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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第6話 師の貌

 朝靄の中に、木剣の風切る音が響く。


「甘い。手首が死んでいます」


 蒙恬の木剣が、俺の一撃を軽く受け流し、返す動きで俺の胴を、とん、と叩いた。地面に尻をつく。もう何度目か、数える気も失せた。


「もう一度」


「……はい」


 立ち上がる。全身が泥だ。七歳の体は、まだ思うように動かない。頭の中の理屈と、手足の動きが、まるで噛み合わない。


 だが、俺は笑っていた。


 守られるだけの男ではなく、守れる男に。あの日、政に願い出て手に入れた、この稽古の時間。泥にまみれるたび、俺は「駒ではない自分」に、一歩ずつ近づいている気がした。


「扶蘇様」


 蒙恬が木剣を下ろし、俺の前に膝をついた。汗ばんだ額に、朝の光が差している。二十五になった蒙恬は、乳母だった頃の柔らかさに、武人としての凛とした鋭さが加わり、匂い立つようだった。


「筋は、悪くありません。むしろ、良い。頭で戦を理解しておいでだ。……ですが、体がついてこない。それだけです」


「体が、追いつくものか」


「追いつきます。私が、追いつかせます」


 蒙恬は俺の泥だらけの頬に手を伸ばし、汚れを、指で拭った。何気ない仕草だった。だが俺は、その指の温度に、どきりとした。


 乳を飲んでいた頃とは、違う。もう俺は、この女が、どれほど美しいかを、知ってしまっている。


「……師として、言うておきます」


 蒙恬が、少しだけ声を落とした。


「私は、扶蘇様を、立派な男になさるよう、王より預かった身。ですが、それだけではありませぬ。──肥下で、私は、扶蘇様のお言葉に、命を救われました。あの恩を、私は、この一生を懸けて、お返しいたします」


 まっすぐな目だった。


 俺は、顔が熱くなるのを、泥のせいにした。



 午後は馬術だった。


 これが、また難しい。頭では馬の扱いを知っている。だが、七歳の脚力では、馬の腹を締める力が足りない。振り落とされること、数知れず。


「凛は、もう駈歩かけあしができるというのに」


 俺が悔しがると、隣で凛が、得意げに胸を張った。


「ふふん。扶蘇様は、学問では敵いませんけど、馬なら私です!」


「……言うようになったな、凛」


「だって、本当ですもの!」


 七歳の凛は、母に似て、日ごとに美しくなっていく。活発で、よく笑い、木剣を持たせれば俺より強い。母娘そろって、武の血が濃いのだろう。


 俺が馬上でよろめくたび、凛はけらけらと笑った。だが、俺が本当に落ちそうになると、真っ先に駆け寄ってくるのも、凛だった。


「あ、危ないっ! 扶蘇様!」


 小さな手が、俺の腕を掴む。二人して、藁の山に転がり込んだ。


 目の前に、凛の顔があった。息がかかるほど近くに。


 しばらく、二人とも、動けなかった。凛の頬が、みるみる赤くなる。


「……り、凛?」


「な、なんでもありませんっ!」


 凛は、火が付いたように飛び起きて、走り去ってしまった。


 残された俺は、藁の中で、ぼんやりと空を見上げた。


(……まいったな)


 母と娘。かつて、遠い日に、遠い妄想をしたことがある。だが、今は違う。蒙恬への憧れも、凛への愛おしさも、妄想などではなく、日々の稽古の中で、確かな熱を持ち始めていた。


 この世界で、男は貴重だという。だが俺は、貴重な種としてではなく、この二人に、一人の男として──と、そこまで考えて、俺は七歳の自分の体を思い出し、頭を抱えた。


(気が、早すぎる)



 稽古の日々は、瞬く間に過ぎた。


 夕餉ゆうげの後、蒙恬が兵法を講じてくれる時間が、俺は何より好きだった。


 地面に石を並べ、川を描き、山を築く。蒙恬は、自らが戦った戦を、一つ一つ、語ってくれた。どこで兵を伏せ、どこで退き、どこで討って出たか。書物の中の兵法が、蒙恬の口を通すと、血の通った、生きた知恵になった。


「──では扶蘇様。ここで、敵の糧道りょうどうが伸びきったなら、いかがなさいます」


「……叩く。だが、深追いはせぬ。伸びきった敵は、退く時こそ、反撃に転じる」


「お見事」


 蒙恬が、目を細めて笑った。


 その笑みを見るために、俺は兵法を学んでいるようなものだった。師の隣に、少しでも近づきたい。認められたい。この人の役に、立ちたい。



 そんな穏やかな日々の外で、天下は、確実に動いていた。


 俺が蒙恬の下で泥にまみれている間に、政は、動いた。


 標的は、かん


 戦国七雄の中で、最も小さく、最も弱い国。秦と趙に挟まれ、長年、風前の灯火ともしびであった国だ。


「韓を、獲る」


 その決断を、俺は宮で、政の口から直接聞いた。肥下の敗戦から、秦は着実に力を蓄え直していた。そして政は、最も弱い獲物から、天下統一の一歩を、踏み出そうとしていた。


「母上。将は」


「案ずるな。お前の言う通り、王翦おうせんではない。──韓ごときに、王翦は要らぬ」


 政の言う通りだった。


 韓は、あっけなかった。


 秦軍が新鄭しんていを囲むと、韓王は、ほとんど戦うことなく、降伏した。国土は献上され、韓王は捕らえられ、韓という国は、地図の上から、消えた。


 数百年続いた国が、一つ、呆気あっけなく滅んだ。


 報せを聞いた俺は、しばらく、言葉が出なかった。


 これが、始まりだ。


 韓、趙、魏、楚、燕、斉。俺が前世で暗記した、七雄が一つずつ倒れていく、その最初の音を、俺は今、聞いた。歴史の教科書で、たった一行だった「韓滅亡」が、目の前で、現実になった。


 天下統一への、巨大な歯車が、回り始めたのだ。


 そしてその歯車の中心には、俺の母がいる。始皇帝と、なる女が。



「扶蘇様。何を、考えておいでですか」


 その夜、稽古を終えた蒙恬が、俺の横顔をのぞき込んだ。


「……韓が、滅んだ。次は、趙だろう。趙が滅べば、その次は──」


「よくお分かりですな。まさに、その通りかと」


「蒙恬」


 俺は、夜空を見上げた。


「俺は、強くなる。この歯車に、転がされるだけの男には、ならぬ。……母が天下を獲るなら、俺は、その天下で、守りたいものを、守れる男になる」


 守りたいもの。それが誰を指すのか、俺は口にしなかった。


 だが、隣に立つ蒙恬は、何かを察したように、ふっと微笑んだ。


「……頼もしゅう、ございます」


 その声が、いつもより少しだけ、柔らかかった。


 天下が、動き出す。


 その巨大な流れの片隅で、俺は、剣を握る手に、力を込めた。

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