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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第2章 秦の栄光と崩壊編

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第59話 帰還

# 第59話 帰還


 翌朝、李信(りしん)の三十万が動き始めた。


 これまで李信(りしん)は、こちらの補給が細るのを待ちながら無理に決戦を挑まず、時間を味方につけていた。だが関中各地から兵を集め、数の上で大きく優位に立った今、待つ必要はないと判断したのだろう。


 平原の向こうで、秦軍の旗が一斉に前へ進んでくる。


「来ます」


 蒙恬(もうてん)は高台から敵軍を見下ろしながら、落ち着いた声で告げた。


「中央は受け止めますが、正面から押し合うつもりはございません。左翼を少し下げ、敵が食いついたところで騎兵を側面へ回します」


「三十万を相手に、持つか?」


「三十万すべてを一度に相手にしなければよいのです。敵の動きに綻びを作り、その部分だけを叩きます」


 蒙恬(もうてん)はそう言うと、すぐに各隊へ命令を飛ばした。


 ほどなく両軍がぶつかったが、こちらは敵の圧力をまともに受け止めようとはしなかった。中央は少しずつ後退し、敵が勢いに乗って前へ出たところで左右の部隊が動き、突き出した部分を横から削っていく。


 押されているように見えても、隊列は乱れない。


 北辺で何年も一つの軍として戦ってきた兵たちは、退くこともまた命令の一つだと理解していた。



 李信(りしん)軍には、数とは別の弱点があった。


 もともと李信(りしん)が率いていた軍に、関中各地の郡兵や県兵、都周辺の守備兵まで次々と加わっている。総数は三十万に達していても、それぞれが別の指揮官の下で戦ってきた兵であり、まだ一つの軍として馴染んではいなかった。


 前へ出る部隊と、その場へ残る部隊の間に隙ができる。


 退けという命令が届いても、理由の分からない部隊は反応が遅れる。


 同じ太鼓や旗を使っていても、命令を受けてから動き始めるまでの速さが揃わない。


 蒙恬(もうてん)は、そこを見逃さなかった。


「中央をさらに下げてください。ただし左翼は動かさないように」


「中央だけを下げれば、敵が深く入ってきますが」


「それでよいのです。入り込んだところで、左右から挟みます」


 命令を受けた将校たちは迷わず動いた。


 中央軍が後退すると、李信(りしん)軍の一部が勝機と見て前へ出る。しかし隣接する部隊は同じ速度で進めず、戦列に大きな歪みが生まれた。


 そこへ蒙恬(もうてん)が騎兵を差し込んだ。


 敵の側面へ突撃した騎兵が隊列を崩し、その混乱を見た中央軍が今度は一斉に押し返す。


 数では圧倒的に不利なはずなのに、戦線の一部ではこちらが敵を押し込んでいた。


「……すごいな」


 俺は戦場を見ながら思わず口にした。


「三十万もいるように見えない」


「三十万を三十万として戦わせなければよいだけにございます」


 蒙恬(もうてん)は淡々と答える。


「敵の軍は大きくなりましたが、それだけ命令を通すのも難しくなっています。今はこちらの方が、兵を細かく動かせます」


 簡単に言っているが、それを実際に行うには、将の判断だけでは足りない。


 命令を理解して動く将校。


 その将校を信じて従う兵。


 北辺で積み重ねてきた時間そのものが、今の戦場では兵数以上の力になっていた。



 当然、李信(りしん)も黙って翻弄されてはいなかった。


「右軍は中央へ合わせろ! 突出した部隊を下げさせろ!」


 敵陣では次々と命令が飛ぶ。


 李信(りしん)自身の判断は速い。


 だが命令を受ける部隊の動きが、それについてこない。


「右の郡兵、まだ前進しております!」


「退却命令は出しただろう!」


「別隊への命令と取り違えたようです!」


 李信(りしん)は舌打ちした。


 数を集めれば軍は強くなる。


 だが、数を集めただけで一つの軍になるわけではない。


 楚で二十万を率いた頃の李信(りしん)なら、それでも勢いで押し切ろうとしたかもしれない。しかし一度大敗を経験した今の李信(りしん)は、無理に決着を急がなかった。


 突出した部隊を引き戻し、戦線を整え直す。


 こちらが追ってくれば、今度は逆に数で包む。


 蒙恬(もうてん)が隙を作れば、李信(りしん)がそれを埋める。


 戦場では、二人の将の判断が何度もぶつかった。



 午前の戦いが終わる頃になっても、こちらの戦線は崩れていなかった。


 むしろ李信(りしん)軍の一部を押し返し、敵にかなりの損害を与えている。


「敵中央が下がります!」


「追撃は不要です」


 蒙恬(もうてん)はすぐに止めた。


「ここで深く入れば、左右から包まれます。兵を戻し、水と矢を補給させてください」


 俺は遠ざかる敵軍を見た。


「勝っているようには見えるな」


「今日の戦場だけを見れば、こちらが優勢です」


 蒙恬(もうてん)はそう答えた後、少し間を置いた。


「ですが、李信(りしん)将軍も次は同じ形では来ないでしょう。それに、敵には後方から兵糧も兵も届きます。こちらには、それがありません」


 この戦いは、一度勝てば終わる戦ではない。


 時間が経つほど苦しくなるという状況そのものは、何も変わっていなかった。



 午後になると、李信(りしん)は戦い方を変えた。


 今度は中央を突出させず、左右を同時に進めてこちらの騎兵が回り込む空間を消そうとしてくる。蒙恬(もうてん)もそれを見ると、中央を動かさず右翼だけを前へ出し、敵が戦列を整える前に別の場所へ圧力をかけた。


 李信(りしん)が対応すれば、蒙恬(もうてん)が狙いを変える。


 蒙恬(もうてん)が兵を動かせば、李信(りしん)もすぐにその意図を読んで対策する。


 互いに大きな失策はない。


 ただ、軍全体の反応速度では明らかにこちらが上だった。


 何度か李信(りしん)自身が率いる部隊が中央へ進もうとしたが、そのたびに蒙恬(もうてん)は別の場所へ兵を出し、敵に対応を強いた。


李信(りしん)本人をこちらまで来させる気はないんだな」


「もちろんにございます」


 蒙恬(もうてん)は敵陣から目を離さなかった。


扶蘇(ふそ)様のおられる本陣まで敵将を通すようでは、私がここにいる意味がございません」


 俺は苦笑した。


「頼りにしている。でも、自分まで無茶はするなよ」


「無茶をせずに勝つため、こうして頭を使っております」


 そう答えた直後だった。


 右後方を監視していた斥候が、馬を飛ばして駆け込んできた。



「右後方より騎馬の一団が接近!」


 蒙恬(もうてん)が振り返る。


「旗印は確認できましたか」


「まだ判別できません! 数は千余りと思われます!」


 俺も遠くへ目を凝らした。


 確かに砂煙が上がっている。


 騎馬の一団は、こちらの本陣へ向かってくるのではなかった。


 そのまま速度を落とさず、李信(りしん)軍の側面へ突進していく。


「敵ではないのか?」


「少なくとも、李信(りしん)軍と合流する動きではございません」


 蒙恬(もうてん)の表情も険しくなる。


 やがて騎馬隊の先頭で、一旒の旗が開いた。


 距離が縮まるにつれ、その文字が見える。


「……あれは」


 蒙恬(もうてん)が目を見開いた。


 俺もすぐに分かった。


楊端和(ようたんわ)……?」



 騎馬隊は、ほとんど速度を落とさないまま李信(りしん)軍へ突入した。


 狙ったのは、関中の郡兵が多く配置されていた一角だった。


 突然側面から現れた騎兵に、部隊は対応しきれない。


 前方の敵を相手にするべきなのか、新たに現れた騎兵へ向きを変えるべきなのか。命令が統一されないまま、それぞれの隊が別の動きを取る。


 その乱れへ、楊端和(ようたんわ)の騎馬隊が深く食い込んだ。


「止まるな! 隊列の薄いところを抜けろ!」


 遠くからでも、楊端和(ようたんわ)の声が聞こえる。


 正面から歩兵を押し潰すのではなく、一度崩れた場所を次々と突いていく。敵が騎兵を回してくればまともに受けず、進路を変えて別の部隊へ襲いかかった。


 匈奴の騎兵と長く行動をともにしてきたためか、以前よりさらに騎馬の扱いが鋭くなっているように見えた。


楊端和(ようたんわ)将軍の突撃に合わせます」


 蒙恬(もうてん)は驚いていたのも一瞬だった。


「こちらの騎兵を右から出してください。ただし進路を重ねないよう、少し南を回らせます。歩兵も中央から圧力をかけ、敵に立て直す時間を与えないでください」


 北軍の騎兵まで加わり、乱れは一気に広がった。


 楊端和(ようたんわ)が作った傷口を、蒙恬(もうてん)が逃さず広げていく。



 李信(りしん)も、すぐに異変へ気づいた。


「あの騎兵は何者だ!」


「旗は楊端和(ようたんわ)将軍のものと思われます!」


楊端和(ようたんわ)だと?」


 李信(りしん)が驚くのも当然だった。


 楊端和(ようたんわ)は北方で匈奴に敗れ、羌瘣(きょうかい)とともに捕らえられている。


 秦へ帰還したという報告など、それまで一度もなかった。


「本当に本人なのか!」


「先頭で指揮している女将が、楊端和(ようたんわ)将軍に間違いないとのことです!」


 李信(りしん)は戦場へ目を向けた。


 側面では、すでに一部の郡兵が後退し始めている。


 数千程度の騎兵なら、三十万という兵数から見れば大した増援ではない。


 だが、軍の継ぎ目へ予想外の方向から突入されたことで、戦線全体へ混乱が波及していた。


「一度下げろ。態勢を立て直す!」


 李信(りしん)は無理に戦い続けることを選ばなかった。


 夕刻を待たず、敵軍が徐々に後退を始めた。



 蒙恬(もうてん)も追撃は命じなかった。


楊端和(ようたんわ)将軍へも、これ以上の追撃は不要と伝えてください。敵は敗走しているのではなく、態勢を立て直すために退いているだけです」


 伝令が走っていく。


 ほどなく楊端和(ようたんわ)の騎馬隊も追撃を止め、こちらの陣へ向きを変えた。


 俺は戦況を見るより、近づいてくる先頭の女へ目を奪われていた。


 間違いない。


 以前より痩せ、肌は日に焼け、身につけている装備も秦軍の正式な鎧ではない。それでも、あの顔を見間違えるはずはなかった。


 楊端和(ようたんわ)は馬を降りると、俺の前まで歩いてきた。


 そして片膝をついた。


「公子扶蘇(ふそ)様。御無沙汰しております」


 その言葉を聞いて、ようやく本当に戻ってきたのだと実感した。


「……楊端和(ようたんわ)将軍。よく無事で」


「御心配をおかけいたしました」


 楊端和(ようたんわ)は頭を下げた。


 俺と楊端和(ようたんわ)は、もともと特別に親しい間柄ではない。


 同じ秦に仕える者として顔を合わせたことはあり、その武勇も知っていたが、蒙恬(もうてん)王賁(おうほん)のように長い時間をともにしてきた相手ではなかった。


 それでも、匈奴の手に落ちたと聞いて以来、生きて戻れるのかずっと気になっていた。


「立ってください。戦場へ来てくださったこと、感謝します」


「もったいなき御言葉にございます」


 楊端和(ようたんわ)は立ち上がると、今度は蒙恬(もうてん)へ一礼した。


蒙恬(もうてん)将軍も、御健勝で何よりにございます」


「それはこちらの台詞です。よく戻られました、楊端和(ようたんわ)将軍」


 二人は短く言葉を交わした。


 再会を喜ぶ気持ちはあっても、戦場の最中である。


 長く話している時間はなかった。



 軍議へ移ってから、俺は楊端和(ようたんわ)に尋ねた。


「どうやって匈奴から脱出されたのですか」


「機会を待ちました」


 楊端和(ようたんわ)は簡潔に答えた。


「草原の奥地で馬も道も分からぬまま逃げれば、すぐに捕らえられます。ですから監視が緩むまで大人しくしながら、水場と移動路、それに部族同士の関係を覚えておりました」


 数か月かけて機会を待ち、本営から別の営地へ移される途中で、護衛同士の混乱が起きた。


 その隙に馬を奪い、少数の者とともに脱出したという。


「途中で匈奴から逃れたい者や、捕虜となっていた秦兵とも合流しました。少しずつ人数が増え、今では千余りおります」


「そのまま北辺へ戻るつもりだったのですか」


「はい。当初は上郡(じょうぐん)へ向かうつもりでございました」


 楊端和(ようたんわ)は俺へ目を向けた。


「しかし途中で、公子扶蘇(ふそ)様が北軍を率いて咸陽(かんよう)へ向かわれ、朝廷軍と戦っておられると知りました。北辺へ戻るより先に、こちらへ加わるべきと判断した次第にございます」


「俺のために?」


「公子扶蘇(ふそ)様個人のためだけ、というわけではございません」


 楊端和(ようたんわ)は率直に答えた。


「私は長く秦の将として戦ってまいりました。公子扶蘇(ふそ)様が逆賊となり、蒙恬(もうてん)将軍までそれに従ったと聞けば、何が起きているのか確かめぬわけにはまいりません」


 その言葉の方が、俺にはむしろ信頼できた。


「それで、俺たちを見てどう思いました?」


「少なくとも、今日の戦場を見た限りでは」


 楊端和(ようたんわ)は少しだけ表情を緩めた。


「逆賊の軍には見えませぬ。蒙恬(もうてん)将軍が、相変わらず厄介な戦をなさっておられましたので」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 蒙恬(もうてん)が答えると、楊端和(ようたんわ)は小さく笑った。



 俺には、もう一つ確認しなければならないことがあった。


楊端和(ようたんわ)将軍」


「はい」


羌瘣(きょうかい)将軍は?」


 楊端和(ようたんわ)の表情が変わった。


 すぐには答えない。


 その沈黙だけで、望んでいた返事ではないことが分かった。


「……御一緒ではないのですね」


「はい」


 楊端和(ようたんわ)は低い声で答えた。


「脱出の機会は一度しかございませんでした。私はその時に逃れましたが、羌瘣(きょうかい)将軍は連れ出すことができませんでした」


「今も匈奴に?」


「おそらくは」


 楊端和(ようたんわ)は拳を握った。


「私だけが戻ったことを、誇るつもりはございません。羌瘣(きょうかい)将軍を残してきた事実は変わりませぬから」


 俺はすぐには何も言えなかった。


 楊端和(ようたんわ)が生還したことは嬉しい。


 だがその喜びだけで終われないことも、よく分かった。


「それでも、戻ってきてくださってよかった」


 俺がそう言うと、楊端和(ようたんわ)は静かに頭を下げた。


「ありがとうございます」



 その日の戦いで、李信(りしん)軍は初めて明確に後退した。


 三十万という兵数の優位が消えたわけではないし、こちらの兵糧事情も改善していない。関中の民や郡県が朝廷側についている状況も、そのままだった。


 それでも、蒙恬(もうてん)は寄せ集めの三十万を用兵で翻弄し、後から現れた楊端和(ようたんわ)の騎馬隊が、その弱点へ深く食い込んだ。


 夜になると、兵たちの間にも久しぶりに明るさが戻った。


 匈奴に捕らえられたはずの将軍が生還し、その日の戦場で自分たちとともに戦った。


 それだけでも、朝廷から逆賊と呼ばれ続けていた軍にとっては大きな意味があった。


 俺は少し離れた場所から、蒙恬(もうてん)と明日の配置について話している楊端和(ようたんわ)を見た。


 失ったと思っていた将が、一人戻ってきた。


 だが、羌瘣(きょうかい)はまだ草原に残されている。


 そして目の前には、なお三十万近い李信(りしん)軍がいる。


 今日はこちらが押し返した。


 それでも、この戦いがこちらへ傾いたとは、まだ到底言えなかった。


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