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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第3章 群雄割拠

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第71話 王侯将相

 夕暮れの街道を塞ぐように、数千の兵が陣を敷いていた。その中央に翻る旗の下には、陳勝(ちんしょう)呉広(ごこう)がいる。


 一度は張楚を興し、天下へ反秦の火を放った二人。そして俺に名を奪われ、軍を失い、追われるように姿を消した二人だった。


「……本当に来たか」


 俺が呟くと、隣を進む蒙恬(もうてん)が静かに剣へ手を置いた。


「扶蘇様。数はこちらと大差ございませんが、向こうは待ち構えております。敗残兵とはいえ、油断はなさらぬよう」


「ああ。ここで避けても、あいつらは追ってくるだろうしな」


 こちらも函谷関(かんこくかん)の敗北から東へ流れてきたばかりで、兵たちの疲労は濃い。それでも北辺から残った精鋭三千は隊列を保ち、蒙恬(もうてん)の命令一つで動ける状態を失ってはいなかった。


 問題は、向こうの狙いが戦そのものではないことだった。


 陳勝(ちんしょう)は、俺を殺すために来ている。



 陳勝(ちんしょう)は、遠くに見える俺の旗を睨みながら拳を握っていた。


 自分が王だった頃のことを、忘れた日はない。


 人々が自分の名を叫び、兵が命令を待ち、女たちが列を作った。何者でもなかった農民の男が、わずかな間とはいえ天下へ名を響かせた時間だった。


 それを壊したのが扶蘇(ふそ)だと、陳勝(ちんしょう)は思い続けてきた。


 だが心の奥では、もっと嫌なことも分かっている。


 自分が掲げた「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉と、自分自身の行いが離れていった。万人へ種を開くと言いながら、いつしか金や兵を持つ女を選び、自分が否定した王侯と変わらない振る舞いを始めた。


 本物の扶蘇(ふそ)は、その矛盾を民の前で言葉にしただけだった。


 奪われたのではない。


 自分で失った。


 そう認めれば、自分の敗北を受け入れなければならなくなる。それができなかったから、陳勝(ちんしょう)は恨みを俺一人へ向け続けた。


「今度こそ終わらせる」


 低い声に、隣の呉広(ごこう)が視線を向ける。


扶蘇(ふそ)を討って、何が戻る?」


「何も戻らん」


「なら、なぜ戦う」


「戻らないからだ」


 陳勝(ちんしょう)は俺の旗から目を離さなかった。


「張楚も、王座も、もう戻らん。ならせめて、あいつだけは俺の手で終わらせる」


 呉広(ごこう)はしばらく黙っていたが、それ以上は何も言わなかった。


 彼女自身もまた、ここまで来た理由を理屈だけで説明できなかったからだ。


 最初に立ったあの日、雨の中で「このまま死ぬくらいなら反旗を翻す」と決めた。その時から、呉広(ごこう)陳勝(ちんしょう)の隣にいた。


 陳勝(ちんしょう)が変わったことも知っている。


 王を名乗り、女を選び、民を失望させたことも分かっていた。


 それでも離れなかった。


 正しいからではない。


 一緒に始めたからだった。


(ここまで来たなら、最後まで付き合うしかない)


 呉広(ごこう)は長柄の矛を握り直した。



 両軍の距離が縮まり、やがて互いの顔が見えるほどになったところで、俺は馬を前へ出した。


陳勝(ちんしょう)


「久しいな、扶蘇(ふそ)


 前に会った時のような、王を気取った余裕はもうなかった。衣は粗末になり、顔には疲れが刻まれている。それでも目の奥の執念だけは、以前より濃くなっていた。


「ここで待っていたのか」


「お前を殺すためにな」


「俺を殺したところで張楚は戻らないぞ」


「知っている」


 返事に迷いはなかった。


「俺はお前から張楚を取り戻しに来たんじゃない。ただ、お前だけは殺す。それでいい」


 俺は陳勝(ちんしょう)を見つめた。


 この男が最初に立ったこと自体を、俺は間違いだとは思っていない。


 秦の法に追い詰められ、黙って罰を待つくらいなら立つと決めた。その決断が、天下を動かす最初の大きな火になったのは事実だ。


「お前が立ったことは間違いじゃなかった」


 陳勝(ちんしょう)の眉が動いた。


「今さら何を言う」


「でも、その後で道を間違えた」


「黙れ」


「俺だって間違えた」


 その言葉に、陳勝(ちんしょう)が一瞬だけ黙る。


「五十万を集めれば秦と戦えると思った。蒙恬(もうてん)を送れば軍として立て直せるとも考えた。それでも函谷関(かんこくかん)で負けた。だから俺も、偉そうに正解を語れる立場じゃない」


 敗北を口にすると、胸の奥が重くなる。それでも続けた。


「ただ、負けた理由を誰か一人に押しつけて、その相手を殺せば済むとは思いたくない」


 陳勝(ちんしょう)の顔から、わずかに残っていた笑みが消えた。


「言いたいことはそれだけか」


「ああ」


「なら、死ね」


 陳勝(ちんしょう)が剣を抜いた。


 ほぼ同時に呉広(ごこう)が矛を掲げ、数千の敗残兵が声を上げる。


「全軍、進め!」


 街道の両側から兵が動き出した。



 最初の衝突から、軍としての差は明確だった。


 陳勝(ちんしょう)のもとへ集まったのは、張楚崩壊後に行き場を失った敗残兵が中心である。個々には修羅場をくぐった者もいるが、部隊としてのまとまりは弱く、前へ出る者と遅れる者の間にすぐ隙間ができた。


 一方、こちらの三千は北辺から幾度もの敗走を生き抜いた兵たちだった。蒙恬(もうてん)の号令に合わせて前列が受け、後列が支え、押すべきところだけを押していく。


 それでも、呉広(ごこう)のいる一角だけは簡単に崩れなかった。


「退くな! ここを破れば扶蘇(ふそ)まで届く!」


 呉広(ごこう)は自ら先頭に立ち、長柄の矛を振るった。一人を馬から突き落とし、返した柄で別の兵の肩を打ち、崩れかけた味方を怒鳴って前へ戻す。


 蒙恬(もうてん)はその姿を見つけると、周囲の兵へ短く命じた。


「中央を保ってください。呉広(ごこう)殿は私が止めます」


 馬を進める蒙恬(もうてん)へ、呉広(ごこう)も真正面から向かってきた。


「秦の将軍!」


「あなたが呉広(ごこう)殿ですね」


「そこを退け!」


 矛先が一直線に伸びる。


 蒙恬(もうてん)は馬上で身体を捻り、胸元を掠めた穂先をやり過ごした。そのまま剣を抜き、矛の柄を横から打って軌道を外す。


 呉広(ごこう)もすぐに武器を引き、今度は横薙ぎに切り替えた。


 長柄を生かした連撃は荒々しいが速い。


 蒙恬(もうてん)は無理に受けず、馬を半歩ずつ動かして間合いを測った。


「まだ陳勝(ちんしょう)殿についていくのですか」


 攻防の最中、蒙恬(もうてん)が問いかけた。


「今さら何を聞く!」


「張楚はもうありません。王座も失われました。それでも?」


 呉広(ごこう)は矛を短く持ち直し、蒙恬(もうてん)の顔を狙って突き込んだ。


「始めた時から一緒だった。それだけだ!」


 蒙恬(もうてん)は剣でその一撃を受け流し、わずかに目を細めた。


 その答えを、理解できないわけではなかった。


 忠義や情は、正しい者だけに向くものではない。


 もし天下の全てが扶蘇(ふそ)を逆賊と呼ぼうと、蒙恬(もうてん)自身が簡単に主君のもとを離れることなどない。


「……そうですか」


「何だ!」


「ならば、私も同じです」


 蒙恬(もうてん)は次の矛を受けるのではなく、自ら前へ踏み込んだ。


 長柄の内側。


 呉広(ごこう)が最も力を出しにくい距離だった。


 呉広(ごこう)は慌てて柄を引こうとしたが、蒙恬(もうてん)の方が早い。剣が脇腹を深く斬り、呉広(ごこう)の身体が大きく揺れた。


 それでも彼女は倒れなかった。


「まだだ!」


 血を流しながら矛を振り下ろす。


 蒙恬(もうてん)は馬を滑らせるように横へかわし、すれ違いざまにもう一度剣を振った。


 今度の一太刀は深かった。


 呉広(ごこう)の手から矛が落ちる。


「……陳勝(ちんしょう)


 最後に盟友の名だけを口にし、呉広(ごこう)は馬上から崩れ落ちた。



呉広(ごこう)!」


 戦場に陳勝(ちんしょう)の声が響いた。


 その瞬間、陳勝(ちんしょう)の中で何かが切れた。


 雨の中で初めて立った日。


 まだ王でも何でもなく、ただ死にたくない農民だった自分の横に、呉広(ごこう)はいた。


 勢力を得てからも。


 民に見放されてからも。


 張楚を追われてからも。


 最後まで残ったのは、呉広(ごこう)だった。


(俺は、何を取り戻したかった)


 王座か。


 兵か。


 女か。


 天下を動かしたという誇りか。


 もう自分でも分からない。


 ただ一つだけ分かった。


 自分の恨みに付き合わせた結果、呉広(ごこう)は死んだ。


 その責任を自分へ向ければ、耐えられそうになかった。


 だから陳勝(ちんしょう)は俺を見た。


扶蘇(ふそ)!」


 馬腹を蹴り、一直線にこちらへ向かってくる。


「全部、お前のせいだ!」



「扶蘇様!」


 蒙凛(もうりん)の声が飛んだ。


 陳勝(ちんしょう)は周囲の兵を無視し、剣だけを振るって俺へ迫る。もう軍を率いる者の動きではなく、俺一人を道連れにしようとする男の突進だった。


 俺も剣へ手をかけた。


 距離が縮まる。


 だが、その前に蒙凛(もうりん)が弓を引いた。


 馬上でも身体の軸はぶれず、矢尻は陳勝(ちんしょう)の胸を正確に捉えている。


 弦が鳴った。


 矢が俺の横を抜け、陳勝(ちんしょう)の胸へ深く突き刺さった。


「……がっ」


 陳勝(ちんしょう)の身体が大きく揺れ、手から剣が落ちた。馬が数歩進んだ後、その身体も地面へ転がり落ちる。


 俺が振り返ると、蒙凛(もうりん)はすでに次の矢を番えていた。


「扶蘇様へ近づけさせません」


 声に迷いはなかった。



 俺は馬を降り、倒れた陳勝(ちんしょう)のもとへ歩いた。


 胸には蒙凛(もうりん)の矢が深く刺さっている。まだ息はあったが、助からないことは本人にも分かっているようだった。


「……女に守られてばかりだな」


 掠れた声に、俺は小さく息を吐いた。


「そうだな」


 否定する理由もない。


 蒙恬(もうてん)にも、蒙凛(もうりん)にも、何度助けられたか分からない。


「俺より……よほど王侯らしい」


「それは褒めてるのか」


「知らん」


 陳勝(ちんしょう)は僅かに口元を歪めた。


 やがて視線が俺から外れ、地面の向こうを探す。


呉広(ごこう)は?」


 俺は少しだけ間を置いた。


「死んだ」


「……そうか」


 陳勝(ちんしょう)は目を閉じた。


「最後まで、馬鹿な女だ」


 言葉とは裏腹に、その声から恨みは消えていた。


 しばらくして、陳勝(ちんしょう)はもう一度口を開いた。


「王侯将相いずくんぞ種あらんや」


 かつて天下へ叫んだ言葉だった。


「俺は……本気だったんだぞ。農民でも、何者にでもなれるって」


「ああ」


「男だからって王侯だけに囲われる世も嫌だった。貧乏人だからって最初から下に置かれるのも嫌だった」


 そこまでは嘘ではなかったのだろう。


「なのに、俺は王になって……」


 言葉が途中で途切れる。


 続きを聞く必要はなかった。


 自分が否定した側へ、自分自身が近づいていった。


 陳勝(ちんしょう)は最後になって、ようやくそれを自分の言葉で認めようとしていた。


「お前は、どうなる」


 薄く開いた目が俺を見る。


「分からない」


「王になるんじゃないのか」


「なるかもしれない。でも、どこかで負けて死ぬかもしれない。今の俺には、本当に分からない」


 陳勝(ちんしょう)は少しだけ笑った。


「だったら……俺と同じじゃねえか」


「そうかもしれないな」


 俺が答えると、陳勝(ちんしょう)は目を閉じた。


 それきり、二度と開かなかった。



 陳勝(ちんしょう)呉広(ごこう)を失った敗残兵は、ほどなく戦意を失った。


 武器を捨てて逃げる者もいれば、その場で降伏する者もいた。俺は追撃を命じず、戦える者だけを警戒に残して、二人の亡骸を街道脇へ運ばせた。


「この二人、どうなさいますか」


 兵に尋ねられ、俺は少し考えた。


「一緒に葬ってくれ」


 驚いた顔をされた。


「よろしいので?」


「俺の名を騙ったことも、最後まで俺を恨んだことも消えない。でも、この二人が最初に立ったことまで否定する必要はない」


 天下で最初に大きな反秦の声を上げた二人。


 道を誤り、最後には恨みだけを抱えて俺へ向かってきた。それでも、あの雨の日に立つと決めた時の覚悟まで偽物だったわけではない。


 蒙恬(もうてん)が戻ってきた。


 剣にはまだ呉広(ごこう)の血が残っている。


「扶蘇様」


「怪我は?」


「ございません」


 蒙凛(もうりん)も馬を寄せてくる。


 俺は二人を見て、小さく頭を下げた。


「助かった。二人とも」


「当然です」


 蒙凛(もうりん)がすぐに答え、蒙恬(もうてん)も静かに頷いた。



 翌朝、俺たちは再び東へ向かった。


 陳勝(ちんしょう)呉広(ごこう)を倒したところで、土地を得たわけでも、章邯(しょうかん)の追撃が止まったわけでもない。多少の敗残兵が加わったとしても、俺たちが流浪の軍であることに変わりはなかった。


 ただ、一つの因縁だけは終わった。


 俺は馬上から東の街道を見た。


 この先に何があるのかは、まだ分からない。


 けれど、分からないまま進むことにも少しずつ慣れてきた。


 前世で知っている歴史へ戻るためではない。


 今ここに残っている兵と、生き残るために進む。


 陳勝(ちんしょう)呉広(ごこう)の墓を背に、俺たちは再び東への流浪を続けた。

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