第80話 李信の壁
鉅鹿へ到着してから数日、俺たちは秦軍の包囲網へ不用意に近づかず、斥候を使ってその配置を探り続けていた。
周囲の諸侯が秦軍を恐れて遠巻きに陣を敷いているのに対し、俺たちの陣はそれよりかなり前に出ている。王離の所在を探るには秦軍の動きを近くから見る必要があり、多少の危険は承知の上だった。
当然、秦軍も俺たちを放置しなかった。
「扶蘇様、秦軍が動きました!」
蒙凛が馬を飛ばして戻ってきたのは、朝の斥候を出して間もなくのことだった。
「どの軍だ?」
「李の旗です。ただし昨日討った李由ではありません。あの旗と兵の動きから見て、おそらく」
「李信か」
「はい」
すぐに高台へ上ると、秦軍の一部がこちらへ向かって進んでくるのが見えた。数は俺たち二万より多く、しかも陣形を崩さず、こちらが退けばそのまま圧力をかけられる距離を保ちながら進んでいる。
蒙恬も隣へ立ち、その動きをしばらく見ていた。
「こちらを追い払うつもりでしょう」
「やっぱり近すぎたか」
「諸侯と同じ距離にいるだけなら、李信も放置したかもしれません。しかし私どもは毎日のように斥候を出し、秦軍の外縁を探っております。何を狙っているか分からぬ以上、先に離しておきたいのでしょう」
理屈は分かった。
俺が李信の立場でも、同じことを考えたかもしれない。
問題は、ここで簡単に退けば王離を探るのが難しくなることだった。
「戦う?」
黥布が楽しそうに戟を肩へ担いだ。
「嬉しそうに聞くな」
「向こうから来てくれたんだぞ。俺たちが悪いわけじゃねえだろ」
「そういう問題じゃない」
とはいえ、逃げ続けるだけにもいかなかった。
「正面から潰し合う気はない。ただ、どこまで来るかは見よう」
俺は各隊へ戦闘準備を命じた。
◆
李信軍は、こちらが陣を整えるのを待たなかった。
弩兵を前へ出して矢を浴びせ、その間に歩兵が左右へ広がりながら距離を詰めてくる。正面だけを押すのではなく、こちらが応戦すればそのまま両翼へ回り込める形であり、最初から俺たちを大きく後退させるつもりなのが分かった。
「中央は下がりながら受ける! 旗を見失うな!」
合図の太鼓を鳴らすと、蒙恬の隊が一斉に数歩下がり、秦軍の最初の突撃を受け止めた。蒙凛の騎射隊は左へ流れながら矢を返し、楊端和も右翼で秦兵の前進を遅らせる。
これまで決めてきた簡単な合図だけでも、各隊は迷わず動いていた。
だが相手は李信だった。
こちらが下がれば無理に追わず、反撃しようとすればすぐ兵を寄せて勢いを止める。誘い込まれるのを警戒しているのか、軍全体が不用意に伸びず、常に互いを支えられる距離を保っていた。
「……相変わらず嫌な戦い方するな」
俺が呟くと、蒙恬が少しだけ苦笑した。
「扶蘇様もよくご存じでしょう」
「ああ。味方だった時は頼もしかったんだけどな」
李信は派手な奇策を連発する将ではない。
必要な時に前へ出て、危険なら止まり、弱いところがあれば迷わず兵を寄せる。簡単なことを、崩れずに続けられる強さがある。
そして、その軍の中央から一騎が大きく前へ出た。
見間違えるはずがなかった。
李信だ。
◆
「公子!」
黥布が笑った。
「あいつが大将だろ?」
「そうだけど」
「行っていいか?」
「待て」
「向こうから出てきてるぞ!」
確かに李信は前に出ていたが、一人で決闘を申し込んでいるわけではない。周囲には護衛もいて、その後ろには秦兵が整然と続いている。
それでも黥布はもう我慢できないようだった。
「前に出すなら今だぞ。あいつを止めねえと中央が押される」
それは間違っていなかった。
「……分かった。ただし深追いするな。退却の合図が出たら戻れ」
「分かってる!」
返事だけは立派だった。
黥布が手勢を率いて前へ出ると、秦軍の中央でも動きが起きた。
李信がこちらを見た。
その視線が、黥布で止まる。
「お前か」
「知ってんのか?」
「李由を討った黥面の男がいると聞いた」
「じゃあ話が早えな」
黥布は戟を構えた。
「俺は黥布だ。お前が李信だな」
「ああ」
李信も武器を構える。
「公子のところへ妙な男が加わったと思っていたが、腕は本物らしいな」
「試してみるか?」
「そのつもりで来た」
直後、二人が動いた。
◆
先に踏み込んだのは黥布だった。
戟を大きく振りかぶり、力任せに見える一撃を正面から叩き込む。李信はまともに受けず、武器を斜めに当てて流し、その勢いが残っているうちに横から切り返した。
黥布は身体を捻ってかわし、すぐに戟の石突きを返す。
李信も半歩退いて避けた。
最初の数合だけで、周囲の兵が近づきにくくなった。
「お前、強えな!」
黥布が嬉しそうに笑う。
「そっちこそ、噂以上だ」
李信の声にも、僅かに楽しむ色が混じっていた。
再び武器がぶつかった。
黥布は一撃ごとの力が重く、正面から受ければ李信でも身体ごと押される。しかし李信はその力に付き合わず、間合いを変えながら小さな隙を狙っていた。
力では黥布。
経験と技では李信。
どちらも簡単には崩れない。
黥布が横薙ぎを放つと、李信は身を沈めてかわし、そのまま懐へ入った。刃が黥布の脇腹を狙うが、黥布は戟の柄で受け止め、逆に肩をぶつけて押し返す。
「重いな!」
李信が距離を取った。
「逃げんなよ!」
「逃げてない。お前の馬鹿力に正面から付き合う必要がないだけだ」
「言うじゃねえか!」
黥布がまた踏み込んだ。
何度か打ち合ううちに、二人の表情から最初の軽さが消えていった。
互いに分かったのだろう。
相手は、一つ間違えば自分を殺せる。
◆
だが戦場全体では、こちらが不利だった。
黥布が李信を引きつけていても、秦軍は止まらない。副将たちが命令を引き継ぎ、こちらの両翼へ圧力をかけ続けている。
「扶蘇様、右翼が押されています!」
楊端和から伝令が入った。
「退却の合図を出す。黥布も戻せ!」
太鼓を連打させる。
蒙恬の中央が先に距離を取り、蒙凛も騎射で追手を牽制しながら後退した。楊端和の隊も遅れずに下がり始めたが、秦軍はそこへ矢を浴びせてくる。
兵が倒れる。
完全な敗走ではない。
それでも、退くには代価が必要だった。
「黥布!」
俺が叫ぶと、遠くで黥布が舌打ちした。
「いいところだったのによ!」
「次がある」
李信も追わなかった。
武器を下げ、退いていく黥布を見ながら言う。
「次まで生きていればな」
黥布が振り返った。
「そいつはお互い様だ!」
それだけ言い残し、こちらへ戻ってきた。
◆
秦軍の攻撃をかわして距離を取った頃には、数百単位の死傷者が出ていた。
致命的な損害ではない。
だが小さくもない。
李由の軍を破って二万まで増えたとはいえ、李信に正面から付き合えば、こうして確実に削られていく。
「やっぱり、まともに戦う相手じゃないな」
俺が言うと、蒙恬も頷いた。
「向こうも追撃しませんでした。私どもを潰すより、まず秦軍の包囲から遠ざけたいのでしょう」
「なら、遠ざかるふりをする」
蒙恬がこちらを見る。
「何かお考えが?」
「一か所から近づくから追い払われる」
俺は地図を広げた。
「だったら分かれる」
◆
翌日から、俺たちは軍を三つに分けて動き始めた。
一隊は黥布。
一隊は楊端和。
そして最後の一隊を俺が率い、蒙恬と蒙凛をつけた。
目的は秦軍を破ることではない。
走り回ることだった。
黥布隊が西から秦軍へ近づけば、すぐに警戒の兵が動く。しかし本格的にぶつかる前に退き、今度は離れた東側へ楊端和の隊が姿を見せる。
秦軍がそちらへ兵を向ければ、俺たちは南東から近づいた。
戦う場合も、長くは戦わない。
矢を交わし、数度ぶつかればすぐ離れる。
翌日には場所を変えた。
さらに翌日には順番を変えた。
鉅野で行ってきた遊撃戦を、もっと広い範囲で繰り返した。
「また扶蘇か」
李信は陣中で報告を聞きながら、地図を睨んでいた。
「昨日は西。今日は東。その前は南。何がしたい」
「補給を狙っているのでは?」
副将が言う。
「それならもっと甬道へ寄る。あいつらは攻撃してもすぐ退くし、こちらが追わなければそのまま消える」
李信は腕を組んだ。
扶蘇軍を追って兵を散らせば、それこそ相手の思うつぼになる。
「追うな」
「よろしいので?」
「軍を動かしすぎるな。鉅鹿の包囲を崩す方が危険だ」
李信はそう命じた。
それが、俺の狙いだった。
◆
こちらが三つに分かれて動き始めると、少しずつ秦軍の配置が見えるようになった。
どこへ近づけば李信の兵が出てくるのか。
どこからは章邯の部隊が動くのか。
どの道が甬道へ繋がり、どこに騎兵が集まっているのか。
攻撃そのものより、敵がどう反応するかを見る。
「北東側だけ、妙ですね」
ある夕刻、蒙凛が馬上から遠くを見ながら言った。
「何が?」
「こちらが近づいても、李信の軍が前へ出てきます。けれど、そのさらに後ろの部隊は動きません」
俺も目を凝らした。
確かに、北東には別の陣がある。
李信軍の後ろに隠れるような位置だった。
「もう少し近づけるか?」
「やってみます」
蒙凛が数騎だけを連れて前へ出た。
無理に接近はしない。
丘を回り込み、遠くから陣の旗を確認する。
しばらくして戻ってきた蒙凛の顔は、いつもより明るかった。
「扶蘇様」
「見えた?」
「はい」
蒙凛が大きく頷く。
「王氏の旗です」
胸が大きく鳴った。
「間違いない?」
「見間違えません。王氏の旗が、李信軍の後方にあります。それに、陣の近くで大剣を背負った女将を見たという斥候もおります」
そこまで聞けば十分だった。
俺は高台へ上り、北東を見た。
遠くに李の旗がある。
その後ろ。
さらに奥に、別の旗が小さく見える。
あそこだ。
「……いた」
ようやく分かった。
李信が俺たちを秦軍から遠ざけようとしていた理由。
俺たちが北東へ回るたび、なぜ李信の兵が素早く前へ出てきたのか。
偶然ではない。
李信の後ろに、王離がいる。
「見つけたぞ」
蒙恬も北東の陣を見つめた。
「はい」
蒙凛は拳を握っていた。
俺たちは李信を倒していない。
秦軍の包囲も崩していない。
最初の戦いでは数百の損害まで出した。
それでも、蜂のように戦場を走り回ったことで、ようやく欲しかったものを掴んだ。
王離の居場所。
そして、その前を塞いでいるのが李信であるという事実を。
俺は北東の旗を見ながら、静かに息を吐いた。
「次は、あそこへどうやって辿り着くかだな」
場所は分かった。
だが、王離までの道には、李信の軍がいる。
壁の位置が見えたからといって、壁が消えたわけではなかった。




