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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第7話 趙の臥所

 韓が滅んだ。


 その報せは、邯鄲かんたんの宮にも、凍てつく風のように届いていた。


 韓を呑み込み、その兵を己の血肉とした秦は、次なる獲物に牙を向けた。──趙。かつて肥下で秦の大軍を退けた、北方の強国である。


 秦の布陣は、盤石ばんじゃくであった。


 大将は王翦。焦らず、勝てる戦しかせぬ、秦第一の宿将。副将には楊端和ようたんわ羌瘣きょうかい。いずれ劣らぬ女傑じょけつたちだ。


 それを迎え撃つ趙の将は、二人。


 李牧。そして──司馬尚しばしょう



 軍議の灯が消えた後の、将軍の営舎えいしゃ


 甲冑を解いた李牧は、一人の女に戻っていた。


 趙を支える北の壁。匈奴きょうどを震え上がらせ、秦の名将すら破った軍神。だが今、燭台の淡い光の下で長い黒髪を解いたその姿は、匂い立つようになまめかしかった。


「……考え事か」


 背後から、低い声がした。


 司馬尚。李牧が唯一、背中を預けられる副将であり──ねやを共にする、男であった。


 この世で男は貴重だ。大半は後宮に囲われ、種親として管理される。戦場に立つ男など、万に一つ。司馬尚は、その稀有けうな一人だった。剣を取れば鬼神、閨では優しい、李牧だけの男。


「王翦が相手だ。考えることは、山ほどある」


「軍のことだけか」


 司馬尚の腕が、後ろから李牧の肩を抱いた。甲冑を脱いだ薄い衣越しに、男の体温が伝わる。李牧の白い首筋が、わずかに震えた。


「……ずるい男だ、お前は」


「戦の前の夜くらい、将軍の顔を忘れさせてやりたい」


 司馬尚の唇が、李牧の首筋に落ちる。軍神と呼ばれた女の喉から、甘い吐息が漏れた。


「……明日、死ぬかもしれぬのだぞ」


「だから、今夜がある」


 燭台の火が、二人の影を壁に溶かした。


 甲冑の下に隠された李牧の肌は、戦傷の痕に覆われていた。匈奴の矢の痕。秦兵の剣の痕。その一つ一つを、司馬尚は唇で辿っていく。まるで、生きて還ってきたことへの感謝のように。


「お前のこの傷は、全部、趙のためのものだ」


「違う」


 李牧は、司馬尚の頬を、両手で包んだ。


「もう、趙のためではない」



 趙は、腐っていた。


 趙王・せん。この世で貴重なはずの男の王は、残虐非道の暴君であった。


 気に入らぬ臣下を生きたまま釜で茹で、美しい女と見れば後宮にさらい、飽きれば獣の檻に投げ込む。賄賂を好み、奸臣かんしん郭開かくかいの言のみを聞いた。


 李牧と司馬尚が命を懸けて守る国の頂に、その男は座っていた。


「……あの王のために、死ねと」


 司馬尚が、静かに問うた。


「兵たちは、趙のために戦っていると信じている。だが俺たちは知っている。あの玉座に、守る価値などないことを」


「そうだな」


 李牧は、静かに頷いた。


「だが、民がいる。趙の地に生きる、数百万の民が。あの王は守る価値がなくとも、民には、ある」


 軍神の目が、燭台の火を映して揺れた。


「そして──お前がいる」


 李牧は、司馬尚の胸に額を預けた。


「正直に言おう。私はもう、趙のためには戦えぬ。あの腐った王のためになど、指一つ動かしたくない。……だが、お前とこうしていられる、この時間を守るためなら、私は何とでも戦える。王翦とでも、天とでも」


「李牧……」


「勝とう、司馬尚。生きるために。二人で生き延びるために。……国のためではなく、私たちのために」


 それは、将軍の言葉ではなかった。


 ただ一人の女が、愛する男に告げる、祈りのような誓いだった。


 司馬尚は、答える代わりに、李牧を強く抱きしめた。


 明日には、数万の兵が死ぬ戦が始まる。秦の王翦が、楊端和が、羌瘣が、北の大地に殺到する。


 だが、この夜だけは。


 軍神と、最後の男は、ただの二人として、互いの温もりに溺れた。



 同じ夜。遠く離れた咸陽かんようの宮で、俺は政に呼ばれていた。


 二人だけの、静かな一室。政は地図を広げ、その上に置かれた駒を、指先でもてあそんでいた。北の辺境、趙との国境。そこに、一つの駒が、不動の山のように置かれている。


 李牧。


「扶蘇。お前は、王翦なら李牧に勝てると言った。五つの頃からな」


「はい」


「では訊こう。どうやって勝つ」


 政の目が、俺を射抜いた。試すような、量るような、あの王の目だ。


 俺は、しばし逡巡しゅんじゅんした。答えれば、また一つ、俺は「ただの子供ではない何か」を、この母に晒すことになる。だが──蒙恬の下で武を学び、盤面を打つ側になると誓ったのだ。ここで口をつぐむのは、俺の選んだ道に反する。


「……正面からでは、勝てませぬ」


「ほう」


「李牧は、戦場では破れませぬ。肥下が、その証。王翦がいかに老練でも、正面からぶつかれば、泥沼の膠着こうちゃくになり、いたずらに兵を失うだけかと」


「では、どうする」


 俺は、地図の上の、李牧の駒ではなく──趙の王都、邯鄲を指した。


「李牧を討つ刃は、戦場にはございませぬ。趙の宮の中に、ございます」


 政の眉が、わずかに動いた。


「趙王・遷は暗君。その傍らに、郭開という奸臣がおります。金を愛で、国を愛でぬ男。……この郭開を、買収なさいませ」


「郭開に、何をさせる」


「李牧を、讒言ざんげんで失脚させるのです。軍神を、味方の手で、葬らせる。──戦場で勝てぬ将は、玉座の腐りを使って、盤外から崩す。それが、王翦の勝ち方かと存じます」


 長い、沈黙があった。


 政は、地図から目を上げ、俺を──見た。


 その目に宿ったものを、俺は、生涯忘れないだろう。


 それは、感心ではなかった。喜びでも、愛おしさでもなかった。


 ──畏怖いふだった。いや、もっと冷たい。恐怖に、近い何か。


「……八つの童が」


 政の声は、かすれていた。


「軍神を、盤外から殺す策を、眉一つ動かさず、口にするか」


 しまった、と思った。だが、遅い。


 俺は、この母に、初めて「気味の悪いもの」を見る目を、向けられていた。肥下の予言は、まだ「賢い子」の範囲だった。だが今のは違う。人の心の腐りを読み、それを兵器として使う──これは、子供の知恵ではない。老獪ろうかいな策士の、冷血だ。


「……見事だ、扶蘇」


 政は、そう言った。言葉は褒めていた。だが、その声には、温もりが、なかった。


 母の声では、なかった。


「その策、用いよう。──下がってよい」


 俺は拝礼し、退出した。


 背中に、政の視線が、突き刺さっていた。


 その視線が、これから長い年月をかけて、俺と母の間に、静かな溝を刻んでいくことを──このときの俺は、まだ知らなかった。



 北の大地で、軍神は愛する男の腕の中にいる。


 その足元で、見えざる策の糸が、静かに絡み始めていた。


 糸を手繰るのは、遠い咸陽の、八つの子供。


 軍神・李牧は、戦場では決して破れない。


 だが──盤は、もう、戦場の外で動き始めていた。

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