第77話 黥面の豪傑
鉅鹿へ向かうと決めたからといって、一万の兵を率いてそのまま北へ進めばいいわけではなかった。
鉅鹿を囲んでいるのは、章邯、李信、そして王離の秦軍である。正確な兵数までは掴めていないが、少なくともこちらの一万とは比較にならない規模であり、俺たちが鉅野で行ってきたような小規模な遊撃戦とは事情が違う。
何より、俺には鉅鹿で確かめたいことがあった。
王離を救えるのか。
母である王賁を人質に取られ、望んでもいない秦軍で戦っているあの子を、このまま歴史の流れに任せていいとは思えなかった。だが救うにしても、今の俺たちには敵陣へ手を伸ばすだけの力が足りない。
だから北へ向かう前に、一人だけ会っておきたい男がいた。
「黥布、ですか」
俺がその名を口にすると、蒙恬は聞き覚えがないという顔をした。
「ああ。驪山の労役から逃げた刑徒たちをまとめている男らしい」
「刑徒を?」
「数は四千ほど。それに、どういう経緯か監視に当たっていた秦兵も千ほど一緒にいるという話だ」
蒙凛が眉を寄せた。
「囚人と監視していた兵が一緒にいるのですか?」
「俺も詳しいところまでは分からない。ただ、その集団をまとめているのが黥布だ」
俺が知っている黥布は、この程度のところで終わる人物ではない。
後には楚漢の争いに深く関わり、武勇をもって諸侯の一角にまで上り詰める男だ。俺の知る流れなら、やがて項羽のもとへ加わり、その武を振るうことになる。
なら、その前に会う。
歴史の上では項羽が得るはずだった将を、俺が先に迎える。
ただ、それだけで味方になるとは考えていなかった。
名のある人物だから会いに行けば喜んで従うなどという都合のいい話がないことくらい、ここまで嫌というほど思い知らされている。
◆
黥布の一団が根城としていたのは、街道から外れた山間だった。
到着して最初に目についたのは、武器を持った男や女ではなく、道路を補修している者たちだった。粗末な衣を身につけた者が石を運び、その横では弓を手入れする者がおり、さらに奥には奪ったものらしい秦軍の甲冑まで積まれている。
盗賊の巣にしては妙に統制されていた。
「止まれ!」
こちらの姿を認めた見張りが声を上げると、周囲の者たちがすぐ武器を取った。こちらが大軍を連れてこなかったこともあり、即座に戦闘にはならなかったが、歓迎されていないことだけは十分に伝わってくる。
今回、俺が連れてきたのは蒙恬、蒙凛、楊端和と少数の護衛だけだった。
一万を連れて現れれば、それだけで脅迫になる。
仲間にしたい相手へ、最初から剣を突きつけるような真似はしたくなかった。
「公子扶蘇だ。黥布に会いたい」
名乗った途端、周囲が騒がしくなった。
「扶蘇?」
「死んだんじゃなかったのか」
「いや、鉅野にいるって話は聞いたぞ」
疑いと興味が入り混じった視線を浴びながら待っていると、人垣の奥が割れた。
現れた男を見て、俺はすぐに黥布だと分かった。
大柄だった。
李信ほどではないにせよ、この世界の男としてはかなり鍛えられた身体をしている。腕も太く、歩き方にも妙な隙がない。
そして何より目を引くのは、顔に刻まれた文字だった。
黥刑。
罪を犯した者の顔へ消えない印を刻む刑罰である。
この世界では男そのものが希少だ。
多くの男は家や一族から保護され、子を残すことを期待される。その中で黥布は、男でありながら顔へ罪人の印を刻まれ、刑徒として驪山へ送られた。
それだけで、この男が普通とは違う道を歩いてきたことが分かる。
「へえ」
黥布は俺を見るなり、口の端を上げた。
「本物みてえだな」
「たぶんな」
「たぶん?」
「自分で本物だと言い張るしか証明する方法がないからな」
黥布はしばらく俺の顔を見た後、声を上げて笑った。
「秦の公子ってのは、もっと偉そうに喋る生き物だと思ってたぜ」
「昔はそうだったかもしれない」
「今は違うってか?」
「今は秦から逆賊扱いされてる。偉そうにしても笑われるだけだろ」
周囲の刑徒から小さな笑いが漏れた。
黥布はそれを止めなかった。
「それで、その秦の公子様が、こんな罪人の巣まで何しに来た」
「お前を誘いに来た」
笑っていた黥布の目が僅かに細くなった。
「俺のところへ来てくれ。兵も含めてだ」
俺がそう告げると、今度は笑わなかった。
◆
「帰れ」
返事は簡単だった。
蒙凛が少し眉を動かしたが、俺は手で制した。
「理由くらい聞いてもいいか?」
「聞く必要があるのか?」
黥布は自分の顔を指で叩いた。
「これが答えだ」
刻まれた黥。
「俺はな、貴人って奴が嫌いなんだよ」
黥布の声から、さっきまでの軽さが消えた。
「お前らは俺を見て二つの顔をする。俺が男だと知れば、珍しい獣でも見るみてえに扱う。女をあてがうだの、子を作れだの、男なんだから守ってやるだの、頼みもしねえことを勝手に言いやがる」
その指が、今度は自分の顔の黥をなぞった。
「だが、こいつを見た途端に態度が変わる。罪人だ、下賤だ、近寄るなってな。面白えだろ。希少な男様と罪人、どっちも俺なのによ」
黥布は笑ったが、その笑い方には愉快さがなかった。
「俺が強いと分かれば、また寄ってくる。『その武を貸せ』『手柄を立てれば罪を許してやる』『女も土地もくれてやる』。結局、どいつも同じだ。俺自身に興味があるわけじゃねえ。男の身体か、俺の腕か、どっちかが欲しいだけだ」
なるほど。
俺が想像していたより、ずっと面倒な男だ。
でも、嫌いにはなれなかった。
「じゃあ俺も同じだな」
俺が答えると、後ろで蒙恬が僅かにこちらを見た。
黥布も意外そうな顔をする。
「何?」
「俺もお前の武が欲しくて来た。それは否定しない」
「……随分あっさり認めるじゃねえか」
「ここで『俺だけは違う、お前自身を見ている』なんて言っても気持ち悪いだろ。今日初めて会ったんだから」
一瞬の沈黙の後、周囲で何人かが吹き出した。
黥布も目を丸くしている。
「俺はお前の名前を知っていて、強いと聞いた。だから力を貸してほしいと思って来た。それ以上でも以下でもない」
「だったらやっぱり同じじゃねえか」
「そうだな。でも、だからといってお前の顔の黥を見て、急に話を変えるつもりもない」
俺は黥布の顔を真正面から見た。
罪人の証。
一生消えない烙印。
この男自身がどれほど気にしていようと、周囲はもっと強くそこへ意味を押しつけてきたはずだ。
「お前が何の罪で黥を入れられたのか、俺は知らない」
「聞かねえのか?」
「仲間になるならいずれ聞くかもしれない。でも、今ここで俺が知りたいのは、昔何をして捕まったかじゃない」
「じゃあ何だ」
「これから何をするつもりなのかだ」
黥布の表情から、完全に笑みが消えた。
「ここで四千人を食わせ続けるのか。秦兵から逃げ続けるのか。それとも、自分の武で別のものを取りに行くのか。それを聞きに来た」
しばらく黥布は答えなかった。
◆
「面白えこと言うな」
やがて黥布は近くの岩へ腰を下ろし、自分の膝へ肘を置いた。
「じゃあ逆に聞くぞ。お前は何を取りに行く」
「今は鉅鹿だ」
「その先だ」
「分からない」
即答すると、黥布が眉を上げた。
「天下を取る、とでも言うと思ったか?」
「公子様ならそのくらい言うと思うだろ」
「残念ながら、俺は一度五十万を失ってる。簡単に天下なんて言えるほど、自分を信用してない」
函谷関で崩れた軍を思い出す。
集まった数を力だと思った。
秦を倒せると思った。
その結果、周文を死なせ、数えきれないほどの兵を失った。
「今の目的は、俺を殺そうとした今の秦の政権を倒すことだ。その途中で、助けたい奴もいる。だから鉅鹿へ行く」
「その後は?」
「その時考える」
「行き当たりばったりじゃねえか」
「否定はしない」
今度こそ黥布は腹を抱えて笑った。
「ははっ! お前、本当に秦の公子かよ。天下国家の大義を一席ぶつと思ったら、分からねえだの、その時考えるだの」
「分からないものを分かってるふりするよりいいだろ」
「そいつは違いねえ」
笑いながらも、黥布の目はこちらを測り続けていた。
言葉だけで信用されるとは思っていない。
この男は、たぶん何度も言葉に裏切られてきた。
だから俺も、無理に信用させようとは思わなかった。
「俺から言えるのは一つだ。来るなら兵として扱う。男だから後ろで子作りでもしてろなんて言わないし、顔に黥があるから下に置くつもりもない。強ければ相応の仕事を任せるし、失敗すれば責任も取ってもらう」
「随分と愛想のねえ誘い文句だな」
「待遇を良く言って騙しても、後で揉めるだけだからな」
「なるほどねえ」
黥布は顎を撫でながら、俺の後ろへ視線を移した。
蒙恬。
蒙凛。
そして、最後に楊端和。
そこで目が止まった。
「そこの女、見覚えがあるな」
楊端和の身体が僅かに強張る。
「元秦将の楊端和だろ。確かお前を裏切ったって聞いたぜ」
「ああ」
「それでも横に置いてんのか」
「まだ許してない。でも働くと言ったから、働いてもらってる」
黥布はしばらく楊端和を眺め、それから俺へ視線を戻した。
「罪人でも使うってのは、口だけじゃねえらしいな」
「本人を目の前にして言うなよ」
「私は罪人にございます。お気遣いなく」
楊端和が静かに返すと、黥布はまた笑った。
「変な軍だな、お前のところ」
「それは否定できない」
◆
そこで黥布の表情が変わった。
「だがな、公子。まだ一つ問題がある」
「何だ?」
「俺は女に興味がねえ」
「……は?」
話が急に別の方向へ飛んだ。
俺が意味を理解するより先に、黥布は楽しそうにこちらを見た。
「男が少ねえだろ、この世の中。だからどこへ行っても女を宛がわれる。抱け、子を作れ、血を残せってな。だが俺にはどうにもその気が起きねえ」
嫌な予感がした。
後ろで蒙恬が無言になったのが分かる。
「俺が好きなのは男だ」
「……そうか」
「おう。それも、強くて肝の据わったいい男がいい」
黥布の目が俺を上から下までゆっくり眺める。
「で、お前は結構いい」
蒙凛の手が腰へ動いた。
「待て、蒙凛」
「ですが扶蘇様」
「まだ何もされてない」
「これからされそうなのですが」
それは俺もそう思う。
黥布は俺たちのやり取りを面白そうに眺めながら、さらに続けた。
「俺を欲しいんだろ、公子。なら条件がある」
「一応聞こう」
「一晩、俺に付き合え」
今度こそ完全に意味が分かった。
背後で剣が半分ほど鞘から抜ける音がした。
「蒙凛、戻せ」
「嫌です」
「戻してくれ」
もう一つ、別の鞘からも音がする。
「楊端和も」
「申し訳ございません。こちらは反射でございます」
最後に蒙恬を見ると、剣こそ抜いていなかったが、一番怖い顔をしていた。
「黥布殿。その条件だけはお取り下げください」
「嫌だね。俺が何を条件にしようが俺の勝手だろ?」
「扶蘇様がお望みになられるのであれば話は別ですが」
蒙恬の声が一段低くなる。
「望まれないのであれば、これ以上の無礼は許しません」
「蒙恬、大丈夫だから」
俺は額を押さえた。
前世で黥布について学んだ時、こんな情報は一文字もなかった。
(いや、そりゃそうだろうけど)
歴史書は人物のすべてを記録してくれるわけではない。
今さらながら、当たり前の事実を妙な形で思い知らされた。
黥布は明らかにこちらの反応を楽しんでいる。どこまで本気なのかは分からないが、少なくとも俺が怒り出すか、貴人らしく侮辱されたと騒ぐかを試している部分もありそうだった。
「分かった」
俺は考えた末に答えた。
「条件を変えよう」
「ほう?」
「お前が王になれるくらいの手柄を立てたら、その時に考える」
周囲が静かになった。
黥布が目を瞬かせる。
「……王?」
「ああ。どうせならそのくらいやってみろ。天下に名前を知られるくらいの手柄を立てて、自分の国を持てるほどになったら、その時もう一度聞いてやる」
「それまでは?」
「却下だ」
数呼吸の沈黙の後、黥布が突然腹を抱えた。
「はははははっ!」
大声が山間へ響いた。
「何だそれ! 断ってんのか約束してんのか、どっちだ!」
「俺にも分からん」
「逃げ道を残しやがった!」
「いきなり一晩よこせと言ってきた奴に言われたくない」
黥布はしばらく笑い続けていたが、やがて息を整えると、さっきまでとは違う目で俺を見た。
◆
「公子」
「何だ」
「やっぱり、お前は変だな」
「今日だけで何回目だ、それ」
「俺がこの顔で貴人に近づけば、大抵は目を逸らされる。男だと分かれば今度は女みてえに囲っておこうとする奴もいる。俺が男を好むと言えば、気味悪がる奴もいた」
黥布は、自分の顔へ刻まれた黥に触れた。
「お前はどれもしねえんだな」
「好きな相手が男だろうが女だろうが、それはお前の勝手だろ。俺を抱きたいって話は別だけど」
「そこは駄目か」
「今はな」
「王になったら?」
「その話を蒸し返すな」
また笑いが起こった。
今度は黥布だけではなく、周囲の刑徒たちも笑っていた。
だが、その笑いが収まると黥布は俺の前まで歩いてきた。
「俺はずっと、俺を使おうとする奴が嫌いだった」
近くで見ると、顔の黥は思った以上に深く刻まれていた。
「だが考えてみりゃ、俺だって同じだな。ここにいる連中は俺が強いからついてきた。俺もこいつらが戦えるから面倒を見てる。人間なんざ、互いに使い合って生きてんのかもしれねえ」
「たぶんな」
「だったら、一つだけ違いがありゃ十分か」
「何が?」
「使い捨てるかどうかだ」
俺は黥布を見る。
「俺は使い捨てない、と約束するつもりはない」
「おい」
「戦なら死ぬことはある。俺の判断を間違えて死なせることだってあるかもしれない。実際、俺はそうやって大勢を死なせた」
ここだけは綺麗な言葉で誤魔化したくなかった。
「だから、絶対に死なせないなんて約束はできない。でも、男だからとか、罪人だからとか、そういう理由でお前の命を軽く扱うつもりはない」
黥布は黙っていた。
「俺から言えるのは、それだけだ」
「……十分だ」
やがて返ってきた声から、さっきまでの軽薄さが消えていた。
黥布は腰に差していた武器を外すと、それを地面へ置き、俺の前で片膝をついた。
「俺は王だの天下だのには、今のところ大して興味はねえ。ただ、自分の腕がどこまで通じるのかは知りたい。そして、お前の行く先なら退屈もしなさそうだ」
顔を上げる。
「黥布、お前についていく。この武が必要だってんなら、好きに使え」
「助かる」
「ただし」
「まだあるのか?」
「約束は忘れんなよ」
「王になってから言え」
「ははっ! 言ったな!」
しまった。
さっきより条件が確定してしまった気がする。
背後から蒙恬の視線が刺さっていた。
振り返らないことにした。
◆
黥布が俺のもとへ来ると決めても、四千の刑徒たちまで無条件で従うとは限らなかった。
だから俺は、その場にいた者たちへ同じ話をした。
「黥布が来るから、お前たちも来いとは言わない。残る者も、去る者も自由だ。ただ俺の軍へ入るなら、これまで何の罪を犯したかだけで扱いを決めるつもりはない」
さすがに殺人や略奪まで不問にするわけにはいかない。それでも秦の法は細かく、罪を得て労役へ送られた者の全員が、今なお重い罪人として扱わなければならない者とも思えなかった。
「軍に入った後で罪を犯せば、その時は裁く。それまでは兵として扱う。働いた者には食糧を出し、手柄を立てた者には相応に報いる。嫌ならここを去っていい」
刑徒たちは互いの顔を見た。
最初に前へ出たのは、長く黥布と行動していた者たちだった。
「頭が行くなら、俺も行く」
「俺もだ。どうせ秦の役人に捕まれば、また驪山送りだ」
「それなら公子様について秦と戦った方がましだ」
一人が動くと、次が続いた。
全員ではない。
数百人は、その場で別れる道を選んだ。
それでよかった。
無理に連れていけば、いざ戦になった時に逃げるだけだ。
意外だったのは、最後まで離れたところに集まっていた秦兵たちだった。
千ほどいる彼女たちは、もともと刑徒を監視する立場だった者たちであり、今でも秦軍の装備を残している。黥布たちが脱走した後も複雑な事情から行動をともにしてきたというが、俺へ従うことは正式に秦へ背くことを意味する。
その中から、年嵩の女が一人進み出た。
「公子扶蘇様」
「何だ」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「我らは秦兵です。二世皇帝陛下より逆賊とされているあなた様に従えば、我らも反逆者となります。それでも、あなた様は秦へ戻るおつもりなのですか」
少し考えた。
「戻る、という言葉が正しいかは分からない」
秦をそのまま取り戻せばいいとは、もう思っていない。
「ただ、今の胡亥と趙高の政権を認めるつもりはない。あれを倒すためなら秦軍とも戦う」
「秦そのものを滅ぼすのですか」
「それも今は決めてない」
女は意外そうな顔をした。
「決めておられない?」
「俺が今ここで『新しい秦を作る』とか『六国すべてを解放する』とか言っても、言葉だけだろ。まず今の政権を倒さなきゃ何も始まらない。その先は、その時に俺が持っているものを見て決める」
壮大な答えではない。
けれど、今の俺にはそれしか言えなかった。
女は少し考えた後、周囲の秦兵たちへ振り返った。低い声で相談が始まり、やがて何人かが頷く。
再びこちらを向いた時、彼女は膝をついた。
「ならば、我らもお供いたします」
「いいのか?」
「我らが忠誠を誓った秦は、民を際限なく労役へ駆り立て、罪人を増やし続けるための国ではありません。少なくとも私は、そう信じて兵になりました」
周囲でも次々と秦兵が膝をついていく。
「始皇帝陛下の御子である公子扶蘇様が今の秦を正すと仰るなら、この身をお預けいたします」
全員が残ったわけではなかった。
それでも大部分は俺たちへ加わることを選んだ。
◆
その日の夕方、蒙恬とともに新たに加わった兵の数を確認した。
刑徒のうち去った者もおり、秦兵にも離脱を選んだ者がいる。元ネタのようにきっちり五千人全員が一度に俺へ従ったわけではないが、それでも軍勢は一万四千を大きく超え、まもなく一万五千へ届こうとしていた。
「急に増えた兵を、そのまま戦場へ連れていくわけにはいきません」
蒙恬は名簿を確認しながら言った。
「分かってる。まず部隊を組み直そう。北辺の三千を核にして、刑徒だけ、元秦兵だけで固めすぎない方がいい」
「はい。黥布殿のもとの者は土地での戦いには慣れておりますが、集団での用兵は改めて確認する必要がございます」
「本人も含めて?」
「特に本人を」
少し離れたところで、黥布が数人を相手に戟を振るっていた。
武は確かに強い。
ただ、見るからに一人で突っ込みそうな男でもある。
「……あれ、俺が拾って大丈夫だったかな」
「お決めになった後で仰らないでください」
蒙恬が呆れたように答えた。
そこへ蒙凛が歩いてくる。
「扶蘇様」
「何だ?」
「一つだけお願いがございます」
「嫌な予感がするけど、聞こう」
「黥布殿と二人きりにならないでください」
「まだ気にしてたのか」
「当然です」
「俺だって気をつけるよ」
「何をですか」
「……何をだろうな」
自分で言ってから分からなくなった。
蒙凛はますます不満そうな顔をしたが、その向こうでは楊端和まで小さく笑っていた。
妙な男が加わった。
だが、その武は間違いなくこれから必要になる。
俺は改めて北へ目を向けた。
鉅鹿では、章邯、李信、王離の軍が趙を包囲している。その外側には諸侯が集まり、さらに宋義と項羽の楚軍も北へ近づいている。
歴史に残る大戦が始まるまで、もう長くはない。
だからこそ急がない。
増えた兵を軍としてまとめ、黥布がどんな男なのかを知り、俺たち自身も戦う準備を整える。
五十万を一度に手にして、それを力だと思い込んだ失敗は繰り返さない。
今度は、一人ずつ、一隊ずつ、自分たちの力にしてから進む。
そうして迎える次の戦場が、鉅鹿だった。




