第76話 大河へ
定陶で項梁を討ち取った後、章邯は敗走する楚軍を深追いしなかった。
狙っていた敵将を討った以上、勝利に酔って兵を散らす必要はない。むしろ楚軍が混乱している間に自軍をまとめ直し、各地で反乱鎮圧に当たっていた秦軍と合流した方が、次の戦いでは遥かに大きな力になる。
章邯が次に目を向けたのは北だった。
楚だけが秦へ反旗を翻しているわけではない。旧趙の地にも再興を掲げる勢力が生まれ、秦の郡県を脅かしている。このまま放置すれば、各地の反乱軍が互いに援け合い、秦軍は東西南北へ兵を分け続けなければならなくなる。
「楚は項梁を失いました。立て直すには時間がかかるでしょう。その間に北を片づけます」
軍議で章邯がそう告げると、諸将にも異論はなかった。
間もなく章邯軍は北へ進み、別方面で反乱鎮圧を続けていた李信の軍勢と合流した。その中には、かつて函谷関で俺たちを逃がすために戦い、その後は母親を人質に取られて秦軍へ戻ることを強いられた王離の姿もあった。
「次は趙か」
進軍する兵列を眺めながら、李信は短く言った。
「そうなります」
章邯は馬上から北を見たまま答えた。
「趙を放置すれば、その背後には燕や斉の残党まで動きかねません。ここで潰しておくべきでしょう」
王離は二人の会話を黙って聞いていた。
秦の将として戦うことそのものには迷いがある。現在の皇帝胡亥へ忠誠を誓った覚えはないし、何より自分がここにいるのは、咸陽で囚われている母の王賁を生かすためだった。
それでも軍中で露骨に逆らうことはできない。
自分が逃げれば、その代償を払うのは母なのだから。
「王離」
李信に呼ばれ、王離は顔を上げた。
「先鋒を任せる。できるな」
「……承知しました」
答えは短かった。
李信はその顔をしばらく見たものの、何も言わなかった。自分に心から従っているわけではないことなど、最初から承知している。ただ、命令に従って戦う限りは将として扱う。それが李信のやり方だった。
こうして章邯、李信、王離の軍勢は北へ向かった。
その先にあるのは、再び趙を名乗った勢力だった。
◆
秦軍の進撃は速かった。
定陶で楚軍を破った勢いを保ったまま北へ入った章邯軍に加え、別方面から李信と王離が圧力を加えると、趙軍は広い範囲を守ることができなくなった。各地の拠点を捨てながら後退を続け、最後には主力が鉅鹿へ集まることになった。
城の外には秦兵の陣が広がり、日に日に包囲は厚くなっている。
城壁の上からそれを眺めていた張耳は、長い間何も言わなかった。
「増えたな」
「ええ」
隣に立つ陳余が答えた。
二人は趙を再興する戦いの中で長く行動をともにしてきた恋人同士だった。戦場では互いを将として扱いながらも、危機に陥った時ほど相手を失う恐怖を強く意識する。
「東も秦軍、西も秦軍。南へ抜ける道も、もう簡単には使えない」
張耳が苦い顔で言うと、陳余は城外の秦陣から視線を外さなかった。
「まだ城は落ちていない」
「今はな。でも、このままでは食糧が先に尽きる。秦軍が急いで攻める必要はないんだ」
張耳の言葉は正しかった。
鉅鹿の守りが堅いなら、秦軍は無理に城壁へ兵をぶつける必要がない。包囲を続けて食糧を断ち、援軍が来ないことを城内へ見せ続ければ、やがて兵も民も消耗していく。
「援軍を求めよう」
陳余が言った。
「楚へ?」
「楚だけじゃない。助けを出せる勢力には全部使者を送る。今ここで趙が潰れれば、次に秦軍がどこへ向かうか分からないと伝えるんだ」
「来てくれると思うか」
「来させる」
陳余はそこで初めて張耳を見た。
「私はまだ、お前とここで死ぬつもりはない」
張耳は少しだけ笑った。
「私もだよ」
二人の手が城壁の陰で重なった。
趙のために戦うという大義がある。それでも最後に人を動かすものは、大義だけではないことを二人とも知っていた。
その日のうちに、鉅鹿から複数の使者が出発した。
最も強く救援を求められたのは、楚だった。
◆
項梁を失った楚では、鉅鹿からの救援要請を前に、連日のように評定が開かれていた。
趙を見捨てれば、秦は北方を平定した後に再び楚へ全力を向けるかもしれない。だから救援そのものに反対する声は多くなかったが、問題は誰に軍を預けるかだった。
誰もが意識している人物がいた。
項羽である。
楚軍随一の武を持ち、すでに多くの戦場で秦兵を破っている。何より章邯は叔母である項梁を討った仇であり、本人も出陣を強く望んでいた。
「私に兵をください」
評定の席で、項羽は楚王心へ頭を下げた。
「章邯を討ちます。趙も救ってみせます」
かつて羊飼いだった少年は、今では王の衣を身につけて諸将の上座に座っている。しかし心にとって、目の前の項羽は頼もしい将であると同時に、無視できないほど大きな力を持ち始めた存在でもあった。
項梁が存命だった頃は、項氏の軍事力と楚王の権威が釣り合っていた。
だが、その項梁はもういない。
もしここで項羽へ楚軍の全権まで与え、その項羽が章邯を破って趙を救えば、軍中で誰が最も大きな力を持つことになるのか。若い心にも、それくらいは分かった。
「上将軍には、宋義を任じる」
評定の場がざわめいた。
項羽も、すぐには言葉を返せなかった。
「……私ではなく?」
「宋義を上将軍とし、項羽には次将として従ってもらう。趙を救援し、秦軍と戦え」
項羽は拳を強く握った。
叔母を殺した章邯がいる。
自分なら討てると思っている。
それなのに楚軍の指揮権を与えられたのは、自分ではなかった。
「理由をお聞きしても?」
「楚は一人の力だけで成り立つ国ではないからだ」
心は項羽の視線から逃げずに答えた。
「そなたの武を疑っているわけではない。だが上将軍は、戦場で敵を斬るだけの役目ではない」
その言葉は、奇しくも項梁が死の直前に項羽へ残したものと似ていた。
怒りだけで戦うな。
敵を倒すことと、国を背負うことは違う。
使者から叔母の遺言を聞いたばかりの項羽には、その言葉を無視することもできなかった。
「……承知しました」
不満が消えたわけではない。
それでも項羽は頭を下げた。
「趙を救います」
その声の奥にある怒りを、范増は黙って聞いていた。
◆
楚の評定では、もう一つ重要な決定が下された。
趙を救う北方軍を出す一方で、秦本国へ圧力をかけるため西へも軍を進める。その方針が決まった時、楚王心は諸将を前に一つの約定を示した。
「先に関中へ入り、咸陽を降した者を、関中の王とする」
場が静まった。
秦の本拠である関中を手に入れるというだけでも大きな功績だが、今の言葉はそれ以上の意味を持つ。秦が滅びた後、その中心地を誰が支配するのかまで楚王が先に約束したのである。
北へ向かうのは上将軍宋義と次将項羽を中心とした楚軍主力。
では西へ向かうのは誰か。
「沛公劉邦。そなたには西へ進んでもらいたい」
名を呼ばれた劉邦は、少し意外そうな顔をした。
「俺が?」
「秦軍の主力は北へ向かっている。各地の勢力を取り込みながら西へ進み、関中を目指せ」
劉邦はしばらく考えてから、隣にいる張良へ視線を向けた。
「どう思う?」
「王の御前で私に聞くのですか」
「だって、お前の方が頭いいだろ」
張良は小さく息を吐いたものの、止めろとは言わなかった。
「悪い命令ではありません。秦軍の主力と正面から戦うより、兵を増やしながら西へ進む方が私たちには向いています」
「じゃあ決まりだな」
劉邦は楚王心へ向き直った。
「西へ行く。咸陽まで行けるかは知らねえけど、やれるところまでやってみるよ」
あまりに軽い返事に周囲の将の何人かが眉をひそめたが、張良だけは何も言わなかった。
劉邦は大言壮語をしない。
できないことをできるとも言わない。
しかし、人を使いながら進めるところまで進んでしまう男であることを、張良はすでに知っていた。
こうして楚の軍勢は、二つの方向へ分かれることになった。
項羽は北へ向かい、章邯と対峙する。
劉邦は西へ向かい、秦の本拠である関中を目指す。
この時点では、まだ誰も二人がやがて天下を争うことなど知らない。
◆
その頃、鉅野の俺のところにも各地から報告が集まり始めていた。
項梁が定陶で討たれた。
章邯は北上し、李信、王離と合流した。
趙軍は鉅鹿へ追い込まれ、楚王心は救援軍を送ることを決めた。その総大将は項羽ではなく宋義であり、項羽はその下についたという。
さらに劉邦が別動隊を率いて西へ向かった。
報告を聞き終えた俺は、卓上の地図へ目を落とした。
北の鉅鹿。
西へ向かう劉邦。
そして、その間にいる俺たちの鉅野。
(来たか)
知っている流れだった。
少なくとも、大きな形では。
鉅鹿では、この後に項羽が秦軍と激突する。
船を沈め、釜を壊し、退路を断って戦う。
その戦いによって項羽は諸侯に自分の武を認めさせ、一気に反秦勢力の中心へ躍り出ることになる。
そして西では劉邦が関中を目指す。
前世で学んだ楚漢戦争へ繋がる二つの流れが、目の前で形になり始めている。
「何か気になることがございますか」
地図を眺めていた俺へ、蒙恬が声をかけた。
「鉅鹿だ」
「趙を救援する楚軍ですか?」
「それもある。でも秦軍の方が気になる」
俺は章邯軍の位置へ指を置いた。
「王離がいる」
蒙恬の表情が少し変わった。
蒙凛も黙って地図を見る。
「王離殿は、望んで秦軍にいるわけではございません」
「分かってる。王賁を人質に取られてるからな」
だからこそ放っておけない。
前世の記録にある鉅鹿の戦いが大筋で同じように進むなら、王離の軍もその激戦へ巻き込まれることになる。
俺が何もしなければどうなるか。
それを知っているからといって、未来がそのままになる保証はない。
けれど、危険が迫っていると分かっていながら何もしない理由にもならなかった。
「鉅鹿へ行くおつもりですか」
楊端和が尋ねた。
俺はすぐには答えず、地図を見た。
今の俺たちには一万ほどの兵がいるが、章邯や楚軍の主力と正面からぶつかれる力はない。函谷関で五十万を失ったばかりなのに、ここでまた数だけを頼りに大戦へ飛び込めば同じことを繰り返す。
「一万で章邯と正面から戦うつもりはない」
俺は答えた。
「でも、何もしないつもりもない。鉅鹿の周辺まで動いて、まず戦況を見る」
蒙恬が頷いた。
「補給線を狙うのであれば、今まで鉅野で行ってきた戦い方も使えます。秦軍が大軍を集めているなら、必要とする食糧も膨大でしょう」
「それも考えてる」
俺は地図の上で鉅野から北へ指を動かした。
「それに、王離と話せる機会があるなら話したい。救えるかどうかは分からないけど、最初から諦めるつもりはない」
蒙凛が少しだけ笑った。
「扶蘇様らしいですね」
「褒めてる?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「また危ないところへ行くのか、です」
隣で蒙恬が静かに頷いている。
どうやら親子で意見は一致しているらしい。
「だから正面からは戦わないって言ってるだろ」
「扶蘇様の場合、その御言葉が最後まで守られるかが問題なのでございます」
蒙恬にそう返され、俺は何も言えなくなった。
それでも決めた。
「兵に準備をさせよう。全部を一度に動かす必要はない。先に斥候を北へ出して、秦軍と楚軍の位置を調べる」
「承知いたしました」
蒙恬が立ち上がり、蒙凛もその後に続いた。
楊端和も頭を下げる。
「私も斥候の選定をお手伝いいたします」
「頼む」
皆が動き始める中、俺はもう一度地図を見た。
項羽は北へ。
劉邦は西へ。
章邯、李信、王離は鉅鹿に集まりつつある。
そして俺も、鉅野に留まり続けるつもりはなかった。
函谷関を出た時には、俺が知っていた歴史から完全に放り出されたように感じていた。
今では少し考えが違う。
未来が同じかどうかを当てることに意味はない。
知っていることがあるなら参考にする。違っているなら、その場で考え直す。それだけだった。
俺には今、一万の兵がいる。
蒙恬がいる。
蒙凛がいる。
罪を抱えながら、それでもこちらで戦うことを選んだ楊端和もいる。
五十万を率いていた時より、できることは少ないかもしれない。
それでも今の方が、自分が何をするべきかは見えていた。
「行こう」
地図の上にある鉅鹿へ指を置いた。
「次は北だ」
楚と秦が激突し、天下に項羽の名が轟くことになる戦場へ。
俺たちもまた、動き始める。
第三章 群雄割拠 了




