第4話 奇貨の果て
呂不韋が檻車で咸陽に戻ったのは、乱の平定から七日後のことだった。
沙汰は、すぐに下った。──大逆。極刑。
当然だ、と頭では分かっていた。三万の兵を動かし、都を焼き、王の廃立を謀った男だ。だが俺の胸の内は、妙にざわついていた。赤子の日から知っている男が死ぬ。それだけではない。何かをまだ、聞いていない気がした。
あの男はなぜ、俺を王に立てようとしたのか。
その夜、政が一人で獄へ向かったと、俺は蒙恬から聞いた。
「供も連れずに、か」
「はい。灯を一つだけ持って。……誰も近づけるな、との厳命です」
◆
獄は、地の底のように冷えていた。
灯を手にした政が石段を降りると、格子の奥で、男が身を起こす気配がした。
「これは……王自らのお運びとは。恐悦の極み」
髪は乱れ、囚衣は垢じみている。それでも呂不韋の声は、謁見の間で聞くのと同じ、艶のある商人の声だった。
「明日、貴様は死ぬ」
「存じております。それをわざわざ報せに? ……いいえ。王は、訊きに来られた」
「──なぜ、扶蘇だ」
政の声は低かった。
「なぜ檄文に、扶蘇の名を刻んだ」
「はて。世継ぎを立てるは道理でございましょう」
「道理だと」
政の目が、剣呑に細くなった。
「あの子の種親が誰か、公の記録では抽籤の男。だが真を知る者は、この世に二人しかおらぬ。私と──貴様だ」
「ええ。手前の、倅にございますからな」
呂不韋は、悪びれもせず言った。
「良い品でございましょう。あの聡さ、あの目。……手前は我が子を、玉座に据えようとした。親莫迦と嗤って下されませ」
「嗤えぬ。貴様はあの子を、品と呼んだ。今もだ」
「商人ですので」
政は吐き捨てるように息をついた。
「……あの夜のことは、私の過ちだ。男が貴重なこの国で、世継ぎには確かな種親が要った。ゆえに、口の堅い貴様を選んだ。それだけのことだ。愛でも情でもない。分かっていような」
「ようく、存じております。王は終始、算盤の目をしておられた。……手前と、同じ目を」
「同じにするな」
「同じでございますよ。──何しろ」
呂不韋は格子ににじり寄り、声を一段、落とした。
「親子でございますゆえ」
一瞬、政は言葉の意味が取れなかった。
「……何?」
「王よ。手前は邯鄲で商人をしておりました頃、生涯でただ一度の大買い物をいたしました。人質として趙に棄てられていた、秦の公女──先王様にございます。手前は先王様に全財産を注ぎ込み、秦へ帰し、玉座まで押し上げた。奇貨居くべし。……ですが王よ、手前が注ぎ込んだのは、銭だけでは、なかった」
獄の冷気が、粘り気を帯びた気がした。
「先王様の世継ぎにも、確かな種親が要りましてな。口の堅い男が。……そなた様の種親は、公の記録では、市井の名もなき男。生まれる前に病で死んだと──手前が、そのように記録させました。二度、同じ筆で」
「……戯言を」
「証など。ただ、鏡を御覧なされ。年々、誰に似てくるか」
政の手から、灯がわずかに傾いだ。炎が揺れ、格子の影が檻の中の男の顔の上で踊った。その口元の笑みは、確かに──毎朝、鏡の中で見る形をしていた。
「では……あの夜、私は……」
声が、掠れた。
「私は、実の……父に……」
臓腑の底から、何かがせり上がってきた。政は口を覆い、柱に手をついた。王としてではない。一人の女として、全身の肌が拒んでいた。あの夜の記憶の一切を、遡って汚されていく。
「おのれは……知っていて……!」
「はい」
呂不韋の声には、欠片ほどの悔いもなかった。
「商人はな、王よ。自分の店には、自分の品だけを並べたいのですよ。先王様は手前の店の礎。そなた様は手前の店の看板。そして扶蘇様は──手前の店の、最高の品だ。あの子の血の四分の三は、手前でございますからなあ」
「黙れ……黙れっ!」
剣が鞘走った。切っ先が格子の間から、呂不韋の喉元に突きつけられる。老いた商人は、瞬きもしなかった。
「お斬りなされ。ですがその前に、一つだけ、胸に留め置かれよ」
喉に白刃を受けたまま、男は静かに言った。
「秦の玉座には今、嬴の血ではなく、商人の血が座っておる。公子の御身は、なおのこと。……それを知る者が手前一人なら、秘密は明日、手前とともに灰になりましょう。──ですが王よ、秘密というものはな、一度口にした瞬間、商品になるのですよ」
政の背筋に、冷たいものが走った。
この男は今、なぜそれを口にした。死の前夜、誰もいない獄で、わざわざ──
誰も、いない?
政は剣を引き、振り返った。灯の届かぬ闇が、石段の上まで続いている。何も見えない。何の音もしない。
「……明日を待つ必要はなかったな」
政は懐から小さな瓶を取り出し、格子の内へ、叩きつけるように置いた。
「鴆毒だ。夜が明ける前に飲め。市中で晒されたくなくばな」
「これは、ありがたい。首と胴が泣き別れでは、勘定が合いませぬ」
「勘定は自分で払え。……商人らしく」
政は踵を返した。石段を昇るその背に、最後の声が届いた。
「王よ。──良い買い物を、なされました」
政は、問い返さなかった。それがどの買い物を指すのか、考えることを、心が拒んでいた。
──灯の届かぬ柱の陰で。
一人の女官が、息を殺して蹲っていた。
趙高。獄吏の監督を司る、下級の女官である。偶然ここに居合わせたのか、そうでないのかは、彼女しか知らない。
趙高は、闇の中で、唇だけで笑った。
王の血は、商人の血。王は知らずに実の父と臥所を共にし、公子を産んだ。そして公子の血の四分の三は、明日死ぬ罪人のもの──。
(拾った……国が、傾くほどの話を)
それはまるで、算盤を弾く音のない、算盤の構えだった。
◆
翌朝、呂不韋の死が報された。獄中にて毒を呷り、自ら果てた、と。
(毒を、呷った……)
俺は背筋が冷えた。それは、史実で俺が死ぬはずの死に方だった。俺の運命に絡みついていた男が、俺より先に、その死に方で死んだ。
政は政務に戻った。獄で何があったのか、誰にも語らなかった。
ただ──あの朝から、政は変わった。
謁見の帰り、政は一度だけ俺の前で足を止めた。長いあいだ、じっと俺の顔を見た。俺の目を。俺の口元を。何かを探すように、何かを恐れるように。
「……母上?」
「──何でもない」
政は目を逸らした。初めて見る、王らしくない仕草だった。その横顔が、ほんの一瞬、ひどく疲れた女のものに見えた。
その傍らに、見慣れない女官が控えていた。柔らかな物腰、伏せた目、完璧な礼。
「公子様にご挨拶を。此度、尚書の末に加わりました、趙高と申します」
顔を上げた女の目が、俺を見た。
値踏みする目だった。だが政の「王の目」とは違う。あれは器を量る目。この女の目は──値札を貼る目だ。
俺は会釈を返しながら、首の裏が、ちりりと粟立つのを感じていた。
趙高。その名前を、俺は知っている。
史実で俺に毒を賜る、その筆を執る者の名前を。




