第63話 未知なる道
函谷関を抜けた俺たちは、そのまま東へ進み、王氏の領地である成皋を目指した。
追撃がどこまで続くか分からない以上、安心はできない。蒙恬は街道をそのまま進ませず、斥候を広く放ちながら進路を変え、できる限り敵に動きを読ませないようにしていた。
それでも行軍は遅かった。
負傷者が多い。
北辺を出た時には二十万いた軍も、成皋へ向かう頃には三千余りまで減っていた。戦死した者ばかりではなく、敗走の中で散った者も多いのだろうが、軍としてはほとんど崩壊したに等しい。
俺は後ろを振り返った。
傷ついた兵たちが、黙ったまま歩いている。
「……王賁と王離は」
隣を進んでいた蒙恬に尋ねる。
「分かっておりません。私どもが関を抜けた後も、王氏の兵は門前に残って追手を防いでおりました」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
あの二人が残らなければ、俺たちは函谷関を抜けられなかった。
今はただ、生きていることを願うしかない。
◆
夕刻近くになって、ようやく成皋へ辿り着いた。
王氏の者たちはすでにこちらを迎える準備を整えており、門はすぐに開いた。負傷者を収容する場所も用意され、倉から兵糧や薬が運び出されていく。
「公子扶蘇様。王賁様より、もしこちらへ来られたなら可能な限り御助けするよう命を受けております」
年配の家臣がそう言って頭を下げた。
「助かる。まず兵を休ませたい」
「承知しております」
城へ入った兵たちは、武具を外すとその場へ座り込んだ。
追撃を気にせず休めるのは、何日ぶりだろう。
眠る者。
傷の手当てを受ける者。
久しぶりに温かい食事を口へ運ぶ者。
俺も休むよう勧められたが、先に残った兵の数と周囲の状況だけは把握しておきたかった。
◆
その夜、残った将校たちを集めた。
「三千二百余りおりますが、すぐに戦える者は二千に届きません」
蒙恬が報告する。
「散った兵が後から合流する可能性は?」
「ございます。ただし朝廷側も捜索しているでしょうから、大きな期待はできませぬ」
「北辺へ残した十万とは?」
「今のところ連絡は取れておりません」
俺は地図へ目を落とした。
西へ戻れば咸陽。
北へ向かう道も、今は使えない。
俺たちは秦の中枢から完全に切り離された。
「今は軍を立て直す」
俺はそう告げた。
「咸陽へ戻ることは考えない。兵を休ませ、散った者を集める。それから、朝廷がどこまでこちらを追うつもりなのか、東の郡県がどう動いているのかを調べる」
将校たちは頷いた。
今の三千で何かを奪い返せるとは思っていない。
まず、生き残る。
その先を考えるのは、それからだった。
◆
翌朝、函谷関から使者が来た。
王氏の者だった。
「公子扶蘇様。急ぎ御報告がございます」
「王賁たちのことか?」
「はい」
使者は一度息を整えた。
「王賁様、王離様ともに生きておられます。ただし、朝廷軍に捕らえられました」
胸の奥に溜まっていた息が、少しだけ抜けた。
「二人とも生きているんだな」
「はい。王賁様は反逆の罪で咸陽へ送られたとのことです」
「王離は?」
使者の顔が曇る。
「王賁様の命を盾に取られ、降伏なされました。現在は李信将軍の配下へ置かれていると」
俺は黙った。
王離が、自分からこちらを捨てたとは思わない。
母親を殺すと言われれば、あの子なら武器を捨てる。
そういう奴だ。
「分かった。知らせてくれてありがとう」
使者を下がらせる。
蒙恬も、苦い表情をしていた。
「いずれ、王離殿と戦場で向き合うことになるかもしれません」
「ああ」
その可能性は考えたくなかったが、無視もできない。
ただ、生きている。
今はそれだけでよかった。
◆
午後になると、今度は東から報せが続けて届いた。
徴発に抵抗した民が役人を襲った。
労役へ送られる途中の者たちが逃げた。
旧六国の名を口にして、人を集める者もいる。
一つ一つなら珍しい話ではない。
だが、同じような報告がいくつもの郡から届き始めている。
「どの辺りが多い?」
「陳郡周辺にございます」
その地名を聞いた瞬間、前世の記憶が浮かんだ。
陳勝。
呉広。
大沢郷。
だが、俺はすぐにその考えへ飛びつかなかった。
同じことが起きるとは限らない。
すでに、俺の知る歴史とは大きく違っている。
「東の情報をもっと集めてくれ」
「承知しました」
「役人への抵抗だけじゃない。武器を集めている集団、兵の離反、旧国の王族やその縁者を名乗る者がいないかも調べたい」
使者が下がる。
俺は地図の東側を見た。
何かが始まりつつある。
それが前世で知る反乱と同じものなのか、それともまったく別のものなのかは分からない。
今の俺にできるのは、知っている未来へ当てはめることではなく、目の前で起きていることを確かめることだけだった。
成皋のさらに東。
かつて秦に滅ぼされた国々の土地で、小さな火が灯り始めていた。




