第71話 王侯将相
夕暮れの街道を塞ぐように、数千の兵が陣を敷いていた。その中央に翻る旗の下には、陳勝と呉広がいる。
一度は張楚を興し、天下へ反秦の火を放った二人。そして俺に名を奪われ、軍を失い、追われるように姿を消した二人だった。
「……本当に来たか」
俺が呟くと、隣を進む蒙恬が静かに剣へ手を置いた。
「扶蘇様。数はこちらと大差ございませんが、向こうは待ち構えております。敗残兵とはいえ、油断はなさらぬよう」
「ああ。ここで避けても、あいつらは追ってくるだろうしな」
こちらも函谷関の敗北から東へ流れてきたばかりで、兵たちの疲労は濃い。それでも北辺から残った精鋭三千は隊列を保ち、蒙恬の命令一つで動ける状態を失ってはいなかった。
問題は、向こうの狙いが戦そのものではないことだった。
陳勝は、俺を殺すために来ている。
◆
陳勝は、遠くに見える俺の旗を睨みながら拳を握っていた。
自分が王だった頃のことを、忘れた日はない。
人々が自分の名を叫び、兵が命令を待ち、女たちが列を作った。何者でもなかった農民の男が、わずかな間とはいえ天下へ名を響かせた時間だった。
それを壊したのが扶蘇だと、陳勝は思い続けてきた。
だが心の奥では、もっと嫌なことも分かっている。
自分が掲げた「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉と、自分自身の行いが離れていった。万人へ種を開くと言いながら、いつしか金や兵を持つ女を選び、自分が否定した王侯と変わらない振る舞いを始めた。
本物の扶蘇は、その矛盾を民の前で言葉にしただけだった。
奪われたのではない。
自分で失った。
そう認めれば、自分の敗北を受け入れなければならなくなる。それができなかったから、陳勝は恨みを俺一人へ向け続けた。
「今度こそ終わらせる」
低い声に、隣の呉広が視線を向ける。
「扶蘇を討って、何が戻る?」
「何も戻らん」
「なら、なぜ戦う」
「戻らないからだ」
陳勝は俺の旗から目を離さなかった。
「張楚も、王座も、もう戻らん。ならせめて、あいつだけは俺の手で終わらせる」
呉広はしばらく黙っていたが、それ以上は何も言わなかった。
彼女自身もまた、ここまで来た理由を理屈だけで説明できなかったからだ。
最初に立ったあの日、雨の中で「このまま死ぬくらいなら反旗を翻す」と決めた。その時から、呉広は陳勝の隣にいた。
陳勝が変わったことも知っている。
王を名乗り、女を選び、民を失望させたことも分かっていた。
それでも離れなかった。
正しいからではない。
一緒に始めたからだった。
(ここまで来たなら、最後まで付き合うしかない)
呉広は長柄の矛を握り直した。
◆
両軍の距離が縮まり、やがて互いの顔が見えるほどになったところで、俺は馬を前へ出した。
「陳勝」
「久しいな、扶蘇」
前に会った時のような、王を気取った余裕はもうなかった。衣は粗末になり、顔には疲れが刻まれている。それでも目の奥の執念だけは、以前より濃くなっていた。
「ここで待っていたのか」
「お前を殺すためにな」
「俺を殺したところで張楚は戻らないぞ」
「知っている」
返事に迷いはなかった。
「俺はお前から張楚を取り戻しに来たんじゃない。ただ、お前だけは殺す。それでいい」
俺は陳勝を見つめた。
この男が最初に立ったこと自体を、俺は間違いだとは思っていない。
秦の法に追い詰められ、黙って罰を待つくらいなら立つと決めた。その決断が、天下を動かす最初の大きな火になったのは事実だ。
「お前が立ったことは間違いじゃなかった」
陳勝の眉が動いた。
「今さら何を言う」
「でも、その後で道を間違えた」
「黙れ」
「俺だって間違えた」
その言葉に、陳勝が一瞬だけ黙る。
「五十万を集めれば秦と戦えると思った。蒙恬を送れば軍として立て直せるとも考えた。それでも函谷関で負けた。だから俺も、偉そうに正解を語れる立場じゃない」
敗北を口にすると、胸の奥が重くなる。それでも続けた。
「ただ、負けた理由を誰か一人に押しつけて、その相手を殺せば済むとは思いたくない」
陳勝の顔から、わずかに残っていた笑みが消えた。
「言いたいことはそれだけか」
「ああ」
「なら、死ね」
陳勝が剣を抜いた。
ほぼ同時に呉広が矛を掲げ、数千の敗残兵が声を上げる。
「全軍、進め!」
街道の両側から兵が動き出した。
◆
最初の衝突から、軍としての差は明確だった。
陳勝のもとへ集まったのは、張楚崩壊後に行き場を失った敗残兵が中心である。個々には修羅場をくぐった者もいるが、部隊としてのまとまりは弱く、前へ出る者と遅れる者の間にすぐ隙間ができた。
一方、こちらの三千は北辺から幾度もの敗走を生き抜いた兵たちだった。蒙恬の号令に合わせて前列が受け、後列が支え、押すべきところだけを押していく。
それでも、呉広のいる一角だけは簡単に崩れなかった。
「退くな! ここを破れば扶蘇まで届く!」
呉広は自ら先頭に立ち、長柄の矛を振るった。一人を馬から突き落とし、返した柄で別の兵の肩を打ち、崩れかけた味方を怒鳴って前へ戻す。
蒙恬はその姿を見つけると、周囲の兵へ短く命じた。
「中央を保ってください。呉広殿は私が止めます」
馬を進める蒙恬へ、呉広も真正面から向かってきた。
「秦の将軍!」
「あなたが呉広殿ですね」
「そこを退け!」
矛先が一直線に伸びる。
蒙恬は馬上で身体を捻り、胸元を掠めた穂先をやり過ごした。そのまま剣を抜き、矛の柄を横から打って軌道を外す。
呉広もすぐに武器を引き、今度は横薙ぎに切り替えた。
長柄を生かした連撃は荒々しいが速い。
蒙恬は無理に受けず、馬を半歩ずつ動かして間合いを測った。
「まだ陳勝殿についていくのですか」
攻防の最中、蒙恬が問いかけた。
「今さら何を聞く!」
「張楚はもうありません。王座も失われました。それでも?」
呉広は矛を短く持ち直し、蒙恬の顔を狙って突き込んだ。
「始めた時から一緒だった。それだけだ!」
蒙恬は剣でその一撃を受け流し、わずかに目を細めた。
その答えを、理解できないわけではなかった。
忠義や情は、正しい者だけに向くものではない。
もし天下の全てが扶蘇を逆賊と呼ぼうと、蒙恬自身が簡単に主君のもとを離れることなどない。
「……そうですか」
「何だ!」
「ならば、私も同じです」
蒙恬は次の矛を受けるのではなく、自ら前へ踏み込んだ。
長柄の内側。
呉広が最も力を出しにくい距離だった。
呉広は慌てて柄を引こうとしたが、蒙恬の方が早い。剣が脇腹を深く斬り、呉広の身体が大きく揺れた。
それでも彼女は倒れなかった。
「まだだ!」
血を流しながら矛を振り下ろす。
蒙恬は馬を滑らせるように横へかわし、すれ違いざまにもう一度剣を振った。
今度の一太刀は深かった。
呉広の手から矛が落ちる。
「……陳勝」
最後に盟友の名だけを口にし、呉広は馬上から崩れ落ちた。
◆
「呉広!」
戦場に陳勝の声が響いた。
その瞬間、陳勝の中で何かが切れた。
雨の中で初めて立った日。
まだ王でも何でもなく、ただ死にたくない農民だった自分の横に、呉広はいた。
勢力を得てからも。
民に見放されてからも。
張楚を追われてからも。
最後まで残ったのは、呉広だった。
(俺は、何を取り戻したかった)
王座か。
兵か。
女か。
天下を動かしたという誇りか。
もう自分でも分からない。
ただ一つだけ分かった。
自分の恨みに付き合わせた結果、呉広は死んだ。
その責任を自分へ向ければ、耐えられそうになかった。
だから陳勝は俺を見た。
「扶蘇!」
馬腹を蹴り、一直線にこちらへ向かってくる。
「全部、お前のせいだ!」
◆
「扶蘇様!」
蒙凛の声が飛んだ。
陳勝は周囲の兵を無視し、剣だけを振るって俺へ迫る。もう軍を率いる者の動きではなく、俺一人を道連れにしようとする男の突進だった。
俺も剣へ手をかけた。
距離が縮まる。
だが、その前に蒙凛が弓を引いた。
馬上でも身体の軸はぶれず、矢尻は陳勝の胸を正確に捉えている。
弦が鳴った。
矢が俺の横を抜け、陳勝の胸へ深く突き刺さった。
「……がっ」
陳勝の身体が大きく揺れ、手から剣が落ちた。馬が数歩進んだ後、その身体も地面へ転がり落ちる。
俺が振り返ると、蒙凛はすでに次の矢を番えていた。
「扶蘇様へ近づけさせません」
声に迷いはなかった。
◆
俺は馬を降り、倒れた陳勝のもとへ歩いた。
胸には蒙凛の矢が深く刺さっている。まだ息はあったが、助からないことは本人にも分かっているようだった。
「……女に守られてばかりだな」
掠れた声に、俺は小さく息を吐いた。
「そうだな」
否定する理由もない。
蒙恬にも、蒙凛にも、何度助けられたか分からない。
「俺より……よほど王侯らしい」
「それは褒めてるのか」
「知らん」
陳勝は僅かに口元を歪めた。
やがて視線が俺から外れ、地面の向こうを探す。
「呉広は?」
俺は少しだけ間を置いた。
「死んだ」
「……そうか」
陳勝は目を閉じた。
「最後まで、馬鹿な女だ」
言葉とは裏腹に、その声から恨みは消えていた。
しばらくして、陳勝はもう一度口を開いた。
「王侯将相いずくんぞ種あらんや」
かつて天下へ叫んだ言葉だった。
「俺は……本気だったんだぞ。農民でも、何者にでもなれるって」
「ああ」
「男だからって王侯だけに囲われる世も嫌だった。貧乏人だからって最初から下に置かれるのも嫌だった」
そこまでは嘘ではなかったのだろう。
「なのに、俺は王になって……」
言葉が途中で途切れる。
続きを聞く必要はなかった。
自分が否定した側へ、自分自身が近づいていった。
陳勝は最後になって、ようやくそれを自分の言葉で認めようとしていた。
「お前は、どうなる」
薄く開いた目が俺を見る。
「分からない」
「王になるんじゃないのか」
「なるかもしれない。でも、どこかで負けて死ぬかもしれない。今の俺には、本当に分からない」
陳勝は少しだけ笑った。
「だったら……俺と同じじゃねえか」
「そうかもしれないな」
俺が答えると、陳勝は目を閉じた。
それきり、二度と開かなかった。
◆
陳勝と呉広を失った敗残兵は、ほどなく戦意を失った。
武器を捨てて逃げる者もいれば、その場で降伏する者もいた。俺は追撃を命じず、戦える者だけを警戒に残して、二人の亡骸を街道脇へ運ばせた。
「この二人、どうなさいますか」
兵に尋ねられ、俺は少し考えた。
「一緒に葬ってくれ」
驚いた顔をされた。
「よろしいので?」
「俺の名を騙ったことも、最後まで俺を恨んだことも消えない。でも、この二人が最初に立ったことまで否定する必要はない」
天下で最初に大きな反秦の声を上げた二人。
道を誤り、最後には恨みだけを抱えて俺へ向かってきた。それでも、あの雨の日に立つと決めた時の覚悟まで偽物だったわけではない。
蒙恬が戻ってきた。
剣にはまだ呉広の血が残っている。
「扶蘇様」
「怪我は?」
「ございません」
蒙凛も馬を寄せてくる。
俺は二人を見て、小さく頭を下げた。
「助かった。二人とも」
「当然です」
蒙凛がすぐに答え、蒙恬も静かに頷いた。
◆
翌朝、俺たちは再び東へ向かった。
陳勝と呉広を倒したところで、土地を得たわけでも、章邯の追撃が止まったわけでもない。多少の敗残兵が加わったとしても、俺たちが流浪の軍であることに変わりはなかった。
ただ、一つの因縁だけは終わった。
俺は馬上から東の街道を見た。
この先に何があるのかは、まだ分からない。
けれど、分からないまま進むことにも少しずつ慣れてきた。
前世で知っている歴史へ戻るためではない。
今ここに残っている兵と、生き残るために進む。
陳勝と呉広の墓を背に、俺たちは再び東への流浪を続けた。




