第65話 偽りの公子
陳勝が率いる反乱軍は、俺たちが想像していた以上の速さで膨れ上がっていた。
成皋を出て東へ進むにつれ、街道を行く人々の口から何度も同じ噂を聞いた。死んだはずの公子扶蘇が生きており、二世皇帝に苦しめられる民を救うため兵を挙げたという。
もちろん、その公子扶蘇は俺ではない。
「ずいぶん派手に俺の名前を使ってるな」
俺が呟くと、隣を進む蒙恬が険しい顔をした。
「名だけならまだしも、公子扶蘇様御本人を名乗っております。放置すれば、何をしても扶蘇様の行いとして広まります」
「ああ。それが一番まずい」
反秦を掲げるだけなら、まだ分かる。
だが俺の名を使って略奪でも虐殺でもされれば、その責任まで本物の俺へ返ってくる。
だからこそ直接会う必要があった。
◆
張楚の陣へ着いた俺たちを待っていたのは、兵だけではなかった。
女が多い。
それも兵士ではなく、農村や町から集まってきたと思われる女たちが、王を称する陳勝の居館の前に長い列を作っていた。
「……何の列だ?」
俺が尋ねると、案内役の兵が不思議そうな顔をした。
「公子様のお種を頂くためでございます」
足が止まった。
「……誰の?」
「公子扶蘇様の、でございます」
横を見る。
蒙恬も黙っている。
蒙凛は意味を理解した途端、露骨に嫌そうな顔をした。
「扶蘇様の御名で……?」
「そういうことらしい」
列には若い女もいれば、かなり年上の女もいた。
男が十人に一人ほどしか生まれないこの世では、男との縁を一度も持てないまま一生を終える女も珍しくない。まして皇族の男の子を得られるとなれば、それだけで一族にとって大きな価値を持つ。
だから女たちは集まった。
ただし、その列にも順番があるらしい。
居館の入り口では、陳勝の配下が女たちへ何かを尋ねていた。
「兵は何人出せる」
「家には三十ほどおります」
「三十か。では後だ」
「そんな! 何日も待っているのです!」
「次!」
別の女が前へ出る。
「銭五百と、兵百をお出しできます」
「よし。中へ」
俺は黙って、そのやり取りを見ていた。
最初は万人へ血を開くと言っていたはずだ。
王侯だけが男を独占する世を否定し、貧しい女にも自分の種を与える。それが陳勝の掲げた理屈だった。
だが今、居館へ入れる者は選別されている。
金。
兵。
土地。
持っているものが多い女から先に通されていた。
「扶蘇様」
蒙恬が低い声で呼んだ。
「ああ」
もう十分だった。
「中へ行こう」
◆
居館の奥へ案内された俺は、そこでさらに言葉を失った。
酒宴の跡が残り、女たちの衣が無造作に置かれている。
その中央に陳勝がいた。
女を傍らへ抱き寄せ、俺たちが入ってきても離そうとしない。
少し離れたところには次に呼ばれるのを待つ女までいた。
「……」
何も言えなかった。
こいつは俺の名で、これをやっている。
「ほう」
陳勝が俺たちを見る。
「西から三千ほど連れて来た秦兵というのは、お前たちか」
態度だけは、完全に王だった。
「秦を捨てて我が軍へ加わりたいというなら歓迎しよう。今の張楚には、まともに戦える将が足りぬからな」
蒙凛が弓へ手を伸ばしかける。
俺は片手で制した。
「その前に聞きたい」
「何だ」
「お前は誰だ?」
陳勝が眉を寄せた。
「何を言っている。我こそは秦の長公子、扶蘇だ」
「そうか」
俺は一歩前へ出た。
「なら、俺は誰なんだろうな」
陳勝の顔から笑みが消えた。
「……名は?」
「扶蘇」
部屋の空気が止まった。
「始皇帝の長子、公子扶蘇だ」
陳勝は俺の顔を見つめた。
会ったことはないはずだ。
それでも、俺の後ろには蒙恬がいる。
北辺三十万を率いた秦の大将。
その娘である蒙凛もいる。
何より俺たちは三千とはいえ、秦軍の装備を保った兵を連れてここまで来ている。
偽物だと言い張るには、あまりにも条件が悪かった。
「……くだらん」
陳勝は笑おうとした。
「公子扶蘇は死んだ。天下の誰もが知っている」
「だから名を使ったのか?」
笑みが消える。
「死人なら文句を言いに来ないからな」
◆
「外に女が並んでいた」
俺は室内を見渡した。
「俺の名を使って、お前の子を与えているそうだな」
「それがどうした」
陳勝は開き直った。
「女どもが望んでいるのだ。男は少ない。まして公子の血ともなれば、欲しがるのは当然であろう」
「お前の血だろ」
「同じ男の種だ」
あまりに平然と言うので、一瞬返す言葉を失った。
陳勝は傍らの女を抱いたまま続ける。
「俺は王侯将相に特別な種などないと言った。だから王侯が独占してきたものを民にも開いている。何が悪い」
「じゃあ、なぜ金と兵で選んでる」
陳勝の目が僅かに動いた。
「外で見た。兵百を出せる女は通して、貧しい女は追い返していた」
「軍を大きくするには必要なことだ」
「最初に言ったことと違うじゃないか」
「世の中を変えるには力が要る!」
陳勝の声が大きくなった。
「貧乏人ばかり相手にして、どうやって秦を倒す! 俺は奴らに夢を与えた。その代わり、持っている者から金と兵を受け取る。それだけだ!」
俺はしばらく陳勝を見た。
「それで、俺を名乗る必要があるのか」
「ある!」
「俺の名前で女を集める必要も?」
「男として生まれた以上、使えるものを使って何が悪い!」
そこで我慢が切れた。
「ふざけるな」
俺は陳勝へ歩み寄った。
「俺の名前を騙るだけなら、まだ政治だと言い訳できたかもしれない。だが俺の名で女を集め、自分の欲と兵集めに使うな」
「何を偉そうに」
陳勝も立ち上がった。
「生まれた時から宮殿にいた公子様に、俺の何が分かる。俺は農民だった。貴重な男だと言われても、腹が減れば土を耕し、役人には頭を下げた。王侯どもが女も土地も富も抱えている間、俺には何もなかった!」
その怒りまで否定する気はなかった。
陳勝が立ち上がった理由は、本物だ。
秦の重い負担に耐えられなくなった民も、本当にいる。
だからこそ腹が立った。
「なら、どうして同じことをしてる」
「何?」
「お前が嫌っていた連中と同じだろ」
陳勝の顔が強張る。
「力を手にした途端、金を持つ者を優遇し、持たない者を追い返す。お前は王侯を否定したんじゃない。自分が王侯になりたかっただけだ」
「黙れ!」
陳勝が拳を振り上げた。
俺は避けなかった。
その腕を掴み、身体を引き寄せる。
そして、腹へ拳を叩き込んだ。
「ぐっ!」
陳勝の身体が折れる。
そのまま襟を掴んで引き起こし、今度は顔を殴った。
鈍い音がして、陳勝は床へ転がった。
「扶蘇様!」
蒙恬の声が飛んだ。
「ああ。もうやらない」
三発目を入れたい気持ちはあった。
だが、こいつを殺しに来たわけではない。
◆
騒ぎを聞いた兵や女たちが、居館へ集まってきた。
床に倒れた陳勝と、その前に立つ俺を見てざわめきが広がる。
「誰だ、あの男は」
「公子様と同じ名を……」
「まさか」
俺は振り返った。
「俺は扶蘇だ」
ざわめきが止まる。
「始皇帝の長子、公子扶蘇。死んだと伝えられたが、ここにいる」
俺は後ろに立つ二人を示した。
「そこにいるのは蒙恬。北辺の軍を率いていた将だ。そして蒙凛。俺とともに咸陽から逃れてきた」
兵たちの視線が二人へ集まる。
蒙恬の顔を知る者もいたらしい。
どよめきは、やがて別の色を帯び始めた。
床から起き上がった陳勝が叫ぶ。
「騙されるな! こいつこそ偽物だ!」
だが先ほどまでの威勢はなかった。
鼻から血を流し、衣を乱し、俺を指さしている。
その姿を見て、女の一人が口を開いた。
「では、なぜ私たちに公子の血だと言ったのです」
陳勝が黙る。
「私の姉は銭がないから追い返された。誰にでも分けると言っていたのに」
別の女も続いた。
「兵を出せば先にしてやると言われた」
「私は田を売った」
声が増えていく。
俺が煽る必要はなかった。
不満は、すでに溜まっていたのだ。
◆
「出ていけ」
俺は陳勝へ言った。
「……何?」
「お前を殺すつもりはない。だが、俺の名前を使うのは今日で終わりだ」
「ここは俺が作った軍だぞ!」
「なら、聞いてみればいい」
周囲を見る。
「ここにいる者で、まだ陳勝を公子扶蘇として担ぎたい者はいるか?」
誰も声を上げなかった。
陳勝の顔が青ざめていく。
「俺は……お前たちのために立ったんだぞ」
返事はない。
「秦に逆らったのは俺だ! 最初に立ったのは俺だぞ!」
「それは否定しない」
俺は答えた。
「お前が最初に立ち上がったことまで奪う気はない。ただ、俺の名は返してもらう」
陳勝は拳を震わせた。
その後ろから呉広が現れる。
呉広は俺と陳勝を見比べた後、黙って陳勝の肩を掴んだ。
「行くぞ、陳勝」
「呉広!」
「今ここで争っても勝てない」
「だが!」
「生きていれば、やり直せる」
呉広の言葉に、陳勝はようやく黙った。
最後に俺を睨みつける。
「覚えていろ、扶蘇」
「俺の名前を使わないなら、覚えておくよ」
「……必ず後悔させる」
陳勝は吐き捨て、呉広と数人の腹心を連れて居館を出ていった。
◆
残された兵と民は、すぐには動かなかった。
主を追い出したからといって、そのまま俺の兵になるわけではない。
俺も強制する気はなかった。
「帰りたい者は帰っていい」
俺は集まった者たちへ告げた。
「俺は陳勝の代わりに王になりに来たわけじゃない。俺と戦う理由があると思う者だけ残ってくれ」
一人の女が尋ねた。
「公子扶蘇様は、私たちに何をさせるのですか」
「まず飯を食わせる」
思わぬ答えだったのか、女が目を瞬いた。
「その後は兵を整理する。戦えない者まで無理に前へ出すつもりはない。秦の朝廷と戦うにしても、このまま寄せ集めで突っ込めば死ぬだけだ」
蒙恬が僅かに頷いた。
俺は居館の前に残る女たちを見た。
「それから、もう俺の種を求めて並ぶ必要もない」
何人かが気まずそうに目を伏せる。
「男が少ないのは分かってる。子を望むことを悪いとも思わない。でも、兵や金と引き換えに俺を買うことはできない」
ここだけは、はっきりさせておかなければならない。
陳勝を追い出した直後に、本物の扶蘇も同じことを始めたのでは何の意味もない。
「俺について来るかどうかは、それとは別の話だ」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、一人が膝をついた。
その後ろで、また一人。
全員ではない。
陳勝を追って陣を離れる者もいれば、様子を見るため距離を取る者もいた。
それでいい。
俺が手に入れたのは、大軍ではなかった。
ただ、陳勝が掲げた旗の下に集まりながら、そのやり方に疑問を持っていた者たちが残った。
そこへ俺が連れてきた三千が加わる。
ようやく、自分の名で戦うための最初の兵ができた。
偽物の公子扶蘇は去った。
そして本物の俺は、張楚の残した兵たちの前に立っていた。




