第72話 鎖の女
楊端和が匈奴の陣へ戻った時、すでに敗者を迎える空気しか残っていなかった。
扶蘇軍への偽装帰還は成功した。三日間は味方として振る舞い、戦の最中に背後から刃を向け、軍を崩す役目も果たした。それでも頭曼から与えられていた本当の命令だけは、遂げられなかった。
蒙恬を生きたまま連れて帰る。
その命令に背き、楊端和は蒙恬を殺そうとした。
理由は、自分でも分かっている。
頭曼が欲しがっていたのは、最初から自分ではなかった。
秦最強と呼ばれた女将、蒙恬。
その名が頭曼の口から出るたび、胸の奥に溜まっていったものを、楊端和は最後まで抑えきれなかった。
だから殺そうとした。
連れて帰るくらいなら、誰のものにもならないように。
そして失敗した。
◆
頭曼の幕舎へ入った楊端和は、そこで足を止めた。
頭曼の傍らに、一人の女が座っている。
羌瘣だった。
「……羌瘣」
草原でともに敗れ、同じように捕らえられた女。
あれほど頭曼を拒み続けていたはずの羌瘣が、今は平然とその傍らにいる。
しかも楊端和と目が合うと、口元を僅かに上げた。
嘲るような笑みに見えた。
その瞬間、楊端和の胸に浮かんだのは、あまりにも単純な答えだった。
(……若い方を選んだのか)
自分より羌瘣の方が若い。
武もある。
捕虜となってなお容易に折れなかった。
それでも、頭曼が自分を求めてくれていると思っていた。
閨へ呼ばれれば応じた。
機嫌を損ねぬよう振る舞った。
求められれば、その求めに応えた。
いずれ子を宿し、この男の隣に居場所を得る。そう信じることで、秦を裏切った自分自身を納得させてきた。
「単于」
楊端和は膝をついた。
「申し訳ございません。蒙恬を連れ帰ることは叶いませんでした。しかし扶蘇軍は大きく崩れ、南への逃走を余儀なくされております。次こそは」
「次?」
頭曼の声には、怒りすらなかった。
楊端和は顔を上げる。
「次はない」
「……単于?」
「俺は何を命じた」
「蒙恬を、生け捕りに」
「お前は何をした」
答えられなかった。
頭曼は楊端和をしばらく見下ろしてから、冷淡に言った。
「殺そうとしたな」
楊端和の指が僅かに震えた。
「それは」
「俺が欲しがったからか?」
図星だった。
否定の言葉が出ない。
その沈黙だけで十分だった。
◆
頭曼は、傍らの羌瘣へ一度だけ目を向けた。
それを見て、楊端和の胸がさらに締めつけられる。
「……私では、足りぬということですか」
「何?」
「羌瘣の方が若い。だから、私など」
頭曼は一瞬だけ黙り、それから鼻で笑った。
「まだ分かっていないのか」
楊端和の顔が強張る。
「俺が欲しいのは若い女ではない。強い女だ」
頭曼は静かに続けた。
「最初に捕らえた時、お前は俺を睨んでいた。殺すなら殺せとまで言った。あの時のお前は強かった」
楊端和は息を呑む。
「だが、その後はどうだ。俺の機嫌を取るようになった。閨へ呼べば媚び、少し優しくすれば喜び、ここでの暮らしと快楽に縋るようになった」
「……」
「俺の子を産めば居場所を得られると、本気で思っていたらしいな」
否定できなかった。
それこそが楊端和の望みだった。
秦へ戻れない。
扶蘇にも顔向けできない。
ならば匈奴に居場所を作るしかない。
頭曼に求められることが、その証になると思っていた。
「俺は強い女の血が欲しい」
頭曼は淡々と言った。
「だが、お前は簡単に快楽へ逃げた。俺に捨てられぬよう媚びることばかり考え、挙げ句の果てには嫉妬で命令まで破った」
楊端和の顔から血の気が引いていく。
「そんな弱い女はいらん」
その一言は、どんな罵声より深く刺さった。
◆
楊端和は、思わず羌瘣を見た。
羌瘣は何も言わない。
ただ、あの薄い笑みだけが残っている。
それが本当に嘲笑なのか。
それとも、楊端和がそう見たいだけなのか。
今の彼女には判断できなかった。
「羌瘣は……」
「少なくとも、お前ほど簡単には折れなかった」
頭曼の言葉が重なる。
それだけで十分だった。
楊端和の中で、辛うじて残っていた何かが崩れた。
「……では、私は」
「出ていけ」
頭曼は興味を失ったように言った。
「好きに生きろ。秦へ戻るなり、野垂れ死ぬなり勝手にしろ」
「単于」
「二度言わせるな」
楊端和は動けなかった。
あれほど求めていた男の前で、最後に与えられたのは憎しみですらない。
無関心だった。
それが何より堪えた。
兵に促され、楊端和は幕舎を出た。
振り返ることはできなかった。
◆
それから楊端和は、一人になった。
秦へは帰れない。
公子扶蘇を裏切り、蒙恬を殺そうとした自分が、どんな顔で戻れるというのか。
匈奴にも居場所はない。
頭曼から必要ないと言われた以上、草原へ残る意味もなかった。
持っていた馬も、長い旅の途中で失った。
残った僅かな銭は食糧へ変わり、それも尽きると野草や木の実を口へ入れるようになった。雨が降れば木陰で震え、村があれば遠くから様子を窺い、追い払われれば黙って次へ向かった。
かつて秦の将として何万もの兵を率いた女の姿は、そこにはなかった。
剣だけは捨てなかった。
だが、その剣を何のために握っているのかさえ、次第に分からなくなっていた。
(私は、何をしているのだろう)
扶蘇を裏切った。
蒙恬を殺そうとした。
そのすべてを捨てて選んだ頭曼からも、最後には捨てられた。
何も残っていない。
失意のまま南東へ流れ続け、楊端和はやがて鉅野へ辿り着いた。
◆
鉅野には広大な沢がある。
秦の支配が緩み、各地で反乱が続く今、その一帯は逃亡者や盗賊が潜むには格好の土地となっていた。
そこで一つの勢力を築いていた男がいる。
彭越。
この世では希少な男でありながら、貴族の庇護を受けることもなく、沢に集まる荒くれ者たちを腕力だけで従わせていた。
痩せ衰えた楊端和がその一団に出会った時、最初に考えたのは単純なことだった。
(この男を倒せば、兵を奪える)
まだ自分は将だ。
そう思いたかったのかもしれない。
楊端和は剣を抜き、彭越へ挑んだ。
結果は、惨敗だった。
◆
飢えと疲労で弱った身体では、まともに剣を振ることすらできなかった。
それだけではない。
彭越は強かった。
剣を持つ楊端和の間合いへ恐れず入り込み、最初の一撃をかわすと、拳を顎へ叩き込む。視界が揺れたところへ腹を打たれ、さらに足を払われて地面へ倒された。
楊端和は何度か立とうとしたが、そのたびに打ち倒された。
「なんだ。秦の将軍だって聞いたが、この程度か」
彭越が笑う。
楊端和は血の混じった唾を吐き、なお剣へ手を伸ばした。
その手を踏みつけられた。
「まだやる気か」
「……殺せ」
「殺す?」
彭越は足をどけると、地面に倒れた楊端和を見下ろした。
「もったいないだろ」
嫌な予感がした。
だが抵抗する力はもう残っていなかった。
◆
楊端和は捕らえられた。
武器を奪われ、両手に枷を嵌められ、沢の一角にある粗末な小屋へ繋がれた。かつて何万もの兵を率いた将軍であることなど、ここでは誰も気にしなかった。
彭越にとって、楊端和は敗れて捕らえられた女の一人に過ぎない。
夜になれば呼び出されることもあった。
拒めば殴られた。
それでも楊端和は、以前のように誰かへ媚びることだけはしなかった。
何をされても黙って耐え、終わればまた鎖のそばへ戻る。
頭曼に告げられた言葉が、何度も頭の中へ蘇った。
弱い女はいらない。
自分は本当に弱かったのか。
快楽に逃げたから捨てられたのか。
それとも、最初から誰かに居場所を与えてもらおうとしたこと自体が間違いだったのか。
答えは出なかった。
ただ日だけが過ぎた。
◆
その頃、扶蘇たちは流浪を続けていた。
陳勝と呉広を倒した後も、定まった土地を持たず東へ進み、やがて鉅野の周辺へ近づいていた。
「この先の沢に、盗賊が集まっているそうです」
斥候の報告を聞き、蒙恬が地図を見る。
「数は?」
「数千ほど。周辺の村から食糧を奪い、逃亡兵も取り込んでおります。頭は彭越という男だとか」
その名前を聞いた瞬間、俺は地図へ向けていた目を上げた。
「……彭越?」
「ご存じなのですか?」
「いや」
すぐに首を振る。
だが知っている。
後に楚漢戦争で大きな勢力を持ち、劉邦を支えることになる男。
また一人、知っている名前が現れた。
「避けますか?」
蒙恬が尋ねる。
俺は少し考えた。
今はこちらも食糧が乏しい。沢を支配する彭越と敵対すれば、余計な損害を出す可能性もある。
しかし周辺の村から、別の情報も入ってきた。
「盗賊に捕らえられている女が一人いるそうです」
俺は何気なく聞いた。
「どんな女だ?」
「詳しくは。ただ、もとは武人ではないかと。身体中に古い傷があり、盗賊の頭へ剣で挑んで敗れたと聞いております」
その程度なら、乱世では珍しくない。
そう思った。
次の言葉を聞くまでは。
「名は、楊端和と名乗ったそうです」
俺は動きを止めた。
蒙恬の顔からも表情が消える。
蒙凛だけは、はっきりと険しい目になった。
「……あの女が?」
忘れるはずがない。
俺たちを裏切り、蒙恬を殺そうとした女。
その楊端和が今、鉅野の盗賊に捕らえられている。
俺はしばらく黙っていた。
助ける理由などない。
むしろ、そのまま放っておけばいい。
そう考える方が自然だった。
それなのに。
「……行ってみる」
蒙凛が俺を見る。
「扶蘇様」
「助けるとは言ってない」
自分でも、苦しい言い訳だと思った。
「ただ、この目で確かめたい」
そう言って、俺は鉅野の沢へ視線を向けた。
裏切った女と、裏切られた俺。
再び顔を合わせる時が、近づいていた。




