしません」
王離の手に、さらに力が入った。
「謝れば済むと思うな」
「思っておりません」
楊端和は目を逸らさなかった。
「詫びて済むものではございません。斬られても、恨む資格はございません」
俺は王離の腕へ手を置いた。
「王離。俺も楊端和を許したわけじゃない」
「でしたら、なぜ」
「許したから使ってるんじゃない。罪を消せないから、働かせてる」
王離がこちらを見る。
「函谷関でやったことは消えない。蒙恬を殺そうとしたことも、俺たちの軍を崩したこともな。それでも今は、俺の命令に従って戦ってる」
俺は少しだけ間を置いた。
「お前に許せとは言わない。許さなくていい。ただ、今ここで殺すのはやめてくれ」
そこへ蒙凛が歩み寄った。
「私も最初は同じだったよ」
王離が目を向ける。
「母上を殺そうとした女だもの。今だって全部許したわけじゃない。でも扶蘇様が使うと決めた。なら、私はその判断に従う」
蒙凛は少しだけ表情を和らげた。
「それに、お前だって扶蘇様に迎えに来てもらっただろう?」
王離の指から、ゆっくりと力が抜けていった。
楊端和の足が地面へ戻る。
「……許しません」
王離は低く言った。
「母上のことも、私が失ったものも、忘れるつもりはありません」
「はい」
楊端和は深く頭を下げた。
「それで結構にございます」
王離はそれ以上何も言わず、背を向けた。
無理に仲直りさせる必要はない。
同じ軍にいることと、互いを許すことは別だった。
◆
その夜、主だった者を集めて今後を話し合った。
「扶蘇様。王離殿を救い出した以上、当初の目的は果たしております」
蒙恬は地図を見ながら続けた。
「ここへ来てから、すでに数百の兵を失いました。李信の軍も、章邯の軍も健在です。二万の兵でこの包囲を正面から崩すのは難しいでしょう」
「一度退くべきだと思う?」
「少なくとも、秦軍から距離を取る価値はございます。周囲の諸侯も同じ判断をしております」
正論だった。
王離は取り戻した。
ここでさらに無理をして兵を削る理由はない。
それでも俺は、すぐには頷かなかった。
「楚軍が鉅鹿へ向かってるって報せは来てるよな」
「はい」
「その中には項羽もいる」
蒙恬が俺を見る。
「項羽にとって、章邯は叔母の項梁を討った仇だ。あいつがここまで来て、他の諸侯と同じように遠くから眺めて終わるとは思えない」
俺は地図上の秦軍を指でなぞった。
「いずれ、あいつはぶつかる。その時、秦軍が十分に眠って、腹いっぱい食って待っているのと、何日も警戒させられて疲れ、補給まで乱されているのとでは違う」
蒙恬の目が少し細くなった。
「扶蘇様は、項羽が秦軍へ挑むことを見越して、この地へ残るおつもりですか」
「そうだ」
「項羽のために?」
「俺たちのためだ」
胡亥の政権を倒す。
それが目的なら、秦軍主力を俺自身が倒す必要はない。倒せる者が来るなら、その力を利用すればいい。
「俺たち二万だけで章邯を潰すのは難しい。でも、俺たちが少しずつ削っておけば、次にぶつかる奴は楽になる。その結果として秦軍が敗れるなら、俺たちにも利益がある」
黥布が腕を組んだ。
「他人が勝つために、こっちが先に働くってのは気に入らねえな」
「俺も別に慈善事業をするつもりはない」
「なら?」
「先に働いた奴を、後から来た奴も簡単には無視できなくなる」
黥布の口元が上がった。
「貸しを作るってことか」
「貸しとして数えてくれる相手かは知らないけどな」
「だったら、せいぜい高く売れるくらい働いてやるか」
黥布はそう言って笑った。
◆
翌日から、戦い方を変えた。
二万を一つにまとめて動かすのではなく、黥布、楊端和、蒙恬、そして俺の四隊に分ける。
目的は敵陣を突破することでも、首を多く取ることでもない。
秦軍を休ませないことだった。
一隊が夜半に近づき、矢を射かけてすぐ退く。秦軍がようやく静まった頃には、別の隊が反対側から姿を見せる。その次は明け方、さらに次は昼過ぎと、時間も方角も一定にせず、警戒を解く暇を与えない。
「長く戦うな。一度か二度ぶつかったら退け。追ってきたら引き離せ」
各隊の将へ、それだけは徹底させた。
「首を取ろうとして足を止めるな。相手が乗ってきたら、その時点でこっちの役目は終わりだ」
正面から李信に付き合えば、また数百単位で兵を失う。
ならば付き合わない。
来れば退き、止まれば別の場所へ回る。
前に三隊へ分かれて王離の位置を探った時と似ているが、今度の狙いはもっと単純だった。
眠らせない。
食わせない。
追わせる。
ただそれだけだった。
◆
王離は俺の隊へ入れた。
もちろん、隊を預けることはできない。
王氏の将として戦死したはずの女が大剣を振り回せば、偽装などその日のうちに崩れる。だから顔を隠し、ありふれた戟を持たせ、一兵として動いてもらうしかなかった。
「窮屈だろ」
行軍中に尋ねると、王離は手にした戟を見た。
「かなり」
「即答だな」
「大剣とは重さが違いすぎます。振った時に身体が前へ出そうになります」
「普通は逆なんだけどな」
王離は少しだけ笑った。
「ですが、贅沢は申しません。名を捨てただけで、生きてここに戻れたのですから」
その日の明け方、俺の隊は秦軍の外縁へ短く攻撃を仕掛けた。
矢を浴びせ、秦兵が出てきたところで前衛だけをぶつける。俺も前へ出て戟を構え、迫ってきた兵の刃を受け流しながら一撃を返した。
後ろで王離が息を呑んだ。
「……扶蘇様?」
「何だ?」
「いえ、後で」
戦っている最中なので、そのままにした。
秦軍が兵を増やし始めたところで、すぐに合図を出す。
「退く! 予定どおりだ!」
太鼓が鳴り、兵が一斉に距離を取る。
蒙凛の騎射隊が追手へ矢を浴びせ、その間に本隊が離脱した。
十分に距離を取ったところで、王離が俺のそばへ馬を寄せた。
「扶蘇様」
「さっきの話?」
「はい。……随分と戦えるようになられたのですね」
「戦えるってほどじゃないよ」
「以前の扶蘇様は、前線に出られるたび周囲が生きた心地をしておりませんでした」
「今も蒙恬には怒られてる」
「でしょうね」
王離は俺の足運びをしばらく見ていたが、やがて表情を少し曇らせた。
「その踏み込み、楊端和殿に似ております」
一瞬だけ返事に迷った。
「鉅野で色々あった。その中で覚えたこともある」
「……そうですか」
王離はそれ以上聞かなかった。
ただ、握っていた戟を持ち直した。
俺たちが別々の場所で過ごしていた時間は、もう戻らない。
その間に俺も変わり、王離も変わった。
これから互いに知り直していくしかなかった。
◆
李信は、日に日に苛立っていた。
「また来たのか」
「はい。今度は西側です。二千ほどでしたが、こちらが兵を出すとすぐに退きました」
「追ったか?」
「いえ。将軍の命どおり、一定以上は」
「それでいい」
報告を聞いている途中、別の伝令が幕へ入ってきた。
「東側にも扶蘇軍が現れました!」
李信は地図へ目を落とした。
昨日は夜半。
その前は夜明け。
今日は西に現れた直後、東から別の隊が出てきた。
攻め込んでくるわけではない。
こちらが兵を揃える頃にはもう退いている。
「……何がしたい」
周囲の将たちも答えられなかった。
ただ、追えば軍を散らされることだけは分かる。
「追うな」
李信は改めて命じた。
「鉅鹿の包囲を崩すな。外の賊に付き合って兵を動かしすぎる方が危険だ」
正しい判断だった。
だからこそ、俺たちも止める必要がなかった。
李信は追ってこない。
ならば、こちらは好きな時に近づき、好きな時に退ける。
秦軍が休もうとすれば別の隊が現れ、兵が鎧を脱げば警報が鳴り、明け方になればまた別の方向で矢が飛ぶ。
俺たち自身も楽ではない。
四隊で交代しているとはいえ、夜間の行軍と短い戦闘を繰り返せば疲労は積もる。
それでもこちらには、戦う時間を選ぶ自由があった。
秦軍にはない。
鉅鹿の包囲を維持する以上、いつ襲われても対応し続けるしかない。
そうして俺たちは、秦軍の外側を飛び回り続けた。
倒すためではない。
次にこの戦場へ来る者が、少しでも深く牙を立てられるようにするために。




