第55話 沙丘
始皇帝の巡幸は、再び東へ向かった。
水銀を含む丹薬を飲み続けた身体は、すでに以前のようには動かなかった。それでも皇帝は巡幸をやめず、各地の郡県を自ら見て回り、天下が自分の命令の下にあることを確かめようとした。
北辺では扶蘇と蒙恬が三十万の軍を率ち、長城を守っている。咸陽では李斯が政務を支え、趙高が皇帝の近くで文書と情報を扱っていた。
末子の胡亥も、今回の巡幸には同行している。
以前の胡亥なら、長い旅を嫌がっただろう。だが最近は皇帝の傍にいることそのものへ価値を見いだし始めており、道中でも郡守からの奏上や母の裁可を以前より注意して見るようになっていた。
それを趙高は、少し離れた場所から眺めていた。
◆
巡幸の途中から、始皇帝の体調は目に見えて悪化した。
頭痛はほとんど毎日のように起こり、夜には眠れず、日中も突然身体が重くなる。指先の震えも以前より激しくなり、書を読む途中で目を閉じる時間が増えていた。
「陛下。本日は、これ以上進まれぬ方がよろしいかと存じます」
李斯が進言したのは、行列が沙丘の平台へ入った日のことだった。
「次の宿まで、さほど遠くはございませぬ。ですが御身体を考えれば、ここで一日お休みになるべきかと」
始皇帝は車の中から李斯を見た。
「私が止まれば、行列すべてが止まる」
「だからこそでございます。今は陛下がお休みになることが、最も必要かと」
以前なら一蹴したかもしれない。
だが始皇帝はしばらく黙った後、ようやく頷いた。
「……分かった。今日はここに留まる」
平台に行宮が設けられた。
その夜、始皇帝は高い熱を出した。
◆
侍医たちは寝所へ集められた。
脈を診た者の表情は一様に険しく、丹薬を作っていた方士たちも、さすがに「仙人へ近づいている証」などとは言えなくなっていた。
「どうなのだ」
胡亥が尋ねた。
侍医は答えに迷った。
「陛下は長く御身体を酷使されております。その上、御薬の影響も考えられますゆえ、今はとにかく安静にしていただくほかございません」
「治るのか?」
「……最善を尽くします」
はっきりした答えではなかった。
胡亥は不安そうに寝所を見る。
少し離れたところでは、李斯が巡幸の一行へ緘口令を敷いていた。
「陛下の御不調について、外へ余計なことを漏らしてはならぬ。各地からの奏上はこれまで通り受け付け、必要なものは私のもとへ回せ」
皇帝の病が広まれば、旧六国の地で何が起きるか分からない。北では匈奴も機会を窺っている。
李斯が考えているのは、まず秦の秩序を守ることだった。
趙高もまた、命令に従って文書を整理していた。
ただし、彼女は別のものも見ていた。
皇帝の呼吸が、日に日に浅くなっていることを。
◆
熱に浮かされながら、政は何度も目を覚ました。
どれほど眠ったのか分からない。
目を開けるたび、天幕の天井が見える。
また眠り、夢を見る。
夢の中には、昔の邯鄲があった。
人質の子として暮らしていた頃。
石を投げられ、秦人の子だと罵られ、それでも母の手を握って歩いた街。
やがて景色は変わり、咸陽の宮殿になる。
玉座。
六国の地図。
滅ぼした王たち。
そして、その向こうに一人の男が立っていた。
呂不韋。
「……久しいな」
政は夢の中で呟いた。
死んだはずの男は、昔と変わらぬ顔で笑っている。
「随分と遠くまで来られましたな、政様」
「消えろ」
「せっかく、天下まで手にされたというのに」
政は睨んだ。
「お前に語ることなどない」
「ですが、最後には渡さねばならぬ」
呂不韋は、楽しむでも責めるでもない声音で言った。
「天下を」
◆
政は目を覚ました。
汗で衣が濡れている。
「……陛下」
傍らにいた趙高が身を起こした。
「水を」
「ただいま」
趙高が器を差し出す。
政は少し飲み、荒い呼吸を整えた。
「今は……どこだ」
「沙丘にございます」
「そうか」
しばらくして、政は尋ねた。
「胡亥は」
「外で控えておられます」
「李斯は」
「政務を見ております」
政は目を閉じた。
「扶蘇は」
趙高の表情は変わらなかった。
「北辺にございます。蒙恬将軍とともに」
「……そうだったな」
その名を口にすると、胸の奥へ長く押し込めてきた問題が戻ってくる。
誰に天下を継がせるのか。
◆
胡亥は最近、以前より学ぶようになった。
それ自体は悪いことではない。
だが、皇帝として足りるかと問われれば、政には答えが出ていた。
足りない。
まだ若く、経験もない。人に命じることへの興味は持ち始めたが、その命令の先で何人が生き、何人が死ぬのかまでは理解していない。
一方、扶蘇は違う。
戦場を知っている。
民の死を見ている。
将軍たちとも付き合いがあり、秦の法と、それだけでは治まらない人間の心の両方を見ようとしてきた。
自分へ何度も逆らった。
だが、それは玉座を欲したからではない。
少なくとも、政が知る扶蘇はそういう子だった。
能力だけなら、迷う余地はない。
次は扶蘇だ。
それでも、あの名が心に浮かぶ。
呂不韋。
◆
政は、自分が何から逃げ続けていたのかを理解していた。
死ぬことだけではない。
死ねば、自分の手から天下が離れる。
そして最も有力な後継者である扶蘇へ渡る。
扶蘇は、自分の子である。
同時に、呂不韋の子でもある。
さらに政自身もまた、呂不韋の血を引いている。
それを知った日から、扶蘇を見る目は変わった。
聡明であるほど、あの男を思い出す。
人の先を読むほど、呂不韋の再来ではないかと疑う。
その一方で、息子として愛していることも変えられなかった。
「……愚かなものだ」
政は小さく呟いた。
天下を一つにした。
六国を相手にしても決断できた。
それなのに、自分の後を誰に託すかという一つの決断から、何年も逃げてきた。
仙薬を求めたのも、その逃避と無関係ではない。
自分が死ななければ、決めなくて済む。
そんな都合のいい答えを、本気で求めてしまった。
◆
再び眠りに落ちた政の前に、夢の呂不韋が現れた。
「結局、私の血が天下を継ぐ」
「黙れ」
「あなたがどれだけ嫌おうと、扶蘇様は私の子。そして、あなたも私の子だ」
「黙れ」
「秦の天下は、とっくに私の血の中にある」
政は男を睨んだ。
だが今度は、以前ほど恐ろしくなかった。
「……違う」
「何がです」
「扶蘇は、お前ではない」
夢の中の呂不韋が黙る。
「お前なら、民のために魏の都をゆっくり水へ沈めようとはせぬ。楚で乳母を救うために、己の身を危険へ晒したりもしない。皇帝に嫌われると分かっていながら、殺される者のために口を開くこともしない」
政はゆっくりと男へ近づいた。
「血が同じだから何だ」
その言葉を、自分自身にも言い聞かせる。
「私が作ったのは、血を守るためだけの国ではない」
始皇帝になった日、自ら王より上の称号を作った。
周の制度をそのまま復活させず、秦の法で天下を一つにした。
古いものが正しいというだけで従うことを拒んできた。
ならば、最後だけ血に縛られる理由もない。
「消えろ、呂不韋」
政は言った。
「扶蘇は、扶蘇だ」
◆
夜明け前。
始皇帝は目を覚ますと、趙高を呼んだ。
「李斯を」
「御意」
ほどなく李斯が寝所へ入ってきた。
始皇帝の顔を見るなり、その表情が僅かに曇る。
「陛下」
「筆を用意せよ」
「何をお書きに」
「扶蘇へ送る」
李斯が動きを止めた。
趙高も黙ったまま皇帝を見る。
「北辺の軍は蒙恬に任せる。扶蘇には、咸陽へ戻るよう伝えよ」
始皇帝は一度息を整えた。
「私の喪を主宰させる」
その言葉が何を意味するのか、李斯にはすぐに分かった。
皇帝の喪を主宰する者。
それは事実上、後継者を扶蘇と定めることに等しい。
「陛下。本当に、それでよろしいのでございますか」
李斯は確認した。
「ああ」
始皇帝の答えに迷いはなかった。
「扶蘇に継がせる」
趙高は何も言わなかった。
ただ、その言葉を聞いた。
◆
始皇帝は震える手で詔を書いた。
何度も筆が止まり、文字が乱れる。そのたびに休みながら、それでも最後まで他人に書かせようとはしなかった。
扶蘇へ。
北軍を蒙恬へ任せ、咸陽へ戻れ。
喪に会し、葬儀を主宰せよ。
詔を書き終えると、皇帝の璽が押された。
「必ず……届けよ」
「御意」
趙高が頭を下げる。
始皇帝はそれを見届けると、長く息を吐いた。
その日の夕刻、容体は急激に悪化した。
◆
胡亥が寝所へ呼ばれた時には、始皇帝はほとんど声を出せなくなっていた。
「母上」
胡亥は寝台の傍へ膝をついた。
「母上、私です」
始皇帝は薄く目を開けた。
何かを言おうとしたが、声にはならない。
胡亥は初めて見る母の弱った姿に、何をすればいいのか分からなかった。皇帝はいつも強く、誰かに命じる側であり、自分が守らなければならない存在だなどと考えたこともなかった。
「母上……」
その呼びかけに答えるように、始皇帝の指が僅かに動いた。
やがて、その手から力が抜けた。
天下を統一し、王という称号を捨て、自ら始皇帝と名乗った政は、沙丘で息を引き取った。
◆
寝所の中で、最初に動いたのは李斯だった。
「外へ漏らしてはならぬ」
声は低かったが、判断は早い。
「陛下の崩御がここで広まれば、巡幸の一行が乱れる。旧六国の地で反乱が起こる可能性もある。まず咸陽へ戻るまで、崩御は秘すべきだ」
胡亥は青ざめたまま母の亡骸を見ている。
趙高は李斯の言葉へ頷いた。
「私も、それがよろしいかと存じます」
そこまでは、二人の判断は一致していた。
秦の秩序を守る。
皇帝の死を利用しようという話ではない。
少なくとも、李斯にとっては。
やがて寝所を出た趙高の手には、一通の封じられた詔があった。
宛先は北辺の扶蘇。
始皇帝が最後に選んだ、次の皇帝。
趙高は封を見つめた。
そして、まだ開かなかった。
李斯も、胡亥も、この時点では知らない。
趙高がすでに用意していた三つの刃が、ここから初めて必要になることを。




