第73話 鉅野の狼
鉅野の沢へ入った俺たちは、ほどなく彭越の一団と向かい合った。
湿地と葦原の間には粗末な小屋が並び、その周囲を武器を持った荒くれ者たちが取り囲んでいる。中央には大柄な男が腕を組んで立っていたが、俺の目はその男ではなく、少し離れた杭のそばに繋がれた一人の女へ吸い寄せられた。
「……楊端和」
隣にいた蒙恬の声も低くなる。
首には鉄の輪、両手には枷が嵌められ、そこから延びた鎖が地面へ繋がれていた。衣は汚れ、頬や腕には痣が残り、手首には枷で擦れた傷が赤黒く刻まれている。
かつて秦軍を率いて戦場を駆けた女将とは、とても同じ人物には見えなかった。
楊端和もこちらに気づいた。
一瞬だけ目を見開いた後、すぐに顔を伏せる。
「……見ないでください」
掠れた声だった。
その一言で、ここで何があったのかを詳しく聞く必要はなかった。
蒙凛の表情が険しくなる。
「扶蘇様。あの女は」
「分かってる」
俺は短く答えた。
忘れているはずがない。
楊端和は俺たちを裏切った。蒙恬を殺そうとし、俺の軍が壊滅する一因を作った女だ。
許せる相手ではない。
それでも、鎖に繋がれ、人ではなく物のように扱われている姿を見て、そのまま立ち去ることもできなかった。
◆
「その女を放してくれ」
俺が言うと、大柄な男が一瞬きょとんとした後、声を上げて笑った。
こいつが彭越。
前世の知識では、この先の楚漢戦争で名を上げる男だ。正面から大軍をぶつけるより、敵の後方を襲い、補給を断ち、捕まる前に消える。後に劉邦を支えることになる、遊撃戦の名手だった。
「何を言い出すかと思えば、それか」
彭越は楊端和を顎で示した。
「こいつは俺に斬りかかってきて負けた。俺が捕らえた。なら俺のものだろ」
「人間を物みたいに言うな」
「物みたいに、じゃねえ。俺の女だって言ってるんだ」
悪びれる様子はなかった。
むしろ、俺が何を問題にしているのか、本気で分かっていないようだった。
「それに俺は男だぞ」
彭越は自分の胸を指で叩いた。
「男がどれだけ少ないか、お前だって知ってるだろ。女どもは男を欲しがる。だったら、力のある男が気に入った女を何人か抱えて何が悪い」
周囲の盗賊たちから笑い声が起こる。
「貴族どもだって同じようなことをしてるじゃねえか。男一人に女が何人もつく。俺だけ駄目だって理由があるか?」
「相手が自分から望んでいるなら、好きにすればいい」
「同じだろ」
「違う」
俺は即座に否定した。
「自分で選んで隣にいるのと、鎖で繋いで逃げられなくするのは全然違う」
彭越は呆れたように鼻を鳴らした。
「負けた奴に選ぶ権利なんかあるかよ」
「ある」
自分でも驚くほど、はっきり声が出た。
「戦で負けても、人間であることまで失うわけじゃない」
笑い声が少しずつ止まった。
彭越の目が細くなる。
「随分と綺麗なことを言うな、公子様。お前だって男だろ。女の方から寄ってくる側の人間じゃねえか」
その言葉には、一瞬だけ返事が遅れた。
確かに俺も男だ。
この世界では、それだけで特別に扱われる。蒙恬も、蒙凛も、俺が男であることと無関係ではない。
だからこそ、余計に腹が立った。
「俺が男だから何だ」
彭越を睨む。
「男が少ないから、何をしても許されるのか。女より希少だから、欲しい相手を物みたいに扱っていいのか」
「それだけ価値があるってことだろ」
「違う。それは価値じゃなくて、都合だ」
彭越の笑みが消えた。
「男だから女を飼って当然だっていうのは、自分に都合のいい世の中へ甘えているだけだ。強いんじゃない」
俺は一歩前へ出た。
「相手に拒ませないよう鎖で繋がなきゃ側に置けない男の、どこが強い」
周囲が静まり返った。
彭越の表情が完全に変わる。
「……言ってくれるじゃねえか」
「事実だろ」
「じゃあ、お前ならどうする」
彭越は楊端和を指した。
「こいつはお前を裏切ったんだろ。仲間を殺そうとして、お前の軍まで潰した女らしいじゃねえか。それでも助けるってのか」
「ああ」
「馬鹿じゃねえのか」
「そうかもしれない。でも、こいつが俺を裏切った罪と、お前がこいつを物扱いすることは別だ」
鎖の向こうで、楊端和が顔を上げた。
「罪があるなら、罪として裁く。償わせるなら償わせる。でも、それを理由に好き勝手に壊していいことにはならない」
しばらく沈黙した後、彭越は肩を揺らして笑った。
「面白えな。秦の公子なんて、もっと気取った男だと思ってた」
「俺も、お前がもう少し話の通じる男だと思いたかった」
「なら話は簡単だ」
彭越は拳を鳴らした。
「男同士で決めようじゃねえか。俺に勝てたら、この女はくれてやる」
その言い方で、また腹の底が熱くなった。
「くれてやる、じゃない」
「あ?」
「楊端和は物じゃない。勝ったら解放しろ」
彭越は俺をしばらく見た後、歯を見せた。
「いいぜ。だったら俺に勝って、その綺麗事を通してみろ」
◆
蒙恬がすぐに前へ出た。
「扶蘇様。私がお相手いたします」
「駄目だ」
彭越が先に断った。
「俺が勝負するのはそこの男だ。秦の公子が偉そうなことを言ったんだ。自分で証明してもらわねえとな」
「その必要はございません」
蒙恬の声が冷える。
「こちらには三千の兵がおります。力ずくで解放することもできますが」
周囲の盗賊たちも武器へ手を掛けた。
一触即発だった。
「蒙恬」
俺は制した。
「俺がやる」
「扶蘇様」
「ここで全面戦闘を始めれば、こっちにも死人が出る。それに、ここまで言われて他人に任せたくない」
蒙恬はなお反対したそうだったが、やがて小さく息を吐いた。
「危険と判断した場合は、勝負の途中でも止めます」
「分かった」
そのやり取りを聞いていた楊端和が、弱々しく口を開いた。
「……やめてください」
俺はそちらを見る。
「私のために、そこまでする必要はありません。私はあなたを裏切った。蒙恬殿を殺そうとまでした女です」
「知ってる」
「なら」
「許したとは言ってない」
楊端和の表情が強張る。
「でも、許してないからって、お前が何をされてもいい理由にはならない」
それ以上は言わず、俺は剣を蒙恬へ預けた。
◆
勝負は素手で行うことになった。
彭越は沢の中に開けた場所へ出ると、首を鳴らしながら構えた。俺も正面へ立ったものの、まともに考えれば分が悪い。
武を学んでこなかったわけではない。それでも、本職の武人ではない。まして彭越は、衰弱していたとはいえ楊端和を徒手で叩き伏せた男だ。
「始めようぜ、公子様」
言葉が終わるより早く、彭越が踏み込んだ。
顔を狙った拳を辛うじて避けた直後、脇腹へ別の一撃が入った。息が詰まり、身体が折れたところへ脚を掛けられ、そのまま背中から地面へ叩きつけられる。
「扶蘇様!」
蒙凛の声が飛ぶ。
「まだ大丈夫だ」
咳き込みながら立ち上がると、彭越は追ってこなかった。
余裕なのだ。
「大したことねえな」
「俺も今、同じことを思ってたよ」
「自分で言うか」
彭越が笑い、再び間合いを詰める。
今度は最初から腕で顔を守った。拳が前腕へ当たり、骨まで響く痛みが走る。続いて反対側から拳が飛び、顔を守ったままでは腹が空くと見れば、すぐに狙いを変えてくる。
単純な力任せではなかった。
こちらが何を嫌がるか見ながら、守りの薄い場所を探している。
(なるほど)
遊撃戦の名手になる男だ。
正面から押し潰すのではなく、弱い場所を探してそこを突く。その性格が拳にも出ている。
「考え事か?」
彭越の膝が鳩尾へ入った。
「ぐっ……!」
息が抜け、俺は再び地面へ転がった。
◆
「もう十分です!」
蒙恬が声を上げる。
「扶蘇様、これ以上は」
「まだ終わってない」
口の中に血の味が広がっていた。
彭越は強い。技でも速さでも、正面から上回るのは難しい。
なら、こちらにも考える必要がある。
立ち上がりながら、俺は彭越の足運びを見る。
右を打つ時は、左足に重心が残る。
俺が後ろへ退けば必ず追ってくる。
こちらが防御に回れば、守りの外側へ回ろうとする。
ならば、次は退かない。
彭越が踏み込んできた瞬間、俺は顔への拳を腕で受け、そのまま前へ出た。肩を胸へぶつけ、体勢を崩そうとする。
だが、体格でも向こうが上だった。
「甘い!」
腰を取られ、逆に地面へ叩きつけられる。
背中に激痛が走り、視界が白く弾けた。それでも手をついて身体を起こすと、足が震えているのが自分でも分かった。
「……しぶといな」
彭越の顔から、最初の軽い笑みが少し消えている。
「公子様ってのは、もっと簡単に泣くと思ってたぜ」
「期待に添えなくて悪いな」
「いや。少し面白くなってきた」
◆
鎖に繋がれたまま、楊端和はその戦いを見ていた。
理解できなかった。
自分は扶蘇を裏切った。蒙恬を殺そうとし、何万もの兵が崩れる原因を作った。
そんな自分のために、なぜ扶蘇が殴られているのか。
また拳が入る。
扶蘇が地面へ倒れ、血を吐きながら立ち上がる。
(やめろ)
声にはならなかった。
頭曼に捨てられてから、何もかもどうでもよくなったと思っていた。秦へ戻る場所も、将としての誇りも、自分を必要としてくれる者もなくなった。
彭越に捕らえられてからは、身体に何が起きても考えないようにしていた。
そうしなければ耐えられなかった。
それなのに今、扶蘇が倒れるたびに胸の奥が痛む。
(死なないでください)
自分でも驚くほど強く、そう願っていた。
◆
何度目かの攻防の末、俺は片膝をついた。
頬は腫れ、脇腹も背中も痛む。対して彭越には目立った傷がなく、呼吸が少し乱れている程度だった。
「もう終わりにしろ」
彭越が言った。
「これ以上やれば、本当に立てなくなるぞ」
「……まだ立てる」
片膝へ力を入れ、ゆっくり身体を起こした。
「何でそこまでする」
彭越の声から、最初の嘲りが薄れていた。
「その女はお前を裏切ったんだろ。放っておけばいいじゃねえか」
俺は一度だけ楊端和を見た。
鎖に繋がれ、顔を腫らし、それでもこちらを見ている。
「……俺にも分からない」
「何だそりゃ」
「ただ、見てしまったからな」
俺は構え直した。
「人間が物みたいに扱われてるのを見て、知らないふりして歩いていけるほど器用じゃない」
彭越は黙った。
「それに、お前の言ったことが気に入らない」
「男が女を飼って当然って話か?」
「ああ」
俺は拳を握った。
「男だから許されるなんて理屈を、俺は認めない」
彭越が口元を歪めた。
「なら最後まで立ってみろ」
今度の踏み込みは、それまでより深かった。
◆
彭越の拳が頬を捉えた。
身体が横へ流れる。
追撃するため、彭越がさらに一歩踏み込んだ。
その瞬間、楊端和の目が変わった。
虚ろだった女の目から、敗戦も辱めも消えたわけではない。それでもその一瞬だけ、長く戦場で生きてきた将の目が戻っていた。
扶蘇を追うたびに、彭越は少しずつ後ろへ下がっている。
そして今、鎖の届く距離へ入った。
楊端和は地面へ垂れた鎖を静かに手繰った。枷が傷んだ手首へ食い込み、再び血が滲む。
(今さら何をしても、私の罪は消えない)
頭曼へ媚びた。
秦を裏切った。
扶蘇を裏切った。
(それでも、この方を私のために死なせるわけにはいかない)
彭越が止めの一撃を振り上げた瞬間、楊端和は立ち上がった。
「扶蘇様!」
叫びと同時に両手の枷を振り抜く。
鉄の塊が彭越の後頭部をまともに捉えた。
「ぐっ!」
完全な不意打ちだった。
彭越が大きく前へよろめき、顎が無防備に浮く。
俺はその隙を見逃さなかった。
残っていた力を脚へ集め、一歩踏み込み、腰を捻り、拳を下から振り抜いた。
「おおっ!」
拳が彭越の顎を捉える。
鈍い感触が腕へ返り、巨体の頭が大きく跳ね上がった。彭越は二、三歩よろめいた後、膝から崩れ、そのまま地面へ倒れた。
だが、まだ終わっていなかった。
彭越は地面へ両手をつき、歯を食いしばりながら身体を起こそうとする。
「まだ……だ……」
声は掠れていた。
それでも立とうとする。
強い男だった。
だからこそ、俺も止まれなかった。
彭越が片膝を立てた瞬間、俺は最後の力で踏み込み、もう一度拳を振り抜いた。
今度は側頭部へ入った。
彭越の身体が横へ崩れる。
それでも地面へ手をつこうとしたが、指に力が入らず、そのまま顔から倒れ込んだ。
口元から血が流れる。
焦点の合わない目が、俺を見上げた。
「……公子様が……俺を……」
言葉は最後まで続かなかった。
身体から力が抜ける。
彭越は二度と動かなかった。
◆
沢が静まり返った。
俺もその場に片膝をつき、荒い息を繰り返していた。
蒙恬が駆け寄り、まず俺の身体を支える。
「扶蘇様!」
「俺より……そっちを」
そう言って彭越へ目を向ける。
蒙恬は一瞬だけ迷った後、倒れた男へ近づき、首へ指を当てた。
しばらくして、静かに首を振る。
「絶命しております」
その言葉を聞いて、周囲の盗賊たちがざわめいた。
頭を失った。
しかも、その頭は一騎打ちで敗れて死んだ。
彭越の強さを頼りに集まっていた者たちにとって、それは何より大きかった。
逃げようとする者が現れ、武器を捨てる者も出る。だが、こちらの兵がすでに周囲を押さえていたため、大きな戦いにはならなかった。
「武器を置け!」
蒙恬が声を張る。
「抵抗しない者は斬らぬ!」
その言葉を受け、盗賊たちは次々と武器を地面へ置いていった。
◆
俺は彭越の遺体を見下ろした。
前世の知識では、この男はここで死ぬ人間ではない。
後に大きな勢力を築き、劉邦を助けるはずだった。
その未来は、今なくなった。
俺の拳で。
だが、今さらそのことだけを悔やむ気にはなれなかった。
彭越は、自分が男であることを理由に女を所有していいと考えていた。負けた女に選ぶ権利はないと、本気で信じていた。
俺はそれを認められなかった。
そして互いに退かなかった。
その結果として、彭越は死んだ。
それだけだった。
◆
蒙恬は兵から道具を受け取り、楊端和を繋いでいた金具を外した。
首の鉄輪が落ち、続いて両手の枷が地面へ落ちる。
乾いた金属音が響いた。
自由になった楊端和は、すぐには立ち上がらなかった。赤黒く傷ついた手首を、自分のものではないように見つめている。
蒙恬も何も言わなかった。
裏切られた相手だ。
簡単に手を差し伸べられるはずもない。
俺が近づくと、楊端和はゆっくり顔を上げた。
「……なぜです」
何を聞いているのかは分かった。
「言っただろ。許したわけじゃない」
「私はあなたを裏切りました。蒙恬殿を殺そうとし、あなたの軍を窮地へ追い込みました」
「ああ」
「なら、なぜ私など」
「罪があるからって、何をされてもいいことにはならない」
俺はそれだけ答えた。
楊端和は俯いた。
「それと」
もう一度声をかけると、楊端和が顔を上げる。
「さっきは助かった。お前が彭越を殴ってくれなかったら、俺が先に倒れてた」
「……私は」
「礼と罪は別だ。助けてもらったことには礼を言う。でも、お前がしたことまでなくなったわけじゃない」
楊端和はしばらく黙っていた。
やがて地面へ両手をつき、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます、扶蘇様」
その声には、以前のような将としての張りはなかった。
けれど、頭曼へ向けていた媚びも、彭越のもとで身についた諦めもなかった。
罪を背負った一人の女が、ようやく自分の意思で絞り出した言葉だった。
俺はそれ以上何も言わず、鉅野の沢に残った者たちへ目を向けた。
頭を失った盗賊。
流れてきた敗残兵。
行き場を失った人々。
そして、こちらにも帰る場所はない。
ならば、この土地で生き延びる方法を考えるしかなかった。




