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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第4話 宜安の罠

 秦軍十万は国境を越え、趙(ちょう)の地へ踏み込んだ。街道には兵と荷車が長く連なり、先頭が丘を越えても後尾はまだ谷の向こうに残っているほどの大軍だった。


 進軍を始めて間もなく、前方へ出ていた斥候が戻ってきた。


「趙軍、およそ六万! 城外に陣を敷いております!」


 馬上の桓齮(かんき)は報告を聞くと、遠くに並ぶ趙軍の旗へ目を向けた。こちらは十万を率いており、趙は先の大敗で失った兵力をまだ取り戻せていないと聞いている。


「六万か。やはり兵を揃えられなかったようだな」


 桓齮(かんき)は正面から歩兵を進め、敵が応戦している間に騎兵を左右へ回すよう命じた。軍鼓が鳴ると、長く伸びていた秦軍の隊列が組み直され、槍と盾を揃えた兵たちが趙軍へ向かって前進を始めた。


 最初に飛んできたのは趙軍の矢だった。


 秦兵が盾を掲げると、木へ突き刺さる音が続き、隙間から入り込んだ矢に数人が倒れた。それでも後続が前へ出て列を埋め、弓の届く距離を抜けたところで両軍の槍がぶつかった。


 趙軍は数で劣りながらも、すぐには崩れなかった。盾を重ねて秦兵を押し返し、前列に穴が開けば後ろから兵を入れて持ちこたえている。


「思ったより粘るな」


 少し離れた丘から戦況を見ていた桓齮(かんき)は、そう呟いた直後、趙軍の左側面に土煙が上がったのを見つけた。送り出していた五千騎が予定通りの位置へ到達し、反対側からも別の騎兵隊が姿を現している。


「よし、両側から崩せ」


 角笛が鳴り、秦の騎兵が趙軍へ殺到した。


 正面を支えるだけでも手いっぱいだった趙兵は、側面へ盾を向け直したところを歩兵に突かれ、乱れた列へ騎兵が入り込んだ。各所で指揮が通らなくなると、趙軍は後方へ退き始め、桓齮(かんき)は間を置かず追撃を命じた。


 背を向けた趙兵の後ろから秦の騎兵が迫り、逃げ遅れた兵が次々と討たれた。趙軍は抵抗を続けながらも陣を捨て、秦軍は最初の戦いを勝利で終えた。


◆


 その後も秦軍の進撃は続いた。


 道沿いの砦は長く持ちこたえられず、城に籠もった守備兵も数日のうちに降伏した。秦軍が近づくと戦わずに退く部隊さえ現れ、桓齮(かんき)のもとには連日、占領した土地と鹵獲した物資の報告が届いた。


「李牧(りぼく)はまだ出てこないのか」


 陣中で報告を聞いた桓齮(かんき)が尋ねると、副将は趙軍の残兵をまとめながら東へ退いていると答えた。


「北方で匈奴を相手にしていた名将だったな。こちらと戦う気がないのなら、いくら名を知られていても仕方あるまい」


 周囲の将たちが笑う中、蒙恬(もうてん)だけは卓上の地図を見ていた。趙軍が退いた道を指で辿り、幾度か考えてから口を開く。


「桓齮(かんき)将軍、追撃の速度を少し落とした方がよいかと存じます」


「ここまで勝っているのにか?」


「敵の退き方が整いすぎています。敗走した軍なら武器や荷をもっと残すはずですが、今回は放棄された物資が少なく、傷兵まで連れて下がっているようです」


 蒙恬(もうてん)はさらに、趙軍が秦軍との距離をほぼ一定に保っていることを指摘した。こちらが追えば退き、進軍を止めれば向こうも速度を緩めるという報告が続いており、単に逃げているとは考えにくかった。


「李牧(りぼく)は我々をどこかへ誘っているのかもしれません。左右の地形を調べ、敵の別働隊がいないことを確かめるべきです」


 桓齮(かんき)は地図を覗き込んだものの、さほど気に留めなかった。


「趙軍の主力を逃がせば、この先でまた兵を集められる。ここで追撃を止めれば、これまでの勝利を無駄にしかねん」


 敵が誘っている可能性を否定したわけではなかったが、桓齮(かんき)には、罠を恐れて好機を逃す方が大きな損失に思えたらしい。


「斥候を出すのは構わん。だが本隊は明朝も進める。李牧(りぼく)の軍を捕まえれば、趙の抵抗も終わりに近づくだろう」


 その方針は変わらなかった。


 蒙恬(もうてん)もそれ以上は言い募らず、地図を畳んだ。勝利を重ねている将に追撃を思いとどまらせるだけの確証は、まだ彼女の手元にもなかった。


◆


 翌朝、秦軍は再び趙軍の後を追った。


 李牧(りぼく)の軍勢は遠くの丘に旗を見せ、秦の騎兵が迫れば後衛が矢を射て退いた。追撃を続ければ捕らえられそうな距離でありながら、地形が変わるたびに巧みに離され、秦軍の進路は次第に東の山間へ向かっていった。


「騎兵を先へ出せ。今日こそ李牧(りぼく)を捕らえる」


 桓齮(かんき)は馬を進め、歩兵にも後を追わせた。


 その時、蒙恬(もうてん)が馬を寄せてきた。


「左右へ出した斥候がまだ戻っておりません。せめて報告を待ってから進軍を」


「前に趙軍が見えている。ここで足を止めれば、また逃げられるぞ」


 桓齮(かんき)は進軍を続けた。


 蒙恬(もうてん)はその後ろ姿を見送り、自分の指揮する二万の兵には速度を落とすよう命じた。さらに斥候を増やし、街道だけでなく両側の山や林、谷筋まで調べさせる。


「敵が伏せているとお考えですか」


 副将が尋ねた。


「まだ分からん。ただ、前方の趙軍にばかり目を向けているのは危険だ。こちらは後続の兵と荷を守りながら進む」


 斥候たちが数騎ずつに分かれ、山中へ散っていった。


 一方、桓齮(かんき)の軍は追撃を続けていた。


 朝から歩き通しの兵には疲労が見え始め、騎兵の馬も汗をかいていたが、前方からは時折、趙軍の旗が見える。あと少しで追いつくという期待が、兵たちをさらに先へ進ませていた。


 やがて先頭の兵が丘を越えた時、前方に城壁が現れた。


「宜安(ぎあん)です! 敵軍が城の前で止まっています!」


 報告を聞いた桓齮(かんき)は馬を急がせた。


 宜安(ぎあん)の城壁を背に、趙軍が陣を敷いている。これ以上退かずに戦うつもりなのかと考えたところで、城の左右から新しい旗が現れた。


 丘の陰に隠れていた兵が次々と姿を見せ、林の中からも趙軍の隊列が進み出てくる。最初に確認した六万だけではなく、別の場所で待機していた軍勢が合流し、城の前には十万近い兵が集まっていた。


 副将が慌てて数を報告する間、桓齮(かんき)は広がっていく趙軍の陣を見つめていた。


 兵を揃えられなかったのではない。六万だけを前へ出して秦軍と戦わせ、その後も退却を重ねながら、残りの兵を集めた宜安(ぎあん)へ誘い込んだのだ。


「なるほど、李牧(りぼく)め。随分と手の込んだことをする」


 桓齮(かんき)は剣の柄を握った。


 こちらは連戦と追撃で疲れ、趙軍には休養を取っていた新手がいる。それでも、この場で背を向ければ、先ほどまで逃げる敵を追っていた兵の士気が一気に崩れかねなかった。


「正面を破る。敵はここで決着をつけるつもりだろうが、こちらにもまだ十分な兵がいる」


 秦軍の軍鼓が鳴った。


 趙軍は動かず、槍と盾を揃えて待っていた。秦兵が弓の射程に入ると、李牧(りぼく)の命令で一斉に矢が放たれ、追撃で隊列の伸びていた秦軍へ降り注いだ。


 盾を掲げた兵が矢を受け止める一方、馬を射られた騎兵が倒れ、後続の進路を塞いだ。桓齮(かんき)は兵を前へ押し出し、ようやく趙軍の前列へ取りついたところで、正面の兵を増やすよう命じた。


 激しい槍の応酬が始まり、両軍の前列が押し合った。秦軍は疲れていたとはいえ、これまで勝ち続けてきた精鋭であり、一部では趙軍の盾列を押し下げることにも成功した。


 桓齮(かんき)がさらに兵を投入しようとした、その時だった。


 右方から角笛が鳴り、趙の騎兵が現れた。


 長く待機していたのか、馬の足取りは軽く、隊列も乱れていない。その先頭を走っていたのは、重い鎧をまとい、人の背丈を越える長矛を携えた大柄な男だった。


「何者だ、あれは」


 桓齮(かんき)が目を細めたところへ、趙兵の喊声が届いた。


「司馬尚(しばしょう)将軍に続け!」


 司馬尚(しばしょう)。


 秦軍の将として警戒すべき人物の中に、その名はなかった。まして男が騎兵を率いて戦場へ出てくること自体が珍しく、桓齮(かんき)も一瞬、意外そうにその姿を見た。


 だが、率いる騎兵の動きは見事だった。


 司馬尚(しばしょう)が先頭で進路を変えると、後続も一斉に向きを変え、趙軍の正面に足止めされていた秦兵の側面へ食い込んだ。馬上から振るわれる長矛に秦兵が次々と倒れ、崩れた列へさらに騎兵が流れ込む。


「私が止める。親衛騎兵、続け!」


 桓齮(かんき)は馬を走らせた。


 司馬尚(しばしょう)もこちらへ向きを変え、二人の距離が一気に縮まった。


 桓齮(かんき)は相手の首を狙って剣を振ったが、司馬尚(しばしょう)は長矛を小さく動かしただけで、その一撃を外へ弾いた。予想を超える力に腕が痺れ、続けて返ってきた穂先を、彼女は馬上へ身体を伏せて辛うじてかわした。


 長い武器なら懐へ入ればいい。


 桓齮(かんき)は馬を回し、相手の間合いへ再び踏み込んだ。ところが剣が届く直前、司馬尚(しばしょう)は矛を短く持ち替え、その柄を彼女の胸へ叩き込んだ。


 鎧越しにも衝撃は凄まじく、桓齮(かんき)は鞍から落ちかけた。親衛兵が慌てて間へ入ったものの、先頭の兵は槍を弾かれ、次の兵は馬の首を打たれて地面へ投げ出された。


 桓齮(かんき)は息を整えながら周囲を見た。


 正面では李牧(りぼく)の軍が押し返してきており、右からは司馬尚(しばしょう)の騎兵が入り込んでいる。左右の兵との連絡も乱れ始め、これ以上戦えば軍全体が包まれる恐れがあった。


「退くぞ! 陣を立て直せ!」


 だが、命令が届くより早く、前線の一部では兵が退き始めていた。


 李牧(りぼく)はその動きを逃さず、趙軍へ追撃を命じた。逃げる秦兵へさらに敵が押し寄せ、狭い街道では退く兵同士がぶつかり、捨てられた盾や荷車が道を塞いだ。


 桓齮(かんき)は親衛兵を伴い、後方へ馬を走らせた。


 まだ敗れたのは一戦だけだ。後方には蒙恬(もうてん)の二万が残っており、そこまで戻れば敗残兵をまとめ直せる。


 しかし、背後から迫る蹄の音は途切れなかった。


 振り返ると、司馬尚(しばしょう)が親衛兵を蹴散らしながら追ってくる。二騎が間へ割って入ったものの、いずれも長矛に打ち払われ、ついに桓齮(かんき)の背後まで迫られた。


 桓齮(かんき)は身体をひねって剣を向けたが、間に合わなかった。


 長矛の一撃を背に受け、身体が鞍から投げ出された。地面へ叩きつけられた衝撃で息が詰まり、握っていた剣も手を離れて土の上を滑っていく。


 辛うじて顔を上げると、目の前で司馬尚(しばしょう)が馬を止めていた。


「……六万でこちらを誘い、残りを宜安(ぎあん)へ集めたか。李牧(りぼく)にしてやられたな」


 桓齮(かんき)は血の滲む口元を拭い、立ち上がろうとした。だが、司馬尚(しばしょう)は何も答えず、長矛を構え直した。


 最後の一撃を受け、桓齮(かんき)はその場に倒れた。


◆


 その頃、後方に残った蒙恬(もうてん)のもとへ、山中へ出した斥候が戻ってきた。


「右手の山に趙兵を確認しました! さらに奥にも旗が見えます!」


 続いて左へ出した斥候も戻り、宜安(ぎあん)の周辺に大軍が集結していると報告した。どちらの兵も道なき場所を急いできたらしく、馬も人も汗まみれだった。


「敵の数は?」


「宜安(ぎあん)の前だけで、およそ十万とのことです!」


 周囲の将たちがざわめいた。


 蒙恬(もうてん)は地図を開き、敵の位置を確認した。左右の山へ兵を伏せ、宜安(ぎあん)には主力を集めているとなれば、桓齮(かんき)の軍はすでに包囲されかけている可能性が高い。


「桓齮(かんき)将軍へ伝令を出せ。こちらは街道を押さえ、退路を確保する」


 副将が救援に出るべきではないかと進言したが、蒙恬(もうてん)は首を振った。


「敵の位置を確かめずに前進すれば、我らも包囲される。今は退いてくる兵を受け止める方が先だ」


 その判断に従い、二万の兵が街道の両側へ陣を敷いた。弓兵は敵の追撃に備え、中央には敗残兵を通す道を空け、負傷者を後方へ送るための荷車も集められた。


 ほどなくして、最初の秦兵が現れた。


 盾や槍を失い、傷を負った兵が次々と街道を下ってくる。蒙恬(もうてん)の兵たちは彼女たちを誘導し、武器を持てる者を後方の列へ加え、歩けない者を荷車へ乗せていった。


 その中から、一騎の女兵が駆け込んできた。


「蒙恬(もうてん)将軍、申し上げます!」


 女兵は馬を降りるなり膝をついた。鎧には血が染み、呼吸も乱れていたが、蒙恬(もうてん)が近づくと、何とか顔を上げた。


「桓齮(かんき)将軍が、討たれました」


 周囲が静まり返った。


「誰に討たれた」


「趙の将にございます。大柄な男で、長い矛を使っておりました。兵たちは司馬尚(しばしょう)と呼んでいました」


 蒙恬(もうてん)はその名を記憶の中で探したが、思い当たる人物はいなかった。李牧(りぼく)の名は以前から知っていたものの、その配下に男の猛将がいるという話は聞いたことがない。


 しかし、今は未知の将について考えている場合ではなかった。


「全軍、後退の支度を急げ。負傷者を先に送り、残った兵は隊列を崩さず下がる。趙軍が追ってきたら弓で牽制し、決して深追いするな」


 命令が伝わると、各隊は敗残兵を収容しながら退き始めた。蒙恬(もうてん)自身も馬に乗り、兵の流れを確かめてから、最後尾の動きを見守った。


 そこで不意に、咸陽(かんよう)を発つ前のことを思い出した。


 五歳の扶蘇(ふそ)が、自分を見上げながら斥候を増やしてほしいと頼んできたのだ。街道の先だけでなく、左右の山や林まで調べてほしいという、幼い子供にしては随分と具体的な頼みだった。


 出陣前は単に心配してくれているのだと思っていた。


 だが、その言葉がなければ、普段以上の斥候を出そうとはしなかったかもしれない。左右の敵に気づくのが遅れ、桓齮(かんき)の軍を救うどころか、自分たちまで宜安(ぎあん)の前へ踏み込んでいた可能性もある。


「……扶蘇(ふそ)様」


 蒙恬(もうてん)は小さくその名を口にした。


 公子が自分の身を案じてくれたことは嬉しかったし、その頼みが結果として兵を救ったことにも感謝している。ただ、五歳の子供がどうしてあの時、街道の左右にまで気を配る必要があると思ったのか、今になっても分からなかった。


 山の向こうでは、まだ戦の音が続いている。


 蒙恬(もうてん)は考えを振り払い、日が落ちる前に谷を抜けるよう号令を出した。敗れた兵を一人でも多く連れ帰ることが、今の彼女にできる仕事だった。


 それでも、馬を進める間、幼い扶蘇(ふそ)の顔が何度も脳裏に浮かんでいた。

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