第67話 人たらし
沛の地に、一人の男がいた。
名を劉邦という。
男が十人に一人ほどしか生まれないこの世では、それだけで周囲から特別な目を向けられることも多い。だが劉邦は、その希少さを使って富や地位を得たわけでもなく、役人として大きく出世したわけでもなかった。
酒を好み、細かなことは気にせず、面倒事があれば何とかなるだろうと笑って済ませる。
そんな男だった。
その劉邦に転機が訪れたのは、秦の賦役に駆り出された者たちを驪山へ護送していた時だった。
道中、囚徒が次々と逃げ出したのである。
「おい、また一人いなくなったぞ!」
「これでは着く頃には半分も残らん!」
同行していた者たちが青ざめる中、劉邦は頭を掻いた。
逃亡者を出した責任を問われれば、自分もただでは済まない。
逃げた者を一人ずつ捕まえ直すなど、到底できる話でもなかった。
しばらく考えた後、劉邦は残っていた者たちの縄へ手をかけた。
「もういい。お前らも逃げろ」
囚徒たちが目を見開く。
「……何を言っている?」
「ここまで逃げられたら、俺も帰れねえんだよ。だったら全員逃げた方が話が早い」
「お前はどうする」
「俺も逃げる」
劉邦は悪びれずに笑った。
「どうせ捕まれば酷い目に遭う。だったら山にでも潜って、生きられるだけ生きようぜ」
呆気に取られていた者たちの中から、やがて笑い声が漏れた。
縄を解かれれば、そのまま去ることもできた。
それでも何人かは残った。
「行くところもねえしな」
「なら、あんたについていく」
「好きにしろ」
そうして劉邦は、山沢に身を潜める小さな集団の頭になった。
◆
やがて、天下の空気が大きく変わった。
陳勝と呉広が立ち、各地で秦へ反抗する者が現れ始める。
さらに、死んだと思われていた公子扶蘇が生きていたという報せまで広まった。
「陳勝が立って、本物の公子扶蘇まで出てきたらしいぞ」
仲間から話を聞いた劉邦は、酒を飲みながら面白そうに笑った。
「なら、俺たちも山で鼠みてえに暮らしてる場合じゃねえな」
「公子扶蘇のところへ行くのか?」
「なんでだ?」
「なんでって、反秦なら一緒だろ」
「知らねえ奴の下へ入るのも面倒だ」
劉邦は器を置いた。
「自分たちでやろうぜ。その方が気楽だ」
こうして沛でも兵が立った。
だが、気楽に立ったからといって戦に勝てるわけではない。
◆
劉邦の軍は、弱かった。
集まった者には腕の立つ者もいたが、軍全体として動かす術を知る者が少ない。勢いで攻め、敵が固ければ止まり、崩れ始めれば一斉に退く。
秦の城を攻めては失敗し、別の場所へ向かってはまた押し返された。
「また負けたな」
敗走した後、劉邦は焚き火の前で平然と言った。
傍らにいた樊噲が呆れた顔をする。
「笑ってる場合か。次も同じ戦い方したら、今度こそ死ぬぞ」
「じゃあ次は違うやり方にする」
「その違うやり方が分からねえから負けてんだろうが」
「そうとも言うな」
樊噲が額を押さえた。
そんな軍だった。
ところが、不思議なことに人は減らなかった。
むしろ少しずつ増えていった。
◆
劉邦の周りには、本人とは似ても似つかないほど有能な者たちがいた。
樊噲。
かつて犬を屠って生計を立てていた女で、膂力に優れ、乱戦になれば先頭へ飛び込む。口は荒いが劉邦への忠誠は強く、危険な場所ほど自分から引き受けた。
蕭何。
もとは沛の役人で、兵糧や人員、帳簿の整理を一手に引き受けていた。劉邦がどれだけ無計画に人を増やしても、この女が後ろで帳尻を合わせるため、軍はどうにか動いている。
曹参。
これも沛の出で、実務だけでなく戦場でも頼れる。派手さはないが、部隊を預ければ崩れにくく、劉邦の雑な命令を現実に動かせる形へ直していた。
そして、その集団を一人の女が見ることになる。
張良だった。
◆
張良は本来、景駒のもとへ向かっていた。
博浪沙で始皇帝を討とうとして失敗し、下邳では老人から兵法の書を授けられた。その後も反秦の勢力を探しながら各地を巡り、自分が仕えるべき相手を見定めようとしていた。
その途上で、劉邦の一団と出会ったのである。
最初は、通り過ぎるつもりだった。
戦績だけ聞けば連戦連敗。
率いているのは名門の出でもなければ、名高い将でもない。
ところが陣へ入ってみると、張良は足を止めた。
「この兵糧の管理は、誰が?」
「私です」
答えたのは蕭何だった。
帳簿を見る。
粗末な軍にしては、兵数と食糧の把握が妙に正確だった。
続いて部隊を見る。
曹参の指揮する兵は、他より明らかにまとまっている。
さらに、陣の外では樊噲が数人を相手に武器の稽古をしていた。
(……妙だ)
張良は首を傾げた。
この三人が、それぞれ別の主へ仕えたとしても十分に働ける。
なぜ揃って、連戦連敗の男のもとにいるのか。
◆
その疑問は、劉邦本人と話すうちに少しずつ解けていった。
「つまり、この地形で正面から攻めれば、守る側が有利になります」
張良が地面へ簡単な図を描く。
「こちらの兵力では、城門へ集中しても損害が増えるだけです」
「なるほど」
劉邦はしゃがみ込み、子供のように図を覗き込んだ。
「じゃあ、どうすりゃいい?」
「兵を分け、相手の注意を散らします。その上で」
「待った」
張良が顔を上げる。
「分からなかった?」
「いや。面白いから酒持ってくる。続けてくれ」
「……酒は後でよろしいでしょう」
「そうか?」
本当に残念そうな顔をした。
張良は少し呆れながらも説明を続けた。
すると劉邦は、意外なほど早く話の要点を掴んだ。
「敵の強いところと殴り合わなくていいってことだな」
「大雑把に申せば」
「なら最初からそう言えよ」
「今、説明したでしょう」
「俺は細かい理屈を覚えるのが苦手なんだ」
悪びれもしない。
だが、自分が分からないことを隠そうともしなかった。
知らなければ聞く。
理解すれば使う。
自分より頭のいい者を前にしても、張り合おうとしない。
張良は、そこに初めて興味を持った。
◆
後日、張良はさらに踏み込んだ軍略を語った。
太公望の書から学んだ、兵の動かし方、人心の掴み方、敵将の性格を利用する方法。
並の者なら途中で退屈するような話だった。
だが劉邦は最後まで聞いた。
「それ、使えるな」
張良は僅かに眉を上げる。
「理解されたのですか」
「全部は分からん」
「……では、なぜ使えると」
「お前が使えると思って話してるんだろ?」
張良は言葉を止めた。
「だったら任せる。俺より詳しい奴が考えた方がいい」
「失敗したら?」
「その時は一緒に逃げようぜ」
あまりにも軽い。
けれど、張良は笑いそうになった。
(なるほど)
蕭何も。
曹参も。
樊噲も。
この男のもとにいる理由が、少し分かった気がした。
劉邦自身には、突出した才がない。
だからこそ、他人の才を怖がらない。
自分より優れた者がいても、それで己の立場を脅かされたとは考えず、むしろ喜んで使おうとする。
それは簡単なようで、できる者は少なかった。
張良は下邳の老人の言葉を思い出した。
王者の師となれ。
その相手がこの男なのか。
まだ断定はできない。
だが、もう少し見てみたいとは思った。
◆
「なあ、張良」
ある日、劉邦が言った。
「俺のところに来ないか」
「唐突ですね」
「お前が来てから、俺たち負け方が少しマシになった」
「勝ってはいないのですね」
「だから必要なんだよ」
劉邦は笑った。
「見ての通り、俺は戦が上手くない。頭のいい奴が必要だ。蕭何は後ろを見てもらわなきゃ困るし、曹参は兵を動かしてる。だから軍略を考える奴が欲しい」
妙に率直だった。
「お前ならできるだろ」
張良はしばらく劉邦を見た。
本来向かうはずだった景駒のことが頭をよぎる。
だが、目の前の男の方が面白い。
「……よろしゅうございます」
「おっ」
「しばらく、お力をお貸しいたしましょう」
「決まりだな!」
劉邦は嬉しそうに張良の肩を叩いた。
「ではまず、その馴れ馴れしさを改めていただきましょうか」
「そこから?」
「そこからです」
◆
張良が加わって最初に目をつけたのは、碭だった。
城そのものは大きくない。
だが守りは固く、劉邦軍が正面から攻めれば、これまでと同じ結果になる可能性が高かった。
「では、どうする?」
劉邦が尋ねる。
「中から崩します」
張良は答えた。
「県令について調べました。用心深い男ですが、女には弱いようです」
樊噲が嫌そうな顔をする。
「色仕掛けか」
「そうなります」
「誰がやる」
その問いに、張良は少しだけ黙った。
「私が」
劉邦が目を丸くした。
「お前が?」
「何か問題が?」
「いや。できるのかなと思って」
「……どういう意味でしょう」
「怖い顔してるから」
張良の目が細くなる。
「やはり、あなたを囮にしてもよろしいでしょうか」
「悪かった」
◆
城へ潜り込む前、張良は一人で衣を整えていた。
普段の旅装ではない。
戦乱から逃げてきた女に見えるよう、上等すぎる衣は避ける。その一方で、県令の目を引かなければ意味がないため、襟元はいつもより緩め、髪もあえて完全には整えなかった。
鏡代わりの磨かれた銅板へ自分を映す。
「……」
張良は黙って襟を少し直した。
開きすぎた。
少し閉じる。
今度は目立たない。
もう一度僅かに緩めたところで、手が止まった。
(私は何をしているのだ)
剣を握って始皇帝を狙った時とは、まるで違う緊張だった。
敵へ近づくという意味では同じなのに、自分の容姿そのものを武器として意識したことなど、これまでほとんどない。
下邳で読んだ兵法には、敵の欲や執着を利用することも記されていた。
相手が欲するものを見せ、判断を鈍らせる。
理屈では分かる。
だが実際に自分がそれをするとなれば、頬に熱が集まるのを止められなかった。
「軍師とは、使えるものを使うもの……」
自分へ言い聞かせる。
視線。
声。
仕草。
そして、この身体も。
相手を殺す必要すらない。
門を開けさせれば勝ちなのだ。
張良は息を整えると、流民を装って碭の城へ向かった。
◆
策は驚くほど簡単に進んだ。
城内へ入った張良は、ほどなく県令の目に留まった。
県令は張良の事情を尋ねている間も、何度も彼女の襟元へ視線を落とした。
隠そうとすらしない。
張良はそれに気づいていたが、気づかないふりを続けた。
「戦で家を失いまして」
声を少し弱くする。
「頼れる者もおりませぬ」
「それは気の毒にな」
県令は露骨に機嫌を良くした。
「しばらく城に留まるがよい。余が面倒を見てやろう」
「ありがたき御言葉にございます」
張良は頭を下げた。
屈んだことで襟元が僅かに開く。
県令の目がそこへ吸い寄せられた。
張良は内心で冷静に数えた。
一度。
二度。
三度。
話の内容より、こちらを見ている時間の方が長い。
(これなら使える)
嫌悪はあった。
だが、それ以上に相手が分かりやすすぎた。
◆
その日の宴でも、張良は県令のそばへ置かれた。
「飲まぬのか」
「酒には弱うございます」
「なら少しだけでよい」
杯を受け取る際、張良は指先が触れる距離まで近づき、すぐに離れた。
県令の顔が緩む。
もう一度。
今度は笑う。
ただし近づきすぎない。
欲しいものをすぐ与えれば警戒が戻る。
届きそうで届かない距離に置く。
兵法で敵軍を誘い込むことと、本質的には変わらない。
そう考えると、張良にも少し余裕が出てきた。
やがて県令は完全にその気になった。
「今宵は余の部屋へ来い」
張良は伏せていた目を上げる。
少しだけ間を置いた。
「……私などで、よろしいのでしょうか」
「無論だ」
県令は嬉しそうに笑う。
張良も微笑み返した。
「それでは、仰せのままに」
顔を伏せた瞬間、その笑みは消えた。
◆
夜。
県令は部屋から護衛を遠ざけていた。
兵に囲まれたまま女を迎えるのは興が削がれるとでも思ったのだろう。
その判断が命取りになった。
戸が静かに開く。
「待っていたぞ」
県令が立ち上がる。
だが入ってきたのは張良ではなかった。
「こんばんは」
最初に姿を見せた樊噲が笑う。
その後ろには武器を持った兵たち。
県令の顔色が一瞬で変わった。
「な、何者だ!」
「女を待ってたんじゃなかったのか?」
「兵を呼べ!」
「遠ざけたのはあんただろ」
樊噲が間合いを詰める。
県令も慌てて剣へ手を伸ばしたが、遅かった。
短い争いで県令は討たれた。
ほぼ同時に、張良が事前に確かめていた経路から別働隊が城門へ向かう。
指揮官を失った守備兵は混乱し、その隙を突いて城外の劉邦軍が攻め込んだ。
これまで何度も城壁の前で押し返されていた兵たちが、初めて城内へ雪崩れ込む。
碭は落ちた。
◆
「勝った!」
城へ入った劉邦は、本気で嬉しそうだった。
「俺たちが城を落としたぞ!」
「正確には張良の策でございます」
蕭何が訂正する。
「だから俺たちだろ」
「その考え方だけは便利ですね」
そこへ張良が戻ってきた。
すでに衣も整えている。
「御無事でしたか、張良」
曹参が尋ねる。
「何事もございません」
「おお、張良!」
劉邦が駆け寄ってくる。
「すげえじゃねえか!」
「策が上手く運んだだけです」
「それがすげえんだよ。俺が何回正面から行っても落ちなかった城だぞ」
劉邦は素直に感心していたが、やがて妙な笑みを浮かべた。
「ところで」
嫌な予感がした。
「何でしょう」
「県令をどうやってそこまでその気にさせたんだ?」
「……」
「いや、お前が綺麗なのは分かるけどよ。いきなり部屋に呼ぶほどだろ? 途中で何か」
張良の視線が冷たくなる。
「何か?」
「いや、例えばこう、ちょっと触らせたり」
「劉邦様」
「はい」
「次にそれ以上申されたら、策を立てる際にあなたを最も危険な場所へ配置します」
「それは困る」
樊噲が腹を抱えて笑った。
「怒らせるからだ、馬鹿」
「気になるだろ、普通」
「なりません」
張良は即答した。
「私は県令の欲を利用しただけです。身体を差し出したわけではございません」
「分かった、分かった」
「絶対に分かっておられませんね」
劉邦は笑っている。
張良は小さく息を吐いた。
才を妬まない。
策を聞く。
失敗しても責任を押しつけようとしない。
その点では、確かに得難い男だった。
だが。
(この下世話さだけは、どうにかならないものか)
張良は本気でそう思った。
◆
碭での勝利を境に、劉邦の軍は変わり始めた。
張良が戦う場所と方法を選び、蕭何が兵糧を整え、曹参が兵をまとめ、樊噲が必要なところを力で破る。
その中心で、劉邦は自分にできないことを、できる者へ任せた。
本人が突然名将になったわけではない。
それでも軍は強くなる。
それが劉邦という男の、奇妙な強さだった。
秦の公子扶蘇が生き残り、楚では項梁と項羽が勢力を広げている。
そして沛からもまた、一つの勢力が歩き始めた。
まだ天下を争うほどの軍ではない。
けれど、劉邦は張良を得た。
その事実が後にどれほど大きな意味を持つのか、この時点で知る者はいなかった。




