第64話 王侯将相いずくんぞ種あらんや
始皇帝が崩御し、胡亥が二世皇帝として即位してから、秦の統治は目に見えて変わり始めていた。
阿房宮の造営も、驪山に築かれる巨大な陵墓も止まらない。各地から穀物と銭が集められ、農民は田畑から引き離されて工事や輸送へ駆り出されたが、それを軽くするための命令が咸陽から出ることはなかった。
むしろ、新しい皇帝の即位を支えるため、地方の官吏は以前より厳しく法を適用した。
中央の政変を知る者は少ない。
民から見えるのは、皇帝が変わったのに税も労役も軽くならず、役人だけが以前より命令へ神経質になったという現実だった。
◆
その年、陽城から北へ送られる一団があった。
徴発された農民たちである。
辺境の守備へ向かうため数百人がまとめられ、秦の役人に監督されながら街道を進んでいた。
その中に、一人の男がいた。
陳勝。
農民の出で、特別な家柄も財産もない。
だが男が十人に一人ほどしか生まれぬこの世では、それだけでも周囲から特別な目で見られることがあった。
若い頃から、陳勝はそれを嫌っていた。
男だから大切にされる。
男だから女より価値があると言われる。
だが実際には、貧しい農家に生まれれば、男であろうと腹は減るし、役人の命令にも逆らえない。希少だと言われながら、自分の暮らしが豊かになった覚えなどなかった。
「何が貴い血だ」
以前、畑を耕しながらそう漏らしたことがある。
周囲の者は笑った。
農民が口にするには、あまりに大きな話だったからだ。
だが陳勝だけは笑わなかった。
◆
同じ一団には、呉広という女もいた。
背が高く、農作業で鍛えられた身体を持つ。口数が多い方ではないが、役人に睨まれても視線を逸らさないため、周囲からは気の強い女として知られていた。
陳勝とは、この徴発で初めてまともに言葉を交わした。
「この雨では間に合わんな」
川辺で空を見ながら、呉広が言った。
数日前から雨が続き、道の一部は泥に埋まり、川も増水している。
本来なら決められた期日までに目的地へ到着しなければならない。
しかし、この天候では到底間に合わない。
「遅れたらどうなる」
近くの農民が不安そうに尋ねた。
誰も答えなかった。
答える必要もなかった。
秦の法では、徴発された者が定められた期日に到着しなければ、重い罰を受ける。
事情が雨であろうと、道が崩れていようと、地方の役人がどこまで酌量するかなど分からない。
恐怖が一団の中へ広がっていった。
「戻っても捕まる」
「このまま進んでも間に合わない」
「なら、どうすればいいんだ」
声は次第に大きくなった。
その中で、陳勝は黙って雨を見ていた。
◆
夜。
農民たちは粗末な野営地に集まっていた。
火を囲む顔には、疲労よりも不安が濃い。
逃げれば罪人。
進んでも期日に遅れれば罰せられる。
誰もが行き場を失っていた。
「だったら、逃げるか?」
一人が小さく言った。
「どこへだ。家へ戻れば役人が来る」
「山へ入るしかない」
「家族はどうする」
まとまらない言葉だけが飛び交う。
その様子を見ていた陳勝が、やがて立ち上がった。
「逃げても追われる。進んでも罰せられる。なら、俺たちは秦の法に従って死ぬために歩いているだけじゃないか」
視線が集まる。
「陳勝、何を言っている」
「そのままの意味だ」
陳勝は周囲を見渡した。
女が多い。
男は自分を含めても僅かしかいない。
だが、この場では誰もが同じ農民だった。
「王や貴族だけが人間なのか。役人の命令一つで死なされる俺たちは、生まれた時から下の人間なのか」
誰も答えない。
呉広だけが、黙って陳勝を見ている。
「王侯将相、いずくんぞ種あらんや」
その言葉に、何人かが顔を上げた。
「王にも、将にも、生まれつき決まった種なんてない。秦を作った人間と、ここにいる俺たちの何が違う。腹が減れば食うし、斬られれば死ぬ。同じ人間だろう」
陳勝は一歩前へ出た。
「このまま黙って罰を待つくらいなら、立った方がましだ」
野営地が静まり返った。
最初に立ち上がったのは呉広だった。
「私は乗る」
陳勝が振り返る。
「本気か、呉広」
「ここで震えていても助からない。それなら、自分で生きる道を選ぶ方がいい」
呉広は腰の剣へ手を置いた。
「ただし、立つなら半端はやめろ。役人を追い払って逃げるだけでは、すぐに捕まる」
「分かっている」
陳勝は頷いた。
「やるなら、秦そのものに逆らう」
◆
だが、問題があった。
数百人の農民が反乱を起こしたところで、周囲の県兵に囲まれれば終わる。
大勢を集めるには、旗印が必要だった。
「誰の名を使う」
呉広が尋ねる。
旧六国の王族を担ぎ出す方法もある。
だが、この一帯で今すぐ使える者はいない。
陳勝は少し考えた後、意外な名を口にした。
「公子扶蘇」
周囲がざわめいた。
「扶蘇様は死んだのではないのか」
「そう聞いている」
陳勝は答えた。
世間では、始皇帝の長子である公子扶蘇は、皇位争いに敗れて死んだという噂が広がっている。
詳しい事情を知る者はほとんどいない。
ただ、始皇帝の時代にたびたび苛烈な政策へ反対し、民を気遣った公子だったという話だけは、地方にも伝わっていた。
「死んだなら、なおさら使える」
呉広が眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「死人は否定しない」
陳勝は静かに答えた。
「もし公子扶蘇が生きていて、奸臣に追われながら民のために立ったと言えばどうなる。秦に不満を持つ者は、ただの農民の俺より、その名についてくる」
「お前が、公子扶蘇を名乗るのか」
「そうだ」
周囲の者が息を呑んだ。
皇帝の兄。
秦の公子。
しかも希少な男。
その名が持つ力は、農民の陳勝とは比較にならない。
「顔を知っている者が来たらどうする」
呉広が尋ねる。
「その時はその時だ。まず人を集めなければ、顔を知られる前に俺たちは死ぬ」
呉広はしばらく陳勝を見た。
やがて、口元を少し上げる。
「随分と大きな嘘を思いついたな」
「小さな嘘で天下は動かない」
◆
翌朝。
徴発された農民たちは、監督していた秦の役人へ反旗を翻した。
最初の争いは短かった。
数で勝る農民たちが役人を取り囲み、武器を奪う。逃げようとした者も捕らえられ、わずかな時間で一団の支配は逆転した。
そこで陳勝は、集まった者たちの前へ出た。
「聞け!」
雨上がりの空の下、声が響いた。
「俺は陳勝ではない」
呉広が黙って見守る。
「奸臣によって死んだとされた、公子扶蘇だ!」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
やがて大きなどよめきが起こる。
「公子扶蘇……?」
「本当に?」
「生きていたのか?」
疑う声もあった。
だが信じたい者の方が多かった。
ただの農民が秦へ逆らえば賊になる。
公子扶蘇のために立つなら、自分たちは奸臣から秦を取り戻す兵になれる。
その違いは大きかった。
陳勝は、それをよく分かっていた。
「二世皇帝のもとで民は苦しんでいる! ならば俺は、民のために再び立つ! 秦の法に怯えて死ぬ者ではなく、自分の意思で生きる者は、俺についてこい!」
最初に呉広が剣を掲げた。
「公子扶蘇に従う!」
一人が続く。
さらに一人。
やがて声は数百人へ広がった。
「公子扶蘇!」
「公子扶蘇!」
その日、大沢郷で小さな反乱が始まった。
まだ数百人。
秦全土から見れば、吹けば消えるほどの火だった。
だが、始皇帝の死後に溜まり続けていた不満は、その火を消すのではなく、燃え広がらせるための薪になっていた。
◆
数日後。
成皋に、一人の使者が駆け込んできた。
「公子扶蘇様! 東より急報にございます!」
俺は蒙恬とともに報告を受けた。
「何があった?」
「大沢郷で、徴発された農民たちが反乱を起こしました。周辺の県を襲いながら、急速に人数を増やしているとのことです」
来たか。
胸の奥に、前世の記憶が蘇る。
陳勝・呉広の乱。
秦末の崩壊を決定的に早めた、最初の大反乱。
「首謀者の名は?」
分かっていながら尋ねた。
使者は少し困った顔をした。
「それが……奇妙な話がございまして」
「奇妙?」
「反乱軍を率いている男は、自らを扶蘇と名乗っております」
俺は黙った。
蒙恬が俺を見る。
「……扶蘇様を?」
「ああ」
前世でも、陳勝たちは扶蘇や項燕の名を利用して人を集めた。
だが今回は、もっと直接的だった。
死んだはずの公子扶蘇が生きて帰ったと称し、本人そのものを名乗っている。
しかも本物の俺は、三千の兵とともに成皋にいる。
「どうなさいますか」
蒙恬が尋ねた。
俺は報告書を机へ置いた。
「会いに行く」
「反乱軍へ、ですか」
「俺の名前で兵を集めているんだ。放っておくわけにはいかない」
それだけではない。
これは秦末の反乱が始まったということでもある。
俺が知る歴史と同じ名が、同じ場所で動き始めた。
だが、その中心には今、本来なら死んでいるはずの俺の存在がある。
「偽物の扶蘇が何をするつもりなのか、この目で確かめる」
蒙恬は少し考えた後、頷いた。
「ならば私も参ります」
「頼む」
地図の上で、成皋から東へ視線を移す。
そこではもう、最初の火が燃え始めていた。
秦末の乱世が、ついに動き出した。




