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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第3章 群雄割拠

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第64話 王侯将相いずくんぞ種あらんや

 始皇帝が崩御し、胡亥(こがい)が二世皇帝として即位してから、秦の統治は目に見えて変わり始めていた。


 阿房宮の造営も、驪山に築かれる巨大な陵墓も止まらない。各地から穀物と銭が集められ、農民は田畑から引き離されて工事や輸送へ駆り出されたが、それを軽くするための命令が咸陽(かんよう)から出ることはなかった。


 むしろ、新しい皇帝の即位を支えるため、地方の官吏は以前より厳しく法を適用した。


 中央の政変を知る者は少ない。


 民から見えるのは、皇帝が変わったのに税も労役も軽くならず、役人だけが以前より命令へ神経質になったという現実だった。



 その年、陽城(ようじょう)から北へ送られる一団があった。


 徴発された農民たちである。


 辺境の守備へ向かうため数百人がまとめられ、秦の役人に監督されながら街道を進んでいた。


 その中に、一人の男がいた。


 陳勝(ちんしょう)


 農民の出で、特別な家柄も財産もない。


 だが男が十人に一人ほどしか生まれぬこの世では、それだけでも周囲から特別な目で見られることがあった。


 若い頃から、陳勝(ちんしょう)はそれを嫌っていた。


 男だから大切にされる。


 男だから女より価値があると言われる。


 だが実際には、貧しい農家に生まれれば、男であろうと腹は減るし、役人の命令にも逆らえない。希少だと言われながら、自分の暮らしが豊かになった覚えなどなかった。


「何が貴い血だ」


 以前、畑を耕しながらそう漏らしたことがある。


 周囲の者は笑った。


 農民が口にするには、あまりに大きな話だったからだ。


 だが陳勝(ちんしょう)だけは笑わなかった。



 同じ一団には、呉広(ごこう)という女もいた。


 背が高く、農作業で鍛えられた身体を持つ。口数が多い方ではないが、役人に睨まれても視線を逸らさないため、周囲からは気の強い女として知られていた。


 陳勝(ちんしょう)とは、この徴発で初めてまともに言葉を交わした。


「この雨では間に合わんな」


 川辺で空を見ながら、呉広(ごこう)が言った。


 数日前から雨が続き、道の一部は泥に埋まり、川も増水している。


 本来なら決められた期日までに目的地へ到着しなければならない。


 しかし、この天候では到底間に合わない。


「遅れたらどうなる」


 近くの農民が不安そうに尋ねた。


 誰も答えなかった。


 答える必要もなかった。


 秦の法では、徴発された者が定められた期日に到着しなければ、重い罰を受ける。


 事情が雨であろうと、道が崩れていようと、地方の役人がどこまで酌量するかなど分からない。


 恐怖が一団の中へ広がっていった。


「戻っても捕まる」


「このまま進んでも間に合わない」


「なら、どうすればいいんだ」


 声は次第に大きくなった。


 その中で、陳勝(ちんしょう)は黙って雨を見ていた。



 夜。


 農民たちは粗末な野営地に集まっていた。


 火を囲む顔には、疲労よりも不安が濃い。


 逃げれば罪人。


 進んでも期日に遅れれば罰せられる。


 誰もが行き場を失っていた。


「だったら、逃げるか?」


 一人が小さく言った。


「どこへだ。家へ戻れば役人が来る」


「山へ入るしかない」


「家族はどうする」


 まとまらない言葉だけが飛び交う。


 その様子を見ていた陳勝(ちんしょう)が、やがて立ち上がった。


「逃げても追われる。進んでも罰せられる。なら、俺たちは秦の法に従って死ぬために歩いているだけじゃないか」


 視線が集まる。


陳勝(ちんしょう)、何を言っている」


「そのままの意味だ」


 陳勝(ちんしょう)は周囲を見渡した。


 女が多い。


 男は自分を含めても僅かしかいない。


 だが、この場では誰もが同じ農民だった。


「王や貴族だけが人間なのか。役人の命令一つで死なされる俺たちは、生まれた時から下の人間なのか」


 誰も答えない。


 呉広(ごこう)だけが、黙って陳勝(ちんしょう)を見ている。


「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」


 その言葉に、何人かが顔を上げた。


「王にも、将にも、生まれつき決まった種なんてない。秦を作った人間と、ここにいる俺たちの何が違う。腹が減れば食うし、斬られれば死ぬ。同じ人間だろう」


 陳勝(ちんしょう)は一歩前へ出た。


「このまま黙って罰を待つくらいなら、立った方がましだ」


 野営地が静まり返った。


 最初に立ち上がったのは呉広(ごこう)だった。


「私は乗る」


 陳勝(ちんしょう)が振り返る。


「本気か、呉広(ごこう)


「ここで震えていても助からない。それなら、自分で生きる道を選ぶ方がいい」


 呉広(ごこう)は腰の剣へ手を置いた。


「ただし、立つなら半端はやめろ。役人を追い払って逃げるだけでは、すぐに捕まる」


「分かっている」


 陳勝(ちんしょう)は頷いた。


「やるなら、秦そのものに逆らう」



 だが、問題があった。


 数百人の農民が反乱を起こしたところで、周囲の県兵に囲まれれば終わる。


 大勢を集めるには、旗印が必要だった。


「誰の名を使う」


 呉広(ごこう)が尋ねる。


 旧六国の王族を担ぎ出す方法もある。


 だが、この一帯で今すぐ使える者はいない。


 陳勝(ちんしょう)は少し考えた後、意外な名を口にした。


「公子扶蘇(ふそ)


 周囲がざわめいた。


扶蘇(ふそ)様は死んだのではないのか」


「そう聞いている」


 陳勝(ちんしょう)は答えた。


 世間では、始皇帝の長子である公子扶蘇(ふそ)は、皇位争いに敗れて死んだという噂が広がっている。


 詳しい事情を知る者はほとんどいない。


 ただ、始皇帝の時代にたびたび苛烈な政策へ反対し、民を気遣った公子だったという話だけは、地方にも伝わっていた。


「死んだなら、なおさら使える」


 呉広(ごこう)が眉を寄せる。


「どういう意味だ」


「死人は否定しない」


 陳勝(ちんしょう)は静かに答えた。


「もし公子扶蘇(ふそ)が生きていて、奸臣に追われながら民のために立ったと言えばどうなる。秦に不満を持つ者は、ただの農民の俺より、その名についてくる」


「お前が、公子扶蘇(ふそ)を名乗るのか」


「そうだ」


 周囲の者が息を呑んだ。


 皇帝の兄。


 秦の公子。


 しかも希少な男。


 その名が持つ力は、農民の陳勝(ちんしょう)とは比較にならない。


「顔を知っている者が来たらどうする」


 呉広(ごこう)が尋ねる。


「その時はその時だ。まず人を集めなければ、顔を知られる前に俺たちは死ぬ」


 呉広(ごこう)はしばらく陳勝(ちんしょう)を見た。


 やがて、口元を少し上げる。


「随分と大きな嘘を思いついたな」


「小さな嘘で天下は動かない」



 翌朝。


 徴発された農民たちは、監督していた秦の役人へ反旗を翻した。


 最初の争いは短かった。


 数で勝る農民たちが役人を取り囲み、武器を奪う。逃げようとした者も捕らえられ、わずかな時間で一団の支配は逆転した。


 そこで陳勝(ちんしょう)は、集まった者たちの前へ出た。


「聞け!」


 雨上がりの空の下、声が響いた。


「俺は陳勝(ちんしょう)ではない」


 呉広(ごこう)が黙って見守る。


「奸臣によって死んだとされた、公子扶蘇(ふそ)だ!」


 一瞬、誰も言葉を発しなかった。


 やがて大きなどよめきが起こる。


「公子扶蘇(ふそ)……?」


「本当に?」


「生きていたのか?」


 疑う声もあった。


 だが信じたい者の方が多かった。


 ただの農民が秦へ逆らえば賊になる。


 公子扶蘇(ふそ)のために立つなら、自分たちは奸臣から秦を取り戻す兵になれる。


 その違いは大きかった。


 陳勝(ちんしょう)は、それをよく分かっていた。


「二世皇帝のもとで民は苦しんでいる! ならば俺は、民のために再び立つ! 秦の法に怯えて死ぬ者ではなく、自分の意思で生きる者は、俺についてこい!」


 最初に呉広(ごこう)が剣を掲げた。


「公子扶蘇(ふそ)に従う!」


 一人が続く。


 さらに一人。


 やがて声は数百人へ広がった。


「公子扶蘇(ふそ)!」


「公子扶蘇(ふそ)!」


 その日、大沢郷で小さな反乱が始まった。


 まだ数百人。


 秦全土から見れば、吹けば消えるほどの火だった。


 だが、始皇帝の死後に溜まり続けていた不満は、その火を消すのではなく、燃え広がらせるための薪になっていた。



 数日後。


 成皋(せいこう)に、一人の使者が駆け込んできた。


「公子扶蘇(ふそ)様! 東より急報にございます!」


 俺は蒙恬(もうてん)とともに報告を受けた。


「何があった?」


大沢郷(だいたくきょう)で、徴発された農民たちが反乱を起こしました。周辺の県を襲いながら、急速に人数を増やしているとのことです」


 来たか。


 胸の奥に、前世の記憶が蘇る。


 陳勝(ちんしょう)呉広(ごこう)の乱。


 秦末の崩壊を決定的に早めた、最初の大反乱。


「首謀者の名は?」


 分かっていながら尋ねた。


 使者は少し困った顔をした。


「それが……奇妙な話がございまして」


「奇妙?」


「反乱軍を率いている男は、自らを扶蘇(ふそ)と名乗っております」


 俺は黙った。


 蒙恬(もうてん)が俺を見る。


「……扶蘇様を?」


「ああ」


 前世でも、陳勝(ちんしょう)たちは扶蘇(ふそ)項燕(こうえん)の名を利用して人を集めた。


 だが今回は、もっと直接的だった。


 死んだはずの公子扶蘇(ふそ)が生きて帰ったと称し、本人そのものを名乗っている。


 しかも本物の俺は、三千の兵とともに成皋(せいこう)にいる。


「どうなさいますか」


 蒙恬(もうてん)が尋ねた。


 俺は報告書を机へ置いた。


「会いに行く」


「反乱軍へ、ですか」


「俺の名前で兵を集めているんだ。放っておくわけにはいかない」


 それだけではない。


 これは秦末の反乱が始まったということでもある。


 俺が知る歴史と同じ名が、同じ場所で動き始めた。


 だが、その中心には今、本来なら死んでいるはずの俺の存在がある。


「偽物の扶蘇(ふそ)が何をするつもりなのか、この目で確かめる」


 蒙恬(もうてん)は少し考えた後、頷いた。


「ならば私も参ります」


「頼む」


 地図の上で、成皋(せいこう)から東へ視線を移す。


 そこではもう、最初の火が燃え始めていた。


 秦末の乱世が、ついに動き出した。

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