第68話 法三章と驪山の囚徒
軍師張良を得てから、劉邦の軍は目に見えて変わった。
それまで城を攻めては退けられ、勢いだけで戦っていた集団が、敵の弱点を見極めて攻めるようになった。張良が策を立て、蕭何が兵糧と人員を整え、曹参と樊噲が兵を動かす。劉邦自身は相変わらず大雑把だったが、自分より優れた者へ迷わず仕事を任せることで、軍全体が強くなっていた。
沛の劉邦が軍師を得て勝ち始めた。
その噂は、俺のところにも届いた。
「……劉邦か」
報告を読みながら、俺は思わずその名を口にした。
前世で知らないはずがない。
後に漢を興す男。
だが今の俺にとって重要なのは、遠い未来の皇帝としてではない。すでに兵を持ち、人を集め、実際に勝ち始めている一勢力としての劉邦だった。
こちらには人が足りない。
農民や儒者は集まってきても、軍を率いられる者や独自に勢力を持つ者は少ない。劉邦をこちらへ引き込めるなら、試す価値はあった。
「使者を出したい」
俺は周囲を見渡した。
そこで名乗り出たのが、酈食其だった。
◆
酈食其は、俺のもとへ集まった儒者の一人だった。
弁舌に優れ、言葉を組み立てて相手を説くことに長けている。身なりも振る舞いも儒者らしく整っており、使者として他勢力へ出すには申し分ないと、その時の俺は考えた。
「劉邦に伝えてほしい。こちらは敵対する意思がない。共に秦の朝廷と戦う道を考えたい、と」
「承知いたしました」
酈食其は恭しく一礼し、劉邦の陣へ向かった。
それを見送りながら、俺は人選を間違えたとは少しも思っていなかった。
◆
数日後。
劉邦の陣へ着いた酈食其は、いつも通り冠を正し、礼を尽くして面会へ臨んだ。
「公子扶蘇様の使者として参りました、酈食其と申します」
ところが、劉邦は彼女の姿を見るなり露骨に顔をしかめた。
「……儒者か」
「左様にございます」
「俺、儒者って苦手なんだよな」
酈食其の眉が僅かに動いた。
「まずは公子扶蘇様よりの御言葉を」
「長い話ならいらん」
「まだ一言も申し上げておりませぬが」
劉邦は面倒そうに頭を掻くと、酈食其の冠へ手を伸ばした。
「何を」
「これ、儒者が大事にしてるやつだろ」
そのまま冠を取り上げる。
酈食其が止める間もなく、劉邦は人前でその中へ放尿した。
「なっ……!」
酈食其の顔が一瞬で赤くなる。
「何をなさるのです!」
「悪い悪い。けど俺は、礼だ徳だと講釈されるのが本当に嫌いでな」
「これは礼以前の問題でございましょう!」
近くにいた樊噲が頭を抱え、張良は少し離れたところで無言のまま目を閉じた。
劉邦だけは悪びれない。
「それで、公子扶蘇の誘いだったか」
「……左様にございます」
「断る」
即答だった。
「理由を伺っても?」
「俺は誰かの下につくのが好きじゃない。それに公子扶蘇って、儒者をたくさん抱えてるんだろ」
「それが何か」
「俺とは合わなそうだ」
酈食其は怒りを押し殺しながら、冠を取り返した。
「その御返答、確かに公子扶蘇様へお伝えいたします」
「頼む」
「冠の件も、余すところなく」
「それは別に言わなくてもいいんじゃないか?」
酈食其は答えなかった。
◆
戻ってきた酈食其から一部始終を聞き、俺は額を押さえた。
「……やってしまった」
「扶蘇様?」
蒙凛が首を傾げる。
俺は言えない。
劉邦が儒者を嫌っていたことなど、知っていたはずだった。
それなのに俺の陣営に儒者が多かったため、弁の立つ酈食其をそのまま送ってしまった。
最悪に近い組み合わせである。
「人選を誤った」
「それだけではないと思いますが」
酈食其は冷たい声で答えた。
「左様ですね」
蒙恬も苦笑する。
さらに悪いことに、劉邦には楚からも声がかかっていた。
項梁の勢力は、旧楚の遺臣や豪族を取り込みながら急速に拡大している。劉邦が選んだのは、秦の公子である俺ではなく、勢いに乗る楚だった。
これで劉邦を引き込む道は、当面なくなった。
だが、悔やんでいるだけでは人は増えない。
ならば別の方法を取るしかなかった。
◆
「法を変える」
軍議の席でそう告げると、居合わせた者たちが一斉にこちらを見た。
蒙恬が確認する。
「法、でございますか」
「ああ。俺たちが支配している土地では、秦の細かな刑罰をそのまま使わない」
「どこまで廃されるおつもりですか」
「基本は三つだけにする」
俺は指を立てた。
「人を殺せば、命をもって償わせる。人を傷つければ、その罪を問う。人の物を盗めば、罰する」
そこまで言って、手を下ろす。
「それ以外の細かな法については、当面廃止する」
部屋がざわめいた。
秦は法によって天下を治めてきた。
何をしてよいか、何をしてはならないか。刑罰だけではなく、生活や労役、官吏への責任、連座に至るまで細かく規定し、それを守らせることで広大な領土を統一している。
その秦の公子が、秦の法を大きく削る。
反発が出るのは当然だった。
「扶蘇様」
蒙恬が慎重に尋ねる。
「三つだけでは、実際の統治に足りぬ場合もございましょう。土地や借財、徴税など、争いは他にも起こります」
「分かってる。細かな取り決めが何もいらないとは言わない」
俺は頷いた。
「でも、まず刑罰の柱をそこまで減らす。何でも重罪にして民を縛るやり方はやめる」
これは完成した制度ではない。
だが今、民に示すものとしては必要だった。
「秦の法で苦しんだ者が俺のところへ来ても、同じ法で縛られるなら何の意味もないからな」
蒙凛が聞く。
「扶蘇様は、秦そのものを否定されるのですか」
「全部じゃない」
秦が作った郡県制も、度量衡も、道路も、文字の統一も、すべてを捨てればいいとは思っていない。
「残すべきものは残す。でも、民を苦しめているものまで、秦だからという理由で守る気はない」
俺はそう答えた。
◆
布告は各地へ伝えられた。
人を殺すな。
人を傷つけるな。
盗むな。
それ以外の苛烈な刑罰は、大きく改める。
単純な内容だっただけに、広まるのも早かった。
「公子扶蘇様のところでは、秦の法でいきなり重罪にされぬらしい」
「労役から逃げただけで家族まで罰せられることもないと」
「本当なのか」
「少なくとも、秦の役人よりはましだろう」
最初に動いたのは、行き場を失っていた者たちだった。
労役から逃げた農民。
税を納められず故郷を離れた者。
反乱に巻き込まれ、どの勢力へ行けばよいのか分からずにいた流民。
彼らが少しずつこちらへ集まり始める。
そこからさらに人が人を呼んだ。
皮肉なことに、旧六国の有力者を引き入れられなかった俺のもとへ、今度は名もない民が大量に集まってきた。
◆
人数が増えれば、それだけで軍が強くなるわけではない。
だが勢力としての規模は急速に膨らんだ。
陳勝から引き継いだ者。
新たに加わった農民。
各地で秦の官吏を追い出してこちらへ加わった集団。
それらを合わせれば、兵と呼べる者だけでも数十万に達し、やがて五十万近い人数が俺の旗の下に集まった。
天下でも最大級の勢力である。
そして、その大軍を率いて西へ進んだのが周文だった。
「関中へ入れば、咸陽までは遠くありません」
出陣前、周文は自信を見せていた。
「五十万ございます。今の秦に、我らを止められる兵がどれほど残っておりましょう」
「数だけで考えるな」
俺は念を押した。
「秦軍は弱くない。進むほど補給も難しくなる。函谷関を抜いたとしても、それで勝ったと思うな」
「心得ております」
そう答えた周文は、大軍を率いて西へ向かった。
目指すは函谷関。
その先には咸陽がある。
◆
大軍接近の報は、当然咸陽にも届いた。
各地で反乱が起きているため、秦軍は分散していた。
李信は魏方面。
王離は李信の麾下から別軍を任され、趙方面の反乱鎮圧へ向かっている。
数だけを見れば、函谷関へ迫る周文軍をすぐに迎撃できる大軍は手元にない。
「五十万か」
報告を受けた趙高は、騒がず地図を見た。
「関を抜かれれば、次は関中です」
李斯が重い声で答える。
「各方面の軍を呼び戻しますか」
「間に合わぬでしょう」
趙高は即座に否定した。
既存の兵を戻せない。
新たに徴兵する時間もない。
軍議の席に沈黙が広がったところで、一人の女が進み出た。
「兵なら、ございます」
趙高が視線を向ける。
「章邯」
胡亥の側近として宮中にいた女だった。
華やかな場に姿を見せることが多かったため、軍議の席にいる彼女を訝しむ者もいる。
だが章邯は周囲を気にせず、地図上の驪山を指した。
「始皇帝陵の造営には、多くの刑徒が使われております」
「刑徒を兵にするというのか」
李斯が尋ねる。
「はい」
章邯は頷いた。
「罪を赦すことを条件に武器を持たせます。農具しか持ったことのない者も多いでしょうが、死刑や終わりの見えぬ労役より、戦って赦免される方を選ぶ者は少なくないはずです」
「数は」
「数十万を揃えられます」
五十万の反乱軍に対して、数十万の囚徒。
まともな軍同士の戦いではない。
だが今の秦に選択肢は多くなかった。
趙高は少し考えた後、章邯を見る。
「率いられるのですか」
「率います」
答えに迷いはなかった。
これまで宮中にいた時とは違う眼差しだった。
趙高はそこで初めて、目の前の女を単なる胡亥の寵愛を受ける者としてではなく見た。
「陛下へお諮りしましょう」
◆
胡亥は章邯の策を認めた。
こうして驪山の刑徒たちへ武器が渡されることになった。
「戦って功を立てれば、罪を赦す」
章邯は集められた者たちへ告げた。
鎖を解かれた刑徒たちの反応は様々だった。
疑う者。
武器を受け取るなり笑う者。
ようやく驪山から出られると泣く者もいる。
章邯はその集団を見渡した。
「自由が欲しければ、勝ちなさい」
それだけを告げた。
後に秦最後の名将として恐れられる女が、初めて大軍を率いた瞬間だった。
◆
一方、成皋へ届く報告を見ながら、俺の胸には別の不安があった。
周文が率いる軍は大きい。
だが、その数字をそのまま信じることはできない。
五十万の大半は、少し前まで農民だった者たちだ。
戦場で隊列を維持できるのか。
命令は末端まで届くのか。
勝った時に追いすぎず、敗れた時に崩れず退けるのか。
秦軍を知っているからこそ、その差が気になった。
それに、前世の記憶もある。
周文の軍は秦軍に敗れる。
だが今、その記憶通りになるとは限らない。
俺が生きている。
兵数も、周囲の情勢も違う。
だから結果を知っているつもりで命令することはできなかった。
「蒙恬」
「はい」
「函谷関へ行ってほしい」
蒙恬が俺を見る。
「周文の軍を見てくれ。必要なら指揮にも入ってほしい」
「公子扶蘇様のお側を離れることになりますが」
「ここには蒙凛もいる。それより五十万が崩れたら、俺たちは立て直せない」
蒙恬は少しだけ考え、頭を下げた。
「承知いたしました」
◆
蒙恬が函谷関へ着いて最初に見たのは、軍勢の巨大さだった。
野を埋める人。
無数の旗。
遥か先まで続く天幕。
数字だけなら、確かに五十万の大軍である。
だが、陣へ入るにつれて蒙恬の表情は険しくなっていった。
「そこへ荷車を置かないでください! 通路が塞がっています!」
声をかけても、誰が担当なのか分からない。
兵糧を運ぶ者と武器を受け取る者が同じ道へ集まり、あちこちで立ち往生している。
部隊ごとの配置も曖昧で、昨日集まったばかりの者が今日には千人単位の集団へ組み込まれている。命令を伝える下級指揮官そのものが足りない。
弓を初めて握る者。
槍の構えすら知らない者。
農具をそのまま持ってきた者までいる。
戦意がないわけではなかった。
むしろ秦への怒りは強い。
だが、怒りと軍の強さは別物だった。
「周文殿」
蒙恬は本陣へ入るなり尋ねた。
「この兵を、部隊ごとに訓練されたのですか」
「進軍しながら行っております」
「進軍しながらでは間に合いません」
周文の顔が曇る。
「ですが、敵は目前です。ここまで来て止まれば、兵の勢いが失われます」
「勢いだけでは関は落とせても、その後が続きません」
蒙恬は陣の外を見た。
五十万。
数字だけなら圧倒的だ。
だが蒙恬の目には、それが巨大な軍ではなく、巨大すぎる群衆に見えていた。
そして、その群衆へ向かって。
章邯の率いる囚徒軍が、驪山から動き始めていた。




