第61話 函谷関へ
四日目の戦場に、異変が走った。
味方として三日間戦い続けていた楊端和の騎馬隊が、突然進路を変えたのである。敵陣の側面へ回り込むものと思っていた北軍の兵たちは、千余りの騎兵が自分たちの背後へ向かってくるのを見ても、しばらくその意味を理解できなかった。
「楊端和殿、どちらへ!」
呼びかけに返事はない。
次の瞬間、楊端和の槍が北軍の兵を薙ぎ払い、その後ろから続いた騎兵が無防備な後陣へ雪崩れ込んだ。
「敵襲! 後方より敵襲!」
「敵ではない、楊端和隊だ!」
「では、なぜ我らを攻める!」
味方だと信じ切っていた相手からの突撃である。盾を構える者も槍を向ける者も遅れ、騎馬隊はほとんど抵抗を受けないまま軍の内側へ深く食い込んでいった。
前方には三十万近い李信軍。
背後には、つい先ほどまで味方だった楊端和の騎馬。
数で劣りながらも用兵と統率で均衡を保ってきた蒙恬軍にとって、もっとも避けなければならない崩れ方だった。
◆
「楊端和……!」
蒙恬は前線から振り返り、後方で翻る旗を見た。
三日間、楊端和は誰よりも激しく戦っていた。敵の側面へ突入し、危険な場所へ自ら騎兵を率い、何度も北軍の窮地を救っている。
だからこそ、今日になって後方へ回っても誰一人として疑わなかった。
「前衛は李信軍を押さえ続けなさい! 後陣は向きを変え、楊端和隊を食い止めます。持ち場を勝手に離れてはなりません!」
蒙恬の判断は早かった。
ここで前線まで恐慌に陥れば、軍全体が一気に崩れる。後陣だけを振り向かせ、前方の李信軍に対する戦列はできる限り維持しなければならない。
命令を飛ばしながら、蒙恬自身も馬首を返した。
乱戦の向こうに、楊端和の姿が見える。
「楊端和!」
その声に気づいた楊端和も、すぐにこちらを見た。
目が合った瞬間、蒙恬は胸の奥へ嫌なものを覚えた。
驚きも、迷いもない。
むしろ探していた相手を見つけた者の目だった。
楊端和は馬をまっすぐ蒙恬へ向ける。
蒙恬も退かなかった。
両者の武器が激しくぶつかり、甲高い金属音が響いた。
◆
一度すれ違い、すぐに互いの馬が向きを変える。
楊端和は間を置かず、二撃目を放った。
蒙恬はそれを受け流しながら、相手の狙いを探った。
腕ではない。
肩でもない。
馬を止めるための攻撃でもない。
楊端和が狙っているのは、首と胸だった。
「本気で私を殺すつもりですか!」
「そうだ!」
返事と同時に、槍が鋭く突き込まれる。
蒙恬は上体を捻ってかわしたが、穂先が鎧の表面を削った。
「なぜです! 何があなたをそこまでさせるのです!」
「問うな!」
楊端和はさらに踏み込んだ。
その攻撃には、捕らえようという意図がまるでない。一撃ごとに、確実に命を奪おうとする意思が込められていた。
「お前さえ……お前さえいなくなればいい!」
叫びながら振るわれた槍を、蒙恬は渾身の力で受け止めた。
武器越しに伝わる力は重く、その中には迷いがない。
何が楊端和をここまで変えたのか、蒙恬には分からなかった。
ただ、今の楊端和が自分を味方として見ていないことだけは、十分すぎるほど理解できた。
◆
本陣から戦場を見ていた俺も、最初は何が起きたのか分からなかった。
楊端和の騎兵が、北軍を斬っている。
その光景を自分の目で見ていながら、現実として受け止めるまで少し時間がかかった。
「……裏切ったのか」
隣にいた蒙凛の顔が強張る。
「扶蘇様、母上が!」
視線を向けると、乱戦の中央で蒙恬と楊端和が直接斬り結んでいた。
遠目にも、楊端和が蒙恬の命を狙っていることは分かる。
「蒙凛、行くぞ!」
「はい!」
俺が馬を前へ出すと、蒙凛もすぐに続いた。
「親衛隊はついてこい! 蒙恬のところまで道を開く!」
だが、その直後だった。
大地の震え方が変わった。
最初は戦場を駆け回る馬の響きだと思ったが、違う。音は北から一方向に近づいてきており、やがて遠くに上がった巨大な土煙の中から、無数の騎馬が姿を現した。
「扶蘇様!」
蒙凛が目を細める。
「匈奴です!」
旗を確認するまでもない。
あれほどの騎馬をまとめて動かせる勢力は、この辺りでは限られている。
そして、その先頭に掲げられているのは頭曼単于の旗だった。
「この時を狙っていたのか……!」
偽りの勅だけではない。
李信だけでもない。
趙高は、北の匈奴まで動かしていた。
◆
匈奴の騎馬は、こちらの本陣へ正面から突っ込んではこなかった。
狙ったのは、俺のいる本陣と蒙恬軍との間だった。
大量の騎馬が楔のように割って入り、両者の間にあった道を切り裂いていく。
「蒙恬との間を開けろ!」
俺は親衛隊へ命じた。
蒙凛は馬上で弓を構え、こちらへ迫ってくる匈奴騎兵を次々に射落としていく。近づいてくる者の馬を狙い、進路を乱し、隊列に小さな穴を作るたび、親衛隊がそこへ槍を押し込んだ。
「右から来ます!」
蒙凛が振り向きざまに矢を放つ。
矢は騎兵の肩口へ突き刺さり、その男が馬上から崩れ落ちた。
「次、左です!」
「見えてる!」
俺も剣を抜き、抜けてきた騎兵を迎え撃つ。
それでも数が違いすぎた。
一騎を倒せば、すぐに次が来る。
匈奴の騎兵は北辺で何度も秦軍と戦っており、こちらの歩兵がどう動けば崩れるのかを知っている。正面から止まらず、左右へ散りながら矢を放ち、こちらが追えば別の騎兵が横から入ってきた。
「扶蘇様、これ以上前へ出てはなりません!」
「だが、このままじゃ蒙恬のところへ届かない!」
「だからこそ、私が道を作ります!」
蒙凛はそう言うと、再び矢をつがえた。
だが、蒙恬の旗は土煙の向こうへ少しずつ遠ざかっていった。
◆
この機を、李信が見逃すはずはなかった。
「今だ! 敵の後方は崩れている!」
李信の命令で、朝廷軍が一斉に圧力を強めた。
これまで蒙恬は、寄せ集めで連携の悪い李信軍を局所的に分断し、兵数の差を相殺してきた。
だが今は違う。
背後から楊端和に襲われ、側面から匈奴が入り、本陣との連絡まで切られつつある。細かく兵を動かして戦線を整える余裕そのものが失われていた。
前へ出るべき部隊が後方を振り返り、後退する部隊と衝突する。
命令が届かないところでは、「背後から匈奴が来た」という噂だけで兵が持ち場を離れ始めた。
四日間、兵数の差をものともせず保ってきた均衡が、急速に崩れていった。
◆
咸陽では、胡亥が戦況の報告を受けていた。
「兄上の軍が崩れたのか?」
「はい。楊端和将軍が寝返り、匈奴も戦場へ入りました。蒙恬将軍の軍は、前後と側面から圧迫されております」
報告を聞いた胡亥の顔に、隠しきれない喜びが浮かんだ。
「ならば勝てるのだな、趙高」
「このまま推移すれば、軍を維持することは難しいでしょう」
趙高は静かに答えた。
「蒙恬将軍は優れた将ですが、前後から同時に崩され、さらに匈奴まで相手にしては、これまでのような用兵はできませぬ」
「兄上は死ぬのか?」
胡亥の問いに、趙高は少し考えてから首を横へ振った。
「できることなら、生け捕りがよろしいかと」
「なぜだ」
「公子扶蘇様は皇族であり、しかも希少な男にございます。戦場で討ち取れば、それを理由に不満を抱く者が出る可能性がございます」
軍を奪い、支持を失わせ、逃げ場までなくしてから捕らえる。
その方が処理は容易い。
だが趙高は、そこまでを胡亥へ説明しなかった。
「まずは兵を失わせることにございます。軍を持たぬ公子扶蘇様であれば、その後は朝廷の裁きに従わせることができます」
胡亥は満足したように頷いた。
◆
戦場では、頭曼も新たな獲物へ目を向けていた。
蒙恬を欲していることに変わりはない。
だが、その娘である蒙凛が、馬上から矢を放つ姿を初めて目にした。
速い。
馬を操りながら間を置かず矢をつがえ、正面だけでなく左右へ回る騎兵まで射抜いている。力任せではなく、騎兵の動きを読み、馬の進路を乱す場所へ矢を置いていく戦い方だった。
「……あれが蒙恬の娘か」
頭曼は興味深そうに目を細めた。
「若いが、よい腕をしている」
傍らの者が頷く。
「母親とともに殺すな。生け捕りにせよ」
「公子扶蘇はいかがいたしますか」
「男なのだろう」
頭曼は当然のように答えた。
「殺す理由はない。傷つけても構わぬが、生かして捕らえろ」
命令を受け、匈奴騎兵の動きが変わった。
正面から押し潰すのではなく、俺と蒙凛の周囲へ回り込み、少しずつ逃げ道を狭めてくる。
「包囲しようとしています」
蒙凛が矢を放ちながら告げる。
「ああ。殺す気じゃないらしい」
「その方が厄介ですね」
蒙凛はそう言いながら、さらに一騎を射落とした。
◆
一方、蒙恬は楊端和と斬り結びながら、戦場全体の崩れを見ていた。
前線では李信軍の圧力が強まり、本陣との間には匈奴が入り込んでいる。自分がここで楊端和との決着にこだわれば、軍全体が潰される。
優先すべきものは明白だった。
「楊端和!」
蒙恬は槍を大きく弾き返し、その反動で間合いを取った。
「あなたと戦っている時間はありません!」
「逃がすものか!」
楊端和が追う。
だが蒙恬は正面から受けず、近くにいた兵へ指示を飛ばした。
「ここを支えてください! 私は公子扶蘇様のもとへ戻ります!」
数騎が楊端和の進路へ割り込み、その間に蒙恬は馬首を返した。
逃げるのではない。
崩れかけた部隊へ声をかけ、前線から引き離し、本陣へ向かう形へ組み直していく。
楊端和が追撃しようとしても、戦場はすでに混乱しており、一直線に蒙恬だけを追える状況ではなかった。
◆
「扶蘇様!」
蒙凛が土煙の向こうを指した。
「母上です!」
俺も目を凝らした。
蒙恬の旗がこちらへ近づいている。
その姿を見た瞬間、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ緩んだ。
「こちらからも道を開く!」
親衛隊を前へ出し、蒙凛が援護の矢を放つ。
蒙恬側も兵をまとめながら押し返してきたことで、ようやく両軍の間に細い道ができた。
「扶蘇様!」
「蒙恬!」
血と土埃に汚れた蒙恬が馬を寄せてくる。
鎧には幾つも傷があったが、大きな負傷はしていない。
「御無事でございましたか」
「それはこっちの台詞だ」
俺は安堵した直後、自分の胸へ重く沈んでいたものを口にした。
「すまない。楊端和を信じた。あの帰還を、疑わなかった」
「責任を論じている場合ではございません」
蒙恬は迷わず遮った。
「このまま戦えば全滅いたします。今は軍を残すことをお考えください」
「退くしかないか」
「はい。東へ向かいます」
蒙恬は戦場を振り返った。
「函谷関を抜けます。あそこまで辿り着けば、地形を使って追撃を抑えることができます」
俺も周囲を見た。
勝敗は、もう明らかだった。
ここで戦い続けることは勇敢なのではなく、兵を無駄に死なせるだけになる。
「分かった」
俺は剣を掲げた。
「全軍、撤退! 東へ向かう! 動ける部隊から順に離脱し、互いに援護しろ!」
◆
退却は、戦う以上に難しかった。
李信軍は当然追ってくる。
楊端和の騎馬隊も側面から食らいつき、遅れた部隊を狙う。さらに匈奴の騎兵が後方へ回り込み、少しでも隊列から離れた兵を切り取っていった。
蒙恬は退却する部隊を幾つかの塊に分け、互いに援護させながら東へ進ませた。完全な戦列を保つことはできなくても、ばらばらに逃げれば騎兵の餌になる。
「負傷者は荷車へ! 歩ける者は隊列から離れないでください!」
蒙凛も後衛に近い位置から弓を引き、追いつこうとする騎兵を狙い続けた。馬を走らせながら振り向きざまに矢を放ち、前へ戻る動きを繰り返す。
「蒙凛、無理をするな!」
「まだ矢は残っています!」
「そういう意味じゃない!」
「分かっています!」
返事をしながらも、蒙凛の手は止まらなかった。
それでも、すべての兵を救うことはできない。
負傷して動けない者。
混乱の中で本隊から離れた者。
馬を失い、追撃の騎兵に追いつかれる者。
振り返るたび、誰かが敵の中へ飲み込まれていく。
助けに戻れば、そのためにさらに多くの兵が止まる。
それが分かっているからこそ、進まなければならなかった。
◆
どれほど走り続けたのか。
やがて山あいの向こうに、巨大な関門が見えてきた。
「函谷関です!」
兵たちの間に、わずかな安堵が広がった。
関中の東を守る要害。
狭い地形へ入れば、李信軍の兵数も、匈奴の騎馬の機動力も、そのままでは使えない。
あそこまで辿り着けば、まだ立て直せる。
誰もがそう思った。
だが近づくほど、違和感が強くなった。
門が動かない。
こちらの軍旗は見えているはずなのに、開門の準備すらしていなかった。
「門を開けよ!」
先行した兵が叫ぶ。
「公子扶蘇様である! 直ちに開門せよ!」
返事はない。
巨大な関門は固く閉ざされたままだった。
蒙恬が険しい表情で門を見上げる。
「朝廷から、すでに命令が届いているのでしょう」
今の俺は、正式には逆賊である。
函谷関の守将から見れば、俺たちを中へ入れれば朝廷へ逆らうことになる。
背後へ目を向けると、追撃の土煙がすでに近づいていた。
◆
「扶蘇様」
蒙恬が俺へ向き直った。
「もし門が開かなければ、私はここで後方を支えます。公子扶蘇様と蒙凛は、少数でも山道へ」
「それは駄目だ」
「ですが、このままでは」
「蒙恬を置いて逃げるために、ここまで来たんじゃない」
俺は閉ざされた門を見た。
前世で知っている歴史なら、俺はすでに死んでいる。
偽りの勅へ従い、自ら命を絶つ。
その結末を知っていたからこそ拒んだ。
だが、生き残った先に待っていたのは、俺の知っている歴史にはないものばかりだった。
出生の秘密。
楊端和の裏切り。
李信との戦。
匈奴の介入。
答えを知っているつもりだった道は、もう完全に消えている。
それでも、今さら死ぬことを選ぶ気にはなれなかった。
「戦える兵をまとめよう」
俺は剣を抜いた。
「追いつかれたら、ここで迎え撃つ。少なくとも、何もせず捕まるつもりはない」
蒙恬はしばらく俺を見た後、静かに頷いた。
「承知いたしました」
蒙凛も弓を握り直した。
「私も最後までお供いたします」
「最後って決めるな。まだ終わってない」
俺がそう言うと、蒙凛は僅かに笑った。
「はい。では、生き延びるまでお供いたします」
◆
その時だった。
背後から迫る馬蹄とは違う、低く重い音が響いた。
兵たちが一斉に振り返る。
だが音は後ろからではない。
前にある函谷関から聞こえている。
「門が動いているぞ!」
誰かが叫んだ。
固く閉ざされていた巨大な門が、内側からゆっくりと開き始めていた。
俺たちはすぐには動かなかった。
朝廷側が今になって門を開ける理由が分からない。
中へ誘い込んで捕らえるための罠という可能性もある。
やがて開いた門の奥から、一軍が姿を現した。
先頭に掲げられた旗を見た瞬間、俺は目を見開いた。
王氏の旗。
「扶蘇様!」
門の奥から聞き覚えのある声が響く。
馬を駆って出てきたのは、王離だった。
その後ろには、王賁もいる。
「こちらへお急ぎください! 追撃が到着する前に、残った兵をすべて中へ入れます!」
王離は馬を止めると、すぐにこちらへ頭を下げた。
「扶蘇様、御無事で何よりにございます」
「王離……」
その姿を見ても、しばらく言葉が出なかった。
少し遅れて王賁が門前まで馬を進めてくる。
「ひどい顔だな、扶蘇」
いつもの調子だった。
「……どうしてここにいるんだ」
「説明は後だ。今は入れ」
王賁は俺の背後へ目を向けた。
追撃の土煙は、もうかなり近い。
「お前を助けるために門を開けたんだ。ここまで来て捕まったら、私たちまで何をしているのか分からないだろ」
蒙恬も驚いた顔で王賁を見る。
「王賁将軍……」
「礼も事情も後だ、蒙恬。まず残った兵を通せ」
王賁の言葉に、蒙恬はすぐ将の顔へ戻った。
「承知しました! 全軍、函谷関へ入ります。負傷者を優先し、後衛は順番に下がってください!」
閉ざされていた道が、目の前で開いている。
関中の民から避けられ、朝廷から逆賊と呼ばれ、楊端和に裏切られた。
それでも、すべての者が俺を見放したわけではなかった。
王賁と王離が開いた函谷関の門の向こうへ、傷ついた兵たちが次々と駆け込んでいく。
俺も最後に一度だけ背後を振り返った。
迫ってくる李信軍と匈奴の騎馬。
その向こうには、まだ咸陽がある。
母上が最後に何を残したのか。
その答えには、結局辿り着けなかった。
それでも今は、生き延びる。
生きていなければ、何一つ確かめることはできない。
俺は馬首を返し、蒙恬、蒙凛とともに、開かれた函谷関の門へ駆け込んだ。




