第78話 試金石
鉅鹿へ向けて北上を始めると、街道沿いの郡県は想像以上に荒れていた。役人が逃げたまま戻らない県、徴税用の倉を焼かれた邑、反乱軍と秦兵が何度も奪い合った末に門だけが残った城まであり、秦の統治が各地で細く途切れ始めているのが分かった。
行政が完全に消えた土地では、地元の里長や豪族が勝手に秩序を保っていた。盗賊を追い払う者も、田畑の境を決める者も、税をどうするか話し合う者も、それまでなら役所が担っていたことを自分たちで処理している。
「この辺りの県令も、二月前に郡治へ逃げたまま戻っていないそうです」
蒙恬から報告を受け、俺は人気のない役所を見た。
「守備兵は?」
「百余り残っております。ただ、俸禄も補給も止まり、周辺の民から食糧を借りながら持ちこたえているとのことです」
大沢郷から始まった反乱は、もう反乱軍だけの問題ではない。郡県に残された秦兵の多くも疲れ切っており、反乱が起きれば出兵し、戻れば城や倉を守り、また別の場所へ回される。その一方で中央から届くのは、章邯の大軍が平定するまで耐えよという命令ばかりだった。
そのため、俺たちの旗を見た時の反応は土地ごとに大きく違った。
◆
「逆賊扶蘇を通すな!」
ある県では城門を閉ざし、壁上へ弓兵を並べてきた。
そういう相手とは戦った。とはいえ、城を焼いてまで攻める必要はない。外へ出てきた兵を叩き、補給路を押さえ、指揮官が降伏すればそこで止める。武器を捨てた兵まで追って殺すことは許さなかった。
逆に、こちらの旗を見ただけで門を開く県もあった。
ある小城では百人ほどの秦兵が城外へ整列し、俺が近づくと隊長が前へ出て膝をついた。
「公子扶蘇様で間違いございませんか」
「そうだ」
「我らを御軍へ加えていただきたく存じます」
「俺は今、秦から逆賊と呼ばれている。それでもいいのか」
「承知しております」
隊長は少し疲れたように笑った。
「我らは始皇帝陛下の時代から秦兵として仕えてまいりました。しかし今は県令も逃げ、俸禄も届かず、反乱を鎮めよという命令だけが届いております。そこへ公子扶蘇様が生きておられるという噂が広まりました」
後ろの兵たちも黙ってこちらを見ている。
「どちらが正しい秦なのか、我らにはもう分かりません。ただ、誰に従うかを自分で決めたいのです」
俺は少し考えてから頷いた。
「分かった。来るなら受け入れる。ただし、俺が正統な皇帝だと言うつもりはない。今の胡亥と趙高の政権を倒すために戦う。それでもいいなら来てくれ」
「それで十分でございます」
その県からは百余りが加わり、別の県からは三百、小さな郡の駐屯地からは五百ほどがこちらへ来た。抵抗する者とは戦い、合流を望む者は受け入れながら進んでいくうちに、軍は少しずつ膨らんでいった。
◆
増えた兵をどう動かすかについては、蒙恬と早めに相談した。
「新しく加わった兵を細かく分けて混ぜるのは、かえって動きが悪くなると思います」
蒙恬は地図の上へいくつか駒を置いた。
「北辺の兵、鉅野で加わった者、黥布殿の刑徒、途中で合流した秦兵では、それぞれ指揮官も戦い方も違います。今から全部を組み替えても、互いの癖を覚える前に戦になります」
「俺もそう思う。それぞれ今までのまとまりは残そう」
「はい。その代わり、合図だけは共通にいたしましょう。前進、停止、後退、左右への転進、それと集合。この程度であれば短期間でも覚えられます」
「旗と太鼓で十分だな」
細かな動きは各隊の指揮官へ任せる。
全員を同じ兵にする必要はない。
太鼓が鳴れば進み、旗が変われば止まり、退却の合図が出ればそれぞれの隊で下がる。それだけでも、何も決めずに寄せ集まっているよりはずっといい。
「つまり、俺の連中は俺のままでいいんだな?」
横から黥布が口を挟んできた。
「基本はな」
「よし」
「ただし合図は守れ」
「分かってるって」
「俺が退けと言ったら?」
黥布は少し考えた。
「……退く」
「今の間は何だ」
「いや、敵の大将が目の前にいたら惜しいなと思ってよ」
「そこを我慢しろ」
蒙凛が吹き出し、楊端和も僅かに口元を緩めた。
今の俺たちに必要なのは、全員を同じ形へ揃えることではなく、違う集団を同じ方向へ動かすことだった。
◆
二万の秦軍が街道を塞いでいるという報告が入ったのは、その数日後だった。
斥候から戻った蒙凛は、馬を降りるなり俺のところへ来た。
「扶蘇様。前方に大きな秦軍がおります。数はおよそ二万、こちらの進路を塞ぐ形で布陣しております」
「章邯の軍じゃない?」
「旗が違います。李の旗です」
それを聞いた楊端和が顔を上げた。
「李由ではないでしょうか」
「知っているのか?」
「李斯殿の子にございます。母とは異なり、文ではなく武を選んだ者で、郡兵を率いていたと聞いております」
その名なら俺にも覚えがあった。
李斯の子でありながら、朝廷ではなく地方で兵を率いる道を選んだ将。
「こっちを待ってる?」
「間違いないかと。迂回を許すつもりもなさそうです」
蒙恬が地図へ目を落とした。
「こちらも途中で兵を加えておりますが、まだ一度もこの編成で大きな戦をしておりません」
「相手は二万。ちょうど試されるな」
「できれば、もう少し穏当な相手で試したかったところですが」
まったくだった。
◆
翌朝、両軍は街道沿いの平地で向かい合った。
秦軍は中央を厚くし、左右にも歩兵を並べた堅実な陣だった。地方に残っていた兵とは思えないほど整っており、少なくとも指揮系統はしっかりしている。
中央に立つ李の旗から、一騎が前へ出た。
李由だった。
俺より年上で、顔立ちのどこかに李斯の面影はある。しかし鎧の上からでも身体が鍛えられているのが分かり、文官だった母とはまるで違う雰囲気だった。
俺も護衛だけを連れて前へ出る。
「公子扶蘇様」
李由は俺を見て、小さく頭を下げた。
「久しくお目にかかっておりません」
「覚えていたのか」
「母とともに咸陽へ参った折、何度かお見かけしております」
「なら話は早い。道を開けてくれないか」
李由は迷わず首を振った。
「できません」
「今の秦に、それでも従う?」
「私は秦の将です」
声は静かだった。
「地方におります私には、咸陽で起きたことのすべては分かりません。偽詔だったという話も、公子扶蘇様が反逆したという命令も届いております。どちらが真実なのか、自分に都合のよい方だけを選ぶことはできません」
「だから俺と戦う?」
「兵を預けられた以上、それが私の役目です」
李斯の子だからといって、母と同じ考えを持っているわけではない。
むしろ、ひどく武人らしい男だった。
「こちらへ来る気はない?」
「ございません」
「そうか」
俺は馬首を返した。
「なら戦場で決めよう」
「承知しました」
◆
自陣へ戻ると、それぞれの隊へ役割だけを伝えた。
「蒙恬は中央。蒙凛は左から騎射で敵を削ってくれ。楊端和は右翼を任せる」
「承知いたしました」
「全体の合図は昨日までに決めた通り。細かいところは各隊で判断してくれ」
最後に黥布を見る。
「俺は?」
「後ろで待機」
「またかよ」
「お前の隊は予備だ。敵がどこかへ兵を寄せたら、その隙を突いてもらう」
「最初から突っ込んだ方が早えだろ」
「それで敵の真ん中に取り残されたら助けに行くこっちが困る」
黥布は不満そうに鼻を鳴らしたが、最後には戟を肩へ担いだ。
「分かった。呼ばれるまで待ってやる」
「頼む」
「その代わり、呼んだら止めんなよ」
「状況による」
「細けえなあ」
それくらいでちょうどいい。
◆
戦は秦軍の弩から始まった。
矢を浴びせた後、李由は歩兵を急がせず、こちらの陣へ少しずつ圧力をかけてきた。中央では蒙恬の兵が受け止め、左では蒙凛が騎馬で距離を取りながら矢を射込み、右翼の楊端和も正面から無理に出ずに敵の動きを見ている。
旗と太鼓の簡単な合図だけでも、今のところ各隊は迷わず動いていた。
李由も、その程度のことはすぐに見抜いたらしい。
しばらくすると秦軍の騎兵が左へ回り、蒙凛の騎射隊を追い始めた。蒙凛が無理に付き合わず距離を取ると、その空いた場所へ秦歩兵が圧力をかけ、こちらの左翼を押し込もうとする。
左へ意識が向いたところで、秦軍中央も前へ出た。
「なるほど」
李由はこちらの隊が別々のまとまりで動いていることを理解し、その間を広げようとしていた。
「左はそのまま退いていい。中央は動かすな」
旗を出し、太鼓を鳴らす。
蒙凛は騎兵を引きつけながら下がり、蒙恬の中央は踏みとどまった。だが秦軍が左と中央へ兵を寄せたことで、その分だけ本陣の前が薄くなっている。
「公子!」
待ちきれないという声が後方から聞こえた。
黥布だった。
「もういいだろ!」
俺も同じ場所を見ていた。
十分だ。
「黥布!」
「おう!」
「李の旗まで行けるか!」
黥布は一度だけ敵陣を見て、笑った。
「最初からそう言え!」
前進の合図を出した。
黥布隊が動く。
◆
最初に盾を構えた秦兵が、盾ごと後ろへ弾き飛ばされた。
黥布の戟が横から叩き込まれ、隣にいた兵まで巻き込んで倒れる。秦兵はすぐに槍を並べたが、黥布は足を止めず、戟で穂先を払いながら正面へ踏み込んだ。
力が強いだけではない。
横から来る槍には石突きを当て、身体を僅かに捻って斬撃を外し、相手が一瞬でも体勢を崩せばその隙へ迷わず入っていく。荒々しく見えるのに、無駄な動きが少なかった。
そして一度前へ出ると、ほとんど速度が落ちない。
周囲の刑徒たちも、その背を追っている。
「……あれは」
隣にいた蒙恬が珍しく言葉を止めた。
「俺も強いとは知ってたけど」
目の前で見ると、予想以上だった。
秦軍が黥布を止めようと中央から兵を回し始める。
その分、こちらを押していた圧力が弱くなった。
「中央、前へ」
太鼓が鳴る。
蒙恬の隊が押し返し、左では蒙凛が追ってきた騎兵から距離を取ったまま再び矢を浴びせる。右翼の楊端和も旗を見て攻勢へ移った。
それぞれの隊が違う戦い方をしている。
それでも今は、同じ敵へ向いていた。
◆
「突出した敵を囲め!」
李由が本陣から命令を飛ばした。
正しい。
黥布は明らかに前へ出すぎている。
左右から包めば孤立する。
だが、黥布本人は囲まれる前に李の旗を見つけていた。
「いたな!」
進む方向が変わる。
一直線に李由へ向かった。
「黥布、行きすぎるな!」
俺が叫んでも、もう届いているか分からない。
ただし退却の合図はまだ出していない。
ここは任せるしかなかった。
李由も逃げなかった。
周囲の兵へ下がるよう命じると、自ら長槍を手に取って前へ出た。
「お前が李由か!」
「そうだ!」
「公子の前を塞いだ大将なら、俺が討つ!」
先に槍を出したのは李由だった。
穂先が真っ直ぐ胸へ伸びたかと思うと、直前で軌道を変えて首を狙う。黥布が戟で弾いても、すぐに引いて二撃目へ繋げ、間合いを保ったまま連続して攻め込んでいった。
母の李斯とは違う。
李由は紛れもない武人だった。
何度も槍を突き込み、戟を大きく振らせる隙を与えない。技量だけを見れば、李由の方が整っているようにさえ見えた。
五度目の突きで黥布は避けなかった。
槍先が肩の鎧を削る。
その傷と引き換えに一気に間合いを詰めた。
「何っ!」
長槍を引く前に、戟の柄が李由の脇腹へ入る。李由はよろめきながらも槍を短く持ち替え、そのまま正面から打ち返した。
武器がぶつかる。
李由の足が後ろへ滑った。
「ぐっ!」
「いい腕だな!」
黥布は笑っていた。
次の一撃で槍を弾き上げ、そのまま戟を返す。
刃が李由の胸元へ入った。
血が流れても、李由は倒れなかった。
「まだだ!」
最後の力で槍を突き出す。
黥布は半歩だけ横へずれた。
槍が脇を抜ける。
すれ違うように振られた戟が、李由の身体を深く捉えた。
李由はその場に膝をついた。
槍を地面へ突き、もう一度立とうとしたが、身体が言うことを聞かなかった。
「母上……」
最後に小さくそう呟き、前へ倒れた。
◆
李の旗の下で李由が倒れたことは、すぐに周囲へ伝わった。
秦軍の動きが乱れ、持ち場を離れる兵が出始める。
「今だ。全軍、前へ!」
太鼓が続けて鳴った。
それぞれ別の隊だった兵たちが同時に前進し、秦軍は押し戻される。しばらく抵抗は続いたが、将を失ったまま立て直すことはできず、やがて大きく退き始めた。
「深追いするな! 武器を捨てた者は斬るな!」
今度は後退を止めるための旗を出した。
最初に止まったのは蒙恬の隊で、楊端和もそれに合わせた。蒙凛は少し先まで敵騎兵を追った後、旗を確認して馬首を返した。
最後まで前へ行こうとしていたのは、やはり黥布だった。
連打された太鼓を聞いてようやく止まり、露骨に残念そうな顔で振り返る。
少なくとも、合図は守った。
◆
二万の秦軍は散り、かなりの兵が武器を置いた。
負傷者の手当てと捕虜の整理を任せた後、俺は蒙恬のところへ向かった。
「どうだった?」
「各隊の動きは揃っておりませんでしたが、合図は届いております。今の軍であれば、無理に細かく統一するより、この方がよろしいでしょう」
「俺もそう思う」
できないことまで求める必要はない。
今日はこちらが前へ出す時、止める時、退く時を共有できただけで十分だった。
そこへ大きな声が飛んできた。
「公子!」
振り返る前から誰か分かった。
黥布が戟を担いで歩いてくる。肩には槍で削られた傷があるが、本人はまるで気にしていない。
「見ただろ!」
「見たよ」
「俺が敵の大将を討った!」
「ああ」
「二万の軍を率いてた大将だぞ!」
「それも知ってる」
黥布は満面の笑みを浮かべた。
「これなら王になれるだろ?」
隣にいた蒙凛の顔が固まった。
楊端和は黙って視線を逸らし、蒙恬だけが何も言わずこちらを見ている。
「……黥布」
「何だ?」
「二万の大将を一人討っただけで王になれるなら、天下は王だらけだ」
「駄目なのか?」
「駄目」
「じゃあ何をすりゃいいんだよ」
「少なくとも、国一つ取るくらいの手柄を立ててから言え」
言ってから失敗したと思った。
黥布の目が輝いた。
「国一つだな?」
「今のは例えだ」
「言ったな、公子!」
「だから例えだって」
「よし。次は国だ!」
「話を聞け!」
黥布は腹を抱えて笑った。
俺は苦笑するしかなかった。
戦場での武は、文句のつけようがない。
問題は、その武で本当に国まで取ってきそうなところだった。
◆
夕刻、俺は李由の遺体を見に行った。
鎧を外され、傷を整えられた姿には、戦っていた時の厳しさはもう残っていない。
李斯の子だった。
だから特別扱いするというわけではないが、雑に埋める気にもなれなかった。
「丁重に葬ってくれ」
「かしこまりました」
蒙恬が答える。
「それと、咸陽へ伝えられるなら伝えてほしい。李由は逃げずに戦って死んだ、と」
「李斯殿へ、でございますね」
「ああ」
それ以上は言わなかった。
翌朝、負傷者を残し、降った兵のうちこちらへ加わることを望んだ者を新たな一隊としてまとめると、俺たちは再び北へ向かった。合図だけは同じものを教え、指揮は元の隊長たちへ任せた。
行軍が始まって間もなく、前方から黥布の声が響いた。
「公子! 次はどこの国を取る!」
「国を取るために進んでるんじゃない!」
周囲から笑いが起こった。
鉅鹿は、もう遠くなかった。




