第5話 帰ると信じて
咸陽へ敗報が届いたのは、桓齮の軍が宜安へ向かってから数週間後のことだった。
その朝から、宮中の様子は明らかにおかしかった。泥にまみれた軍使が何度も宮門をくぐり、普段なら足音一つ立てない女官たちまで、木簡や書状を抱えて廊下を急いでいる。
俺は蒙凛と庭で書を読んでいたが、文字はほとんど頭に入ってこなかった。一行読むたびに顔を上げ、遠くで馬の蹄が響けば、何か新しい知らせが届いたのではないかと耳を澄ませてしまう。
「また軍使の方ですね」
蒙凛も木簡から目を離し、庭の向こうを見た。
「ああ」
「母上からのお知らせでしょうか」
「……分からない」
そう答えるしかなかった。
出陣してからしばらくは、秦軍の勝利ばかりが伝わってきた。趙軍を破った、砦を落とした、敵が退いた。そのたびに蒙凛は「やっぱり母上は強いです」と喜んでいたが、俺だけは素直に安心できなかった。
勝ち続けている。
それが、かえって怖かった。
俺の知る歴史では、桓齮は李牧に敗れる。もちろん、この世界が同じ歴史を歩む保証などないが、国の動きも人の名も、不気味なほど前世の知識と重なる部分がある。
だからこそ、快進撃の知らせを聞くほど、その先にあるものが近づいているように感じられた。
「扶蘇様」
女官が庭へ入ってきた。
「王がお呼びにございます。すぐにお越しくださいませ」
「母上が?」
「はい」
俺は木簡を閉じ、立ち上がった。
蒙凛も反射的に腰を浮かせたが、女官が申し訳なさそうに首を振る。
「蒙凛様は、こちらでお待ちください」
「でも……」
「すぐ戻るよ」
俺が声をかけると、蒙凛は不安そうに唇を結んだ。
「母上のことが分かったら、教えてください」
「ああ。分かった」
そう約束し、俺は政のもとへ向かった。
◆
部屋へ入った瞬間、結果はある程度分かった。
政の前には趙の地図が広げられ、その周囲に届いたばかりらしい木簡が何本も並んでいる。控えている重臣たちも口を閉ざし、室内には普段の軍議とは違う重い空気が漂っていた。
「母上。お呼びでしょうか」
「ああ。来たか、扶蘇」
政は机から顔を上げた。
表情はいつもとほとんど変わらない。それでも、声には普段より硬いものが混じっていた。
「我が軍が敗れた」
胸が強く鳴った。
いつか聞くことになると分かっていた言葉だった。それでも、歴史の知識として知っていることと、今この時代を生きている人間から敗報として聞かされることは、まるで違う。
「……桓齮将軍は?」
「討ち死にした」
「そう、ですか」
喉が乾いた。
あの女が死んだ。
出陣前、俺が勝てないと言ったことを聞きつけ、わざわざ顔を見に来た。こちらを試すように笑い、好き勝手なことを言っていた桓齮が、もういない。
前世では、歴史書の中に名を残す人物だった。
だが今は、顔も声も知っている。
知っている人間が死ぬというのは、史書に書かれた「敗死」という二文字とは、まるで重さが違った。
「敵将は……李牧ですか?」
俺が尋ねると、政の目がわずかに細くなった。
「ああ」
やはり。
「李牧は軍を退かせながら桓齮を宜安へ誘い込み、そこで温存していた兵をぶつけた。追撃で陣形を崩していた我が軍は、大きく敗れたようだ」
俺の知っている流れに近い。
だが、政はそこで言葉を切った。
「ただし、報告にはもう一人の名がある」
「もう一人、ですか?」
「司馬尚という男だ」
思わず政の顔を見た。
(司馬尚?)
知っている。
前世の俺が学んだ歴史でも、司馬尚は李牧とともに趙を支える将として名を残している。
だが、早い。
少なくとも俺の記憶では、この時点で桓齮を討つ人物ではなかった。
「桓齮を討ったのは、その司馬尚だ。秦ではほとんど知られていなかった名だが、親衛を破り、桓齮本人まで討ち取ったという」
「……そうなのですか」
余計なことを言わないよう、それだけを返した。
歴史が変わっている。
最初から分かっていたことではある。
政も蒙恬も女で、男が十人に一人しか生まれない。社会の形そのものが違う以上、前世の歴史と同じ道を歩むはずがない。
それでも俺は、どこかで前世の知識を地図のように考えていた。
細かな道は違っていても、大きな流れだけは読める。
その地図があれば、少なくとも危険な場所を避けられる。
だが、司馬尚の登場は、その地図にない道だった。
「母上」
今は、それより聞かなければならないことがある。
「蒙恬は無事なのですか?」
政はすぐに答えなかった。
その数瞬が、ひどく長く感じられる。
「まだ分からぬ」
「……分からないのですか」
「蒙恬の部隊は、桓齮の本隊から距離を取っていたらしい。敗れた兵をまとめながら後退しているとの報告はあるが、本人の無事までは確認できておらぬ」
胸の奥が冷えた。
斥候を増やしてほしいと頼んだ。
蒙恬は聞いてくれた。
だから桓齮と一緒に罠へ飛び込まずに済んだはずだ。そう思いたいが、戦場に絶対はない。
「戻ってきます」
気づけば、口にしていた。
政の視線が俺へ向く。
「蒙恬は、きっと戻ってきます」
「なぜ、そう思う?」
一瞬、言葉に詰まった。
また余計なことを口にするところだった。
「……そう信じております」
今度は、それ以上言わなかった。
政もしばらく俺を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「ならば、待つことだ」
「はい」
俺は頭を下げ、部屋を後にした。
◆
扶蘇が退出したあと、政は机の上の敗報へ目を落とした。
桓齮では勝てないと語り、数ある趙将の中から李牧の名を挙げた五歳の息子。その予見があまりにも正確だったことに、政は初めて薄気味の悪いものを感じていた。
偶然だと考えれば、それまでだった。
扶蘇は幼い頃から聡い。周囲の話をよく聞き、年齢に似合わない考えを口にすることもある。
だが、聡明であることと、まだ起きていないことを言い当てることは違う。
なぜ、桓齮の敗北をあれほど強く恐れたのか。
なぜ、李牧だったのか。
五歳の子供が、どうして。
そこまで考えた時、政の脳裏に一瞬だけ呂不韋の顔が浮かび、すぐに消えた。
「……偶然、か」
誰に聞かせるでもなく呟き、政は再び敗報を手に取った。
◆
「母上は?」
庭へ戻るなり、蒙凛が駆け寄ってきた。
俺の顔を見ただけで、良い知らせではないと分かったのだろう。握っていた木簡を胸元へ抱え、じっと俺の返事を待っている。
「秦軍が負けた」
「……え?」
「桓齮将軍は討たれた」
蒙凛の顔から血の気が引いた。
「では、母上は?」
「まだ分からない」
その言葉を聞いた瞬間、蒙凛の目が揺れた。
「ただ、桓齮の軍とは離れていたらしい。残った兵をまとめながら、こちらへ戻っているという報告は来ている」
「母上も一緒なのですか?」
「そこまでは、まだ分からない」
安心させるためだけに嘘をつくことはできなかった。
蒙凛は俯き、しばらく何も言わなかった。
やがて顔を上げる。
「大丈夫です」
声は少し震えていた。
「母上は、帰ってくると約束しましたから」
「ああ」
「母上は約束を破りません」
「そうだな」
「だから、帰ってきます」
俺は蒙凛の隣へ腰を下ろした。
「俺もそう思う。待とう」
「はい」
今度は未来を知っているからではない。
ただ、信じるしかなかった。
それからの数日は、ひどく長かった。
軍使が戻るたびに宮門を気にし、馬の音がすれば二人で顔を上げる。負傷兵を乗せた荷車が帰ってきたと聞けば、蒙恬の名がないかを尋ねた。
名前がなければ安心する。
だが、無事だという報告もない。
安心と不安が、何度も入れ替わった。
夜になると、さらに考えてしまった。
斥候を増やしてほしいと頼んだことは間違っていなかった。
それでも、もっと言えたのではないか。
追撃するな。
李牧を深く追うな。
そう伝えていれば、何か変わったのではないか。
だが、そこまで言えば理由を説明できない。
それに俺自身、司馬尚がこの時点で現れることなど知らなかった。
未来を知っていることは、もっと便利なものだと思っていた。
実際には違う。
前世の知識は、ところどころ穴の開いた古い地図に近い。道が変わり始めれば、それを信じすぎること自体が危険になる。
それでも。
今だけは、ただ一つだけ願った。
蒙恬が生きて帰ってきてほしい。
◆
三日後の昼過ぎ。
宮門の方から、いつもとは違う騒ぎが聞こえてきた。
「軍が戻ったぞ!」
誰かの声が響いた。
俺と蒙凛は同時に顔を上げた。
一瞬だけ目を合わせる。
次の瞬間には、二人とも走り出していた。
「扶蘇様! 廊下を走ってはなりません!」
後ろから女官の声が飛んできたが、止まる気にはなれなかった。
宮門へ近づくにつれ、馬のいななきと荷車の軋む音が大きくなっていく。その中には人の呻き声まで混じり、出陣した日の勇ましい喧騒とは、まるで別のものになっていた。
戻ってきた兵たちは、ひどい姿だった。
黒い鎧は泥と乾いた血に汚れ、槍を杖のようについて歩く者がいる。片腕を布で吊った女兵もいれば、額に巻かれた布を赤く染めている者、荷車の上で横たわったまま動かない者もいた。
軍旗も裂けていた。
風を受けて真っ直ぐ翻っていた出陣の日とは違い、今は泥と血に汚れた布が力なく揺れている。
敗れた軍とは、こういうものなのか。
史書では分からなかった。
「母上……」
隣で蒙凛が呟いた。
俺も必死に兵の顔を追った。
一人。
違う。
次も違う。
騎兵の列にもいない。
負傷者の中にも見当たらない。
胸がだんだん苦しくなる。
「蒙恬……」
まさか。
そんな考えが頭をよぎった時だった。
「扶蘇様?」
聞き慣れた声がした。
俺と蒙凛が同時に振り向く。
兵の列の向こうに、一人の女が立っていた。
鎧は泥だらけだった。
頬には浅い傷があり、髪も乱れている。顔には疲労が滲み、歩き方にもいつもの軽さはなかった。
それでも、見間違えるはずがない。
「母上!」
蒙凛が駆け出した。
「凛!」
蒙恬が両腕を広げる。
勢いよく飛び込んだ蒙凛を受け止め、少しよろめきながらも、その身体をしっかりと抱き締めた。
「母上! 母上っ!」
「ただいま、凛」
「遅いです!」
「申し訳ありません」
「ずっと待っていたんです!」
「はい」
「本当に……帰ってきた……」
最後は言葉にならなかった。
蒙凛は蒙恬にしがみつき、そのまま声を上げて泣き始めた。
俺は少し離れた場所で、その光景を見ていた。
帰ってきた。
生きている。
その事実を理解した途端、身体から一気に力が抜けたような気がした。
「扶蘇様」
蒙恬が俺を見る。
「ただいま戻りました」
「ああ」
お帰り。
そう言うつもりだった。
「……遅い」
出てきたのは、そんな言葉だった。
蒙恬が少し目を丸くする。
「申し訳ございません」
「本当に遅い。どれだけ心配したと思っているんだ」
「はい」
「凛も……俺も、ずっと待っていた」
そこで喉が詰まった。
目の奥が急に熱くなる。
(……なんで俺まで)
前世では大学生だった。
中身まで五歳になったつもりはない。
そのはずなのに、蒙恬が生きて帰ってきたと分かった途端、何日も押し込めていた不安が一気に溢れた。
「扶蘇様」
「……見るな」
「はい?」
「泣いてないからな」
「何も申し上げておりませんよ」
「笑っているだろ」
「少しだけ」
「やっぱり笑っているじゃないか」
蒙恬の笑みが深くなった。
片腕にはまだ蒙凛がしがみついている。そのまま、空いた方の手を俺へ差し出した。
「おいでください」
「俺は大丈夫だ」
「そうでございますか」
「……」
「では、このままで」
「少しくらいならいい」
口にしてから、自分でも何を言っているのかと思った。
蒙恬は何も言わず、俺の肩へ腕を回した。
鎧は硬かった。
乾いた土と革、それに微かに血の臭いがした。
けれど、その腕の中へ入った瞬間、ようやく本当に帰ってきたのだと実感した。
また涙が出た。
「二人とも、よく待っていてくださいましたね」
「母上が遅いからです!」
蒙凛が泣きながら抗議する。
「次はもっと早く帰ってきてください!」
「努力いたします」
「努力では駄目です!」
「では、なるべく早く」
「それも駄目です!」
蒙恬が困った顔で俺を見る。
「扶蘇様、助けていただけませんか」
「俺も凛と同じ意見だ」
「味方がおりませんね」
「当然だ」
蒙恬は小さく笑い、俺と蒙凛の頭を順番に撫でた。
俺たちはしばらく、その腕から離れなかった。
◆
蒙恬は二人を抱きながら、戦場で何度も思い出した言葉を、もう一度胸の内でなぞっていた。
扶蘇は、まだ五歳だ。
幼い頃から聡い子ではあった。文字を覚えるのも早く、人の話をよく聞き、一度教えたことはなかなか忘れない。時には同じ年頃の子供とは思えないほど、物事を深く考えていることも知っている。
だが、今回のことは、それだけでは片づけにくかった。
桓齮では危ないと言った。
李牧を気にした。
そして出陣の時、自分には斥候をいつもより多く出してほしいと頼んだ。
実際、その言葉が頭に残っていたからこそ、蒙恬は桓齮と同じ速度では追わなかった。斥候を左右へ広く出し、山や林まで探らせたことで、趙軍の動きにも早く気づくことができた。
もし、あの言葉を聞いていなかったら。
桓齮とともに宜安へ深入りしていた可能性は高い。
そうなっていれば、自分も今ここにいなかったかもしれない。
「扶蘇様」
「何だ?」
目元を赤くした公子が顔を上げた。
今の姿だけを見れば、どう見ても五歳の子供だった。
乳母の帰還に安心し、泣いたことを恥ずかしがり、それでも腕から離れようとはしない。
「いえ。何でもございません」
「変な蒙恬だな」
「そうかもしれませんね」
蒙恬は微笑み、扶蘇の頭を撫でた。
これほど聡明な公子が、これまで秦王家にいただろうか。
いや。
ただ聡明なだけなのだろうか。
まだ五歳。
これから学び、人を知り、国を知り、軍や政まで学ぶようになれば、この子はどこまで伸びるのだろう。
もしかすると、自分が育てているのは、いずれ秦の行く末そのものを左右するほどの傑物なのではないか。
そんな考えが、蒙恬の胸に初めて浮かんだ。
「母上、扶蘇様の方がたくさん泣いていました」
「お前の方だろ」
「私はもう泣いていません」
「目が真っ赤だぞ」
「扶蘇様もです!」
「二人とも同じくらいですよ」
蒙恬が言うと、二人が揃って不満そうな顔をした。
それがおかしくて、蒙恬は声を上げて笑った。
傑物になるかもしれない。
秦を大きく変える人物になるのかもしれない。
だが今は、そんな先のことよりも、腕の中にいる二人が無事に自分を待っていてくれたことの方が嬉しかった。




