第6話 王を替える者
俺が七歳になる頃には、秦は再び戦の中にあった。桓齮を失った敗戦は決して小さなものではなかったが、それで母上が軍を止めることはなく、趙との国境ではたびたび兵が境を越え、魏との間でも砦や街道を巡る小競り合いが続いていた。
十万、二十万という大軍が正面からぶつかる戦ばかりではない。数千の兵を送り込んで守りの薄い土地を奪い、敵が大軍を集めれば一度退き、隙ができればまた踏み込む。宮中にはほとんど毎日のように軍報が届き、どこで兵が動いた、どこで城を取った、何人失ったという話が、日常の一部になりつつあった。
七歳になった俺も、以前より学ぶものが増えていた。史書や地誌だけでなく、法、税、各地の産物、兵糧がどこから集められ、どの道を通って軍へ送られるのかまで教えられるようになり、戦とは戦場だけで起きているものではないのだと少しずつ分かり始めていた。
そんな俺のところへ、最近になってよく顔を出す男がいる。
「扶蘇様。今日は何をお読みで?」
声をかけられ、俺は机の上の木簡から顔を上げた。
「魏の地誌です」
「ほう。七歳で地誌とは、相変わらず随分と堅いものを読まれますな」
呂不韋だった。
秦の丞相である以上、宮中で姿を見かけること自体は珍しくない。ただ、このところ妙に俺へ声をかけることが増えている。以前なら二言三言で終わっていたものが、最近は何を読んでいるのか、何を考えているのかと、しばらく話をしていくことが多くなった。
「そんなに変ですか?」
「普通の七歳児なら、もう少し別のことに興味を持つものです」
「例えば?」
「馬や菓子、遊び。それから、そろそろ将来どの家の娘が美しく育つか、気にする男子もおりますな」
「七歳で、そんなことを考えるのですか」
「本人より周りが先に考えるのでございますよ」
呂不韋は冗談めかして笑ったが、完全な冗談ではないことくらい俺にも分かった。男が十人に一人しか生まれないこの国では、王子である俺が将来誰を妻に選ぶのかということまで、家同士の結びつきや血筋に関わる政治の一部になる。
「今は地誌の方が面白いです」
「それもまた、扶蘇様らしい」
そう言って笑う呂不韋の視線は、妙に落ち着かなかった。俺の顔だけではなく、机に置かれた木簡や手元、それから姿勢や受け答えまで、一つずつ確かめるように見ている。
以前から時々感じていたが、その目は人を見るものというより、品物を見る商人の目に近かった。
傷がないか。
どれほどの値があるか。
今手に入れるべきか、それともさらに価値が上がるまで待つべきか。
そんなことを考えながら、じっくり品定めをしているように感じる。
「呂不韋」
「はい?」
「俺の顔に何かついていますか?」
「いいえ。何も」
「なら、どうしてそんなに見るのです」
呂不韋は一瞬だけ目を細めたあと、いつもの柔らかな笑みに戻った。
「よくお育ちになったと思いましてな」
「まだ七歳です」
「七歳だからこそ、分かるものもございます」
また、よく分からないことを言う。
俺が問い返す前に、呂不韋は軽く頭を下げた。
「学問のお邪魔をいたしました。またお話を聞かせてください」
「はい」
去っていく背中を見送りながら、俺はしばらく首を傾げていた。
やはり、値踏みされている。
そんな感覚だけが残った。
◆
呂不韋は廊下を歩きながら、先ほどまで話していた少年の姿を思い返していた。
七歳。
まだ幼い。
自分一人で宮の外へ出ることも許されず、政治に直接口を挟めるような年齢でもない。それでも二年前に比べれば、物を見る目も、考える力も、明らかに育っていた。
書を読ませれば理解が早く、覚えたことをそのまま口にするのではなく、自分なりに考えて答える。桓齮が趙へ出陣する前からその戦を危ぶんでいたことも、呂不韋の耳には入っていた。
偶然かもしれない。
だが、商人として長く生きてきた呂不韋は、価値のあるものを前にして「偶然だから」と目を逸らす男ではなかった。まだ形になっていないものの中から可能性を見つけ、その価値が上がる前に手を伸ばす。それが、かつての彼を大商人にまで押し上げた力でもある。
扶蘇は、王の長子である。
しかも男児。
それだけでも、この秦では極めて大きな意味を持つ。男が希少である以上、王家の男子がどの家と結ばれるかは、そのまま有力者たちの勢力図へ影響する。
さらに扶蘇は聡明で、人から好かれる。蒙恬は乳母という立場を超えて深い情を注いでおり、宮中の女官たちからの評判も悪くない。まだ幼いからこそ、敵も少なく、これからどのようにでも育てることができる。
「悪くない」
自室へ戻った呂不韋は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
その視線が、机に積まれた軍報へ移る。
趙国境で秦軍が砦を奪った。
魏との境では川を越え、敵の陣を焼いた。
別の場所では秦兵が村落を押さえ、さらにその先へ斥候を出している。
一つ一つは大戦とは呼べない規模だった。それでも兵を動かすたびに食糧と馬が必要になり、武器は傷み、負傷者も出る。奪った土地を守るなら、そこへさらに兵を残さなければならない。
桓齮を失った敗北のあとでさえ、政は歩みを止めていなかった。
呂不韋は軍報の木簡を卓へ戻した。まだ若輩でありながら、政が見据えているものはあまりにも大きい。国境を少し広げる程度では満足せず、韓も趙も魏も、その先にある諸国すべてを滅ぼして天下を一つにするところまで、既に自分の手が届くものとして考えている。
若いからなのか。
それとも、若いからこそなのか。
自分にはまだ時間があると思う者なら、もっと慎重になることもできるだろう。だが政は逆だった。自分の生きている間に成し遂げられると信じているからこそ、少しでも早く前へ進もうとしているように見える。
才がないわけではない。
むしろ、呂不韋が危険を感じているのは、政にそれだけの才があるからだった。
決断が速い。
怯まない。
周囲の顔色を見て国策を変えることもない。
凡庸な王なら、大きな野望を抱いても実行に移せない。だが政には、実際に何十万もの兵を動かし、六国へ手を伸ばせるだけの力がある。
成功するかもしれない。
それならいい。
だが、失敗した時はどうなる。
桓齮一人を失う程度では済まず、何十万もの兵を一度に失ったとしても、あの王は戦を止めるだろうか。呂不韋には、むしろ次の戦で取り返そうとする姿の方が容易に想像できた。
「国まで賭けるつもりか」
呂不韋は椅子へ深く腰を下ろした。
そこで再び、扶蘇の顔が浮かぶ。
政と扶蘇。
母と子。
一方は、既に天下へ手を伸ばし始めている若い王。
もう一方は、まだ何者にでもなれる七歳の公子。
もし王を替えるなら。
その考えは、もう突飛なものではなくなっていた。
政を退け、扶蘇を新たな王として奉戴する。七歳の子供に自ら国を治めさせるわけではなく、成長するまでは臣下が支えればいい。
秦は既に十分に強い。
今すぐ六国をすべて滅ぼさなくとも、十年、二十年とかけて周囲を削り、国力の差をさらに広げることはできる。その間に扶蘇を育て、成長した本人が天下を望むのなら、その時に改めて進めばいい。
少なくとも、国そのものを巨大な賭けへ投げ込む必要はなくなる。
呂不韋はしばらく目を閉じて考えていたが、やがて机の端に置かれた鈴を鳴らした。
「嫪毐と昌平君を呼べ」
現れた従者が、わずかに目を見開いた。
「今宵でございますか?」
「ああ。人目につかぬようにな」
「承知いたしました」
従者が去ったあと、呂不韋は再び軍報へ手を伸ばした。
もう、待つ必要はない。
◆
夜も深くなった頃、呂不韋の邸宅の奥まった一室に三人が集まっていた。
嫪毐は男だった。
背が高く、顔立ちも整っている。この国では成人した男が武器を持つだけでも目立つが、嫪毐は男だからと守られるだけの生き方を選ばず、呂不韋の側で長く裏の仕事を担ってきた。
必要なら人を脅す。
必要なら消す。
表へ出せない仕事を任される、呂不韋の懐刀だった。
その向かいには、昌平君が座っている。
楚王家の血を引く女でありながら秦へ仕え、今では咸陽の警護を担う立場にある。宮門の守備、城壁の巡回、王宮周辺へ配置される兵。王都の中で軍を動かすなら、彼女の協力なしには難しい。
「この三人が夜中に集まるとは」
嫪毐が二人の顔を見比べた。
「穏やかな話ではなさそうですね」
「穏やかな話なら、昼に呼んでいる」
「それもそうです」
嫪毐は小さく笑ったが、昌平君は黙ったままだった。
「それで、何をなさるおつもりです」
問いかける声にも余計な感情はない。
呂不韋は二人を見渡した。
「政を討つ」
室内の空気が止まった。
嫪毐の笑みが消え、昌平君も膝の上に置いていた指をわずかに動かした。
「……王を?」
「ああ。政を討ち、扶蘇様を新たな王として立てる」
嫪毐はしばらく何も言わなかった。さすがに冗談とは思えなかったのだろう。
「本気なのですね」
「本気でなければ、お前たちをここへ呼ばぬ」
今度は昌平君が口を開いた。
「理由を伺っても?」
「王は戦を急ぎすぎる」
「天下統一を目指しているからでしょう」
「それを急ぐ必要がないと言っている」
呂不韋は卓の上へ一枚の木簡を置いた。
「桓齮を失った後も、趙へ兵を出し、魏との国境でも戦を続けている。今は小さな侵攻で済んでいるが、あの方がこれで満足すると思うか」
昌平君は答えなかった。
「いずれまた大軍を動かす。勝てばさらに先へ進み、負ければ次の戦で取り返そうとするだろう。秦は強いが、兵も食糧も無限ではない。このままでは、王の野望へ国そのものが呑み込まれる」
「それで、七歳の扶蘇様を王に据えるのですか」
嫪毐が尋ねた。
「あの方には才がある」
「七歳で才を見極められるものですか」
「少なくとも、凡庸ではない」
呂不韋は迷わず答えた。
「今すぐ自ら政務を執る必要もない。我々が支えればよい」
その言葉を聞いた昌平君の目が、わずかに細くなった。
「我々が、ですか」
「何か言いたいことがあるか?」
「幼い王を立て、実権は呂不韋殿が握る。そのようにも聞こえます」
しばらく二人の視線がぶつかった。
呂不韋は否定しなかった。
「結果として、そうなるだろう。だが私は、秦を食い潰すために権力が欲しいわけではない。秦を残すために必要だから握る」
「同じことを言って権力を握った者は、過去にも多くいたでしょう」
「ならば、私もその一人かもしれんな」
呂不韋の口元に薄い笑みが浮かぶ。
昌平君はそれ以上追及しなかった。
この男に権力欲がないとは思わない。
ただ、それだけでもないことが厄介だった。
呂不韋は本気で、政の天下統一が秦を危険に晒すと考えている。そのうえで、自分が国を支える方が良いと信じているのだ。
「それで、我々には何を?」
嫪毐が尋ねた。
呂不韋は昌平君へ視線を向けた。
「咸陽の守りは、お前が握っている。宮門の警備を入れ替え、王宮を外から孤立させろ」
「王宮の兵すべてが私の言葉に従うとは限りません」
「すべてでなくていい。必要な門だけを押さえれば十分だ」
次に嫪毐を見る。
「お前は私兵を率い、王宮へ入れ。王の近衛が少なくなったところを狙え」
「つまり、私に王を討てと」
「ああ」
嫪毐は小さく息を吐いた。
「相変わらず、難しい仕事ばかり回してくださる」
「できぬか?」
「できないとは申し上げておりません」
嫪毐は肩を竦めた。
「扶蘇様はどうします?」
「絶対に傷つけるな」
呂不韋の返事は早かった。
「王宮を押さえたら何より先に保護する。蒙凛も同じだ」
「蒙恬将軍が抵抗した場合は?」
昌平君が尋ねる。
「押さえろ。ただし、できる限り殺すな。あの女は扶蘇様に必要だ」
「簡単に言われますね」
「簡単ではないから、お前たちを呼んだ」
昌平君は目を伏せた。
咸陽の警護を握る自分と、呂不韋の懐刀である嫪毐。
二人が協力すれば、計画そのものは成立する。
城外から大軍をぶつける必要はない。宮門の一部を開き、警護の兵を一時的に別の場所へ動かせば、王宮は内側から切り離せる。
政を討つことは、不可能ではなかった。
「準備が整い次第、決行する」
呂不韋の声には、もう迷いがなかった。
嫪毐は静かに頷いた。
「承知しました」
昌平君はすぐには答えなかったが、二人の視線が自分へ向くと、やがて小さく頭を下げた。
「……承知いたしました」
その返事を聞き、呂不韋は具体的な兵の配置について話し始めた。
どの門を押さえるか。
警護の交代をいつ変えるか。
どれほどの兵を動かせば異変に気づかれないか。
話は少しずつ現実の形を帯びていったが、昌平君の胸には、別の重さが沈み始めていた。
◆
呂不韋の屋敷を出た頃には、夜はすっかり深くなっていた。
昌平君は馬を呼ばず、一人で咸陽の大路を歩いた。昼間なら商人や荷車で埋まっている道も今は静かで、遠くに見える王宮の灯火だけが、暗闇の中に浮かんでいる。
あの宮を、自分は守ってきた。
どの門に何人の兵がいるか。
警備が何刻ごとに交代するか。
どの通路なら夜中でも兵を動かせるか。
すべて知っている。
守る方法を知っているということは、そのまま破る方法も知っているということだった。
呂不韋の理屈が分からないわけではない。
政は確かに戦を続けている。桓齮を失ったあとも止まらず、趙へ、魏へ、少しずつ秦の手を伸ばしている。この先、より大きな戦へ進む可能性は高く、そのたびに何万という兵が死ぬかもしれない。
秦が最後まで勝ち続ける保証などない。
天下統一を掲げながら、その途中で国を疲弊させる可能性もある。
もしそうなれば、呂不韋が言うように、臣下が王を止めるべきなのかもしれない。
それでも、昌平君は簡単には頷けなかった。
政が見ている先も知っているからだ。
天下統一。
六国をすべて滅ぼし、この大地を一つの国にする。
途方もない野望であり、同時に、長く続いた戦乱を終わらせようとする意思でもあった。
この戦は政が始めたわけではない。
秦が趙と争い、趙が燕を警戒し、魏が秦へ備え、楚が北を窺う。国が滅びても、新しい争いが生まれ、親を殺された子は成長すれば剣を取る。
五百年近く、それが続いてきた。
王が替わっても、将が死んでも、戦そのものは終わらない。
政を討てば、少なくとも秦の侵攻は一時的に弱まるだろう。七歳の扶蘇を王に据えるなら、すぐに大軍を動かすことも難しい。
だが、その間に天下が平和になるわけではない。
趙と魏が争うかもしれない。
楚が北へ動くかもしれない。
秦が攻めなければ戦がなくなるほど、世の中は単純ではなかった。
十年。
二十年。
あるいは、その先まで。
戦乱が続く可能性は十分にある。
ならば、どちらの方が多くの血を流すのか。
政の統一戦争を進めるのか。
それとも、今ここで王を替え、戦の歩みを遅らせるのか。
昌平君には答えが出せなかった。
そして、もう一人。
扶蘇の顔が浮かんだ。
七歳の公子。
聡明だという評判は以前から聞いている。蒙恬からも、子供とは思えないほどよく物を見ていると聞かされていたし、昌平君自身も何度か言葉を交わしたことがある。
礼を知っている。
人の話を聞く。
王子だからといって周囲へ威張ることもない。
確かに、七歳としては出来すぎているほどの子供だった。
だが、扶蘇はまだ七歳にすぎない。
今どれほど聡明で、周囲の人間を思いやる子供であっても、それが十年後、二十年後まで変わらず残る保証などどこにもなかった。王位に就き、誰もが頭を垂れ、一言で何千何万もの兵を動かせるようになった時、それでも今と同じ扶蘇でいられるのかは、誰にも分からない。
優しい子供が優しい王になるとは限らない。
聡明さが傲慢へ変わることもある。
王位というものが人を変えることを、昌平君は知っていた。
呂不韋は、まだ存在しない未来の扶蘇へ秦を賭けようとしている。
一方で政は、今ある秦の力を使って、まだ誰も成し遂げたことのない天下統一へ賭けている。
どちらも未来への賭けであることに変わりはない。
「私は……」
昌平君は足を止め、遠くの王宮を見上げた。
自分が呂不韋に従えば、王宮への道を開くことができる。嫪毐の兵を入れ、政を討たせることも可能だろう。
だが逆に、自分が門を閉ざせば。
この計画を止めることもできる。
政を討つか。
呂不韋を裏切るか。
選ぶのは、もう遠い未来ではない。
夜風の中で王宮を見つめながら、昌平君はまだ答えを出せずにいた。




