第5話 飾りの世継ぎ
乱の後始末は、血の臭いより先に、妙な噂で宮を満たした。
「ねえ、聞いた? 嫪毐のこと」
「聞いた聞いた。信じられない」
離れの庭で木剣を振っていた俺の耳に、洗濯物を抱えた女官たちの声が、垣根越しに届いてくる。
「反乱の将よ? 処刑は免れないと思ってたのに」
「それがねえ……処刑場で、命乞いの代わりに、桐の車輪を持ってこさせたんですって」
「車輪? 何のために」
「それを……その、股のものだけで、回してみせたそうよ」
木剣が、手から滑り落ちた。
(……知っている、その話)
前世で読んだ。司馬遷の『史記』呂不韋列伝。嫪毐という男が桐の車輪を陰茎で回してみせ、評判を取ったという、あの逸話。まさか、この目で検証することになるとは。
「それで、どうなったの」
「貴重な男だから、と。……殺すには惜しいと、沙汰が覆ったのよ」
「まあ……この国、そういうところあるものねえ」
女官たちが、溜息とも感心ともつかぬ声を漏らしながら、去っていく。
俺は、地面に落ちた木剣を拾う気力もなく、遠い目をした。
(この世界は……本当に、男が一割しかいないのだな)
三万の兵を率いて都を焼いた大逆の将が、一芸によって首が繋がる。馬鹿馬鹿しい。だが、笑えなかった。俺自身が、その「殺されぬ男」の論理の中で生きているのだ。嫪毐は芸で、俺は血で。──同じ檻の中の、種類の違う獣にすぎない。
◆
だが、俺が本当に背筋を冷やしたのは、その後のことだった。
助命された嫪毐は、なんと、政の側に置かれた。
「母上。……なぜ、あの男を」
謁見の後、二人だけになった折に、俺はつい訊いてしまった。反乱の将を手元に置くなど、正気とは思えなかったからだ。
政は、窓の外を見たまま、しばらく答えなかった。
「……扶蘇。お前は賢いが、女の事は、まだ分かるまいな」
「は……」
「あの男は、呂不韋の飼い犬だった。呂不韋の絵図を回す、歯車の一つよ」
政の声は、凪いだ水面のように平らだった。だが、その平らさが、かえって恐ろしかった。
「その歯車を、今度は私が回す。呂不韋が私を使ったように、私が、あの男を使う。……あの男を抱く夜は、私が選ぶ。私の意思でな」
俺は、言葉を失った。
これは──上書きだ。
獄で何を聞かされたのか、俺は知らない。だが、あの夜から政は変わった。俺の顔を、探すように、恐れるように見るようになった。何か、過去を汚されるようなことが、あったのだ。
だから政は、自らの意思で男を選び、自らの意思で抱かせることで、奪われた何かを、取り戻そうとしている。汚された上から、自分の色を塗り重ねるように。
(痛々しい……)
合理の化身のようなこの母が、唯一、合理では埋められぬ傷を抱えている。俺は、それを見てしまった。
◆
数月の後、宮に報せが流れた。
──政、懐妊。
その報せを聞いた瞬間、俺の頭の中で、冷たい歯車が、かちりと噛み合った。
(生まれてくる子は……男か、女か)
もし、男だったら。
俺は指を折って数えた。母は嬴氏の王女。父は嫪毐。ならば生まれる子の王家の血は、半分。
──俺は、どうだ。
俺の父も、記録では抽籤で選ばれた市井の男。ならば俺の嬴氏の血も、半分。
(同じ、なのか……俺と、その子は)
嬴の血の濃さで言えば、俺と、まだ生まれぬその子は、同じだ。王族の男は殺されぬ——その禁忌が俺を守る盾なら、同じ盾を、その子も持つことになる。
そして史実で、俺に毒を賜る弟の名前を、俺は知っている。
胡亥。
(まさか……その子が、胡亥なのか)
背に、氷を当てられたようだった。
史実では、趙高が胡亥を担ぎ、俺に反逆の罪を着せ、毒を呷らせる。その趙高は、もう宮にいる。乱の後、いつの間にか尚書の末に加わった、あの女が。
駒が、揃い始めている。俺を殺すための盤面が、生まれる前から、組み上がろうとしている。
◆
その夜、俺は眠れなかった。
今までの俺は、ただの観察者だった。肥下を予言したのも、口が勝手に滑っただけ。反乱の夜も、蒙恬に守られていただけ。呂不韋の死も、報せで知っただけ。
盤面は勝手に動き、俺はその上で転がされる駒だった。
(──もう、沢山だ)
貴重な男。殺されぬ世継ぎ。奪い合いの的。飾り物の玉璽。
待っているだけなら、俺は史実の扶蘇と同じだ。賢く、優しく、そして何もできずに、一杯の毒で死ぬ。
翌朝、俺は政に拝謁を願い出た。
「母上。折り入って、お願いがございます」
「申してみよ」
「俺を、飾りの世継ぎに、しないでください」
政の眉が、わずかに動いた。
「畏れながら。俺は奥で守られ、大切に育てられるだけの男に甘んじたくはありませぬ。兵法を、政を、実際の戦の采配を──本物を、学ばせてください」
「……六つの童が言う言葉ではないな」
「六つゆえに、申し上げます。大きくなってからでは、遅いことがあると存じますゆえ」
俺は頭を下げたまま、続けた。
「蒙恬の下で、武を学びとうございます。机上の兵法ではなく、軍の中で。──守られる男ではなく、守れる男に、なりとうございます」
長い沈黙があった。
やがて政は、口元に、複雑な笑みを浮かべた。それは喜びでも、警戒でもない。畏怖に近い、何かだった。
「……お前は、時々、人間に見えぬ時がある」
俺の心臓が、跳ねた。転生者だと、気づかれたか──。
「まるで、百年生きた老人のようだ。……よかろう。蒙恬に預ける。存分に学べ」
許しが下りた。
小さな一手だ。だが、生まれて初めて、俺は自らの意思で、自らの未来に手を伸ばした。盤面に転がされる駒から、盤面を打つ側へ。ほんの半歩。だが、確かな半歩だった。
◆
政が身重になるにつれ、嫪毐の姿を宮で見ることは、次第に減っていった。
そして懐妊が確かなものと知れた、その数日後。
「──嫪毐様が、処刑されたそうです」
凛が、声を潜めて教えてくれた。
「貴重な男を、殺すのか、と反対する声もあったそうですが……王の御意思は、固かったと」
用済み、というわけだ。
世継ぎの種を得た今、反乱の将を生かしておく理由は、政には一つもない。自らの意思で選び、自らの意思で抱き、そして自らの意思で捨てた。
上書きは、完了した。呂不韋という男に汚された記憶の上に、政は自分で選んだ男の死を、塗り重ねたのだ。
痛ましいほどに、強い女だった。
だが──と、俺は思う。
その強さが産み落とすのは、嫪毐の血を引き、趙高の野心に担がれるかもしれぬ、俺の弟だ。
生まれてくる前から、俺の命を狙う駒。
(待っていろ、胡亥。……いや)
俺は、拳を握った。木剣の豆が潰れて、少し血が滲んでいる。蒙恬に預けられ、振り続けた、証の豆だ。
(待ってなど、やらぬ。今度は、俺が先に動く)
盤面は、まだ生まれてもいない子の周りに、着々と組み上がっている。
だが今の俺は、もう、ただ転がされるだけの駒ではなかった。




