第82話 王離奪還
章邯の甬道へ潜り込んだ俺と蒙恬、そして五百の兵は、糧秣を積んだ荷車を押しながら北東へ進んでいた。
甬道は途中からいくつもの枝道へ分かれ、前線の各陣へ食糧や武器を送り込んでいる。周囲には秦兵が絶えず行き交っていたが、こちらの五百も元は北辺の正規兵である。余計なことをせず、いつもの軍務と同じように振る舞っている限り、すれ違う兵から怪しまれることはなかった。
「次の分岐を右です」
荷車の陰から蒙恬が小声で告げる。
「斥候の報告が正しければ、その先が王氏の受け持つ一帯にございます」
「ようやくか」
気持ちだけなら走り出したかったが、ここで急げばかえって目立つ。俺たちは周囲の輜重隊と同じ速度を保ったまま分岐を曲がり、やがて甬道の出口近くに立つ軍旗を見つけた。
王氏の旗だった。
あの向こうに、王離がいる。
◆
王氏の陣へ入るところで、再び荷を改められた。
「どこの隊だ?」
「後方の輜重所から参りました。穀物と矢を運んでおります」
先頭の兵が答え、荷札を差し出す。偽造したものではあったが、書式そのものは元秦兵たちが知っているため、不自然なところはない。
王氏の兵は荷車を確認した後、そのまま通そうとした。
それでは困る。
「将軍へ直接お渡しする報せがあります」
俺が言うと、門番の女が眉を寄せた。
「何の報せだ?」
「北方の軍務に関わるものです。将軍御本人へ伝えよと命じられております」
「誰からだ」
「ここで口にすることは禁じられております」
少し強引ではあるが、上からの命令を盾に押すしかない。
門番はしばらく俺を疑うように見ていたものの、やがて一人の兵を陣の奥へ走らせた。
待っている時間が、ひどく長く感じた。
もし矢文が届いていなければ。
あるいは届いていても、王離がこちらの意図に気づかなければ。
ここまで入り込んだ五百は、一気に敵陣の中で孤立する。
しばらくして兵が戻ってきた。
「隊長と副官だけ来い。将軍がお会いになる」
俺は頷き、蒙恬とともに王氏の陣の奥へ進んだ。
◆
幕舎の中には、一人の女が待っていた。
大柄な身体。
傍らに立てかけられた巨大な剣。
以前より頬が少し痩せていたが、見間違えるはずがない。
俺は幕が閉じたのを確認してから、兜を取った。
蒙恬も続く。
王離の目が大きく見開かれた。
「……扶蘇様」
声が震えていた。
「久しぶりだな、王離」
それだけで、王離の顔がくしゃりと歪んだ。それでも一軍を預かる将として泣くまいとしたのか、唇を噛み、深く頭を下げる。
「申し訳ございません。私は今、胡亥陛下の命を受け、秦軍の将としてここにおります。扶蘇様に弓を引く側に立ちながら、こうしてお会いする資格など」
「その話をするために来たんじゃない」
俺は王離の前まで歩いた。
「迎えに来た。夜が明ける前に、一緒にここを出よう」
王離の目に涙が浮かんだ。
だが、すぐに首を振った。
「……行けません」
「王賁のことだろ」
王離が黙った。
やはり、それしかない。
「母上は今も咸陽に囚われております。私が扶蘇様のもとへ走れば、母上は裏切り者の母となります。趙高が、それを見逃すとは思えません」
「俺もそう思う」
「でしたら」
「でも、お前をここへ残すつもりもない」
王離は困ったように俺を見る。
蒙恬も黙っていた。
正直、ここへ来るまで俺も完全な答えを持っていたわけではない。
王離を捕虜として連れ出す案も考えた。だが、生きていると分かれば趙高は疑うだろう。人質を取られている将が、都合よく扶蘇に捕まり、そのまま戻らないとなれば、寝返りを疑われても仕方がない。
「私も考えておりました」
そこで王離が静かに言った。
俺は彼女を見る。
「矢文をいただいた夜から、どうすれば扶蘇様のもとへ戻り、なお母上を守れるのかを」
「何か思いついたのか?」
「はい」
王離は少しだけ目を伏せた。
「王離は、ここで死にます」
◆
「……何?」
思わず聞き返した。
「生きたまま扶蘇様のもとへ行けば、私は秦への裏切り者となります。ですが、鉅鹿で秦のために戦い、敵襲の中で討死したのであれば、少なくとも母上を『裏切り者の母』にはせずに済みます」
「待て。それは」
「本当に死ぬという意味ではございません」
王離はそこで初めて、僅かに笑った。
「死んだことにするのです」
俺は言葉を失った。
蒙恬が低い声で尋ねる。
「戦死を偽装する、と?」
「はい。今夜はすでに李信殿の陣が襲われております。こちらまで夜襲が及び、火の中で私が討たれたことにできれば、不自然ではありません」
「ですが、亡骸が必要になります」
「ございます」
王離の声が重くなった。
「昨日の小競り合いで亡くなった兵の中に、私と背格好の近い者がおります。まだ埋葬しておりません」
俺は眉を寄せた。
「その兵を使うのか」
「新たに誰かを殺すつもりはございません。ですが、亡くなった者の身体を利用することに変わりはありません」
王離の顔にも苦しさがあった。
「許されることではないかもしれません。それでも母上を守り、ここを離れる道が他に思いつかないのです」
俺はすぐには答えられなかった。
死人を利用する。
気持ちのいい策ではない。
だが、捕縛という形では王賁へ疑いが向く。王離が堂々と寝返ればなおさらだった。
「その兵の名は?」
俺が尋ねると、王離は少し驚いた。
「……朱蘭と申します」
「家族は?」
「故郷に妹が二人おります」
「生き延びたら、その家族の面倒は俺が見る」
王離が目を見開いた。
「扶蘇様」
「死者を使わせてもらうんだ。せめて俺たちが何をしたのかは忘れない」
それが正しいのかどうかは分からない。
ただ、必要だから使って終わりにはしたくなかった。
王離は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
◆
そこから先は早かった。
王離は俺たちを密かに幕舎の裏手へ回し、信頼できる少数の兵だけを使って準備を進めた。ただし、救出そのものを知る者は極力増やさない。
俺たちの五百は輜重隊へ戻り、決めた刻限に王氏の陣の一角で騒ぎを起こす。
火を放ち、秦兵へ変装していた印を外し、扶蘇軍が内部へ侵入したことをわざと知らせる。
その混乱の中で王離は迎撃へ出る。
そして、戦死する。
表向きには。
「本当にこれでよろしいのですか」
蒙恬が最後に尋ねた。
王離は大剣の柄へ手を置いた。
「私は母上を救うために秦軍へ残りました。その母上を死なせては、何のためにここまで耐えてきたのか分かりません」
それから俺を見る。
「ですが、私も戻りたいのです」
その一言だけは、一軍の将ではなく一人の若い女の声だった。
「扶蘇様のところへ」
「なら、戻ろう」
俺は頷いた。
「ただし当分、王離の名前は使えない」
「承知しております」
「将として表にも出せない」
「構いません」
迷いはなかった。
「生きて戻れるのであれば、それだけで十分にございます」
◆
半刻後。
王氏の陣の一角で火の手が上がった。
「敵襲!」
「扶蘇軍だ! 輜重隊に紛れていたぞ!」
俺たちの兵が意図的に声を上げると、王氏の陣はすぐに騒がしくなった。
夜襲とはいえ、王氏の兵は簡単には崩れない。すぐに武器を取った兵が集まり、侵入者を囲もうと動き始める。
そこへ、大剣を手にした王離が現れた。
「陣内へ入り込んだ敵を逃がすな! 私に続け!」
芝居とは思えない声だった。
実際、彼女の兵たちは何も知らない。
俺たちも本当に応戦しながら、予定していた方向へ少しずつ退いていった。
王離が迫る。
大剣が振るわれ、荷車が一撃で砕けた。
「ちょっと待て!」
思わず声が出た。
「これでも手加減しております!」
「それでか!」
横で蒙恬が呆れたように息を吐いた。
「扶蘇様、今は芝居の最中にございます」
「分かってる!」
とはいえ、王離の兵から見れば十分だっただろう。
将軍自ら先頭に立ち、侵入した扶蘇軍を追っている。
やがて戦いは、用意していた幕舎の近くへ移った。
そこにはすでに油が撒かれていた。
「今だ!」
火矢が飛ぶ。
炎が一気に幕を這い、周囲へ広がった。
兵たちが慌てて距離を取る。
その煙に紛れ、王離は俺たちの側へ走った。
代わりに、王離の鎧と装具を着せられた朱蘭の亡骸が、燃え始めた幕の奥へ残された。
「将軍!」
誰かの声が響く。
炎が強くなり、容易には近づけない。
俺たちはその混乱の間に北東側から陣を抜けた。
◆
甬道へ戻ることはしなかった。
潜入が露見した以上、同じ道を使えば閉じ込められる。
王離が事前に教えてくれた王氏の巡回路を使い、秦軍の外へ抜ける。蒙恬が先頭で道を確認し、五百がまとまって後へ続いた。
追手は来た。
それでも王氏の陣では、将軍が火の中に消えたことで混乱が続いている。
さらに遠くでは、黥布と楊端和の夜襲もまだ完全には収まっていなかった。
秦軍全体が何が起きているのか掴む前に、俺たちは闇の中へ紛れた。
◆
夜が明ける頃。
焼け落ちた幕舎から、一体の亡骸が運び出された。
身体はひどく焼け、顔を判別できる状態ではない。
だが身につけているのは王離の鎧であり、傍らには彼女の大剣が残されていた。
「……王離が死んだ?」
報告を受けた李信は、すぐには信じなかった。
「はい。扶蘇軍が陣内へ侵入し、王離将軍は自ら迎撃されました。その最中、幕舎へ火が回り」
「遺体を見せろ」
李信は自ら王氏の陣まで足を運んだ。
炭のようになった亡骸。
焼けた鎧。
大剣。
周囲の兵たちも、王離が扶蘇軍を追って火の中へ入ったところまでは見ている。
筋は通っていた。
それでも李信は、焼けた亡骸を長く睨んでいた。
「よりによって、今夜か」
扶蘇が現れた夜。
王離が死ぬ。
しかも、顔を確かめられないほど焼けて。
偶然と言えば偶然だった。
戦場なら、いくらでも起こり得る。
だが李信の表情から疑いは消えなかった。
「王氏の兵を調べろ。今夜、持ち場を離れた者がいないか確認しろ」
「はっ」
それ以上の証拠は、何もなかった。
◆
秦軍から十分に離れたところで、俺たちはようやく足を止めた。
王離は王氏の鎧を脱ぎ、五百の兵と同じ簡素な装備へ着替えていた。巨大な大剣も陣へ残したため、遠目には彼女だと気づく者も少ないだろう。
「大剣まで置いてきてよかったのか?」
「必要にございます」
王離は少し寂しそうに笑った。
「あれがなければ、私の死を信じてもらえません」
「また作ればいい」
「はい。その時は、今までより大きなものを」
「そこは普通でいいだろ」
久しぶりに聞く王離らしい返事だった。
そのまま少し歩いたところで、王離が足を止めた。
俺へ向き直り、膝をつく。
「扶蘇様」
「何だ?」
「王離は、今夜死にました」
俺は黙って聞いた。
「ゆえに、しばらく私は名を捨てます。将でも、王氏の娘でもなく、ただの兵としてお側に置いてくださいませ」
「分かった」
王離は深く頭を下げた。
「……ただいま戻りました、扶蘇様」
胸の奥に、ようやく実感が湧いた。
函谷関で別れた時から、ずっと取り戻したかった仲間が目の前にいる。
「おかえり、王離」
その名を口にすると、王離は慌てて周囲を見た。
「扶蘇様。今しがた名を捨てたと申し上げたばかりですが」
「今くらいはいいだろ」
蒙恬が小さく笑った。
王離も困ったように笑い、やがて目元を拭った。
表向き、王離は死んだ。
それで王賁が必ず助かるとは限らない。だが少なくとも、娘が裏切ったという理由で処刑される危険は大きく減らせる。
そして本物の王離は、今ここにいる。
名を失い、武器を失い、将としての立場まで捨てて。
それでも、生きて俺たちのところへ戻ってきた。




