第62話 王氏の代償
函谷関の巨大な門が、内側からゆっくりと開いた。
重い門扉の向こうから現れたのは、王氏の旗を掲げた一軍だった。その先頭には王賁と王離の姿があり、追撃を受けていた俺たちを迎え入れるため、すでに門前へ兵を展開し始めている。
「扶蘇様! 約束の通り、馳せ参じました!」
王離の声が響いた。
「王賁……!」
思わず声が漏れる。
王賁は王翦の娘にして、統一戦争を戦い抜いた秦の名将である。そして以前、もし俺が本当に危地へ陥った時には力を貸すと約束してくれた、王家の将でもあった。
王家の所領は函谷関を出た辺りにも広がっており、この地の山河や道については、そこを守る郡兵以上に詳しい。さらに王賁は平時から関中へ密偵を放ち、宮中や各地の動向を集め続けていたという。
俺が北辺の兵を率いて南下したこと。
咸陽郊外で李信軍と戦ったこと。
さらに楊端和が突如として寝返り、匈奴まで戦場へ現れたこと。
それらの知らせを繋ぎ合わせ、敗れた俺たちが東へ逃れるなら函谷関を目指すはずだと、王賁は読んでいた。
「扶蘇、話は後だ!」
王賁は馬上から門の奥を示した。
「残っている兵をすぐに通せ。追手は私たちが止める!」
「お前たちはどうする!」
「決まっているだろ。門前で時間を稼ぐ」
背後にはすでに土煙が迫っていた。
李信軍だけではない。楊端和の騎馬と匈奴の一部も、逃げ遅れた兵を追いながらこちらへ向かっている。
「相手は李信と楊端和だぞ。簡単に止められる相手じゃない」
「勝つ必要はない」
王賁は即座に答えた。
「お前と蒙恬たちが関を抜け、こちらが門を閉じるまで持たせれば十分だ。そのために来た」
俺は言葉を失った。
だが迷っている間にも、追撃は近づいている。
「……必ず戻れ」
「そんな顔をするな。死にに来たわけじゃない」
王賁はいつもの調子で笑った。
「早く行け、扶蘇」
俺は頷き、蒙恬と蒙凛へ合図した。
「全軍、関内へ! 負傷者を先に通せ!」
生き残った兵たちが次々と函谷関へ駆け込んでいく。
その背後では、王賁と王離の軍が陣を広げ、迫る追手を迎え撃つ準備を始めていた。
◆
追撃の先頭にいたのは、楊端和だった。
三日間味方を装っていた騎馬隊は、いまや完全に敵としてこちらを追っている。とりわけ楊端和自身は、蒙恬を取り逃がしたことへの苛立ちを隠そうともせず、退却する北軍を押し退けながら門前へ迫ってきた。
「扶蘇と蒙恬はどこだ!」
その声に応じるように、一騎が門前から飛び出した。
王離だった。
「ここから先へは通しません」
若い女将は馬を止め、巨大な大剣を構えた。
細身の身体と、その手にある武器の大きさは相変わらず釣り合って見えない。だが王離がその剣を扱うところを知る者なら、見た目だけで侮る者はいなかった。
楊端和は槍を構えたまま、王離を睨んだ。
「退け、小娘。お前に用はない」
「私にはあります」
王離は表情を変えなかった。
「蒙恬殿を裏切り、扶蘇様の軍を後ろから襲った者を、そのまま通すわけにはいきません」
「ならば退かせるまでだ!」
楊端和が馬腹を蹴った。
◆
槍の穂先が、一直線に王離の胸へ伸びる。
王離は馬上でわずかに身体をずらし、それを紙一重でかわした。そのまま腰を捻り、巨大な大剣を横薙ぎに振り抜く。
剣と槍が激突した。
耳を打つような金属音とともに、楊端和の槍が大きく跳ね上がった。
「なっ……!」
衝撃は槍を通して両腕へ伝わり、楊端和の身体が馬上で大きく傾いた。手綱を強く引いて辛うじて落馬を免れたものの、最初の一合だけで腕には痺れが残っている。
楊端和は目の前の若い女を見直した。
力だけなら尋常ではない。
蒙恬が軍全体を操る将であるなら、王離は一人の武そのものが異常だった。
「もう一度来ますか」
王離が大剣を構え直す。
楊端和は歯を食いしばった。
「調子に乗るな!」
再び二人の馬が動いた。
◆
楊端和は正面から力を競うことを避けた。
槍の長さを生かし、左右から鋭く突きを繰り出す。王離が大剣を振り切った後の隙を狙い、馬の動きも交えて間合いを外そうとする。
歴戦の将らしい戦い方だった。
だが王離は、その狙いを力で押し潰していく。
一度剣を振れば、まともに受けるだけで楊端和の腕へ衝撃が残る。槍で刃を逸らそうとしても、大剣そのものの重さと王離の膂力によって、武器ごと押し戻された。
しかも楊端和には疲労があった。
四日間の戦いに加え、少し前まで蒙恬と激しく打ち合っている。呼吸は徐々に荒くなり、槍を握る指にも痺れが蓄積していった。
「どうしました」
王離が大剣を振り下ろす。
楊端和は槍を横にして受けたが、馬ごと一歩近く押し下げられた。
「蒙恬殿を殺そうとしていた時の勢いは、もう終わりですか」
「黙れ!」
楊端和が槍を薙ぐ。
王離は上体を伏せてかわし、すぐさま下から大剣を振り上げた。
再び武器が激突し、今度は楊端和の槍が大きく上へ弾かれた。
守りが開く。
そこへ王離の大剣が迫った。
「くっ!」
楊端和は馬を強引に後ろへ下がらせた。
刃先が胸当てを掠め、鎧の一部が砕け散る。
あと半歩遅ければ、胸まで斬り裂かれていた。
楊端和は荒い息を吐いた。
このまま戦えば、勝てない。
少なくとも今の疲労した状態で、この若い怪力を正面から相手にするのは危険だった。
「……退くぞ!」
楊端和は馬首を返した。
「逃がしません!」
王離は追おうとしたが、その時、別の方向で秦兵の喊声が上がった。
◆
王賁の前には、李信がいた。
二人はこれまで何度も同じ秦軍の中で戦ってきた。
王賁は王家に生まれ、若い頃から将として育てられた女。
対する李信は希少な男でありながら戦場へ身を投じ、兵卒から将軍まで上り詰めた叩き上げの武人である。
互いの実力は知っていた。
だが直接刃を交えたことはなかった。
「まさか、お前まで扶蘇側につくとはな」
李信が槍を構える。
「王家はもっと利口だと思っていた」
「利口だからこっちにいるんだよ」
王賁も槍を向けた。
「趙高の作った詔をありがたがって、昨日まで仲間だった兵を斬るほど耄碌した覚えはない」
「言ってくれる」
「事実だろ」
李信は笑った。
「なら、どっちが正しいか戦場で決めるか」
「お前は昔から、そればっかりだな」
二人の馬がほぼ同時に走り出した。
最初の一撃は互角だった。
槍同士がぶつかり、そのまますれ違う。
すぐに反転し、今度は互いに突きを繰り出す。
王賁の槍は速い。
狙いも正確で、李信の肩や脇へ鋭く入っていく。
だが李信は、それを最小限の動きでいなしながら、少しずつ自分の間合いへ持ち込んでいった。
◆
数合。
さらに十数合。
そこで王賁は気づいた。
(こいつ、前より強くなってる)
楚での敗北を経てから、李信の戦い方は変わっていた。
以前のように勢いだけで相手を押し切ろうとはしない。相手の癖を見て、少しずつ逃げ道を狭め、勝てる瞬間まで無理をしない。
しかも、単純な武の強さでも僅かに上だった。
王賁が速度と正確さで攻めても、李信は槍の重さと体格を生かして受け止める。そのたびに王賁の腕へ負担が蓄積し、少しずつ呼吸が乱れていった。
「どうした、王賁」
「余裕ぶるな!」
王賁が鋭い突きを放つ。
李信は槍で外へ弾き、すぐに反撃した。
穂先が王賁の肩を掠める。
わずかに血が飛んだ。
「くっ……!」
「まだやるか」
「当たり前だろ!」
背後では、扶蘇たちが関を抜けている。
ここで一歩退けば、その分だけ李信軍が門へ近づく。
勝つ必要はない。
時間を稼げばいい。
王賁はそう理解しながら、再び槍を構えた。
◆
「その目は嫌いじゃない」
李信が言った。
「だが、戦場で綺麗に勝とうとする奴は損をする」
「何を」
王賁が踏み込もうとした瞬間、李信は馬を大きく寄せた。
間合いが崩れる。
槍同士で戦うには近すぎた。
王賁が馬を下げようとしたところで、李信は地面を蹴った馬の蹄が巻き上げた土を、槍を持たない手で掬い取った。
そのまま顔へ投げつける。
「なっ!」
乾いた土が目へ入った。
反射的に王賁が顔を背ける。
「卑怯な!」
「戦場で卑怯も何もあるか!」
視界が潰れた一瞬へ、李信の槍が入った。
王賁の槍が根元から弾かれ、手を離れて地面へ転がる。
「しまっ……!」
そこからの李信は速かった。
槍を捨てると馬を横へ寄せ、太い腕で王賁の腰を抱える。
「離せ!」
王賁は肘を打ち込み、手を振りほどこうとした。
だが李信は体格と腕力に任せて、そのまま王賁を馬上から引きずり落とした。
地面へ叩きつけられ、息が詰まる。
起き上がろうとしたところへ李信が覆いかぶさり、両腕を押さえ込んだ。
「捕らえたぞ、王賁」
「この……!」
周囲の兵が駆け寄り、王賁の腕へ縄を回す。
抵抗しようにも、先ほどの衝撃でまだ息が戻らない。
こうして王賁は、李信に生け捕りにされた。
◆
「母上!」
王離の声が響いた。
楊端和を退け、追おうとしていた王離は、母が地面へ押さえつけられている姿を見て動きを変えた。
大剣を握ったまま李信へ向かおうとする。
「動くな、王離!」
李信は立ち上がると、捕らえた王賁の首元へ刃を当てた。
「もう一歩来れば、母親の首を落とす」
王離の動きが止まった。
「母上を離してください」
「それはお前次第だ」
李信は刃を少しだけ押し込んだ。
王賁の首筋に細い血が滲む。
「武器を捨てろ。そして胡亥様へ従え。それなら、少なくとも今ここで王賁を殺すことはしない」
「李信……!」
「選べ」
王離は、大剣を握りしめたまま動かなかった。
あれほど重い剣を軽々と振るっていた手が、今は僅かに震えている。
「王離!」
地面に拘束された王賁が声を上げた。
「私に構うな! そのまま戦え!」
「母上……」
「ここで降れば、お前まで捕まる! 扶蘇を逃がせ!」
王離の視線が揺れた。
「王家の将なら、何を優先するべきか考えろ!」
王賁は怒鳴った。
「私は死ぬ覚悟くらいできている!」
「……できません」
小さな声だった。
「何?」
「母上を見殺しにはできません」
「王離!」
王離は唇を噛んだ。
幼い頃から自分を育てた母。
将として鍛え、戦い方を教え、どれほど無茶な訓練をしても最後には必ず戻ってきた母。
その首へ、今は刃が当てられている。
戦場で敵を斬る時に迷うことはない。
だが自分が戦うという選択によって母が死ぬとなれば、話はまるで違った。
やがて王離の手から力が抜けた。
巨大な大剣が地面へ落ち、重い音を立てた。
「……降伏いたします」
王賁の顔色が変わった。
「王離!」
王離はその場へ膝をついた。
「胡亥様に従います。ですから、母上を殺さないでください」
「馬鹿者!」
王賁の怒声が門前へ響く。
「なぜ降った! 私に構うなと言っただろ!」
「できません!」
王離は初めて強く言い返した。
「母上が死ぬのを見ていろと言われても、できません!」
その声に、王賁は言葉を失った。
王離は俯いたまま拳を握る。
武では楊端和を押し返した。
だが母親の命を秤に載せられた時、その強さは何の意味も持たなかった。
◆
その頃には、函谷関の門を抜ける北軍の数も少なくなっていた。
最後の部隊が関内へ入ったことを確認すると、王家の兵たちは門を閉じ始める。
王賁も王離も、もう戻ってこない。
それでも二人が稼いだ時間によって、俺たちは関の東側へ抜けることができた。
俺はまだ、そのことを知らなかった。
王賁が李信に捕らえられたことも。
王離が母の命を守るため、大剣を捨てたことも。
ただ、背後で巨大な門が閉じる音だけを聞いていた。
あの門の向こうに、王賁と王離を残したまま。
王家の母娘が支払った代償を知るのは、もう少し後のことになる。




