第8話 奇貨居くべし
呂不韋が捕らえられてから三日後の夜、政は一人で地下牢へ向かった。
謀反について聞くためではない。嫪毐を動かし、王宮を襲わせた理由は既に聞いている。それでも、七歳の扶蘇を新たな王に据えようとしたことだけが、政の中に引っかかっていた。
牢番には、誰も奥へ通すなと命じた。
衣の内には、小さな器を忍ばせている。
王を弑そうとした大罪人とはいえ、呂不韋は長く秦を支えてきた丞相でもある。衆目の前で刑場へ引き出すより、自ら死を選ばせる。そのつもりで、政はここへ来ていた。
最奥の牢には、粗末な囚人衣をまとった呂不韋がいた。
「王自らお越しとは」
男は格子の向こうから顔を上げた。
「聞きたいことがある」
「謀反についてなら、もう話したはずですが」
「なぜ、扶蘇だった」
呂不韋の目がわずかに細くなる。
「私を討とうとした理由は分かっている。だが、お前は初めから扶蘇を次の王にすると決めていた。まだ七歳の子をだ」
「聡明な方ですからな」
「それだけではあるまい」
政は格子へ近づいた。
「お前は、何の得にもならぬことに命を懸けるような男ではない」
しばらく呂不韋は答えなかった。
やがて、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「父親が、自分の息子を気にかけるのは、それほどおかしなことでしょうか」
牢の中へ静かな言葉が落ちた。
政は驚かなかった。
だが、それは王宮でもごく限られた者しか知らない秘密だった。
扶蘇の父は、呂不韋である。
男が十人に一人しか生まれないこの世で、王家に男子を得ることは王統そのものに関わる。政は世継ぎを確実に残すため、相手の血筋や健康、立場まで慎重に考え、その末に極秘裏で呂不韋を選んだ。
そして生まれたのが、扶蘇だった。
父の名は伏せられた。秦の丞相である呂不韋の子だと知られれば、まだ幼い王子を中心に新たな勢力が生まれかねなかったからだ。
「それは私が一番よく知っている。私がお前を選んだのだからな」
「ええ」
「だから聞いている。父親だからというだけで、私を殺してまで扶蘇を王にしようとしたのか」
「それだけではありません。あなたでは秦が危ういと思ったのも本心です」
呂不韋はそこで少し間を置いた。
「ただ、最近の扶蘇様を見ていると、実に面白い」
「何がだ」
「私に似てきました」
「父子なのだから、似ることくらいある」
「その通りです」
呂不韋は政を見た。
「そして、あなたにもよく似ている」
「私は母だ。当然だろう」
「違います」
静かな否定だった。
「私が言っているのは、扶蘇様があなたに似ているという話ではない。あなたも、私に似ているという話です」
政は眉を寄せた。
「……何を言っている」
「人を見る時の目も、欲しいものを前にした時の執着も、危険を承知で手を伸ばすところも。昔から、よく似ていると思っておりました」
「世迷言はよせ」
「では、一つお尋ねしましょう」
呂不韋から笑みが消えた。
「王は、ご自分の父が誰かご存じですか」
政の表情が変わった。
父について、名を聞かされたことはない。
幼い頃に母へ尋ねても、王家の事情ゆえに秘されているとだけ答えられ、それ以上を知ることは許されなかった。男そのものが希少で、その血筋が政治へ直結する王家なのだから、そういうこともあるのだと納得してきた。
「お前は知っているのか」
「ええ」
「誰だ」
呂不韋は、真っ直ぐに政を見た。
「私です」
政は動かなかった。
「……何?」
「あなたの父は、私です」
牢の奥で、水滴が石へ落ちた。
政は格子の向こうの男を見つめたまま、しばらく言葉を発することができなかった。
「何を……言っている」
「言葉の通りです。あなたのお母上が趙におられた頃、私との間にあなたを身籠った。私はその事実を知っております」
「……知っている?」
「ええ。推測ではありません」
呂不韋の声には迷いがなかった。
「あなたは、私の娘です」
政の指が格子を掴んだ。
「なら……なぜ私は知らされていない」
「知らされてよい話ではなかったからです」
「なぜだ」
「王家の正統性が揺らぐ」
呂不韋は淡々と答えた。
「秦王の父が王族ではなく、商人上がりの男であると知れれば、それを利用する者はいくらでも現れる。ゆえにあなたの父は秘された。そして、私も口を閉ざした」
政は何も言わなかった。
自分の父は呂不韋。
その言葉が、すぐには頭の中へ収まらなかった。
だが次の瞬間、別の顔が浮かんだ。
扶蘇。
七歳になった息子。
その父もまた、呂不韋だった。
「……待て」
政の声が掠れた。
呂不韋は黙っている。
「待て」
二つの事実がつながっていく。
王家に男子を残すため、自分は呂不韋を選んだ。
誰にも強制されていない。
自分で、この男を扶蘇の父に選んだ。
その男が。
自分の父だった。
「では、私は……」
政の顔から血の気が引いた。
「何も知らずに、自分の父との間に……」
最後まで言葉にできなかった。
息が浅くなる。
けれど、次に湧き上がってきたのは困惑ではなかった。
怒りだった。
「お前は知っていたのだな」
政が顔を上げた。
「自分が私の父だと知っていた。そのうえで、私がお前を扶蘇の父に選ぶのを黙って受け入れたのか」
「はい」
あまりにも簡単な返事だった。
「なぜだ!」
「秦王家には男の世継ぎが必要だったからです」
「だから何だ!」
政の声が石壁へ響いた。
「お前が断ればよかった! 私に真実を話せばよかっただろう!」
「話せば、あなた自身が誰の子なのかを明かすことになる。王位を揺るがす危険を冒してまで、ですか」
「それでもだ!」
政は格子を強く掴んだ。
「知らぬ娘に自分を選ばせておいて、何が王家のためだ!」
呂不韋は答えなかった。
その沈黙が、政の怒りをさらに強くした。
この男は、自分が父であることを知っていた。
それでも何も言わなかった。
王家に男子が必要だから。
秦のためだから。
そうやって、自分の娘さえ大きな勘定の中へ組み込んだ。
「……やはり、お前は商人だな」
政の声が低くなる。
「国も、人も、血まで値をつけて考える」
「否定はしません」
「扶蘇もか」
「いいえ」
その時だけ、呂不韋の答えは早かった。
「最初は価値を見ていたのでしょうな。王の長子であり、希少な男児であり、私の血を引く子でもある。ですが、あの方を見ているうちに、それだけではなくなった」
「だから、私を殺してあの子を王にしようとした?」
「あなたでは秦を危うくすると考えた。それも本心です。ですが、扶蘇様が育った先を見てみたいと思ったのも、また本心ですよ」
政はしばらく男を見つめていた。
やがて、衣の内へ手を入れる。
取り出した小さな器を、格子の隙間から牢の中へ置いた。
乾いた音が響く。
呂不韋が視線を落とした。
「……鴆毒ですか」
「ああ」
政は最初から、それを渡すつもりだった。
王を殺そうとした罪は重い。だが長年秦を支えた丞相を刑場へ引き出せば、朝廷にも余計な波紋を残す。だから、自ら死なせるつもりでここへ来た。
先ほどまでは、それだけだった。
王として下す処分。
それだけで終わるはずだった。
だが今は違う。
政は格子の向こうの男を見据えた。
「飲め」
呂不韋が顔を上げる。
「自分で死ね、呂不韋」
その言葉には、王としての命令だけではなくなっていた。
自分を殺そうとしたことよりも。
自分の出生を知りながら黙り、何も知らない自分との間に扶蘇を成したことが、今は許せなかった。
「最初から、これを渡すつもりで来た」
政は言った。
「だが今は、本気でお前に死んでほしい」
呂不韋はしばらく政を見ていた。
やがて器へ手を伸ばす。
「そうですか」
「扶蘇には何も残すな」
「ええ」
「あの子には、この話を絶対に知らせるな」
呂不韋は小さく頷いた。
「それだけは、私も同じ考えです」
政は返事をせず、背を向けた。
もう、この男の顔を見たくなかった。
◆
政の足音が遠ざかってからも、物陰にいた一人の女はしばらく動けなかった。
趙高だった。
牢役人として記録を扱っていた彼女は、王が突然現れたため退出する機会を失い、暗がりへ身を隠していた。
聞くつもりなどなかった。
それでも、すべて聞いてしまった。
扶蘇の父は、呂不韋。
そして。
政の父も、呂不韋。
「……とんでもないことを聞いてしまった」
趙高は口元を押さえた。
表へ出せば、ただの醜聞では済まない。
政の出生そのもの。
扶蘇の出生。
秦王家の血統。
そのすべてを揺るがす秘密だった。
今、誰かに話せば自分が死ぬ。
それくらいは分かる。
だから口にはしない。
だが、忘れるつもりもなかった。
誰にも知られてはならない秘密ほど、人を縛る力を持つ。
いつか、この事実が必要になる時が来るかもしれない。
政にとって。
あるいは、扶蘇にとって。
その時、この夜に聞いた言葉は、何より鋭い刃になる。
趙高は誰にも気づかれぬよう、暗い牢を離れていった。
その奥には、呂不韋と鴆毒の器だけが残されていた。




