第60話 裏切り
夜が更けても、楊端和はなかなか眠れなかった。
陣の外では見張りの兵が交代し、遠くの天幕からは低い笑い声も聞こえてくる。その日の戦で李信軍を押し返し、しかも匈奴に捕らわれたはずの将軍が帰還したのだから、兵たちが久しぶりの好材料に沸くのも当然だった。
彼らの目に映る楊端和は、敵地から命懸けで脱出し、危地にある扶蘇の軍へ馳せ参じた忠勇の将である。
実際には、その帰還そのものが偽りだった。
寝台に身体を横たえながら、楊端和は目を閉じた。すると脳裏には、秦へ戻ってからの数日ではなく、匈奴の捕虜となってから過ごした長い時間が蘇ってきた。
◆
女であることを意識しないようになったのは、いつ頃からだっただろう。
若い頃、楊端和は趙との戦で司馬尚と刃を交えたことがある。戦いの最中に衣が裂け、胸元が露わになった時、司馬尚の視線を受けた楊端和はほんの一瞬だけ、自分が女であることを意識してしまった。
胸を隠そうとした。
そのわずかな動きを司馬尚は見逃さず、楊端和は深い傷を負った。
戦場では、女としての羞恥すら命を奪う。
以来、楊端和は自分の中に残る女という部分を、できる限り意識の外へ追いやった。鎧をまとえば将であり、馬へ乗れば武人であり、兵の前に立てば命令を下す者である。それ以外の自分など、戦場には必要なかった。
もともと楊端和は、秦の大貴族として恵まれた婚姻を用意されるような生まれでもない。
故国は若い頃に秦へ併合され、それ以降は秦の将として戦場を渡り歩いてきた。蒙恬や王賁のように、家の存続や世継ぎのため男との縁を整えられる立場とは違い、楊端和に求められたのはいつも剣を振るい、兵を率い、勝つことだった。
しかも、この世では男そのものが少ない。
十人に一人ほどしか生まれぬ男は、多くの家にとって血を残すための貴重な存在であり、女なら誰でも伴侶を得られるというものではない。戦場に明け暮れて四十を越えた楊端和には、男と親しく言葉を交わす機会すらほとんどなかった。
それでも不満はなかった。
男を知らなくても国は守れるし、将にはなれる。自分の人生には戦場があり、部下がいて、己の武と名があるのだから、それで十分だと本気で思っていた。
匈奴に捕らえられるまでは。
◆
頭曼の手に落ちた最初の頃、楊端和の胸にあったのは屈辱と怒りだった。
敵の王に自由を奪われ、自分の意思とは無関係に女として扱われることは、これまで将として積み上げてきたものを踏みにじられるに等しい。初めのうちは隙さえあれば逃げようと考え、叶わぬのなら舌を噛んで死ぬことさえ頭をよぎった。
ところが長く囚われるうちに、楊端和は自分自身の中に、それまで知らなかった感情があることに気づいてしまった。
男の低い声が近くにある。
自分より大きな腕に囲われる。
将軍でも公女でもなく、ただ一人の女として見られる。
その関係の始まりが強制されたものであることは変わらない。それでも、身体が示す反応と心の意思が必ずしも同じではないことを知り、さらに厄介なことに、そこから「男に求められること」そのものへの渇きまで生まれていった。
(私は、何を待っているのだ)
自分でも分からなかった。
自由を奪った敵である。
秦軍を破り、自分と羌瘣を捕らえた男でもある。
それなのに頭曼から呼ばれない日が続くと、胸の奥が落ち着かなくなる。ほかの女が天幕へ入っていくのを見れば、自分でも認めたくない苛立ちが込み上げるようになった。
長く押し殺してきたものが、形を歪めて噴き出したのだ。
男と無縁のまま四十年以上を生き、女として誰かに選ばれることなど自分には関係がないと決めつけてきた。その空白へ突然、頭曼という存在が入り込んだ。
理屈では敵だと分かっている。
それでも、一人の男から女として意識されるという経験そのものが、楊端和にはあまりにも新しかった。
◆
羌瘣は、楊端和とは違った。
同じように囚われながら、羌瘣は最後まで頭曼へ心を明け渡そうとはしなかった。身体の自由を奪われても、自分が望んでそこにいるわけではないという一点だけは決して曖昧にしなかった。
二人がまだ顔を合わせることを許されていた頃、羌瘣は何度も楊端和へ言った。
「忘れるな、楊端和。私たちは捕虜だ。ここにいるのは、自分で選んだからではない」
「分かっている」
そう答えていた。
だが、その頃にはもう、楊端和自身にも何を分かっているのか判然としなくなっていた。
最初は耐え難かったはずの時間を、いつしか待つようになっていた。
匈奴の女たちが現れ、自分の髪を整え、身なりを整えていく日には、胸の中へ期待が生まれる。将軍として扱われているわけではなく、頭曼の前へ出す女として整えられているだけなのに、そのことへ屈辱を感じる一方で、選ばれたという感覚まで覚えてしまう。
そんな自分を嫌悪した。
けれども嫌悪したところで、感情そのものは消えない。
羌瘣が耐えろと言えば言うほど、楊端和にはその言葉が痛かった。なぜなら羌瘣の言葉は正しく、だからこそ自分がすでにその正しさから外れ始めていることを突きつけられるからだった。
やがて二人は別々に置かれるようになり、顔を合わせることも少なくなった。
それでも楊端和の中で、変化は止まらなかった。
◆
四十年以上、楊端和は様々な形で必要とされてきた。
兵は将として頼った。
王は武を求めた。
秦は領土を広げるため、楊端和の用兵を必要とした。
だが、そのどれも「女として選ばれた」という意味ではなかった。
この世界では男が少ないため、女が一生のうち一度も男と結ばれずに終わることも珍しくない。若さを失い、戦傷も増え、四十を越えた自分なら、なおさらその人生とは無縁だと楊端和は諦めていた。
そこへ頭曼が現れた。
敵であり、自分を捕らえた男である。
それでも楊端和にとっては、生まれて初めてこれほど近くで触れた男でもあった。
その事実が、判断を歪めていった。
いつしか楊端和は、自由を取り戻すことだけでなく、別の未来まで想像するようになっていた。
頭曼に選ばれる。
その子を産む。
もしその子が後継となれば、自分は単なる捕虜でも秦の将でもなく、単于の子を産んだ女として草原に場所を得られる。
それは戦功とも官位とも違う、自分が一度も手にしたことのない種類の価値だった。
そして一度その未来を思い描いてしまうと、楊端和は簡単には捨てられなくなった。
◆
「単于様」
ある夜、楊端和はとうとう自分から切り出した。
「何だ」
「もし、お許しいただけるのであれば、私は……単于様のお子を産みとうございます」
口に出してから、自分でも驚いた。
若い頃の楊端和なら、そんな願いを持つ自分を想像すらできなかっただろう。
だが今は違う。
誰かの子を産むことそのものではない。
頭曼に女として選ばれ、その証を残したいという思いが、胸の内に根を張っていた。
ところが頭曼は、すぐには頷かなかった。
「まだ決めぬ」
「なぜでございますか」
「お前だけではないからだ」
そこで出された名が、羌瘣だった。
「羌瘣はお前より若い。子を産ませるなら、あちらの方がよいかもしれぬ」
胸の内で、何かがざらついた。
これまで羌瘣は、ともに捕らわれた仲間だった。秦の将として肩を並べ、同じ屈辱を受けている女だったはずなのに、その瞬間から楊端和の中では別の意味を持ち始めた。
「ですが、将としての経験ならば私の方が上にございます」
「子に欲しいのは戦功だけではない。若さも、身体の丈夫さも、見目も見る」
頭曼は何気なく言っただけだった。
だが楊端和には、それが深く刺さった。
武なら競える。
用兵なら負けぬ。
戦場であれば年齢は経験へ変わる。
しかし女として比べられた時、若さだけは取り戻せない。
初めて、楊端和は羌瘣の若さを妬んだ。
(私を選んでほしい)
その思いを認めた瞬間、胸の内にあるものはさらに濃くなった。
将軍として勝ちたいのではない。
一人の女として、別の女より自分を選んでほしい。
これまで経験したことのない競争だった。
◆
さらに悪いことに、頭曼が本当に欲している女は、楊端和でも羌瘣でもなかった。
北辺から報告が届くたび、頭曼は一人の名を何度も口にした。
蒙恬。
三十万を率い、河南の地から匈奴を退け、長城を築いて北からの侵入を阻んだ秦屈指の将。
「蒙恬か。あれほどの女の血を我が子に継がせれば、面白いものが生まれよう」
その名を語る時の頭曼は明らかに楽しそうだった。
楊端和は最初、それを単なる将への評価だと思おうとした。
しかし何度も聞けば、否応なく分かる。
頭曼が本当に欲しいのは蒙恬なのだ。
自分も羌瘣も、目の前にいるから抱かれているだけに過ぎず、蒙恬を手に入れることができれば価値は大きく下がる。
その認識は、楊端和の中へ新しい嫉妬を植えつけた。
羌瘣へのものより、はるかに強い。
羌瘣なら、まだ同じ捕虜同士だ。
だが蒙恬は違う。
自由であり、秦の大軍を率い、名門の出で、今なお戦場で大きな功を重ねている。そして何より、頭曼が自分から手に入れたいと望んでいる。
それが楊端和には耐え難かった。
◆
そんな折、秦から趙高の密使がやって来た。
密談の後、楊端和は頭曼のもとへ呼ばれた。
「秦へ戻れ、楊端和」
「秦へ、でございますか」
「逃げ出したことにする。皇帝は死に、秦では扶蘇と胡亥が争うことになる。お前は扶蘇の側へ入り、信用を得よ」
そこで楊端和にも、何を求められているのか分かった。
「私に、内側から軍を崩せと」
「そうだ」
頭曼は隠そうともしなかった。
「扶蘇の軍を乱せば、北辺の守りも弱る。だが俺が欲しいのは、それだけではない」
続く言葉を、楊端和は予想できていた。
「蒙恬を生きたまま我がもとへ送れ」
やはり、その名だった。
「それができれば、お前の願いについても考えてやる」
その一言で、楊端和の中にある迷いは急速に小さくなった。
秦への忠義。
蒙恬とのこれまでの関係。
秦の将として積み重ねてきた年月。
それらが消えたわけではない。
ただ、それ以上に強い欲望がすでに育っていた。
頭曼に選ばれたい。
その子を産みたい。
自分にも、将軍ではなく女としての人生があったのだと思いたい。
「……承知いたしました」
楊端和は、深く頭を下げた。
◆
秦へ戻ってからは、驚くほど順調だった。
扶蘇は突然現れた楊端和を警戒こそしたものの、匈奴から脱出したという説明を聞けば、それ以上深く疑おうとはしなかった。もともと特別に親しい間柄ではなかったからこそ、再会も必要以上に感情的なものにはならず、楊端和にとっては都合がよかった。
蒙恬も同様だった。
昔から親友だったわけではないが、秦軍の将として互いの力量を知り、幾度も同じ戦場に立ってきた。匈奴に捕らわれた楊端和が戻ってきたことを疑うより、生還した一将として受け入れる方が自然だった。
だから楊端和は、本物の味方以上に働いた。
一日目は李信軍の側面へ突入し、崩れかけた敵部隊を徹底して追った。
二日目も危険な場所へ騎兵を入れ、蒙恬軍が前へ出るための隙を作った。
三日目には部下を何十人も失いながら敵の補給隊を襲い、戦果を持ち帰った。
手を抜けば疑われる。
だから命を惜しまず戦った。
その結果、三日目が終わる頃には、楊端和の騎馬隊が味方の後方を移動しても、警戒する者はいなくなっていた。
◆
それでも、楊端和には頭曼の命令通りにするつもりがないことが一つだけあった。
蒙恬を生きたまま渡す。
それだけはできない。
篝火を見つめながら、楊端和は何度もその後を想像した。
もし蒙恬を生きたまま草原へ送れば、頭曼は間違いなく喜ぶ。
自分や羌瘣へ向けたものとは違う目で、蒙恬を見るだろう。
そして蒙恬の子を欲しがる。
蒙恬がその願いを拒もうと、頭曼が諦めるとは思えない。
そうなれば、自分はどうなる。
また順番を待つのか。
五日に一度だったものが十日に一度になり、やがて呼ばれることすらなくなるのか。
自分が初めて見つけた女としての場所を、何も知らない蒙恬に奪われるのか。
考えただけで、胸の奥が強く締めつけられた。
(嫌だ)
その答えだけは、迷わなかった。
(それだけは、渡さない)
ならば方法は一つしかない。
蒙恬を、頭曼の手へ渡せない状態にすればいい。
殺す。
命令には背く。
頭曼は怒るだろうし、もしかすれば自分を罰するかもしれない。
それでも、死者を妻にはできない。
死んだ女に子を産ませることもできない。
蒙恬さえ消えてしまえば、頭曼はいずれ現実を見るしかなくなる。
そして、その時に残っているのは自分だ。
その考えがどれほど歪んでいるかなど、今の楊端和にはどうでもよかった。
四十年以上、手に入らないと諦めていたものが、ようやく目の前まで来たのだ。
戦場で手柄を立てれば、さらに戦場を与えられた。
勝てば、もっと強い敵を任された。
将軍としてどれだけ認められても、自分を待っていたのは次の戦だけだった。
それとは違う人生が、自分にもあるかもしれない。
誰かの子を産み、女として選ばれ、戦のない天幕で朝を迎える。
その夢を知ってしまった今、楊端和は以前の自分へ戻ることができなかった。
◆
四日目の朝、戦は再び始まった。
蒙恬は主力を前へ出し、李信軍の中央へ圧力をかけていた。三日間の戦いで李信側も寄せ集めの兵を少しずつまとめ始めていたが、長く北辺で一つの軍として動いてきた兵との差は簡単には埋まらず、今日も蒙恬軍が局所的な優位を作っていた。
楊端和の騎馬隊は、その後方で遊撃部隊として待機している。
三日前までなら、背後へ千余りの騎兵が動けば、味方も警戒しただろう。
今は違う。
楊端和は三日間、本気で戦った。
敵を討ち、味方を救い、危険な場所へ自ら飛び込み、その働きによって兵たちの信頼を得た。近くを通れば頭を下げる者までおり、誰も楊端和の槍が自分たちへ向くとは考えていなかった。
前線の先には、蒙恬の旗が見える。
今は李信軍との戦いへ意識を集中しているため、後方への備えは薄い。
騎兵なら届く。
しかも味方だと思われている今なら、十分近づくまで止められることもない。
「将軍、次はどちらへ回りますか」
副官が尋ねた。
楊端和はすぐには答えず、遠くの蒙恬を見つめていた。
秦軍の将として、何度も同じ旗の下に立った女だった。
自分の生還を疑わず受け入れ、戦場でも背を預けている。
そこに多少の痛みがないわけではない。
だが、その痛みよりも、頭曼の口から蒙恬の名を聞くたびに湧き上がった嫉妬の方が、今は強かった。
(すまぬ、蒙恬)
胸の中で、一度だけ詫びた。
そして、その後に続いた思いはまるで違う。
(だが、単于様に選ばれるのは私だ)
楊端和は槍を掲げた。
「全騎、私に続け!」
千余りの騎兵が一斉に動き始める。
近くにいた北軍の兵たちは、誰も驚かなかった。いつものように李信軍の側面へ回り、敵を乱すための移動だと思っている。
だから、楊端和が途中で馬首を変えても、すぐには意味を理解できなかった。
進む先に敵軍はいない。
そこにあるのは、前を向いて戦っている味方の背中だった。
やがて一人の兵が異変に気づき、振り返った。
その顔に驚きが浮かぶ。
だが遅い。
「突撃!」
楊端和が号令を下すと、千余りの騎馬が一斉に速度を上げた。
狙うのは北軍全体ではない。
前線で指揮を執る一人の女。
頭曼が生きたまま欲しがった女を、楊端和は自分の手で殺そうとしていた。
四十年以上、女としての人生など必要ないと思ってきた。
戦功があればよい。
剣があり、馬があり、兵が従えば、それで十分だと信じていた。
だが、一度知ってしまった。
男に選ばれるという感覚を。
自分にも子を望む心があり、誰かの傍にいたいと願う部分が残っていたことを。
その遅すぎる渇望は、今や戦場で築いた誇りよりも強く楊端和を動かしていた。
騎馬隊の前方で、蒙恬の背が次第に近づいていく。
味方だと信じた者から向けられる槍に、まだ蒙恬は気づいていなかった。




