第75話 定陶
定陶に布陣した楚軍には、長く続いた勝利が兵たちの自信となって広がっていた。会稽で挙兵した頃とは比べものにならないほど軍勢は膨れ、旧楚の豪族や武人も続々と馳せ参じている。各地で秦軍を破るたびに楚再興を疑う声は小さくなり、今では秦を倒す反乱勢力の中心は自分たちだと信じる者さえ少なくなかった。
なかでも項羽が出陣した戦場での勝利は凄まじかった。人並み外れた膂力を持つ項羽が先頭に立てば、秦軍の陣形は力ずくで押し崩され、味方の兵はその背を追うだけで勢いを増していく。叔母である項梁自身、姪が戦う姿を見るたび、幼かった少女がここまで育ったことを誇らしく思っていた。
だからこそ、項梁は自分が油断しているとは考えていなかった。
「西へ退いた秦軍ですが、本日も大きな動きはございません。斥候の報告では、さらに距離を取っているようです」
幕舎へ戻ってきた将の報告を聞きながら、項梁は卓上の地図へ視線を落とした。相手は章邯。驪山の囚徒を兵に変えて函谷関へ迫った反乱軍を破り、その後も各地で秦に背いた勢力を潰してきた女将である。
「追わなくて結構です。斥候はこれまで通り出し、夜の見張りも減らさないでください。章邯が完全に退いたと確認するまでは、こちらから隙を見せる必要はありません」
命令そのものに誤りはなかった。しかし将が退出した後、項梁の思考はすぐに秦軍から離れ、次にどの土地を押さえるか、どの豪族を味方へ引き込むか、楚王心のもとへ集まり始めた諸将をどうまとめるかへ移っていった。
秦軍は依然として強い。
それでも、もはやかつて六国を滅ぼした頃の秦ではない。各地で反乱が起こり、郡県の統制も揺らぎ、秦軍を破ったという報告も珍しいものではなくなった。
項梁の中で、秦はいつの間にか「恐れる敵」から「いずれ倒す敵」へ変わっていた。
◆
その夜、眠りにつく前の項梁は、軍議で使った地図を一人で眺めていた。
楚の勢力は広がった。しかし兵が増えれば、それだけ異なる思惑を持つ者も加わってくる。今は勝利が全員を一つにまとめているものの、一度大敗すれば昨日まで楚王を称えていた者が離反することもあり得るため、戦場で勝つこと以上に勝った後の軍をどう保つかを考えなければならなかった。
いずれ自分一人では支えきれなくなる。
その時、誰に楚を託すのか。
考えるまでもなかった。
(項羽……)
幼い頃から普通の子ではなかったが、戦場へ出るようになってから、その異質さはますます際立っていた。敵の厚い場所へ突っ込んでいるように見えて、実際には一番崩れやすい場所を見つけていることがあり、そこへ自らの圧倒的な武を叩き込むことで軍全体を瓦解させてしまう。
戦うことに関しては、もはや自分より上かもしれない。
ただし、天下は戦場だけではなかった。
昨日まで敵だった者を味方にすることもあれば、気に入らない相手の意見を聞かなければならない時もある。勝った相手を皆殺しにするより、生かして使う方が利益になる場合もあり、自分より弱い者を従わせることと、その者たちから心まで得ることはまったく違う。
項羽には、それをまだ十分に教えられていない。
(だから、まだ私が必要なのよね)
項梁はこれまでそう考えてきた。
自分が楚王心を支え、諸将をまとめ、国としての形を作る。その間に項羽には戦場で経験を積ませ、やがて自分が老いた頃に、兵も土地も人も整えた状態で渡せばいい。
自分自身が王になる必要などなかった。
楚を再び立たせ、項羽が天下へ進める土台を残せれば、それで自分の役目は果たせると思っていた。
その考えに至ると、決まって遠い昔の光景が蘇った。
秦によって楚が滅ぼされた、あの日だった。
◆
城外まで秦軍が迫り、もはや抗戦しても城を守りきれないことが明らかになった夜、項燕は最後まで残ることを選んだ。
若かった項梁はともに戦うと訴えたが、項燕は聞き入れなかった。自分が死ぬことよりも、項氏の血がここで絶えることを恐れていたのである。
『項氏の血を絶やしてはならぬ。とりわけ、項羽を生かせ。あの子には大きなものが宿っている』
当時の項羽はまだ幼かった。それでも周囲の大人たちが取り返しのつかない別れをしようとしていることは分かったらしく、泣き出しそうな顔で祖母を見上げていた。
項燕はそんな孫娘の頭へ手を置き、滅亡を目前にした者とは思えないほど強い眼差しで言った。
『たとえ三戸になろうとも、秦を亡ぼすのは楚だ。その者は、お前かもしれぬ。生きよ、項羽。生きて強くなれ』
あの言葉を、項梁は一度も忘れたことがない。
その夜、項梁は項羽を連れて城を脱出した。馬上から振り返ると、故郷には火の手が上がっており、その炎の向こうに項燕と、滅びようとする楚が残されていた。
自分だけ逃げたのではないかと悩んだことは何度もある。だが、項羽を生かし、いつか楚を蘇らせることこそが項燕から与えられた役目だと信じてきたからこそ、秦の監視を逃れながら人脈を作り、資金を蓄え、反秦の機会を待ち続けることができた。
そして今、楚王は再び立った。
楚の旗のもとに兵も集まった。
あの日に生かされた項羽は、秦兵に恐れられるほどの将へ成長した。
(母上。ようやく、ここまで来ました)
あと少しだと、項梁は思っていた。
もう少し秦を弱らせ、もう少し楚の基盤を固め、もう少しだけ項羽へ教えることができれば、自分が果たすべき役目は終わる。
その「もう少し」が残されていないことを、この時の項梁は知らなかった。
◆
同じ夜、章邯の軍も動いていた。
松明の数を減らし、声を抑えながら進む秦兵たちは、かつて驪山から連れ出された囚徒の集団とは別物になっている。幾度もの戦闘を経験したことで、命令されるまで武器を抜かず、暗闇の中でも隊列を大きく乱さず進める程度には鍛えられていた。
出陣前、章邯は諸将に今回の目的を明確に伝えていた。
「楚軍全体を壊滅させようとしてはいけません。狙うのは一人、項梁だけです。周囲の部隊が退いても深追いせず、本陣へ兵を集中させてください」
項羽の武は脅威である。
だが楚をここまで大きくしたのは、項羽の武だけではない。散らばっていた反秦勢力をまとめ、楚王心を擁立し、豪族や旧臣を一つの旗のもとへ集めた項梁こそが、現在の楚軍を軍として成立させている。
「項羽を討ったとしても、項梁が残れば新しい将を立て、また兵を集めるでしょう。しかし項梁を失えば、項羽が生きていたとしても、今と同じ形で楚軍をまとめることはできません」
ならば、強い刃ではなく、その刃を振るう腕を斬る。
章邯はそう判断していた。
何より、楚軍は勝ち続けている。
勝利は兵を強くする一方で、次も勝てるという思い込みを生む。斥候は出ている。見張りもいる。それでも一人一人の兵が本気で今夜敵が来ると思っていなければ、警戒は形だけのものになる。
章邯が狙ったのは、その僅かな緩みだった。
◆
項梁が最初に異変へ気づいたのは、西側の陣から短い喊声が聞こえた時だった。
直後に武器のぶつかる音が響き、幕舎の外を何人もの兵が駆けていく。寝床から身体を起こしたところへ将が飛び込んできたため、項梁は鎧を身につけながら報告を聞いた。
「秦軍が西の柵を破りました! すでに陣内へ入っております!」
「数は分かりますか?」
「まだ確認できません。暗闇の中から次々と現れております!」
「西へ予備隊を回してください。ただし全部を動かしてはいけません。南の退路を確保し、各隊には持ち場を離れないよう伝えてください。本陣へ勝手に集まらせないこと」
矢継ぎ早に命令を出して外へ出ると、すでに複数の天幕から火が上がっていた。
秦兵が計画的に放ったものばかりではない。慌てた兵が倒した松明から天幕へ火が移り、その炎を見た別の兵が本陣まで破られたと思い込んで逃げ始めている。
将たちは必死に持ち場へ戻れと叫んでいたが、夜襲によって視界も情報も奪われた兵たちは、それぞれが勝手な判断で動いていた。
そこで項梁は、ようやく自分の思い違いに気づいた。
兵が増えたことを、軍が強くなったことと同じだと思い始めていた。
楚の旗を掲げれば人は集まる。
勝てばさらに増える。
しかし、その全員が同じ訓練を受け、混乱の中でも一つの命令で動けるわけではない。
(私が、勝つことに慣れすぎた)
後悔している時間はなかった。
すでに秦軍は本陣へ迫っている。
◆
項梁が剣を抜いて本陣へ留まると、それを見た楚兵たちも少しずつ落ち着きを取り戻した。逃げかけていた兵の一部が戻り、近くの将も手勢をまとめ直したことで、最初に突入してきた秦兵を押し返すことには成功した。
しかし、秦軍は退かなかった。
一隊が押し返されれば次の一隊が前へ出て、周囲の楚兵が逃げても追わず、本陣へ向けてだけ圧力をかけ続ける。陣全体を焼き払おうともせず、兵を広げようともしないその動きを見ているうちに、項梁は相手の狙いを理解した。
(私を殺すための夜襲なのね)
その瞬間、むしろ頭は冷えた。
章邯は楚軍全体と戦うつもりがない。自分一人を討てば、この軍が今まで通りには動けなくなると判断している。
悔しいが、間違ってはいなかった。
楚王心はいる。
項羽もいる。
しかし各地から集まった諸将の利害を調整し、旧楚の豪族たちをまとめ、王と将の間を繋いでいるのは自分だった。
(見抜かれた)
秦軍が弱くなったのではない。
こちらが、相手を弱いと思い始めていただけだった。
「総帥、お下がりください!」
部下の声とほぼ同時に槍が迫り、項梁は剣で穂先を逸らして踏み込んだ。敵兵を斬り伏せたところへ次の兵が迫り、その攻撃を味方が受け止める。
乱戦の中で脇腹へ槍先を受けた。
鎧の隙間を掠めただけだったが、その一瞬の隙を守るために前へ出た楚兵が斬られ、項梁の目の前で倒れた。
「ここに居続ければ、総帥を守るために兵が死にます!」
その言葉で決断した。
「本陣を捨てます。旗を下ろし、兵をいくつかに分けて南へ退かせてください。私の周囲へ集まりすぎないように」
自分がここにいる限り、章邯は兵を集中させる。
ならば姿を隠し、軍を分散させるしかない。
ただ、項梁にはすでに嫌な予感があった。
ここまで狙いが明確なら、章邯が退路に何も用意していないはずがない。
◆
予想した通り、南へ退こうとした項梁の一隊は、待ち構えていた秦兵と衝突した。
暗闇の中で狭い道へ両軍が入り乱れ、剣戟と怒号が続く。項梁を逃がそうとする兵は必死に前へ出たが、そのたびに秦兵へ阻まれ、一人また一人と地面へ倒れていった。
項梁自身も剣を振るったが、肩へ深い傷を負い、さらに脚を斬られると動きが目に見えて鈍くなった。部下が支えようとしたものの、敵の狙いが自分である以上、一か所へ兵を集めればそのまま包囲されるだけだと分かっている。
「私を囲わないでください。動ける者は分かれて南へ抜けなさい」
「しかし、総帥を置いてはいけません!」
「全員がここで死んだら、誰が項羽へ知らせるのです」
その名前を口にした途端、胸の奥にこれまで押し込めていた思いが溢れた。
自分はここで死ぬかもしれない。
秦をまだ倒していない。
楚王心を立てたとはいえ、新しい楚の基盤は脆く、諸将も完全にはまとまっていない。
それでも一番の心残りは、国でも兵でもなかった。
(項羽に、まだ教えていないことが多すぎる)
自分が死んだと知れば、あの子は怒る。
章邯を討つことしか考えなくなるかもしれない。
そして、その怒りのまま戦って勝ってしまう可能性すらある。
それが項羽の強さであり、同時に項梁が最も恐れていたところでもあった。
勝ててしまう者は、自分のやり方が間違っていることに気づきにくい。
項羽には誰より強い将になってほしかった。
だが、ただ強いだけの人間になってほしかったわけではない。
◆
項梁は近くにいた若い兵を呼び寄せた。
「あなたは、まだ走れますか?」
「はい。ですが総帥をここへ置いてなど」
「なら、項羽のもとへ行ってください。私が死んだ場合に備えて、伝えてほしいことがあります」
兵が何か言おうとしたが、項梁は遮った。
「私が死ねば、あの子は怒りに任せて章邯を討とうとするでしょう。それを止めろとは言いませんし、止められるとも思っていません。ただ、怒りだけで戦うなと伝えてください」
血を失った身体で息を整えながら、項梁は言葉を続けた。
「敵を倒すことと、国を背負うことは違います。自分より弱い者の話を聞き、気に入らない相手でも必要なら使い、勝った後に誰を生かすかまで考えなければならない。自分の力だけで何でも決められると思うなと、そう伝えてください」
「その御言葉は、総帥ご自身でお伝えください」
「私もそうしたいですよ」
項梁は苦笑した。
「まだ叱り足りないことが山ほどありますからね」
幼い頃、学問を放り出して武器を振り回していた項羽を何度叱っただろう。
成長してからも、人の話を最後まで聞けと何度言っただろう。
そんな日々が、もう戻らないかもしれない。
「だからこそ、あなたに頼むのです。私はあの子の強さを誰より信じています。でも、強いことと正しいことは同じではない。それを忘れないように伝えてください」
兵は涙を堪えながら、深く頭を下げた。
項梁は数人を護衛として付け、暗闇の中へ送り出した。
その背を見送ってから、残った兵へ向き直る。
もう逃げるためではなく、逃がすために戦う時だった。
◆
「総帥、まだ道を探せば」
「いいえ。私が動けば秦兵も動きます。ここで引きつけましょう」
隣に残った楚兵はしばらく黙った後、傷だらけの顔で笑った。
「ならば、お供いたします。我らは楚の兵ですから」
その言葉を聞いた瞬間、項梁の胸に項燕の声が蘇った。
『たとえ三戸になろうとも、秦を亡ぼすのは楚だ』
これまで項梁は、自分がその言葉を実現するのだと思っていた。自分が楚を蘇らせ、自分が兵をまとめ、そのまま秦を倒すところまで進まなければならないと考えていたのである。
だが、項燕は「お前が秦を滅ぼせ」とは言わなかった。
楚が秦を滅ぼすと言った。
(そういうことだったのですね、母上)
自分が死んでも楚は終わらない。
楚王心がいる。
范増もいる。
ここまで育った楚軍があり、各地には秦を憎む者たちがいる。
そして項羽がいる。
もしかすると自分の役目は、最後まで走り切ることではなかったのかもしれない。
滅びた楚の火を守り、兵を集め、項羽を育て、次へ渡す。
それならば、ここで終わったとしても無駄ではない。
(あとは、あなたが選びなさい。項羽)
秦を滅ぼすだけの将になるのか。
それとも、その先まで背負える人間になるのか。
その答えを見ることができないのは、やはり悔しかった。
◆
秦兵が再び押し寄せると、項梁は残った兵たちとともに迎え撃った。
負傷した身体で敵の槍を剣に滑らせ、その懐へ入って斬りつける。肩の傷から流れる血で腕は重く、脚にも力が入らなくなっていたが、自分が戦っている限り秦兵の目はここへ向き、逃がした者たちが生き延びる可能性は高くなる。
何人目の敵だったかも分からなくなった頃、横から入った刃が脇腹を深く裂いた。
膝が崩れた。
それでも地面へ剣を突き、もう一度立ち上がろうとしたが、指から少しずつ力が失われていく。
霞み始めた視界の中に浮かんだのは、幼い少女ではなかった。
自分より遥かに大きく育ち、戟を手に戦場を駆ける今の項羽だった。
(もっと教えたかった)
戦い方ではない。
あの子なら、戦い方など自分が教えなくても覚える。
(もっと、人の上に立つということを教えたかった)
項梁の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。
(母上があなたを私へ託したように、今度は私があなたへ託します)
楚を。
兵を。
まだ終わっていない、この戦いを。
(だから、生きなさい。項羽)
最後まで心に残ったのは、一つだけだった。
(強さだけに、呑まれないで)
項梁の手から剣が滑り落ちた。
会稽で挙兵し、楚王を再び立て、滅びた楚を乱世へ呼び戻した女は、定陶の夜にその生涯を終えた。
◆
夜が明ける頃、秦軍は楚軍の本陣を制圧した。
焼け残った天幕の間を歩いてきた章邯は、項梁を討ち取ったという報告を受けても表情を変えず、遺体を確認したのかと最初に問い返した。
「間違いございません。項梁本人です」
「そうですか。では、追撃は必要以上に行わないでください。逃げた楚兵を追って部隊を散らす必要はありません」
秦将の一人が意外そうな顔をした。
「ここで楚軍をさらに削らなくてもよろしいのでしょうか」
「今夜の目的は楚兵を何人殺すかではありません。項梁を討つことでした。その目的はすでに達しています」
楚軍そのものが消えたわけではない。楚王心は健在であり、項羽も残っているため、これで反秦勢力が終わるなどと章邯も考えてはいなかった。
それでも、大きな打撃であることは間違いない。
兵を集め、豪族を繋ぎ、諸将をまとめ、戦場の勝利を楚という勢力へ変えてきた中心人物はもういない。
「勝った直後こそ兵をまとめてください。欲を出して深追いすれば、今度は我々が同じ失敗をします」
章邯はそれだけ告げると、煙の残る楚軍の陣を見渡した。
連戦連勝によって生まれた僅かな油断。
それを突くために行った戦で、自分たちまで勝利に酔うつもりはなかった。
◆
数日後、定陶から逃れた一騎の兵が、ようやく項羽の陣へ辿り着いた。
馬も人も限界まで疲れ切り、全身を泥と乾いた血で汚している。その姿を見ただけで、項羽は尋常な報告ではないことを察し、兵が定陶から来たと知ると真っ先に叔母のことを尋ねた。
「叔母上は無事か?」
兵は答えられなかった。
その沈黙を見て、項羽の表情が強張った。
「叔母上は、どこにいる」
「項羽様。定陶は、秦将章邯の夜襲を受けました。総帥項梁様は兵を逃がすため最後まで戦われましたが、退路を断たれ……討ち死になされました」
言葉を聞いても、項羽はしばらく動かなかった。
拳だけが震えている。
「……叔母上が、死んだ?」
幼い頃からずっと隣にいた。
楚が滅びた夜には手を引いて逃がしてくれた。
成長してからは兵を集め、自分が戦う場所を作り、誰よりもその力を信じてくれた。
自分が強くなればなるほど喜び、それと同じくらい危うさを心配していた人でもあった。
もう二度と、その声を聞けない。
その事実がようやく項羽の中へ届いた時、巨体が僅かに震えた。
「叔母上っ!」
叫びは陣全体へ響き、周囲の兵たちは誰一人として声をかけられなかった。
しかし使者には、まだ最後の役目が残っていた。
「項羽様。総帥項梁様から、御言葉を託されております」
顔を上げた項羽の目には、悲しみと怒りが入り混じっていた。
使者はその目を見ながら、定陶の夜に項梁から受け取った最後の言葉を、一つずつ語り始めた。




