第54話 三つの刃
趙高は、まだ胡亥を皇位へ押し上げようとはしていなかった。今の胡亥には軍歴も政績もなく、政務を学び始めたばかりで、扶蘇と比べれば後継者としての差はあまりにも大きい。
しかも北辺には、蒙恬が率いる三十万の大軍がある。
匈奴を河南の地から退け、長城を築き、北辺の守りを固めた軍。その傍には扶蘇がおり、二人の結びつきが深いことも、趙高は把握していた。
始皇帝が崩御し、扶蘇が正式な後継者として三十万を背に咸陽へ戻ることになれば、宮中で何を企んでも覆すのは難しい。だからこそ、その時が来てから動くのでは遅かった。
趙高は、まだ皇帝が生きている今のうちから、いくつかの手を用意していた。
◆
最初に目をつけたのは、李信だった。
かつて二十万を率いて楚へ攻め込み、大敗した男である。その後は地位を落としたものの、燕討伐で功を立てて将軍へ返り咲き、武勇と実戦経験だけなら今も秦軍の中で上位に数えられる。
ただし、軍の中心にいるわけではなかった。
北辺では蒙恬が三十万を預かり、王賁もまた統一戦争を通じて大きな功を積み上げている。李信自身も将軍ではあるが、楚での敗北以来、かつて期待されていたほどの兵権を与えられることはなくなっていた。
ある夜、趙高は宮中の一室へ李信を招いた。
「俺に何の用だ、趙高」
李信は遠慮なく座ると、勧められた酒へ手を伸ばした。
「将軍に、少しお尋ねしたいことがございまして」
「宮中の回りくどい話は好かん。聞きたいことがあるなら聞け」
趙高は気分を害した様子もなく、静かに杯を置いた。
「将軍は、今の御自身の立場に満足しておられますか」
李信の眉がわずかに動いた。
「どういう意味だ」
「そのままの意味にございます。将軍は燕討伐で功を挙げ、再び将軍位へ戻られた。しかし現在、秦で最も大きな軍を任されているのは蒙恬将軍です」
「それがどうした」
「三十万です。匈奴を退け、長城を築き、今や北辺そのものを任されている。その上、扶蘇様も蒙恬将軍のもとにおられる」
李信は黙って酒を飲んだ。
趙高は、そこで無理に言葉を重ねなかった。
「もし、いずれ扶蘇様が皇帝となられれば、秦軍の中心に誰が立つのでしょうな」
「俺に蒙恬を妬めと言いたいのか」
「いいえ。将軍ほどの方が、誰かの下に立つことを当然と考えておられるのか、それが少し気になっただけにございます」
李信は鼻で笑った。
「俺は楚で二十万を失った。あれだけの大敗をして、それでも将軍へ戻れたのだ。十分だろう」
「そうお考えなら、私が余計なことを申しました」
趙高が話を切り上げようとすると、李信の方が先に杯を置いた。
「待て」
「はい」
「お前は何を考えている」
「まだ、何も」
趙高は穏やかに答えた。
「ただ、将軍が御自身をどのように見ておられるのか、知っておきたかっただけにございます」
その夜、趙高は胡亥の名を一度も出さなかった。
皇位の話もしていない。
それでも、李信の胸に残るものは確認できた。
楚で二十万を失った記憶。六十万を与えられて楚を滅ぼした王翦への複雑な感情。そして今、三十万を率いて北辺を任されている蒙恬への意識。
李信は、自分を無能だと思っていない。
だからこそ、自分より大きな軍を任される者がいることを完全には割り切れていなかった。
◆
それから趙高は、少しずつ李信へ仕事を回した。
地方軍の編成について意見を求め、兵站について実戦経験から判断を仰ぎ、若い将の評価も聞いた。どれも将軍へ尋ねても不自然ではない内容であり、そのたびに趙高は、李信の判断が役に立ったことを伝えた。
「将軍の見立て通りでございました」
「やはり、実際に大軍を率いた方の意見は違います」
露骨に持ち上げる必要はなかった。
ただ、李信自身に、自分はまだ秦に必要とされていると思わせればいい。
やがて李信の方から、趙高のもとへ顔を出すことが増えていった。
まだ味方ではない。
だが、話を聞く相手にはなった。
趙高にとっては、それで十分だった。
◆
二つ目の手は、北へ伸びていた。
匈奴である。
趙高は正式な使節ではなく、商人に身を変えた密使を草原へ送り込んだ。秦の印も公文書も持たせず、捕らえられたとしても宮中との繋がりを証明できるものは何一つ持たせない。
密使が頭曼単于の天幕へ通された時、最初に目へ入ったのは、その腕の中にいる二人の女だった。
楊端和と羌瘣。
かつて五万の秦軍を率いて草原へ攻め込んだ二人を、頭曼は左右から抱いたまま密使を迎えていた。二人とも生きてはいるが、将軍だった頃の自由はなく、頭曼はあえてその姿を秦から来た者へ見せつけているようだった。
「秦の者よ。少し待っておれ」
単于は話し出そうとする密使を手で制した。
密使は思わず目を伏せかけた。だが、その光景に目を逸らすことが出来ないでいる。
楊端和は乱れ、密使がいることに気が付いていない様子。一方の羌瘣は、屈辱に唇をかみしめていた。
「それで」
頭曼は満足げに息をつくと、ようやく二人を解放した。楊端和はその場に力なく身を横たえ、羌瘣も乱れた衣を直す余裕すらない。
密使は、かつて秦軍を率いた二将の変わり果てた姿に、しばし言葉を失った。
「秦の者が、俺に何の用だ」
「秦の正式な使者ではございません」
「では何者だ」
「北辺の状況を、いずれ変えたいと考える者より言葉を預かっております」
頭曼は低く笑った。
「秦の将を二人奪った俺に、秦人が頼み事か」
腕の中で楊端和の表情が険しくなる。羌瘣も密使を見たが、何も口にはしなかった。
密使も二人へ余計な視線を向けず、淡々と続けた。
「頼みではございません。互いに利のある話にございます」
「聞こう」
「いずれ、北辺の秦軍が大きく南へ動く時が来るかもしれません。その時、単于には長城へ兵を寄せていただきたい」
頭曼の笑みが薄れた。
「秦人同士で争うのか」
「私は、そのようなことは申しておりません」
「同じことだろう」
頭曼は楽しそうに笑い、楊端和と羌瘣を抱く腕へわずかに力を込めた。
「北を守る三十万が南へ動き、それに合わせて俺が壁を叩く。そういう話ではないのか」
「こちらから知らせが届いた時に、単于が御自身の利益になると判断されたなら、そうしていただければよいかと」
「見返りは」
「秦軍が北辺から減れば、それ自体が単于にとって利益となりましょう」
しばらく、頭曼は密使を見つめていた。
やがて口元を歪める。
「悪くない。秦が自分で軍を動かしてくれるというなら、俺が止める理由はない」
正式な盟約ではなかった。
条文もなければ、互いに署名する文書もない。
ただ、必要な時に連絡を取るための一本の道だけが、秦の宮中と草原の間に作られた。
◆
趙高が匈奴へ期待しているのは、秦を滅ぼしてもらうことではなかった。
目的は、北軍を動けなくすることである。
扶蘇と蒙恬が持つ最大の力は、北辺の三十万だった。もし皇帝の死後に咸陽で後継を巡る争いが起こり、その三十万が一斉に南へ向かえば、宮中にいる者だけでは対抗しようがない。
しかし、同じ時に匈奴が長城へ兵を寄せれば事情は変わる。
蒙恬は北辺を捨てて全軍を南下させることができない。自ら築いた防衛線を放棄し、その向こう側にいる民を匈奴へ差し出すような真似をする女ではないことを、趙高は知っていた。
三十万を倒す必要はない。
三十万を、その場に縛りつければいい。
◆
そして三つ目だけは、誰にも触れさせなかった。
趙高の私室には、一巻の古い記録が厳重にしまわれていた。
王宮に残された過去の文書。
古い証言。
呂不韋と政の関係を示す断片。
さらに、扶蘇の出生へ繋がる記録。
それらを長い時間をかけて繋ぎ合わせた結果、趙高は一つの答えへ辿り着いていた。
政の実父は、呂不韋。
そして扶蘇の父もまた、呂不韋。
つまり扶蘇は始皇帝の子であると同時に、父を同じくする弟でもある。
趙高自身、最初にその可能性へ行き着いた時には、記録の読み違いを疑った。しかし別々の証言と文書を突き合わせるほど、その結論は崩れなくなっていった。
そして、その秘密を知れば、始皇帝のいくつかの行動にも説明がつく。
扶蘇が後継者として最も優れていることを理解しながら、決して正式に後継と定めようとしないこと。
扶蘇へ期待しながら、時折、強く遠ざけようとすること。
そして、死を異常なほど恐れ、不老不死へ執着していること。
皇帝が死ねば、天下は扶蘇へ渡る可能性が高い。
扶蘇へ渡れば、その後に続くのは呂不韋の血である。
始皇帝もまた、そのことを知っている。
趙高はそう見ていた。
◆
この秘密を李信へ明かせば、彼の心を大きく揺らせるだろう。
胡亥へ話せば、自分こそ正しい後継者だと思わせる材料にもなる。
李斯へ見せれば、秦の皇統そのものについて考え直させることさえできるかもしれない。
それでも、趙高は誰にも話さなかった。
一度口から出た秘密は、もう自分だけのものではなくなる。まして胡亥へ教えれば、感情のまま口を滑らせる危険がある。李信も、使う時を選ばず動く可能性があった。
何より、この秘密は扶蘇だけを傷つけるものではない。
政自身が呂不韋の実子だと広まれば、始皇帝の正統性にも疑いが及ぶ。それによって秦そのものが揺らげば、趙高にとっても利益にはならなかった。
秦を壊したいわけではない。
必要な時に、必要な人物だけを動かせればいい。
だから、この秘密だけはまだ使わない。
◆
夜更け、趙高は机の上へ三つの記録を置いた。
一つは、李信に関するもの。
一つは、匈奴へ送った密使の報告。
最後の一つは、扶蘇と呂不韋の血について記された古い竹簡だった。
李信は、秦の内側で兵を動かすための力になり得る。匈奴は、蒙恬の三十万を北辺へ縛るために使える。
そして血の秘密は、今は誰にも見せない。
それでも、使う時を選べば他の二つより深く人の判断を変えることができる。
趙高は血の記録だけを箱へ戻し、鍵をかけた。
始皇帝はまだ生きている。
扶蘇は北辺にいる。
胡亥も、ようやく皇位を意識し始めたばかりだった。
今はまだ、刃を振るう時ではない。
三つとも、必要になる瞬間まで隠しておけばよかった。




