第7話 趙の臥所
韓が滅んだ。
その報せは、邯鄲の宮にも、凍てつく風のように届いていた。
韓を呑み込み、その兵を己の血肉とした秦は、次なる獲物に牙を向けた。──趙。かつて肥下で秦の大軍を退けた、北方の強国である。
秦の布陣は、盤石であった。
大将は王翦。焦らず、勝てる戦しかせぬ、秦第一の宿将。副将には楊端和、羌瘣。いずれ劣らぬ女傑たちだ。
それを迎え撃つ趙の将は、二人。
李牧。そして──司馬尚。
◆
軍議の灯が消えた後の、将軍の営舎。
甲冑を解いた李牧は、一人の女に戻っていた。
趙を支える北の壁。匈奴を震え上がらせ、秦の名将すら破った軍神。だが今、燭台の淡い光の下で長い黒髪を解いたその姿は、匂い立つように艶めかしかった。
「……考え事か」
背後から、低い声がした。
司馬尚。李牧が唯一、背中を預けられる副将であり──閨を共にする、男であった。
この世で男は貴重だ。大半は後宮に囲われ、種親として管理される。戦場に立つ男など、万に一つ。司馬尚は、その稀有な一人だった。剣を取れば鬼神、閨では優しい、李牧だけの男。
「王翦が相手だ。考えることは、山ほどある」
「軍のことだけか」
司馬尚の腕が、後ろから李牧の肩を抱いた。甲冑を脱いだ薄い衣越しに、男の体温が伝わる。李牧の白い首筋が、わずかに震えた。
「……ずるい男だ、お前は」
「戦の前の夜くらい、将軍の顔を忘れさせてやりたい」
司馬尚の唇が、李牧の首筋に落ちる。軍神と呼ばれた女の喉から、甘い吐息が漏れた。
「……明日、死ぬかもしれぬのだぞ」
「だから、今夜がある」
燭台の火が、二人の影を壁に溶かした。
甲冑の下に隠された李牧の肌は、戦傷の痕に覆われていた。匈奴の矢の痕。秦兵の剣の痕。その一つ一つを、司馬尚は唇で辿っていく。まるで、生きて還ってきたことへの感謝のように。
「お前のこの傷は、全部、趙のためのものだ」
「違う」
李牧は、司馬尚の頬を、両手で包んだ。
「もう、趙のためではない」
◆
趙は、腐っていた。
趙王・遷。この世で貴重なはずの男の王は、残虐非道の暴君であった。
気に入らぬ臣下を生きたまま釜で茹で、美しい女と見れば後宮に攫い、飽きれば獣の檻に投げ込む。賄賂を好み、奸臣・郭開の言のみを聞いた。
李牧と司馬尚が命を懸けて守る国の頂に、その男は座っていた。
「……あの王のために、死ねと」
司馬尚が、静かに問うた。
「兵たちは、趙のために戦っていると信じている。だが俺たちは知っている。あの玉座に、守る価値などないことを」
「そうだな」
李牧は、静かに頷いた。
「だが、民がいる。趙の地に生きる、数百万の民が。あの王は守る価値がなくとも、民には、ある」
軍神の目が、燭台の火を映して揺れた。
「そして──お前がいる」
李牧は、司馬尚の胸に額を預けた。
「正直に言おう。私はもう、趙のためには戦えぬ。あの腐った王のためになど、指一つ動かしたくない。……だが、お前とこうしていられる、この時間を守るためなら、私は何とでも戦える。王翦とでも、天とでも」
「李牧……」
「勝とう、司馬尚。生きるために。二人で生き延びるために。……国のためではなく、私たちのために」
それは、将軍の言葉ではなかった。
ただ一人の女が、愛する男に告げる、祈りのような誓いだった。
司馬尚は、答える代わりに、李牧を強く抱きしめた。
明日には、数万の兵が死ぬ戦が始まる。秦の王翦が、楊端和が、羌瘣が、北の大地に殺到する。
だが、この夜だけは。
軍神と、最後の男は、ただの二人として、互いの温もりに溺れた。
◆
同じ夜。遠く離れた咸陽の宮で、俺は政に呼ばれていた。
二人だけの、静かな一室。政は地図を広げ、その上に置かれた駒を、指先で弄んでいた。北の辺境、趙との国境。そこに、一つの駒が、不動の山のように置かれている。
李牧。
「扶蘇。お前は、王翦なら李牧に勝てると言った。五つの頃からな」
「はい」
「では訊こう。どうやって勝つ」
政の目が、俺を射抜いた。試すような、量るような、あの王の目だ。
俺は、しばし逡巡した。答えれば、また一つ、俺は「ただの子供ではない何か」を、この母に晒すことになる。だが──蒙恬の下で武を学び、盤面を打つ側になると誓ったのだ。ここで口を噤むのは、俺の選んだ道に反する。
「……正面からでは、勝てませぬ」
「ほう」
「李牧は、戦場では破れませぬ。肥下が、その証。王翦がいかに老練でも、正面からぶつかれば、泥沼の膠着になり、いたずらに兵を失うだけかと」
「では、どうする」
俺は、地図の上の、李牧の駒ではなく──趙の王都、邯鄲を指した。
「李牧を討つ刃は、戦場にはございませぬ。趙の宮の中に、ございます」
政の眉が、わずかに動いた。
「趙王・遷は暗君。その傍らに、郭開という奸臣がおります。金を愛で、国を愛でぬ男。……この郭開を、買収なさいませ」
「郭開に、何をさせる」
「李牧を、讒言で失脚させるのです。軍神を、味方の手で、葬らせる。──戦場で勝てぬ将は、玉座の腐りを使って、盤外から崩す。それが、王翦の勝ち方かと存じます」
長い、沈黙があった。
政は、地図から目を上げ、俺を──見た。
その目に宿ったものを、俺は、生涯忘れないだろう。
それは、感心ではなかった。喜びでも、愛おしさでもなかった。
──畏怖だった。いや、もっと冷たい。恐怖に、近い何か。
「……八つの童が」
政の声は、掠れていた。
「軍神を、盤外から殺す策を、眉一つ動かさず、口にするか」
しまった、と思った。だが、遅い。
俺は、この母に、初めて「気味の悪いもの」を見る目を、向けられていた。肥下の予言は、まだ「賢い子」の範囲だった。だが今のは違う。人の心の腐りを読み、それを兵器として使う──これは、子供の知恵ではない。老獪な策士の、冷血だ。
「……見事だ、扶蘇」
政は、そう言った。言葉は褒めていた。だが、その声には、温もりが、なかった。
母の声では、なかった。
「その策、用いよう。──下がってよい」
俺は拝礼し、退出した。
背中に、政の視線が、突き刺さっていた。
その視線が、これから長い年月をかけて、俺と母の間に、静かな溝を刻んでいくことを──このときの俺は、まだ知らなかった。
◆
北の大地で、軍神は愛する男の腕の中にいる。
その足元で、見えざる策の糸が、静かに絡み始めていた。
糸を手繰るのは、遠い咸陽の、八つの子供。
軍神・李牧は、戦場では決して破れない。
だが──盤は、もう、戦場の外で動き始めていた。




