第66話 秦の公子と楚の旗
本物の公子扶蘇が、偽りの名を掲げていた陳勝を追い出した。
その報せは、反乱の広がりとともに各地へ伝わっていった。死んだと噂されていた始皇帝の長子が生きており、しかも二世皇帝胡亥の朝廷と敵対しているとなれば、秦に不満を抱く者たちが注目するのも当然だった。
俺も、多少は期待していた。
陳勝のもとに集まった民兵を引き継いだだけでは、咸陽と争うには足りない。けれど本物の公子扶蘇が生きていると知れ渡れば、秦の圧政を嫌う者や旧六国の有力者も、こちらへ接触してくるのではないかと思っていた。
だが、現実はそう簡単ではなかった。
◆
数日が過ぎても、俺のもとへ来る者の顔ぶれは大きく変わらなかった。
多いのは農民だった。
徴税に耐えられなくなった者、労役から逃げてきた者、陳勝の軍が崩れた後も帰る場所を失った者たちが、少しずつ陣へ加わってくる。
そして、儒者もいた。
かつて始皇帝が諸生を厳しく処罰した際、俺がそれに反対したことを覚えている者たちだった。軍を動かす力はなくとも、俺の姿勢を評価し、何か役に立ちたいと訪ねてくる。
ありがたい。
だが、俺が待っていた者たちは来なかった。
旧六国の武将。
土地と兵を持つ豪族。
秦との戦いを実際に経験した遺臣たち。
そうした人間は、一人として俺の旗を選ぼうとしなかった。
「……どうしてだ」
軍議の後、俺は思わず口にした。
その場にいた年老いた儒者が、少し言いにくそうに頭を下げた。
「恐れながら、公子扶蘇様には、一つお忘れのことがあるのではございませぬか」
「何だ?」
「公子扶蘇様は、始皇帝の御子にございます」
当たり前のことだった。
それなのに、その一言を聞いた瞬間、俺は何を言われようとしているのか分かってしまった。
「旧六国の者から見れば、秦は祖国を滅ぼした敵にございます。たとえ公子扶蘇様が二世皇帝胡亥様と争っておられようとも、それだけで秦への恨みが消えるものではございませぬ」
俺は黙った。
「むしろ彼らには、秦の公子同士が帝位を争っているように見えているのかもしれませぬ。そのいずれかに仕えるくらいなら、自らの国を再び立てようと考える者も多いでしょう」
言い返す言葉はなかった。
◆
俺は秦の朝廷から逆賊とされている。
だが反秦を掲げる者たちから見れば、俺は秦を作り上げた始皇帝の息子だった。
胡亥と趙高には敵視され、秦の官吏からは追われる。一方で、秦に祖国を滅ぼされた者にとっては、俺もまた仇敵の血を引く者に過ぎない。
どちらにも居場所がない。
その事実を、俺は今になって理解した。
「秦の公子、か」
小さく呟く。
この肩書きを持って生まれたことで、俺は多くのものを得た。
そして今、その同じ肩書きが俺を縛っている。
隣にいた蒙凛が、しばらく黙った後で口を開いた。
「秦が六国を滅ぼしたことを、私たちは勝利として見ていました」
蒙凛は俯かなかった。
だが、その声はいつもより低い。
「滅ぼされた側が、何を思っているのかまでは……考えていなかったのかもしれません」
蒙恬も否定しなかった。
「秦軍は命令に従い、天下統一のため戦いました。それ自体を今さら無かったことにはできませぬ」
蒙恬は静かに言った。
「ですが、滅ぼされた者たちが秦を許す義務もございません」
「ああ」
それだけで十分だった。
ここで秦が正しかった、六国が間違っていたと論じても仕方がない。
俺たちは勝った。
彼らは国を失った。
その事実が残っている。
◆
俺のもとに人が集まらない一方で、東南では別の旗が急速に大きくなっていた。
会稽。
かつて楚の地であったそこに、項梁が立った。
楚滅亡の際に項羽を連れて逃れた、項燕の娘である。
反乱の広がりを見た項梁は、機を逃さなかった。
会稽の郡守を討ち、兵を奪い、楚再興の旗を掲げたのである。
その挙兵で、真っ先に名を轟かせたのが項羽だった。
◆
郡守を討った後も、すべての兵が項梁へ従ったわけではない。
秦の官吏として抵抗する者もいれば、突然の反乱に戸惑う兵もいる。武器を手にして道を塞いだ者たちの前へ、項羽は一人で進み出た。
まだ若い。
だが、その身体は同年代の女たちとは明らかに違っていた。
長身で、肩幅も広い。
手には大きな戟を持っている。
「退け」
項羽が告げた。
誰も退かなかった。
次の瞬間、項羽が踏み込んだ。
最初の一振りで、正面にいた兵が武器ごと弾き飛ばされた。その勢いを止めずに戟を返すと、横から迫った二人もまとめて薙ぎ払われる。
数で囲んでも止まらない。
一人を倒している間に別の兵が横へ回っても、項羽は振り向きざまに戟を突き出し、間合いへ入ることすら許さなかった。
兵たちは次第に下がり始めた。
それでも項羽は追う。
目の前へ立つ者を次々と打ち倒し、気づけば抵抗していた兵の中に、前へ出ようとする者はいなくなっていた。
その姿を見た楚の者たちは、息を呑んだ。
項燕の孫。
秦に滅ぼされた楚の将門に残った、若い女。
だがその武だけを見れば、すでに一軍の旗になり得るほどの力があった。
◆
武だけでは、勢力は作れない。
その点で項梁は、姪とはまったく違う強さを持っていた。
秦に恨みを持つ者へ使者を送り、旧楚の遺臣を集め、土地ごとの有力者と交渉する。項羽が戦場で敵を倒している間に、項梁はその勝利を勢力へ変えていった。
そこへ一人の老人が訪れた。
范増。
七十を越える老策士である。
長く世に用いられることなく暮らしていたが、天下が乱れ始めると項梁のもとへ姿を現した。
「このままでは、足りませぬ」
范増はそう言った。
「兵は増えておりますが、今のままでは陳勝と変わりませぬ。ただ秦に反する者が、力ある者のもとへ集まっているだけにございます」
「では、何が必要だと思う」
項梁が尋ねた。
「楚でございます」
范増は即答した。
「項梁殿御自身が王となるのではなく、滅ぼされた楚王家の血を探し、王として立てなされ。さすれば、これは一豪族の反乱ではなく、楚の再興となります」
項梁は黙って老人を見た。
「王を他から立てれば、私たちの上に立つことになるぞ」
「名目の上では」
范増は平然としていた。
「されど今必要なのは、兵を集めるための名でございます。秦に祖父や父を殺された者、故郷を奪われた者に、『項梁のために戦え』と申すより、『楚を取り戻すために戦え』と申す方が、はるかに強い」
しばらく考えた後、項梁は頷いた。
「分かった。探そう」
范増が初めて笑った。
「それでこそ、天下を争う旗となりましょう」
◆
項梁のもとには、さらに武将たちが集まった。
龍且。
項羽とは以前から互いの武を知る女将であり、前へ出ることを恐れない猛将だった。
「ようやく大きな戦ができそうだな、項羽」
「秦を倒すまでは、大きいも小さいもない」
「相変わらず堅いことを言う」
そう笑いながらも、龍且は項羽の隣へ並んだ。
さらに、鍾離眜も加わった。
龍且のように先頭へ飛び込むことだけを好む将ではない。戦場全体を見ながら兵を動かし、退くべきところでは退き、敵の崩れる機会を待てる女だった。
武を持つ項羽。
人を集める項梁。
策を出す范増。
そこへ龍且や鍾離眜らが加わっていく。
楚の旗は、日ごとに厚みを増していった。
◆
やがて項梁は、旧楚王家に連なる者を探し出した。
心。
滅亡した楚の王族の血を引きながら、秦の支配下では目立たぬ暮らしを続けていた人物である。
項梁は心を迎え、楚王として擁立した。
その報せが広がると、旧楚の地で人々の反応が変わった。
単なる反乱ではない。
楚が戻ってきた。
そう受け取る者たちが増えたのである。
各地に隠れていた旧臣が姿を現し、豪族が兵糧を差し出し、若者が武器を手に取った。
陳勝の乱によって開いた穴から、今度はかつて秦に滅ぼされた国そのものが蘇ろうとしていた。
◆
項梁挙兵の報告は、俺のもとにも届いた。
「楚王まで立てたか」
報告書を読みながら、俺は呟いた。
蒙恬が頷く。
「旧楚の遺臣が次々と加わっているようにございます。兵の数だけでなく、有力な将も集まり始めております」
「こっちとは大違いだな」
自嘲のつもりはなかった。
単なる事実だった。
俺の陣へ来るのは、行き場を失った農民と儒者が中心だ。
楚には、土地を知り、兵を持ち、実戦経験のある者が集まっている。
「当然か」
俺は地図の楚の地へ目を落とした。
「俺は秦の公子だ。楚の人間が俺のところへ来る理由なんてない」
「扶蘇様」
「落ち込んでるわけじゃない」
蒙恬を見る。
「理由が分かっただけだ」
秦に反対しているからといって、反秦勢力すべてが俺の味方になるわけではない。
むしろこれからは、胡亥の秦だけを見ていればいい状況ではなくなる。
楚。
各地で再び名乗りを上げる旧六国。
そして、この先に現れるであろう者たち。
前世で知っていた秦末の乱世が、少しずつ形を取り始めている。
ただ、その中に本来存在しない俺がいる。
「まず、自分たちで戦える形を作らないとな」
俺は報告書を置いた。
天下の有力者がこちらへ来てくれるのを待っていても仕方がない。
来ないなら、今いる者を育てるしかない。
楚には楚の旗がある。
俺には、まだ三千の北軍と、集まり始めた農民たちしかない。
それでも、その兵で進むしかなかった。




