第79話 鉅鹿
鉅鹿。
張耳と陳余が守るこの城は、秦の大軍によって幾重にも包囲されていた。
城の周囲を直接囲んでいるのは、王離らが率いる秦軍。その後方には章邯の大軍が控え、さらに李信の軍勢も加わっている。兵の数だけでも圧倒的だったが、章邯はそれだけに頼らず、後方から大量の兵糧と武器を運び込むための長大な甬道まで築いていた。
木材で骨組みを作り、その上から土を被せた長い通路が、まるで巨大な隧道のように秦軍の後方へ延びている。その中を荷車が絶え間なく往来し、城を囲む軍へ食糧を送り続けていた。
秦軍には、急いで城を落とす必要がない。
補給を絶やさず包囲だけ続けていれば、先に力尽きるのは鉅鹿の方だった。
「今日も、動かないな」
城壁の上から遠方を見つめながら、張耳が呟いた。
視線の先には、趙の救援に駆けつけた諸侯の陣がある。燕や斉をはじめ、秦に反旗を翻した各地の軍勢がすでに集まり始めていたが、どの軍も秦軍から距離を取り、陣を構えたまま動こうとしない。
「……あれだけの軍が集まっているのにな」
陳余も苦い表情を浮かべた。
彼女たちが臆病なのだと責めることは簡単だった。
だが城壁から見ても、秦軍の包囲はあまりに巨大だった。最初に飛び込んだ軍が章邯や王離の標的となり、他の諸侯が見ている前で潰される可能性は十分にある。
だから誰も最初に動かない。
援軍は来ているのに、鉅鹿は孤立したままだった。
◆
その夜。
灯りの乏しい物見櫓で、張耳と陳余は二人きりになった。
昼間は将として兵の前に立ち、食糧の残量を確認し、諸侯への使者を送り続けている。だが二人だけになると、互いに疲れを隠す必要もなかった。
「……もう長くは保たないかもしれない」
張耳が静かに言うと、陳余はその手を握った。
「諸侯が動かなければ、な」
「怖いか?」
陳余はしばらく黙った後、握った手へ少し力を込めた。
「私は死ぬ覚悟くらいしている。だが、お前が死ぬのを見るのは嫌だ」
張耳は何も言わず、陳余の頬へ手を添えた。
「私も同じだ」
乱世を生き、趙を再興するために戦い続けてきた二人だった。互いが戦場で死ぬ可能性など、ずっと前から分かっていたはずなのに、いざその時が間近に迫ると覚悟だけではどうにもならなかった。
「……生きたいな」
「ああ」
「お前と生きたい」
張耳は陳余を抱き寄せた。
陳余もその背へ腕を回し、強く抱き締め返す。やがて二人の唇が重なり、明日には失われるかもしれない互いの温もりを確かめるように、しばらく離れなかった。
「最後にはしない」
唇を離した陳余が囁く。
「なら、二人で生き残ろう」
張耳が答えると、陳余はその胸へ額を預けた。
城外では、その間にも秦軍の荷車が甬道を進んでいた。
◆
その翌日。
鉅鹿の南方へ、新たな軍勢が姿を現した。
俺たちだ。
鉅野を発った時には一万ほどだった軍も、北上する途中で各地の秦兵を受け入れ、さらに李由の二万を破った後、その残兵の一部まで加えたことで、およそ二万まで増えている。
だが、鉅鹿へ到着した俺は、そんな二万という数字を一瞬忘れた。
「……これは」
高台から見下ろした光景に、言葉が続かなかった。
遠くに鉅鹿の城が見える。
その周囲を秦軍の陣が取り囲み、さらにその後方にも別の陣が連なっていた。陣と陣の間を兵が行き交い、その外には馬や荷車が並び、後方へ目を向ければ長大な甬道が地を這うように延びている。
俺が想像していたより、はるかに大きい。
「城を囲む軍と、後方で支える軍を分けていますね」
隣で蒙恬が目を細めた。
「あの甬道が補給路か」
「おそらくは。あれだけの軍を長期間維持するつもりなのでしょう」
章邯らしい戦い方だった。
城壁へ兵を何度もぶつける必要はない。外へ逃げられないよう包囲し、食糧だけ絶やさなければ、時間そのものが秦軍の味方になる。
そして、秦軍のさらに外側にも無数の旗があった。
「……あれが全部、救援に来た軍か?」
黥布が呆れたように言った。
「そうらしい」
「随分と遠くにいるな」
黥布の言葉通りだった。
燕、斉、楚をはじめとする諸侯の陣があちこちに布かれているものの、どこも秦軍へ近づこうとしていない。それなりの数が集まっているにもかかわらず、巨大な包囲網の外側で互いの様子を窺っているだけだった。
俺はしばらく、その奇妙な戦場を見続けた。
前世で鉅鹿の戦いを知らなかったわけではない。
むしろ、この後に何が起きるのかまで知っている。
それでも歴史書の中にある「諸侯は秦軍を恐れて進まなかった」という一文と、実際にこれだけの軍勢が集まりながら誰も動けない光景とでは、受ける印象がまるで違った。
「二万で正面から入る場所じゃないな」
俺が言うと、蒙恬も頷いた。
「はい。敵の配置も分からぬまま攻めれば、包囲されるのはこちらでしょう」
黥布が不満そうに鼻を鳴らした。
「俺なら一か所くらい破れるぞ」
「破った後、秦軍全部に囲まれても帰ってこられるなら考える」
「……それはちょっと面倒だな」
「だろ」
さすがの黥布も、目の前の規模を見て無茶を言い切る気にはならなかったらしい。
◆
その日の夕刻、幕舎に主だった者を集めた。
蒙恬、蒙凛、楊端和、黥布。
卓上には、斥候がこれまでに集めた情報だけを記した簡単な地図を広げている。だが秦軍の陣があまりに広いため、まだ空白だらけだった。
「ここへ来た目的を改めて話しておく」
俺は皆の顔を見た。
「鉅鹿で秦軍と戦う可能性はある。でも、俺がまずやりたいのは別のことだ」
地図の秦軍側へ指を置く。
「王離を探す」
蒙凛の表情が変わった。
王離とは、幼い頃からともに過ごしてきた仲だ。
そして函谷関では、俺たちを逃がすため、母である王賁とともに残った。
「王離は自分の意思で胡亥に従ったわけじゃない。王賁を人質にされているから、李信のもとで戦わされている」
蒙恬が静かに頷いた。
「あの時、王離殿と王賁殿が残らなければ、私どもは函谷関を抜けられなかったでしょう」
「ああ。だから今度は俺たちが助けたい」
蒙凛もすぐに言った。
「私も賛成です。王離殿を、このまま秦軍で戦わせたくありません」
「問題は、どこにいるのか分からないことだ」
地図を見れば一目で分かる。
秦軍の包囲は広すぎた。
旗が見えたとしても、それが本人の本陣とは限らないし、王離の軍が城のどの方角を受け持っているかもまだ分からない。
「斥候を増やす」
俺は地図の周囲へ指を動かした。
「一隊に大勢は要らない。二人か三人で組ませて、できるだけ多く出す。秦軍の外側だけじゃなく、諸侯の陣にも人を送って情報を集めてくれ」
「調べるものは?」
楊端和が尋ねる。
「最優先は王氏の旗。それから王離の特徴だ。大剣を使う女将がどの辺りで見られたか、捕虜や商人からも聞いてほしい。ついでに李信と章邯の本陣、甬道の出入口、各軍の受け持ちまで分かればありがたい」
「かなり広く探ることになりますね」
「だから数を出す。ただし、見つかるくらいなら何も掴まず帰ってこい。斥候を使い捨てるつもりはない」
「承知いたしました」
蒙恬が答えると、蒙凛もすぐに立ち上がった。
「私も騎兵から斥候を選びます。王氏の旗なら、私たちが一番見慣れていますから」
「頼む」
黥布だけは、まだ地図を見ながら腕を組んでいた。
「で、王離って奴を見つけたら、どうするんだ?」
「それは見つけてから考える」
「敵陣へ乗り込んで攫うのか?」
「お前はすぐそれをやりたがるな」
「一番早えだろ」
「この包囲網の中では一番死ぬのも早い」
俺が答えると、黥布は残念そうに肩を竦めた。
まずは探す。
戦うのはその後だ。
◆
日が落ちる頃から、斥候たちは次々に陣を離れていった。
農民の衣に着替えて街道へ向かう者もいれば、馬を使って遠くから秦軍の旗を確認する者もいる。諸侯軍の陣へ入り、どの秦将がどこにいるという噂が流れているのかを探る者もいた。
俺たち二万は、その間動かなかった。
周囲の諸侯と同じように秦軍を恐れて立ち止まったわけではない。
何も分からないまま突っ込まないために、待っている。
夜になり、高台から秦軍を見ると、昼以上にその大きさが分かった。
無数の篝火が鉅鹿を囲み、その後ろでも灯りが連なっている。そのどこかに、王離がいる。
(待ってろ)
声には出さなかった。
(今度は、こっちが探しに行く)
函谷関で残された借りを、まだ返していない。
そのための戦いが、まず静かに始まった。




