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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第1章 戦国の終焉編

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第4話 奇貨の果て

 呂不韋りょふいおりかんしゃで咸陽に戻ったのは、乱の平定へいていから七日後のことだった。


 沙汰さたは、すぐに下った。──大逆たいぎゃくきわきょっけい


 当然だ、と頭では分かっていた。三万の兵を動かし、都を焼き、王のはいはいりつはかった男だ。だが俺の胸の内は、妙にざわついていた。赤子の日から知っている男が死ぬ。それだけではない。何かをまだ、聞いていない気がした。


 あの男はなぜ、俺を王に立てようとしたのか。


 その夜、せいが一人で獄へ向かったと、俺は蒙恬もうてんから聞いた。


ともも連れずに、か」


「はい。あかりを一つだけ持って。……誰も近づけるな、との厳命げんめいです」



 獄は、地の底のように冷えていた。


 灯を手にしたせいが石段を降りると、格子こうしの奥で、男が身を起こす気配がした。


「これは……王自らのお運びとは。おそきょうえつの極み」


 かみは乱れ、囚衣しゅういあかじみている。それでも呂不韋りょふいの声は、謁見えっけんの間で聞くのと同じ、つやのある商人の声だった。


「明日、貴様きさまは死ぬ」


「存じております。それをわざわざしらせに? ……いいえ。王は、きに来られた」


「──なぜ、扶蘇ふそだ」


 せいの声は低かった。


「なぜ檄文げきぶんに、扶蘇ふその名をきざんだ」


「はて。世継ぎを立てるは道理どうりでございましょう」


「道理だと」


 せいの目が、剣呑けんのんに細くなった。


「あの子の種親たねおやが誰か、おおやけの記録では抽籤ちゅうせんの男。だがまことを知る者は、この世に二人しかおらぬ。私と──貴様だ」


「ええ。手前の、せがれにございますからな」


 呂不韋りょふいは、わるびれもせず言った。


「良い品でございましょう。あのさとさ、あの目。……手前はが子を、玉座にえようとした。親莫迦ばかわらって下されませ」


「嗤えぬ。貴様はあの子を、品と呼んだ。今もだ」


「商人ですので」


 せいは吐き捨てるように息をついた。


「……あの夜のことは、私のあやまちだ。男が貴重なこの国で、世継ぎには確かな種親が要った。ゆえに、口のかたい貴様を選んだ。それだけのことだ。愛でもじょうでもない。分かっていような」


「ようく、存じております。王は終始しゅうし算盤そろばんの目をしておられた。……手前と、同じ目を」


「同じにするな」


「同じでございますよ。──何しろ」


 呂不韋りょふいは格子ににじり寄り、声を一段いちだん、落とした。


親子おやこでございますゆえ」


 一瞬またたせいは言葉の意味が取れなかった。


「……何?」


「王よ。手前は邯鄲かんたんで商人をしておりました頃、生涯でただ一度の大買い物をいたしました。人質としてちょうてられていた、秦の公女──先王せんのう様にございます。手前は先王様に全財産を注ぎ込み、秦へ帰し、玉座まで押し上げた。奇貨居くべし。……ですが王よ、手前が注ぎ込んだのは、ぜにだけでは、なかった」


 獄の冷気が、粘り気を帯びた気がした。


「先王様の世継ぎにも、確かな種親が要りましてな。口の堅い男が。……そなた様の種親は、公の記録では、市井しせいの名もなき男。生まれる前にやまいで死んだと──手前が、そのように記録させました。二度、同じふでで」


「……戯言ざれごとを」


あかしなど。ただ、かがみ御覧ごらんなされ。年々、誰に似てくるか」


 せいの手から、灯がわずかにかたむいだ。炎が揺れ、格子の影が檻の中の男の顔の上でおどった。その口元くちもとの笑みは、確かに──毎朝、鏡の中で見る形をしていた。


「では……あの夜、私は……」


 声が、かすれた。


「私は、実の……父に……」


 臓腑ぞうふの底から、何かがせり上がってきた。せいは口をおおい、はしらに手をついた。王としてではない。一人の女として、全身の肌がこばんでいた。あの夜の記憶の一切いっさいを、さかのぼってけがされていく。


「おのれは……知っていて……!」


「はい」


 呂不韋りょふいの声には、欠片かけらほどのいもなかった。


「商人はな、王よ。自分の店には、自分の品だけを並べたいのですよ。先王様は手前の店のいしずえ。そなた様は手前の店の看板かんばん。そして扶蘇ふそ様は──手前の店の、最高の品だ。あの子の血の四分の三は、手前でございますからなあ」


「黙れ……黙れっ!」


 剣が鞘走さやばしった。切っ先が格子の間から、呂不韋りょふい喉元のどもとに突きつけられる。老いた商人は、瞬きもしなかった。


「おりなされ。ですがその前に、一つだけ、胸にめ置かれよ」


 喉に白刃はくじんを受けたまま、男は静かに言った。


「秦の玉座には今、えいの血ではなく、商人の血が座っておる。公子の御身おんみは、なおのこと。……それを知る者が手前一人なら、秘密は明日、手前とともにはいになりましょう。──ですが王よ、秘密というものはな、一度口にした瞬間、商品になるのですよ」


 せいの背筋に、冷たいものが走った。


 この男は今、なぜそれを口にした。死の前夜、誰もいない獄で、わざわざ──


 誰も、いない?


 せいは剣を引き、振り返った。灯の届かぬ闇が、石段の上まで続いている。何も見えない。何の音もしない。


「……明日を待つ必要はなかったな」


 せいふところから小さなかめを取り出し、格子の内へ、たたきつけるように置いた。


鴆毒ちんどくだ。夜が明ける前に飲め。市中しちゅうさらされたくなくばな」


「これは、ありがたい。首と胴が泣き別れでは、勘定が合いませぬ」


「勘定は自分で払え。……商人らしく」


 せいきびすを返した。石段を昇るその背に、最後の声が届いた。


「王よ。──良い買い物を、なされました」


 せいは、問い返さなかった。それがどの買い物を指すのか、考えることを、心が拒んでいた。


 ──灯の届かぬ柱の陰で。


 一人の女官が、息を殺してうずくまっていた。


 趙高ちょうこう獄吏ごくり監督かんとくつかさどる、下級の女官である。偶然ここに居合わせたのか、そうでないのかは、彼女しか知らない。


 趙高ちょうこうは、闇の中で、くちびるだけで笑った。


 王の血は、商人の血。王は知らずに実の父と臥所ふしどを共にし、公子を産んだ。そして公子の血の四分の三は、明日死ぬ罪人ざいにんのもの──。


(拾った……国が、傾くほどの話を)


 それはまるで、算盤を弾く音のない、算盤のかまえだった。



 翌朝、呂不韋りょふいの死が報された。獄中にて毒をあおり、自ら果てた、と。


(毒を、呷った……)


 俺は背筋が冷えた。それは、史実で俺が死ぬはずの死に方だった。俺の運命に絡みついていた男が、俺より先に、その死に方で死んだ。


 せいせい務に戻った。獄で何があったのか、誰にも語らなかった。


 ただ──あの朝から、せいは変わった。


 謁見の帰り、せいは一度だけ俺の前で足を止めた。長いあいだ、じっと俺の顔を見た。俺の目を。俺の口元を。何かをさがすように、何かを恐れるように。


「……母上?」


「──何でもない」


 せいは目をらした。初めて見る、王らしくない仕草だった。その横顔よこがおが、ほんの一瞬、ひどくつかれた女のものに見えた。


 その傍らに、見慣れない女官がひかえていた。柔らかな物腰ものごしせた目、完璧かんぺきれい


「公子様にご挨拶あいさつを。此度こたび尚書しょうしょすえに加わりました、趙高ちょうこうもうします」


 顔を上げた女の目が、俺を見た。


 値踏みする目だった。だがせいの「王の目」とは違う。あれはうつわはかる目。この女の目は──値札ねふだる目だ。


 俺は会釈えしゃくを返しながら、首の裏が、ちりりと粟立あわだつのを感じていた。


 趙高ちょうこう。その名前を、俺は知っている。


 史実で俺に毒をたまわる、その筆をる者の名前を。



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