第70話 流浪
函谷関から退いた蒙恬が、三千の兵を率いて成皋へ戻ってきた。
城門をくぐる兵たちの姿を見ただけで、戦の結果は分かった。北辺から幾度もの敗戦を生き延びてきた精鋭たちは隊列こそ崩していなかったが、鎧には新しい傷が増え、誰もが疲れ切った顔をしていた。
俺は城内へ入った蒙恬を迎えた。
「周文は?」
蒙恬は馬を降りると、俺の前で頭を下げた。
「討ち死になされました。函谷関も秦軍に奪い返され、五十万の軍は完全に瓦解しております」
「……そうか」
予想していた結果だった。
それでも、実際に聞けば重い。
前世で知っていた歴史でも、周文の軍は秦の反撃によって敗れる。だからこそ蒙恬を送り、少しでも結果を変えようとした。
だが五十万という数は、最後まで一つの軍にはならなかった。
「お前たち三千は?」
「大きな損害は出しておりません。敗走する軍には巻き込まれぬよう退路を確保し、追撃を受けながらも隊列を維持して撤退いたしました」
「よく戻ってきてくれた」
これは慰めではなかった。
五十万が消えた今、この三千は俺が確実に動かせる最後の精鋭だった。
◆
函谷関での敗北は、一つの戦に負けただけでは済まなかった。
周文の大軍が健在だった頃は、各地の反秦勢力も俺たちを無視できなかった。ところが五十万が崩れたという報せが広がると、昨日までこちらへ従うと言っていた者たちまで態度を変え始めた。
兵を率いて離れる者。
故郷へ戻る者。
楚へ向かう者。
章邯の名を聞いただけで武器を捨てる者もいた。
五十万という数を支えていたのは、俺への忠誠だけではない。秦を倒せると思ったから集まっていた者も多かったのだ。
勝てないとなれば、離れていく。
乱世では、それも当然だった。
「東の諸郡からも帰順を撤回するという知らせが届いております」
軍議で蒙凛が報告書を読み上げた。
「楚へ合流した者も少なくありません」
「項梁のところか」
「はい」
俺は地図へ目を落とした。
俺たちが急速に衰える一方で、楚は勢いを増している。
秦を憎む旧六国の者たちにしてみれば、敗れた秦の公子より、楚再興を掲げる項梁や項羽を選ぶ方が自然なのだろう。
それを責めることはできなかった。
◆
さらに悪い報せが続いた。
章邯が止まらない。
函谷関を奪還しただけではなく、そのまま東へ軍を進め、散り散りになった反乱軍を次々と撃破しているという。
敵が集結する前に攻める。
一つを潰せば、次へ向かう。
数で勝る相手でも、まとまる前に各個に叩く。
急造の囚徒軍を率いているとは思えないほど、動きに迷いがなかった。
「このまま進めば、いずれ成皋へも来ます」
蒙恬が地図上の道を指した。
「城に籠もって迎え撃つのは?」
蒙凛が尋ねる。
「難しいでしょう」
蒙恬は即答した。
「成皋は守るに適した土地ではございますが、今の兵力では足りません。籠城すれば章邯に囲まれ、援軍もないまま消耗するだけです」
俺たちが今ここで動かせる正規兵は三千。
周辺に残っている民兵を合わせても、かつての五十万とは比較にならない。
しかも章邯は勢いに乗っている。
「では、ここを捨てるしかないか」
俺の問いに、蒙恬は静かに頷いた。
「はい。一度、東へ退くべきかと存じます」
成皋は王氏の領地だった。
函谷関から逃げてきた俺たちを受け入れ、食糧も兵も提供してくれた場所でもある。
だが、それだけを理由に三千をここで失うわけにはいかない。
「……東へ行こう」
そう決めた。
◆
出立の準備は、すぐに始めた。
持ち出せる兵糧は限られている。荷車を増やせば行軍が遅くなるため、蒙恬は必要な物だけを選ばせ、残りは成皋の民へ返した。
城内にいた者たちの中には、俺たちについて来たいという者もいた。
「公子扶蘇様、我らもお連れください」
「秦軍が来れば、我らも反逆者として罰せられます」
俺はその全てを兵として連れていくことはしなかった。
「戦える者だけ来てくれ。家族がいる者は無理をするな」
「ですが」
「俺について来れば安全だとは言えない」
今の俺には、それを約束する資格がなかった。
函谷関で五十万を失ったばかりだ。
民を救うと言っておきながら、勝てる見込みもないまま連れ歩けば、それこそ無責任だった。
それでも残る者はいた。
農民。
敗残兵。
俺の布告した法を信じてこちらへ来た者たち。
その一部を加え、俺たちは成皋を出た。
◆
行き先は、決まっていなかった。
西には函谷関と章邯。
南東では楚が勢力を広げている。
北へ戻る道も遠く、北辺に残した軍との連絡はいまだ安定していない。
だから東へ進む。
それしかなかった。
軍というより、逃げる一団に近い。
先頭には蒙恬が立ち、周囲へ斥候を放つ。俺と蒙凛は中ほどを進み、負傷者と荷車を守った。
街道には、俺たちと同じような者が溢れていた。
反乱軍から逃げてきた者。
秦軍から逃げる者。
村を焼かれ、家財を荷車へ積んで歩く家族。
昨日までどこの軍にいたのかすら分からない兵が、武器だけを持って道端に座り込んでいることもあった。
天下が崩れている。
それを、地図でも報告書でもなく、自分の目で見せつけられた。
◆
数日進んでも、状況は変わらなかった。
「この先の県も、門を閉ざしております」
斥候からの報告に、俺は苦笑した。
「またか」
「公子扶蘇様を敵視しているというより、どの軍も入れたくないのでしょう」
蒙恬の言う通りだった。
今の俺たちは、秦から見れば反逆軍。
旧六国から見れば秦の公子が率いる軍。
食糧の乏しい県から見れば、何千という兵を連れて現れた厄介な客だ。
どこへ行っても歓迎される理由がない。
「だったら、外で休もう」
「よろしいのですか?」
「門を無理に開けさせたら、俺たちも略奪する軍と変わらない」
近くの川辺に陣を置かせた。
兵たちは乾いた飯を食い、交代で眠る。
俺も地面へ腰を下ろした。
少し前まで五十万の兵を持っていた。
数だけなら天下最大の勢力だった。
それが今は、宿を借りる場所すら探しながら東へ進んでいる。
変わる時は、あっという間だった。
◆
「扶蘇様」
蒙凛が水の入った器を差し出した。
「ありがとう」
受け取って飲む。
隣では蒙恬が、翌日の道を確認していた。
「母上、少しは休んだ方がいいよ」
蒙凛が言う。
「斥候が戻るまでは起きています」
「昨日もそう言ってたじゃない」
蒙恬は困ったように笑った。
そのやり取りを見ながら、俺はしばらく黙っていた。
五十万はいなくなった。
土地もない。
味方になってくれる大勢力もない。
だが、この二人と三千の兵は残っている。
なら、今はそれで進むしかない。
「どこまで行く?」
蒙凛が俺へ尋ねた。
「分からない」
素直に答えた。
「でも、章邯から距離を取る。落ち着ける場所を見つけたら、そこでまた考える」
以前なら、この先の歴史から目的地を決めようとしていたかもしれない。
今は違う。
知っている人物が、知っている通りに動くとは限らない。
まず生き残る。
その上で、自分の道を決めるしかなかった。
◆
同じ頃。
張楚の残党の中にも、東へ動く俺たちの情報を集めている者がいた。
陳勝と呉広である。
俺に追い出された後、二人は各地を転々としながら、かつて張楚に属していた敗残兵を少しずつ集めていた。
函谷関の敗北は、二人にとって好都合だった。
散った兵はいくらでもいる。
主を失った者。
故郷へ帰れない者。
食べるためなら誰にでも従う者。
そうした者が、再び二人の周囲へ集まり始めていた。
「扶蘇は東へ逃げている」
報告を聞いた陳勝が言った。
「兵は?」
「多くても数千」
呉広が答える。
陳勝は黙った。
かつて自分から張楚を奪った男。
民の前で偽物と暴かれ、追い出された日のことを忘れたことはない。
そして今、その扶蘇は五十万を失った。
「……今ならやれる」
陳勝が立ち上がった。
呉広も止めなかった。
「兵を集める」
「ああ」
「今度は逃がさない」
二人のもとには、すでに数千の敗残兵がいた。
◆
夕暮れ。
俺たちは再び東へ進んでいた。
前方から戻ってきた斥候が、馬を飛ばしてこちらへ駆け寄ってくる。
「公子扶蘇様!」
その様子を見て、蒙恬が馬を前へ出した。
「どうしました」
「この先の街道に軍勢がございます。数は数千ほど!」
「秦軍ですか?」
「いえ、旗が違います」
俺は眉を寄せた。
「誰の軍だ?」
斥候は一度息を整えてから答えた。
「陳勝と呉広にございます」
思わず前方を見る。
行く当てもなく東へ流れてきた俺たちの前に。
一度は追い払ったはずの二人が、再び現れようとしていた。




