第74話 鉅野に立つ
# 第74話 鉅野の狼
彭越が死んだ翌朝、俺は鉅野の沢に残った者たちを集めた。
もともと彭越の一団は、一つの軍と呼べるほど整った集団ではない。秦の徴発から逃げた農民、戦に敗れて帰る場所を失った兵、郡県から追われた者、そして略奪で食いつないできた者までが入り混じり、強い男のもとへ寄り集まっていただけだった。その頭領が死んだ以上、ここを離れたいという者が出るのは当然だった。
「去りたい者は止めない。ここに残りたい者は残っていい。ただし、今までと同じことはさせない」
俺がそう告げると、集まった者たちの間からざわめきが起こった。
「周辺の村から勝手に食糧を奪うのは禁止する。女を攫うのも、弱い者から物を奪うのもだ」
「だったら俺たちは何を食えばいいんだ」
一人が不満そうに声を上げると、何人かが同意するように頷いた。
「まず働ける者は働く。食糧が足りなければ、俺たちの持っている分も出す。それでも足りないなら秦軍から奪う」
「秦軍から?」
「ああ。俺たちを追ってくる軍からなら遠慮はいらない。ただし、田を耕しているだけの民から最後の粟まで奪うような真似は、今日で終わりだ」
俺の言葉を聞いて、何人かは呆れたように笑った。結局は奪うのではないかと思ったのだろうし、言葉だけを聞けば確かに盗賊と大差はない。
だが、誰から奪うかは重要だ。戦う力のない民から食糧を奪えば、その土地では長く生きられない。逆に秦軍の補給を奪えば、こちらが食えるだけでなく相手を弱らせることもできる。
残る者と去る者は、その日のうちに分かれた。
それでも彭越の配下だった者の多くは沢に残り、そこへ周辺を流れていた敗残兵や逃亡民が少しずつ加わっていった。すぐに大軍へ膨れ上がったわけではないが、時間をかけて兵として数えられる者だけでも一万近くまで増えていった。
かつて五十万を率いた時と比べれば、あまりにも小さい。
けれど、不思議と今の方が軍の形は見えていた。
◆
「正面から章邯と戦うのは無理です」
鉅野一帯の地図を前に、蒙恬は迷いなくそう言った。
「俺もそう思う。というより、今度こそ正面から戦おうとは思ってない」
五十万の兵を集めても、組織されていなければ一度崩れただけで消える。函谷関で嫌というほど思い知らされた以上、今いる一万を同じように使うつもりはなかった。
現在の軍で、本格的な訓練を受けている者は多くない。核となるのは北辺から付き従ってきた三千ほどの兵であり、残りは彭越の配下だった者や、各地から流れてきた敗残兵だった。
「なら、戦わなければいい」
俺がそう言うと、蒙凛が少し首を傾げた。
「秦軍が来れば、結局は戦うことになるのではありませんか?」
「秦軍が望む形では戦わないってことだ」
俺は地図の上に指を滑らせた。
鉅野には広い沢と湿地があり、大軍を自在に動かすには向いていない。狭い道へ入れば隊列は伸び、土地勘のない者ほど動きが鈍くなるうえ、こちらには彭越のもとで沢を根城にしてきた者たちがいる。
「狙うのは本隊じゃない。食糧や武器を運ぶ輜重だ。小さな隊を見つけたら襲い、本隊が来る前に沢へ戻る。橋を落とせるなら落とすし、道を塞げるなら塞ぐ。ただし、勝てそうだからと追いすぎない」
蒙恬は地図を眺めながら、俺の狙いを確かめるように頷いた。
「敵兵を討つことより、軍を動けなくすることを優先なさるのですね」
「一万で十万を正面から倒すのは無理でも、十万に毎日腹いっぱい食わせるのは秦にだって簡単じゃない。だったら、そっちを苦しめる」
最初の標的となったのは、東へ向かう秦軍の小規模な輸送隊だった。
斥候に進路を確認させ、夜明け前に細い道の両側へ兵を伏せる。荷車が十分に入り込んだところで先頭と最後尾を同時に塞ぎ、混乱したところへ矢を射込み、護衛が立て直す前に食糧と武器だけを奪って撤退した。
追手が来た頃には、こちらはすでに沢の奥へ戻っている。
二度目には秦軍も警戒したため、同じ場所では襲わなかった。三度目にはこちらが前と同じ道を狙うと見せかけ、別の経路を通った輸送隊へ兵を回した。
敵がこちらの戦い方を覚えるなら、こちらも変えればいい。
正面から勝てないことを恥じる必要はない。こちらが生き残りながら相手へ損害を積み重ねられるなら、それも立派な戦だった。
◆
鉅野へ入ってから、俺自身も以前より前へ出るようになった。
当然ながら、蒙恬は快く思っていない。
「扶蘇様が自ら斬り込む必要はございません。主君が討たれれば、そこで軍そのものが終わります」
「分かってる。だから無茶はしない」
「その御言葉をそのまま信じられるなら、私も苦労はいたしません」
そう返されると、こちらには言い返す言葉がなかった。
それでも彭越との戦い以来、自分の身体の使い方を意識するようになっていた。俺が突然蒙恬や蒙凛のような武人になったわけではないが、相手の攻撃がどこから来るのか、どちらへ動けば次の一撃を避けられるのか、少しずつ考えながら動けるようにはなっている。
何より、自分より強い相手に真正面から付き合う必要はないと身体で覚えた。
ある日、兵たちの訓練を眺めていた蒙恬が、俺の動きを見ながら不思議そうに呟いた。
「幼い頃から私が稽古をつけておりましたが、扶蘇様にこれほど武の素質があるとは思いませんでした」
「それは、蒙恬殿が扶蘇様に遠慮なさっていたからではありませんか」
少し離れたところから答えたのは、楊端和だった。
救い出してから数日が過ぎ、傷の手当ても受けて食事も取れるようになったことで、顔色は少しずつ戻っている。まだ以前の身体には程遠いものの、背筋を伸ばして立つ姿には秦の将だった頃の面影が戻り始めていた。
「遠慮?」
「扶蘇様は秦の公子であり、あなたにとっては幼い頃から育ててきた大切な御方です。稽古とはいえ傷を負わせぬよう、知らず知らずのうちに手を鈍らせていたのでしょう」
蒙恬はすぐには否定しなかった。
「……確かに、痣ができれば気になっておりました」
「母様の場合、稽古というより過保護だったのでは?」
蒙凛が横から口を挟むと、蒙恬がゆっくり娘を見る。
「蒙凛」
「私は事実を言っただけです」
「その事実を今言う必要がありましたか?」
親子のやり取りに思わず笑うと、楊端和も一瞬だけ口元を緩めた。
だが、すぐにその表情は消えた。
俺たちの輪の中へ自分が入っていいとは、まだ思っていないのだろう。
◆
その日の夕刻、楊端和が俺のもとを訪れた。
蒙恬と蒙凛も同席していたが、楊端和は二人の姿を確認しても視線を逸らさず、その場へ膝をついた。
「扶蘇様。お願いがございます」
「聞こう」
「私を、扶蘇様のもとで働かせていただけないでしょうか」
蒙凛の表情が硬くなったが、蒙恬は黙って楊端和を見ていた。
「理由を聞いてもいいか」
「命を救われたから、と申し上げるだけでは足りないと思っております」
楊端和は膝の上で両手を握った。
「私は秦を裏切り、扶蘇様を裏切り、蒙恬殿を殺そうといたしました。その末に頭曼から捨てられ、彭越に捕らえられた時には、もう自分には何も残っていないと思っておりました」
声に乱れはなかったが、その言葉の一つ一つを自分に刻むように話している。
「ですが扶蘇様は、私を許したからではなく、罪人であろうと物として扱われていいわけではないと仰って助けてくださいました。あの時になって初めて、私は自分が何を捨て、何を裏切ってきたのかを思い知ったのです」
楊端和は深く頭を下げた。
「許しを求めるつもりはございませんし、許されるとも思っておりません。それでも残った命を働きに使わせていただきたいのです。死ぬまでかかっても償いきれぬのであれば、それでも生きて働き続けます」
俺はすぐには答えなかった。
楊端和の武と将としての経験は、今の俺たちにとって大きな力になる。喉から手が出るほど欲しい人材であることは間違いないが、それを理由に裏切りをなかったことにすれば、蒙恬や蒙凛に対して筋が通らない。
「俺は、お前を許してない」
「承知しております」
「これからも簡単には許せないと思うし、以前と同じ地位をすぐに与えるつもりもない。それでもいいのか」
「はい。それで構いません」
迷いのない返事だった。
俺は蒙恬へ視線を向ける。
「蒙恬はどう思う?」
蒙恬はしばらく楊端和を見つめた後、静かに答えた。
「私個人の感情だけで申し上げれば、まだ信用することはできません。ですが、扶蘇様がお遣いになるとお決めになるのであれば反対はいたしません。ただし、兵を預けるのは働きを見てからにすべきかと存じます」
「私も同じです」
蒙凛も続けた。
「母様を殺そうとしたことは、私は忘れません。今すぐ昔と同じ仲間だと思うこともできませんが、扶蘇様を助けたことまでなかったことにするつもりもありません」
楊端和は二人の言葉を黙って受け止め、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「なら決まりだ」
俺は楊端和へ向き直った。
「罪は消さない。その代わり、死んで終わらせるな。生きて働いて償え。俺たちにも今は人手が足りないから、お前の力を使わせてもらう」
「はい」
楊端和の声が僅かに震えた。
「この楊端和、承知いたしました」
◆
それから俺は、時間を見つけては楊端和に武を教えてもらうようになった。
最初に頼んだ時、楊端和は明らかに戸惑った。
「私が、扶蘇様へ稽古をつけるのでございますか?」
「ああ。お前は俺の軍を背後から崩して、蒙恬を追い詰めた。それだけの武を持っているなら、教える側として不足はないだろ」
楊端和の表情に痛みが走った。
「……それを言われますと、返す言葉がございません」
「責めるために言ってるんじゃない。お前が強いって話だ」
俺は用意していた木剣を差し出した。
「だから手加減なしで頼む」
「本当に、手加減なしでよろしいのですか?」
「蒙恬が俺に甘かったらしいからな」
少し離れた場所にいた蒙恬がこちらを向いた。
「扶蘇様、聞こえております」
「悪口じゃないぞ」
「それならよろしいのですが」
楊端和は二人を交互に見た後、木剣を受け取った。
「承知いたしました。では、本当に遠慮はいたしません」
その言葉を、俺はもう少し真剣に受け止めるべきだった。
稽古が始まった直後、楊端和の木剣が俺の木剣を強く弾き、そのまま肩へ打ち込まれた。一撃を受けた瞬間に体勢を崩され、立て直そうとした時には次の木剣が胴へ入り、俺はあっさり地面へ転がされた。
「痛っ……」
「申し訳ございません」
「謝るな。俺が頼んだんだ。もう一度」
立ち上がり、再び構える。
二度目は最初の一撃を受け流すことができたが、安堵した瞬間に脇を打たれ、そのまま足を払われた。三度目は脇を警戒したところへ肩を狙われ、四度目には間合いを取ろうとした瞬間を詰められる。
倒されるたびに、同じやられ方だけはしないよう考えた。
楊端和も途中から迷いを捨てたらしく、木剣の勢いを緩めなかった。手を抜けば扶蘇の頼みを形だけ受けたことになるし、それでは何の償いにもならないと考えていた。
(この武で私は、扶蘇様の軍を崩した)
木剣を振るたびに、かつての戦場が頭をよぎる。
(蒙恬殿を殺そうとしたのも、この腕だった。それでも今は、この方を生かすために同じ武を使うことができる)
過去を変えることはできない。
だが、これから何のために剣を振るうかだけは、自分で決められる。
楊端和はそう思いながら、もう一度俺の木剣を弾いた。
◆
稽古が終わる頃には、俺の肩と腕は痣だらけになっていた。
地面へ座り込み、荒い息を整えていると、楊端和が水を差し出してくる。
「想像以上でございました。同じ攻撃を二度、三度と受けるうちに、少しずつ対応を変えておられます」
「それは褒めてるのか?」
「もちろんでございます」
水を受け取り、一息に飲んだ。
身体は痛いが、不思議と嫌な疲れではなかった。
「楊端和」
「はい」
「さっき言ったことは変わらない。俺はまだ、お前を許してない」
楊端和の表情が引き締まる。
「はい。それでよいと思っております」
「でも、お前が今、本気で俺を鍛えようとしてることは分かった。だから、お前の剣は信じて使う」
俺は手元の木剣を見ながら続けた。
「どこまでやれば償いになるのか、俺にも今は分からない。でも、お前が本気で償うつもりなら、その機会は与える。俺たちを助けてくれ」
安っぽく許す気はないし、死んで償えと言うつもりもない。
自分がしたことを覚えたまま生きてもらい、そのうえで力を使ってもらう。それが今の俺に出せる答えだった。
楊端和は長い間何も言わなかったが、やがて深く頭を下げた。
「……はい。必ず、お役に立ってみせます」
◆
鉅野を拠点とした俺たちの戦い方は、時間とともに周辺の秦軍にも知られるようになっていった。
大軍で追えば沢へ逃げ込まれ、兵を小分けにすれば補給隊を襲われる。道を変えれば次の道へ現れ、村を押さえて情報を断とうとしても、秦の徴発に苦しんできた土地の者たちが必ずしも秦軍へ協力するとは限らなかった。
「また公子扶蘇か」
周辺の秦軍で、俺の名は次第に厄介な敵として扱われ始めた。
同時に、反秦の勢力から向けられる視線も少しずつ変わっていった。
俺は秦の公子である。
だから最初は、胡亥との争いも秦の皇族同士が後継を奪い合っているだけだと思われていた。だが秦軍の補給を襲い、秦の郡県へ圧力をかけ続けるうちに、少なくとも俺が胡亥の政権と本気で戦っていることだけは疑われなくなってきた。
もちろん、それだけで旧六国の勢力が俺を味方と認めるわけではない。
秦によって国を滅ぼされた者たちからすれば、俺もまた秦の公子である。その溝は、数度秦軍を襲った程度で埋まるものではなかった。
それでも、無視されるだけだった以前とは違う。
味方か敵かを見定めるために、こちらの動きを見る者が増えてきた。それだけでも、今の俺たちには十分だった。
五十万を失った後に残ったのは、わずか三千ほどだった。
そこからまた一万まで戻したとはいえ、数だけなら以前とは比べものにならない。だが、集まった数を力だと思い込んでいたあの頃より、今の一万の方が何をすべきか分かっている。
俺自身も、同じだった。
大軍を手に入れれば天下を動かせるわけではない。
今いる兵で何ができるのかを考え、その範囲で一つずつ勝ちを積み上げる。
今はそれでいい。
◆
俺たちが鉅野で小さな勝利を重ねている頃、東南では楚軍が急速に勢力を広げていた。
項梁のもとには旧楚の武将や豪族が集まり、項羽は各地の戦場で秦軍を破っていた。もともと突出した武を持つ項羽が先頭に立てば、並の秦軍では正面から勢いを止めることが難しく、その勝利がさらに人を呼び込むという流れが生まれていた。
各地では、秦を倒すのは楚ではないかという声まで聞かれるようになっていた。
だが、その報告を受けた章邯は、項羽の武だけに目を奪われてはいなかった。
函谷関で反乱軍を打ち破った後も、章邯は各地の鎮圧を続けている。もとは驪山にいた囚徒を中心とした兵であっても、勝利を重ねれば隊列を守ることを覚え、命令に従うことを覚え、次第に一つの軍へ変わっていく。
その軍を前に置き、章邯は楚の動きを記した地図を眺めていた。
「項羽の武は確かに強い。正面からぶつかれば、こちらにも相応の損害が出るでしょう」
配下の将が頷く。
「では、まず項羽を避けますか」
「避けるというより、先に斬るべき場所が別にあります」
章邯の指が地図の上を動き、定陶の付近で止まった。
「今の楚軍を一つにしているのは、項羽ではありません。項梁です」
兵を集め、諸将をまとめ、楚王を奉じることで大義を与え、戦場で得た勝利を勢力の拡大へ繋げているのは項梁だった。項羽が敵陣を破るための鋭い刃なら、その刃をいつ、どこへ向けるかを決めているのは項梁である。
「項羽を正面から倒そうとすれば、こちらも消耗します。しかし項梁を討てば、楚軍は勝利を続けていても、その勝利を一つへまとめる者を失う」
「ですが、楚軍は今や連戦連勝です。項梁の守りも厚いかと」
「だからこそ、狙う価値があります」
章邯は地図から目を上げた。
「勝ち続けている軍は、自分たちが次も勝つと思い始めるものです。敵がこちらを軽く見てくれるなら、その慢心まで利用すればよい」
章邯の視線は、定陶にいる項梁へ向けられていた。
俺たちが鉅野の沢で一万の兵を養い、秦軍の補給を一つずつ削っている間にも、乱世全体は激しく動き続けている。楚は勝利を重ね、秦もなお大軍を有し、その秦軍を率いる章邯は、最も目立つ項羽ではなく、楚軍を支えている項梁を狙っていた。
定陶で何かが起ころうとしている。
その報せが鉅野へ届くのは、もう少し先のことだった。




