第56話 遺詔
始皇帝が沙丘で息を引き取った後も、巡幸の一行はすぐには動かなかった。
皇帝の崩御を知る者は、ごく限られている。李斯、趙高、胡亥、そして寝所へ出入りした一部の侍医と近侍だけだった。
李斯は混乱を避けるため、皇帝がまだ生きているものとして一行を動かすことを決めた。各地からの奏上もこれまで通り受け付け、皇帝の車には食事を運ばせ、外から見れば何も変わっていないように装わせる。
旧六国の地で皇帝の死が知られれば、どこで反乱が起きるか分からない。北では匈奴も秦の隙を窺っており、咸陽へ戻るまでは何より秩序を守る必要があった。
その判断に、趙高も異を唱えなかった。
◆
問題は、始皇帝が最後に残した詔だった。
封をされたままの一巻を、趙高は自室へ持ち帰った。
宛先は北辺の扶蘇。
内容を確認する必要があるという理由で封を解くと、そこには始皇帝自身の筆で、扶蘇を咸陽へ呼び戻し、喪を主宰させる旨が記されていた。
つまり、後継者は扶蘇である。
趙高は何度か読み返した後、詔を机の上へ置いた。
予想していなかったわけではない。
能力だけを見れば、始皇帝が最後に扶蘇を選ぶ可能性は十分にあった。
だからこそ、準備してきた。
◆
その日の夜、趙高は胡亥を呼んだ。
胡亥はまだ母の死から立ち直っていなかった。
「何だ」
いつもの尊大さは薄く、声にも力がない。
趙高は一礼した後、始皇帝の遺詔を差し出した。
「陛下が、最後に残されたものにございます」
胡亥は受け取り、しばらく読んだ。
やがて顔が強張った。
「……兄上を呼び戻す?」
「はい」
「喪を主宰させるとある」
「その意味は、公子にもお分かりかと」
胡亥は黙った。
以前なら、皇帝になることをただ面白そうなものとして想像していただけだった。
しかし今は違う。
一度、欲しいと思ってしまった。
自分が母の傍で政務を学び、少しずつ認められていると思っていたところへ、最後に選ばれたのは遠く北辺にいる扶蘇だった。
「母上は、最後まで兄上を選んだのか」
「遺詔を見る限りでは」
趙高は、それ以上余計なことを言わなかった。
胡亥自身に考えさせる。
「私では、駄目だったのか」
小さな声だった。
「それを私から申し上げることはできませぬ」
「だが、兄上が戻れば皇帝になる」
「おそらくは」
胡亥は詔を握ったまま、長いこと動かなかった。
◆
「もし」
趙高が静かに口を開いた。
「この詔が、まだ北辺へ届いていないとしたら」
胡亥が顔を上げた。
「何が言いたい」
「私は、事実を申し上げているだけにございます。陛下の崩御を知る者は少なく、この遺詔もまだ使者へ渡されておりませぬ」
「……それで?」
趙高はすぐには続けなかった。
胡亥の目に、先ほどまでとは違うものが浮かび始めている。
「公子が皇位を望まれぬのであれば、このまま扶蘇様へ届ければよろしいでしょう」
胡亥の手に力が入った。
「望まぬなどとは言っていない」
「では、望まれるので?」
問い返され、胡亥は黙った。
やがて、低い声で答える。
「……欲しい」
趙高は初めて頭を下げた。
「承知いたしました」
◆
次に必要なのは、李斯だった。
趙高一人で遺詔を書き換えても、秦という国家は動かせない。丞相である李斯の承認と協力がなければ、官僚も郡県も従わない。
ただし、李斯は胡亥を推しているわけではない。
むしろ、現時点では扶蘇こそ最も皇帝に近いと考えている。
だから趙高は、欲ではなく恐怖から攻めることにした。
◆
「遺詔を改める?」
李斯の声が低くなる。
夜更けの一室で、趙高と胡亥が向かいに座っていた。
「何を申しているのか分かっているのか、趙高」
「もちろんにございます」
「これは陛下の御遺志だ」
李斯は机上の詔を指した。
「扶蘇様を呼び戻し、喪を主宰させる。ここに何の曖昧さもない」
「はい」
「ならば従うべきだ」
李斯の答えは早かった。
胡亥の顔が強張る。
しかし趙高は慌てなかった。
「丞相。扶蘇様が即位なされた後のことを、お考えになったことはございますか」
「ある」
「では、焚書と坑儒をどうなさるとお思いで?」
李斯の目が細くなる。
「何が言いたい」
「扶蘇様は、両方に反対されました。仙薬にも異を唱え、陛下の統治について何度も諫言なされている」
「だから何だ」
「即位後も、今の秦の政をそのまま続けられるでしょうか」
李斯は答えなかった。
◆
趙高は、そこへもう一つ重ねた。
「北辺には蒙恬将軍と三十万がおります」
「知っている」
「扶蘇様が皇帝になれば、その三十万を背に即位なされることになる。さらに蒙恬将軍は公子と極めて近い」
「それがどうした」
「新帝が旧来の政策を改めようとされた時、誰が止められますか」
李斯の表情が僅かに変わった。
趙高は見逃さない。
「丞相が長年かけて作り上げた郡県制も、法の運用も、書を統一する政策も、すべて見直される可能性がございます。扶蘇様は情の厚い御方です。民には慕われましょうが、法を緩めることもある」
「扶蘇様が秦を壊すと言うのか」
「そこまでは申しておりません」
趙高は静かに答えた。
「ただ、陛下が築かれた国と、扶蘇様が作ろうとする国が同じものかどうか。それを考えていただきたいのです」
◆
李斯は黙り込んだ。
悪意からではない。
それだけに、揺れた。
始皇帝とともに天下を一つにした。
封建を退け、郡県制を敷いた。
文字を統一し、法によって広大な国を一つの仕組みで動かそうとしてきた。
それが自分の仕事だった。
もし扶蘇が即位し、父祖の制度や民意を重んじる者たちを大量に取り立てれば、秦の統治は変わるかもしれない。
変わるだけならよい。
その変化の途中で、再び天下が割れたら。
李斯が恐れているのは、自分の地位を失うこと以上に、統一そのものが崩れることだった。
「しかし」
李斯が口を開いた。
「だからといって、胡亥様を立てる理由にはならぬ」
趙高は頷いた。
「その通りにございます」
胡亥が不満そうに趙高を見る。
だが、趙高は構わなかった。
「ですから、丞相のお力が必要なのです」
「私の?」
「胡亥様は、まだ政務を学び始めたばかり。陛下のように天下を治めることはできませぬ」
「おい、趙高」
胡亥が声を上げたが、趙高は続けた。
「だからこそ、丞相が支えるのです」
◆
李斯は胡亥を見た。
若い。
経験も足りない。
だが、それは逆に言えば、今の秦の仕組みを一から教えることができるということでもある。
扶蘇には、すでに自身の政治観がある。
胡亥には、まだない。
「丞相が今の制度を守り、胡亥様へ政を教える。陛下が築かれた秦を、そのまま次代へ繋ぐことができます」
趙高の言葉は、李斯が最も聞きたくなる形に整えられていた。
「一方、扶蘇様が即位なされれば、北軍三十万を背に、自らの考えで政を改めることができる。丞相が反対したところで、どちらの言葉が通るでしょう」
李斯は返事をしなかった。
それでも、最初のように即座に拒むこともなくなっていた。
◆
「一晩、考えさせよ」
長い沈黙の末、李斯はそう言った。
「承知いたしました」
趙高は深く頭を下げた。
部屋を出た後、胡亥は小声で尋ねた。
「あれで大丈夫なのか」
「今夜中に賛同いただく必要はございません」
「断られたら?」
「丞相は断りません」
「なぜ分かる」
趙高は歩きながら答えた。
「李斯殿は、御自身より秦の制度を信じておられるからです」
胡亥には、その意味がよく分からなかった。
だが翌朝、李斯から呼び出しが来た。
◆
「一つ、条件がある」
李斯は二人を前に言った。
「胡亥様を即位させるなら、陛下の築かれた制度を壊してはならぬ。郡県制も法も維持し、政務は丞相府と朝廷の正式な手続きを通すこと。好き勝手な命令で国を動かすことは許さぬ」
胡亥は少し不満そうだったが、すぐに頷いた。
「分かった」
「本当に、お分かりですか」
「分かったと言っている」
李斯はしばらく胡亥を見つめ、それから目を閉じた。
「……ならば」
再び目を開く。
「私は、秦を守るために協力する」
趙高は静かに頭を下げた。
その瞬間、始皇帝の遺詔を守る最後の大きな壁が崩れた。
◆
始皇帝の詔は、書き換えられた。
扶蘇を呼び戻す文は消え、代わって胡亥を皇帝の後継とする内容が整えられる。
さらにもう一通。
北辺の扶蘇と蒙恬へ送る詔も用意された。
皇帝へ幾度も不孝を働き、北辺にありながら功を挙げず、その罪は重い。
ゆえに自ら死を賜れ。
李斯は、その文面を見て眉を寄せた。
「ここまで必要か」
「必要にございます」
趙高は即答した。
「扶蘇様を生かしたままでは、胡亥様の即位は安定いたしません。北には三十万がおります」
「しかし、扶蘇様が素直に従うとは限らぬ」
「承知しております」
その答えに、李斯は趙高を見た。
「何か考えているのか」
「念のため、いくつか備えております」
趙高はそれ以上説明しなかった。
李信。
匈奴。
そして、誰にも明かしていない血の秘密。
三つの刃は、このために用意したものだった。
◆
使者が北へ向かう準備を始めた頃、始皇帝の亡骸は密かに車へ収められた。
巡幸の列は、皇帝がまだ生きているかのように咸陽への道を進み始める。
夏の暑さの中、亡骸はいずれ腐敗する。
その臭いを隠すための手立ても必要になるだろう。
だが今、趙高が見ているのは北だった。
使者の持つ詔が上郡へ届けば、扶蘇は死を命じられる。
前世の歴史など知るはずのない趙高にとって、それは十分に成功する可能性のある策だった。
ただし、趙高にも一つだけ分からないことがある。
なぜ扶蘇は、これまで何度も他の者より早く何かを察してきたのか。
だからこそ、詔だけには賭けない。
趙高は北へ向かう使者を見送りながら、すでに次の手を動かし始めていた。
三つの刃を、抜くために。




