第69話 函谷関の攻防
函谷関。
西の関中と東方を隔てるこの関は、長く秦の東門として諸国の侵攻を阻んできた。その前へ、周文が率いる反乱軍が押し寄せた。
数、およそ五十万。
もっとも、その全てが武器を揃えた兵士ではない。秦の支配から逃れて加わった農民、旧張楚の兵、地方で蜂起した者たちが次々と合流した結果、途方もない人数に膨れ上がった軍勢だった。
それでも、今の函谷関にとっては十分すぎる脅威だった。
各地で相次ぐ反乱を鎮圧するため、秦軍の主力は東へ分散している。かつて六国の大軍を退けた堅関も、守る兵が少なければその力を十分には発揮できない。
「押せ! ここを破れば関中だ!」
周文の号令を受け、反乱軍が関門へ殺到した。
攻め方は荒かった。
梯子を掛ける場所も、門へ押し寄せる順番も十分に整理されていない。それでも次から次へと人が押し寄せ、倒れた者の後ろから新しい兵が前へ出る。
少数の秦兵は懸命に防いだものの、やがて守る場所が足りなくなった。
門の一角が破られる。
そこへ数千、数万の兵が雪崩れ込み、守備兵を押し流した。
「関が開いたぞ!」
「入れ! 入れ!」
歓声が山々へ響いた。
天下の険、函谷関。
その関門が、反乱軍の手に落ちた。
◆
勝利に最も驚いたのは、攻めた兵たち自身だったのかもしれない。
難攻不落と聞かされてきた函谷関を、自分たちが落とした。
しかも、その先には咸陽がある。
「秦も大したことはない!」
「五十万もいれば、咸陽まで一息だ!」
関内のあちこちで酒が開けられた。
倉から持ち出した食糧を囲み、勝利を祝う声が夜まで続く。つい先日まで農民だった者たちにとって、この勝利は自分たちが天下を動かせるという証明に思えた。
その光景を、蒙恬だけは険しい表情で見ていた。
「酒を止めさせてください。まず門と城壁を固めるべきです」
周文へ進言する。
「敵が退いた道へ斥候も出します。兵糧の所在を確認し、部隊ごとに守備位置を決めなければなりません」
「そこまで急ぐこともあるまい」
周文は上機嫌だった。
「ようやく天下の函谷関を落としたのだ。兵にも休息は必要であろう」
「休ませることには反対しておりません。ただ、全軍で浮かれるのは危険です」
蒙恬は関の西を見た。
「秦はまだ滅びておりません。ここを奪われたと知れば、必ず取り返しに来ます」
「来れば、また勝てばよい」
周文は笑った。
「我らは五十万だ」
その言葉を聞いて、蒙恬はそれ以上の説得を諦めた。
五十万。
その数字が、周文だけでなく兵たちの目まで曇らせていた。
◆
蒙恬は、自分の指揮下にある兵だけでも備えさせた。
北辺から扶蘇とともに落ち延び、幾度もの戦いを生き抜いてきた三千。
敗走を繰り返しながらも軍としての形を失わなかった、扶蘇軍の中核だった。
「周囲が何をしていても、こちらは警戒を解きません」
蒙恬の前に、将兵たちが整列している。
「鎧を脱ぐ者は交代で。武器は手の届く場所へ置き、夜警を増やしてください。西へ斥候を出し、少しでも動きがあればすぐ知らせるように」
「はっ!」
こちらには命令が通る。
わずか三千。
だが蒙恬にとっては、五十万の中で確実に動かせる兵が三千いることの方が重要だった。
その日の夕刻。
西へ放っていた斥候が戻ってきた。
「蒙恬将軍!」
「何がありました」
「西方より大軍! こちらへ向かっております!」
蒙恬の表情が変わった。
「旗は?」
「秦軍にございます。率いる将は、章邯と!」
「……来ましたか」
予想より早い。
蒙恬はすぐに馬へ乗った。
「全軍、戦闘配置へ。周文殿にも急報を!」
◆
その頃、章邯は函谷関の西方まで進んでいた。
後ろに続くのは、驪山から解放された刑徒たち。
数こそ膨大だが、こちらも正規軍ではない。
章邯は、そのことを誰より理解していた。
「難しいことをさせる必要はありません」
将校たちへ命じる。
「隊列を崩さず関まで進ませる。敵は勝った直後です。陣を整える前に叩きます」
「しかし、敵は五十万との報告です」
「こちらも数なら足ります」
章邯は淡々と答えた。
「それに、五十万を一度に相手にする必要はありません」
敵軍全てが同じ意志で動くわけではない。
先ほどまで農民だった者、別の土地から合流した者、陳勝時代から戦っている者。
巨大であるがゆえに、命令が伝わるまで時間がかかる。
しかも今は勝利の直後。
「関の中が乱れていれば、そのまま押し込みます。敵に考える時間を与えないでください」
章邯は剣を抜いた。
「戦えば罪を赦すという約束は変わりません。生きて驪山へ戻りたくない者は、前へ」
刑徒たちが武器を握り直した。
自由を得るために戦う。
それだけは、どの兵にも分かりやすかった。
◆
「敵襲!」
警鐘が鳴った時、反乱軍の陣はまだ整っていなかった。
「秦軍だ!」
「西から来るぞ!」
酒を飲んでいた者が慌てて武器を探し、眠っていた者が飛び起きる。自分の部隊がどこに集まるのか分からず、人の流れに押されて走る者もいた。
周文は急いで本陣へ戻った。
「兵を集めろ! 門を固めよ!」
「どの隊を門へ!?」
「近くにいる者から出せ!」
命令は飛ぶ。
だが、五十万へ届く前に別の命令とぶつかった。
前へ進めと言われた兵と、関内へ戻れと言われた兵が同じ道で衝突し、兵糧車まで道を塞ぐ。
そこへ章邯軍が襲いかかった。
最初に崩れたのは、西側へ出ていた部隊だった。
反撃する者もいたが、周囲が退き始めると自分たちも取り残されることを恐れて下がる。その退却が後ろの兵には敗走に見え、さらに後方へ伝わった。
「負けたぞ!」
「秦軍が入ってくる!」
誰かが叫んだ。
事実かどうかを確かめる者はいない。
人の波が東へ動き始めた。
五十万という大軍は、前へ進む時には圧倒的な力となった。
だが今は、その数そのものが逃げ道を塞いだ。
◆
「止まれ!」
蒙恬の声が飛ぶ。
「こちらは退くな! 隊列を維持してください!」
三千の兵だけは、その場に踏みとどまった。
盾を並べ、槍を前へ出す。
周囲を逃げる農民兵がぶつかってきても、隊列を崩さない。
「通す場所を開けろ! 味方を押し返すな!」
蒙恬は敵だけではなく、味方の敗走まで計算に入れながら陣を動かした。
その前へ章邯軍が迫る。
刑徒兵が勢いのまま突撃した。
「構えて!」
槍衾が迎え撃つ。
突っ込んできた兵が倒れ、その後ろが詰まる。横から回り込もうとすれば、隊列の端が向きを変えて塞いだ。
それまで農民兵を追い立てていた刑徒軍の勢いが、そこで初めて止まった。
◆
離れた場所から戦場を見ていた章邯は、すぐに違いへ気づいた。
「……あの部隊は何です」
「分かりませぬ。敵軍の一部かと」
「一部ではありません」
他の反乱軍とは動きが違いすぎる。
味方が崩れても釣られず、敵が押せば正面で受け、横へ回れば即座に陣形を変える。
章邯は目を細めた。
「旗を確認してください」
しばらくして報告が返る。
「蒙の旗!」
そこで章邯は理解した。
「蒙恬ですか」
かつて秦の北辺軍を率いた将。
扶蘇に従って朝廷へ反旗を翻し、現在も生きている。
ならば、あの三千をここで潰す価値は大きい。
「左右から兵を回してください。正面で止め、退路を切ります」
命令を受けた刑徒軍が動き始めた。
◆
敵の動きを見た蒙恬も、その意図を悟った。
こちらへ兵が集まり始めている。
章邯は、逃げる農民兵より自分たちを狙うことに決めたらしい。
「周文殿は?」
「本陣との連絡が取れませぬ!」
「探しに行かせる必要はありません」
すでに全軍を立て直せる段階ではなかった。
周囲では反乱軍が東へ逃げ続け、旗も次々と倒れている。
戦は終わっている。
残る問題は、どれだけ生きて帰れるかだけだった。
「退きます」
部下たちが蒙恬を見る。
「ただし走ってはなりません。前列から順に下がり、敵が来れば止まって迎え撃つ。三千を三千のまま持ち帰ります」
「はっ!」
号令とともに、陣がゆっくり動き始めた。
前列が敵を防いでいる間に後列が下がる。
距離が開けば前列も退き、再び陣を組む。
それを繰り返した。
章邯軍も追うが、急ごしらえの刑徒兵では、崩れず退く精鋭を容易には包囲できない。
「追いすぎないでください!」
章邯も無理をさせなかった。
この戦の目的は蒙恬一人ではない。
函谷関を奪還し、反乱軍の主力を潰すことだ。
それはもう達成されつつあった。
◆
周文が討たれたとの報せが届いたのは、蒙恬が関から十分に離れた後だった。
混乱する本陣を立て直そうとしているところを秦軍に攻め込まれ、退くことができなかったという。
蒙恬は馬上でしばらく黙った。
五十万。
あれだけいた兵が、もう軍として存在していない。
もちろん全員が死んだわけではない。武器を捨てて逃げた者もいれば、故郷へ戻る者、別の反秦勢力へ流れる者もいるだろう。
だが、扶蘇の旗の下にあった五十万の軍勢は、この日をもって瓦解した。
「……成皋へ戻ります」
蒙恬は告げた。
「公子扶蘇様へ、すべて御報告せねばなりません」
将兵たちが黙って従う。
後方には、秦の旗が再び函谷関の上へ掲げられていた。
◆
勝利した章邯は、関内を見回っていた。
倒れた兵。
捨てられた武器。
逃げる際に放置された荷車。
先ほどまで五十万を数えた反乱軍の痕跡が、至るところに残っている。
「追撃いたしますか」
副将が尋ねた。
「逃げる者全てを追う必要はありません」
章邯は答えた。
「ここで大軍を破ったという事実の方が重要です」
反乱軍も、各地の豪族も、これで知る。
秦にはまだ戦える将がいる。
そして刑徒を集めただけの軍でも、使い方次第では数十万の反乱軍を破れる。
「次へ向かいます」
「次、でございますか」
「この反乱は周文だけではありません」
章邯は東を見た。
各地で上がった反秦の旗は、まだ数え切れないほど残っている。
函谷関を取り戻しただけでは終わらない。
「一つずつ潰します」
秦が崩れ始めた乱世に、これまで宮中にいた一人の女将が姿を現した。
章邯。
その名を、反秦の諸勢力が恐れることになる戦いは、ここから始まった。




