第57話 偽りの勅
上郡では、冬を迎える準備が進んでいた。
長城沿いを吹く風はすでに冷たく、朝には薄い霜が降りる。俺は蒙恬とともに各砦へ配る兵糧と薪の量を確認し、匈奴が冬の間に小部隊を送り込んできた場合の対応について話していた。
「西側の烽火台には、もう少し兵を置いた方がいいな。雪が降れば、大軍は動きにくくても少数の騎兵は入り込める」
「私も同意見にございます。街道から外れた谷についても、斥候を増やしておきましょう」
蒙恬が地図へ印をつける。
その時、天幕の外から声がした。
「扶蘇様。咸陽より勅使が参っております」
俺の手が止まった。
咸陽からの勅使。
その言葉だけで、頭の中に一つの出来事が浮かんだ。
沙丘の変。
始皇帝の崩御。
そして、北辺にいる扶蘇へ届けられる偽りの詔。
前世で知る歴史では、本来の扶蘇はそれを信じ、自ら命を絶つ。
「……扶蘇様?」
蒙恬が怪訝そうに俺を見た。
「いや。何でもない」
俺は地図を閉じた。
「通してくれ」
◆
勅使は皇帝の使者にふさわしい官服を身につけ、二つの箱を携えて天幕へ入ってきた。
「公子扶蘇様。将軍蒙恬様。陛下より勅を預かって参りました」
俺と蒙恬は席を整えた。
使者は一つ目の箱を開き、封じられていた竹簡を取り出す。
「詔である」
読み上げる声が天幕へ響いた。
「公子扶蘇。汝は北辺にありながら功なく、かねてより皇帝の意に逆らい、不孝の言を重ねた。また将軍蒙恬は大軍を預かりながらこれを諫めず、公子に与した。その罪、軽からず」
そこまで聞いた時点で、胸の奥にあった疑いは確信へ変わった。
来た。
「よって公子扶蘇、ならびに将軍蒙恬へ、死を賜う」
使者が読み終える。
俺はしばらく黙っていたが、恐怖はなかった。
むしろ、これまで輪郭だけ見えていたものが、ようやく目の前へ現れたという感覚だった。
「お断りする」
使者が顔を上げた。
「……は?」
「聞こえなかったか。この勅には従わない」
「扶蘇様!」
使者の顔から血の気が引いた。
「これは陛下の御勅にございますぞ!」
「だからこそ確認する」
俺は竹簡へ目を向けた。
「母上が本当にこれを書いたのかをな」
◆
「陛下の勅を疑われると?」
「疑っている」
俺は即答した。
使者は言葉を失った。
「まず聞く。母上は今どこにいる」
「巡幸より咸陽へ戻られる途上にございます」
「ご健勝か」
「もちろんにございます」
答えが早かった。
「ならば、母上から直接この勅を受け取ったのか」
「それは……」
「誰からだ」
使者は答えようとしない。
傍らの蒙恬が声を落とした。
「勅使殿。公子からの問いです。お答えください」
「……趙高様より、お預かりいたしました」
俺は小さく息を吐いた。
やはり。
前世で知っている通りなら、趙高は始皇帝の死を隠し、遺詔を書き換える。
この勅も、おそらく母上のものではない。
「蒙恬」
「はい」
「お前も従うな」
「もちろんにございます」
蒙恬は迷わなかった。
「陛下御自身の御意思と確認できぬ勅によって、扶蘇様を死なせることなどできませぬ」
使者が慌てて口を挟む。
「そのようなことをすれば、反逆と見なされます!」
「構わん」
俺は使者を見る。
「俺は母上本人に確認する。それまでは死なないし、蒙恬も死なせない」
ここまでは、俺の知っている歴史だった。
だから対処できた。
前世の知識がある以上、本物の扶蘇と同じ失敗はしない。
そう思った。
◆
「……承知いたしました」
ところが使者は、意外にもそれ以上食い下がらなかった。
代わりに、傍らへ置いていたもう一つの箱へ手を伸ばす。
「では、もう一通ございます」
俺は眉を寄せた。
「もう一通?」
「はい」
使者の手がわずかに震えていた。
「これは、公子扶蘇様御自身に関わる秘事にございます」
胸の奥に嫌な感覚が走る。
こんなものは知らない。
前世で知る沙丘の変に、二通目の勅などなかった。
「読め」
「……はっ」
使者は竹簡を開いた。
「公子扶蘇。汝の血筋について、長く秘されてきた事実をここに告げる」
俺は黙って聞いた。
「汝の母、政の実父は、かつて秦の相邦を務めた呂不韋である」
そこまでは、聞いたことがあった。
前世にも、始皇帝の実父は呂不韋だったのではないかという説がある。
史実かどうかは分からない。
だが、この世界ではそれが真実なのだろう。
問題は、その次だった。
「そして公子扶蘇」
使者が一度言葉を止めた。
「汝の父もまた、呂不韋である」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……何だと?」
「汝は、政と、その実父呂不韋との間に生まれた子にございます」
頭の中が白くなった。
◆
母上の父が、呂不韋。
俺の父も、呂不韋。
ならば。
俺は母上の息子であると同時に、父親を同じくする弟でもある。
「……嘘だ」
声が掠れた。
使者は何も答えない。
「そんな話、俺は知らない」
知らない。
前世でも聞いたことがない。
秦の公子扶蘇の父について、こんな記録など存在しなかった。
だからこそ、否定する材料もなかった。
これまで俺は、未来を知っているつもりだった。
始皇帝がどう死ぬのか。
趙高が何をするのか。
偽詔を受け取った扶蘇がどうなるのか。
だが、これは俺の知識の外にある。
知らない事実だった。
「続きがございます」
使者の声が遠く聞こえた。
「公子扶蘇は、政と呂不韋との間に生まれた者。皇統の正統を乱す血であり、帝位を継ぐにふさわしからず」
「やめろ」
「扶蘇様」
蒙恬が俺を見る。
「もういい。読ませるな」
だが、竹簡に書かれた内容は、すでに頭から離れなかった。
◆
なぜ母上は、俺を見ながら時折あんな顔をしていたのか。
なぜ後継者として期待しながら、決して正式に俺を選ばなかったのか。
なぜ仙薬へあれほど執着したのか。
これまで不自然だったことが、一つの答えで繋がってしまう。
俺の中に呂不韋の血があるから。
それだけではない。
母上自身も、その血を引いている。
母と祖父の間に生まれた子。
それが俺だった。
「扶蘇様」
蒙恬が俺の肩へ手を伸ばした。
俺は無意識にその手を避けていた。
「……少し待ってくれ」
「ですが」
「頼む」
立ち上がったつもりだった。
だが足に力が入らず、机へ手をつかなければ身体を支えられなかった。
俺は今まで、自分が何者なのか分かっているつもりだった。
秦の公子。
母上の子。
前世の知識を持ち、この時代で生き直している人間。
守りたい人がいて、変えたい未来があった。
その土台に、こんなものが埋まっているとは思わなかった。
◆
「……母上は、知っていたのか」
誰に聞いたわけでもなかった。
使者は俯いたまま答えない。
蒙恬も何も言えなかった。
知っていたのだろう。
そうでなければ、ここまで長く秘密にされている理由がない。
母上は俺を見るたび、何を思っていたのか。
息子なのか。
弟なのか。
それとも、呂不韋の血を残す存在だったのか。
胸が苦しくなる。
これまでどれほど危険な戦場へ出ても、これほど足元が崩れたことはなかった。
敵なら戦える。
未来なら変えようとできる。
だが、自分が生まれた事実は変えられない。
気がつくと、手が腰の剣へ伸びていた。
◆
「扶蘇様!」
蒙恬の声が響いた。
剣を抜くより早く、蒙恬が俺の腕を掴む。
「離せ」
「離しませぬ」
「蒙恬」
「離しませぬ!」
強く引かれ、剣が腰から外れて床へ落ちた。
乾いた音が天幕に響く。
「何をなさろうとされたのです!」
「分からないのか」
「分かりませぬ!」
蒙恬は俺の両腕を掴んだまま、正面から顔を見た。
「血筋を知ったからといって、なぜ扶蘇様が死なねばならないのです!」
「俺は母上と、その父との間に生まれたんだぞ!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「そんな血で生まれた俺が、何を守る。何が皇帝だ。俺が玉座へ就けば、母上が隠してきたものまで全部」
「だから何だと言うのです!」
蒙恬の声が重なった。
◆
俺は言葉を失った。
蒙恬は俺の腕を掴んだまま、震えていた。
怒っているのか。
怖がっているのか。
おそらく、その両方だった。
「私が知っている扶蘇様は、そんな竹簡の中にはおられませぬ」
声は震えている。
それでも、目は逸らさない。
「赤子の頃から、この腕で抱いてきました。幼い頃に熱を出して泣かれた時も、初めて戦場へ出た後に眠れなくなった時も、私は知っております」
「蒙恬……」
「魏で民を逃がすために戦い、楚では兵を見捨てることができず、御自身まで危険な場所へ来られた。それが私の知っている扶蘇様です」
蒙恬の手が、俺の頬へ触れた。
「父が誰であろうと、祖父が誰であろうと、その人がなさったことまで変わるのですか」
何も言えなかった。
「私が愛した扶蘇様は、今日突然生まれたのではございません」
蒙恬は俺を抱き寄せた。
「血などより、ずっと長く私はあなたを見てきました」
◆
しばらく、動けなかった。
蒙恬の腕の中で、ようやく自分が何をしようとしたのか理解した。
偽りの勅には従わなかった。
前世の知識があったから。
趙高が何をするか知っていたから。
それなのに、知らない事実を一つ突きつけられただけで、自分から同じ結末へ向かおうとしていた。
それが恐ろしかった。
「……すまない」
「謝らないでください」
「でも、俺は」
「生きてください」
蒙恬の腕に力がこもる。
「今は、それだけで結構です」
俺は目を閉じた。
「……ああ」
ようやく、それだけ答えた。
◆
少し落ち着いてから、俺は勅使をもう一度見た。
「この二つ目の内容を、誰が知っている」
「私は……趙高様より、ここでのみ読み上げるよう命じられました」
「天下へ触れ回れとは?」
「命じられておりませぬ」
俺は蒙恬を見る。
趙高は、まだ血の秘密を公にするつもりはない。
俺を折るためだけに使った。
そう考えた方が自然だった。
「他に誰が知っているかは」
「存じませぬ」
使者の顔には本物の怯えが浮かんでいる。
この者自身も、読み上げるまで内容を知らされていなかった可能性さえある。
「分かった」
俺は床へ落ちた剣を拾った。
蒙恬が一瞬警戒したが、鞘へ戻すと少しだけ表情を緩めた。
「使者は拘束しない。ただし、しばらくこの陣から出すな。二つ目の勅についても、誰にも話させるな」
「承知いたしました」
蒙恬が答える。
◆
使者が出ていった後、俺は二通の竹簡を見つめた。
一つ目は俺の命を奪うための偽勅。
二つ目は、俺自身を内側から壊すための秘密。
趙高は、俺が最初の勅へ従わない可能性まで考えていたのだろう。
だから二つ目を用意した。
俺が未来を知っていることまでは知らない。
それでも、これまでの俺の行動から、普通の手段では素直に死なないかもしれないと警戒したのだ。
「扶蘇様」
蒙恬が隣に立った。
「これから、どうなさいますか」
俺はすぐには答えなかった。
母上の安否。
咸陽の状況。
胡亥。
李斯。
そして趙高。
確認しなければならないことは多い。
だが、一つだけは決められる。
「死なない」
俺は言った。
「少なくとも、趙高の思い通りにはならない」
蒙恬は黙って頷いた。
前世で知っている歴史なら、本来の扶蘇はここで死ぬ。
俺はその結末を知っていたから、一つ目の勅を退けることができた。
だが二つ目の勅は、俺の知る歴史には存在しなかった。
未来を知っていることだけでは、もう足りない。
俺の知らない刃を、趙高はすでに握っている。
それでも、生きる。
床へ落ちた自分の剣を見ながら、今度は意識してそう決めた。




