第81話 獅子の腹
王離の陣が、ようやく見つかった。
鉅鹿の北東、李信軍のさらに後方に王氏の旗があり、斥候からは大剣を背負った女将を見たという報告も上がっている。前話まで三隊に分かれて秦軍の周囲を走り回った甲斐はあったが、居場所を突き止めたことで、今度は別の問題がはっきりした。
俺は地図の上に置かれた駒を見つめた。
王離の前には、李信がいる。
こちらが北東へ近づこうとするたび李信軍が前へ出てきたのは偶然ではなかった。王離が俺のもとへ戻る可能性を警戒し、最初から接触させないよう位置を取っていたのだろう。
「正面から李信を破るのは難しい」
軍議の席でそう切り出すと、蒙恬も地図を見ながら頷いた。
「前回の戦いでも数百の損害が出ております。同じことを繰り返せば、こちらだけが消耗いたします」
「だから、もう正面からは行かない」
俺は章邯軍の後方から伸びる一本の線を指した。
「壁を壊せないなら、壁の中を通る」
蒙凛が眉を寄せた。
「中を、ですか?」
「甬道だ」
章邯が築いた補給路には、昼夜を問わず輜重隊が行き交っている。食糧、矢、武器、馬具など、あれだけの秦軍を維持するためには補給を止めるわけにはいかず、夜になっても荷車は動いていた。
「補給隊に紛れて中へ入る」
俺がそう言うと、蒙恬が先に意図を理解した。
「北辺の兵を使われるのですね」
「ああ。俺たちとここまで来た三千は、もともと秦の正規兵だ。軍装だけじゃない。歩き方も隊列の組み方も、誰何された時の答え方も知ってる。そこから五百を選ぶ」
その五百に俺と蒙恬が加わり、糧秣を運ぶ部隊として甬道を進む。李信軍の後方へ出られれば、そのまま北東にある王離の陣まで近づける可能性があった。
「俺たちが入る間、李信の注意を別の方向へ向けてほしい」
黥布が楽しそうに笑った。
「なるほど。俺たちが暴れてる間に、公子様は裏から女を迎えに行くってわけか」
「言い方」
「間違ってねえだろ?」
「間違ってはいないけど」
楊端和が小さく息を吐いた。
「では、私と黥布殿が夜襲を仕掛けます。ただし本格的な攻撃ではなく、李信殿の注意を引く程度に留める、ということでございますね」
「そうしてくれ。目的は勝つことじゃない。李信に『こっちが本命だ』と思わせれば十分だ」
黥布だけは少し不満そうだった。
「せっかく李信とまたやれそうなのによ」
「やってもいいけど、倒すまで付き合うな」
「向こうが逃がしてくれりゃな」
「お前が逃がさないんだろ」
返事の代わりに笑われた。
◆
潜入そのものより先に、王離へこちらの意図を知らせておく必要があった。
何も知らないまま俺たちが秦兵の姿で陣へ入り込めば、王離自身の命令で斬られる可能性すらある。そこで決行前夜、蒙凛が数騎を連れて王離の陣へ近づいた。
「この距離なら届きます」
蒙凛は普段自分が使っている矢の中から、矢羽根の組み方に特徴のある一本を選んだ。
王離と幼い頃から使っていたものではない。だが、かつて同じ陣営で戦い、互いの武を目にしてきた相手なら、蒙凛が使う矢の特徴には気づく可能性がある。
その矢へ、俺が書いた短い文を結びつけた。
王離へ。迎えに行く。
「頼む」
「はい」
蒙凛が馬上で弓を引く。
弦が鳴り、放たれた矢は夜の闇を切り裂いて王離の陣へ消えていった。
◆
矢が見つかったのは、それからしばらく後だった。
「王離将軍。陣内へこのような矢が」
兵から差し出された矢を受け取った王離は、矢羽根を見て目を細めた。
特徴のある組み方に見覚えがあった。
かつて同じ側で戦っていた頃、騎射を得意とする蒙凛が使っていた矢とよく似ている。
「……蒙凛?」
王離は周囲の兵を下がらせ、矢に結ばれた文を開いた。
そこに書かれていたのは、わずかな言葉だけだった。
王離へ。迎えに行く。
筆跡を見た瞬間、王離の呼吸が止まった。
「扶蘇様……」
何度読み返しても、文は変わらない。
扶蘇が来る。
李信の軍が間にいることを承知のうえで、それでも自分のところまで来ようとしている。
胸の奥に、押し殺してきた感情が一気に込み上げた。
函谷関で母の王賁とともに残り、その後は母を人質に取られたまま秦軍へ従った。命令されれば戦い、自分が望んでもいない相手へ剣を向けながら、それでも母を生かすためだと耐えてきた。
その自分を、扶蘇は忘れていなかった。
「……迎えに、来てくださるのですね」
声が震えた。
だが、喜びだけに浸ってはいられなかった。
王離の脳裏に、咸陽へ囚われている王賁の顔が浮かぶ。
自分が今ここで姿を消し、扶蘇のもとへ戻れば、胡亥や趙高は母をどうするだろう。娘の裏切りへの報復として処刑する可能性は、十分すぎるほどあった。
逃げたい。
戻りたい。
それでも、母を代価にはできない。
王離は文を握ったまま、長く動かなかった。
(ただ逃げるだけでは駄目です)
少なくとも、自分が秦を裏切ったと思わせるわけにはいかない。
ならば何をすればいいのか。
その答えまでは、まだ出なかった。
◆
翌夜。
李信の陣へ、火矢が飛び込んだ。
「敵襲!」
警報が上がると同時に、黥布と楊端和の部隊が二方向から攻め込む。
楊端和は陣の外側へ火を放ちながら、集まってくる秦兵を深追いせずに押し返した。一方の黥布は、囮であることを忘れたのではないかと思うほど嬉々として前へ出ている。
「出てこい、李信!」
その声に応えるように、秦軍の中央から一騎が現れた。
「また貴様か」
李信だった。
「待ってたぜ」
「私は待っていない」
前回の戦いで、互いの武はすでに知っている。
だから二度目の勝負に探り合いはなかった。
黥布の戟が重い音を立てて振り下ろされ、李信は真正面で受けず、刃を滑らせるようにして力を逃がした。そのまま半歩踏み込み、黥布の脇を狙って剣を返すが、戟の柄が横から割り込んで防ぐ。
「前より上手くなったな」
李信が距離を取った。
「お前が逃げ回るから覚えたんだよ」
「受け流しているだけだ」
「同じだろ」
黥布が踏み込むと、李信も今度は下がらず剣を合わせた。
力なら黥布が上。
だが李信は正面から力比べをせず、相手の勢いを外へ流しながら、わずかな崩れを狙ってくる。黥布も前回のように大振りを続けず、途中で軌道を変えたり石突きを使ったりして、李信の間合いを乱していた。
数合。
さらに数合。
互いに決定打はない。
「やっぱり強えな、お前」
黥布が笑った。
「貴様もな。李由を討ったのが偶然ではないことくらいは分かった」
「じゃあ次はお前を討てば、もっと王に近づくか?」
「何の話だ」
「こっちの話だ!」
また戟が振るわれる。
李信は顔をしかめながら受け流した。
夜襲は続いていたが、秦軍そのものは崩れていない。
李信もこの攻撃が本格的な突破ではないと感じ始めていた。それでも目の前に黥布と楊端和がいる以上、完全に無視して別の場所へ兵を動かすわけにもいかない。
それで十分だった。
◆
その喧騒から離れたところで、俺と蒙恬は五百の兵を率いて甬道へ近づいていた。
荷車には穀物袋と武器を積み、兵の軍装も秦のものを使っている。今回選んだ五百は全員が北辺からついてきた元正規兵であり、隊列を組む間隔や荷車の扱いまで改めて教える必要はなかった。
「いつも通りにしてくれ」
出発前に俺が言ったのは、それだけだった。
妙に秦兵らしく見せようとすれば、かえって不自然になる。
彼女たちは元々秦兵なのだから、自分たちが何年もやってきたように振る舞えばいい。
「止まれ!」
甬道の入口で、当然のように呼び止められた。
「所属を答えろ!」
先頭に立つ兵が淀みなく答える。
「北辺より回された輜重隊。前線へ糧秣を運ぶ!」
「この夜襲の最中にか?」
「だからこそだ。明朝の配給まで止めるわけにはいかぬ」
秦兵の目が荷車へ向く。
その後ろから、検め役らしい将校が現れた。
「隊長は誰だ」
「私です」
俺が前へ出る。
顔を見られれば危険なのは俺も同じなので、兜を深く被っていた。
「どこの命令だ」
「章邯将軍の輜重を預かる者より、前線の糧を絶やすなと。李信将軍の陣が襲われているのであれば、なおさら止めるわけにはいきません」
将校は俺の顔を見た後、荷車を一台ずつ確認していった。
穀物は本物だ。
その下へ武器を隠してはいるが、少し袋を開けた程度では分からない。
問題なく通れるかと思った時、将校が足を止めた。
「そこの兵」
指された先にいたのは蒙恬だった。
兜を深く被り、俯いて荷車の脇に立っている。
「顔を上げろ」
空気が張り詰めた。
蒙恬の顔を知る秦兵は多い。
ここで見られれば、五百全員が甬道の入口で囲まれる。
「そいつなら、やめておいた方がいいですよ」
俺はなるべく面倒そうに言った。
将校が振り返る。
「何だ?」
「夕方から腹を壊していまして。腐りかけた馬肉を食ったそうで、吐くわ下すわ、荷車へ乗せてもすぐ降りるわで散々です」
蒙恬の肩がわずかに動いた。
俺は気づかなかったことにして続ける。
「顔を確認されるのでしたら止めませんが、先ほど兜の中にも吐いております。かなり臭いますよ」
将校の表情が露骨に変わった。
「なぜ連れてきた」
「人手が足りないからです。置いていけるなら私だって置いていきたかった」
「……もういい。さっさと通れ」
「助かります」
俺たちは荷車を押し、甬道の中へ進んだ。
入口が見えなくなるまで、誰も余計なことは言わなかった。
十分に距離を取ってから、隣を歩く蒙恬が小さな声を出した。
「扶蘇様」
「……悪かった」
「私が何を申し上げるか、もうお分かりなのですね」
「他に思いつかなかったんだよ」
「腐った馬肉でございますか」
「説得力あっただろ?」
「後でお話がございます」
声は穏やかだった。
それが余計に怖かった。
◆
甬道の中へ入ると、外から見た以上に秦軍の補給が大掛かりなことが分かった。
木材と土で固められた通路を荷車が途切れなく進み、前線へ向かう隊と荷を下ろして戻る隊が擦れ違っていく。兵糧だけでなく、矢や槍、馬具まで運ばれており、鉅鹿を囲む大軍が長期間動き続けられる理由がよく分かった。
「これを章邯が作らせたのか」
「はい。ここを維持できる限り、秦軍は包囲を急ぐ必要がございません」
蒙恬は周囲を確かめながら歩いていた。
「ただ、今は調べるだけにしてください。破壊しようとすれば、その瞬間に正体が露見いたします」
「分かってる。目的は王離だ」
何度か別の兵と擦れ違ったが、誰もこちらを疑わなかった。
秦軍の軍装を着た兵が、秦軍の隊列で荷車を運んでいる。
それだけのことだった。
正面では、あれほど越えがたく見えた李信の軍がいる。
けれど今、俺たちはその軍と刃を交えることなく、後方の道を進んでいる。
「蒙恬」
「はい」
「王氏の陣までは?」
「このまま北東へ進み、次の分岐を右へ取れば近づけるはずです。ただし、ここからは前線の部隊が増えます。誰何も厳しくなるでしょう」
「ここまで来たんだ。行こう」
蒙恬が頷いた。
五百の兵も、何も言わず荷車を押し続ける。
王離は、この先にいる。
李信の壁を壊すことはできなかった。
ならば、壊さず通ればいい。
俺たちは秦軍の腹の中を、静かに北東へ進んでいった。




