第53話 胡亥
咸陽にいる胡亥は、兄が北辺へ送られたことを密かに喜んでいた。
幼い頃から、扶蘇と比べられることが嫌いだった。扶蘇は学問を好み、軍事にも関わり、統一戦争では実際に戦場へ出て功を立てた。将軍たちからの信望も厚く、宮中では次代を任せるなら扶蘇だと考える者も少なくない。
一方の胡亥は、そうしたものにほとんど関心を持たずに育ってきた。男が少ないこの世界では、公子であるだけでも周囲は甘く、まして始皇帝の末子ともなれば、多少の我が儘を咎める者などほとんどいない。欲しいと言えば与えられ、嫌だと言えば別のものが用意される。それが胡亥にとっての当たり前だった。
「兄上は、まだ北にいるのか?」
ある日、胡亥は自室で趙高に尋ねた。
「はい。上郡にて、蒙恬将軍とともに北辺の守りについておられます」
「いつ戻る」
「それは陛下がお決めになることでございます」
胡亥は寝台に身体を預けたまま、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「戻らなくてもいいのに」
趙高は答えなかった。ただ、その言葉だけは覚えておいた。
◆
「趙高」
「はい」
「母上は、兄上を嫌っているのか?」
不意の問いだったが、趙高は表情を変えなかった。
「なぜ、そうお思いになるのでしょう」
「だって、追い出したではないか。兄上はいつも母上に逆らっていたし」
「扶蘇様は、陛下へ諫言をなされていただけかと」
「同じだろう」
胡亥には、その違いがよく分かっていなかった。皇帝が決めたことに反対するなら、それは皇帝へ逆らうことだと考えている。
「仙薬にも反対した。焚書にも、儒者を罰することにも反対した。それで北へ送られたのだろう?」
「結果としては、そのようになりました」
「なら、母上は兄上より私の方が好きなのではないか?」
趙高はそこで初めて胡亥を正面から見た。まだ皇位が欲しいと言っているわけではない。ただ、兄より自分の方が母に愛されていると思いたいだけだった。
「陛下は、どちらの公子も大切に思っておられます」
「つまらぬ答えだな」
「事実にございますので」
胡亥は不満そうだったが、それ以上は追及しなかった。趙高も余計なことは言わない。ここで後継者になれると吹き込めば、胡亥はすぐに浮かれるだろう。
それでは早すぎる。
皇位というものを、胡亥自身の欲として育てた方がいい。
◆
数日後、趙高は胡亥のもとへ一巻の竹簡を持ってきた。
「何だ、それは」
「本日、陛下が裁可なされた訴訟の記録にございます」
「そんなものを私に見せてどうする」
「公子にも、少しずつ政務を学んでいただこうかと存じまして」
胡亥は露骨に嫌な顔をした。
「面倒だ」
「では、お下げいたします」
趙高がすぐに竹簡を引こうとすると、胡亥の手が伸びた。
「待て」
「はい」
「……なぜ急に、私へ政務を教える」
「急ではございません。公子も、もう幼子ではありませんので」
「兄上の代わりか?」
趙高は一拍置いてから答えた。
「扶蘇様は北辺におられます」
それだけだったが、胡亥には十分だった。
「貸せ」
竹簡を受け取って読み始めたものの、数行進んだところですぐに顔をしかめた。
「分からぬ」
「どの部分でしょう」
「この者は、なぜ罰せられる。盗んだ物は返したのであろう?」
「返せば、盗みそのものが消えるわけではございません」
「だが持ち主は損をしていない」
「その理屈が通れば、見つかった時だけ返せばよいことになります。盗んでも、発覚しなければ得をするということにもなりかねません」
胡亥は少し考えた後、ようやく頷いた。
「……なるほど」
趙高は急かさず、その後も一つずつ説明した。
胡亥は頭が悪いわけではない。ただ、これまで学ぶ必要がなかった。難しい話を嫌い、努力を避けても、周囲が代わりに何とかしてくれたからである。
ならば、学ぶ理由を与えればよい。
「政というものも、案外面白いな」
読み終える頃、胡亥はそう言った。
「左様でございますか」
「人に命じれば、その通りに国が動くのだろう?」
「皇帝の命令であっても、それを実行する者が必要にございます。命令だけで国が動くわけではありません」
「ならば、その者たちを従わせればよい」
趙高はわずかに目を細めた。
胡亥が最初に面白いと感じたのは、法でも民でもなかった。人を動かせるという部分だった。
◆
その日の夕刻、李斯が胡亥の部屋へ呼ばれた。
「丞相。聞きたいことがある」
「何でございましょう」
「皇帝になるには、何を学べばいい?」
李斯は一瞬だけ胡亥を見つめた。傍らには趙高が控えている。
「なぜ、そのようなことを?」
「ただ聞いてみただけだ」
胡亥は平然としていたが、その目には隠しきれない期待があった。
李斯は少し考えた後、胡亥の正面へ座る。
「皇帝になる方法、というものはございません。誰を後継とするかは、陛下がお決めになることでございます。ただし、天下を治める者に何が必要かという話でしたら、お答えできます」
「聞こう」
「まず、己の好き嫌いだけで法を曲げぬこと。次に、臣下の言葉を聞きながらも、最後には自ら決断すること。そして、その決断が天下へどのような結果をもたらすかを考えることにございます」
胡亥は途中から少し退屈そうな顔になった。
「もっと簡単に言え」
「好き勝手に命じる者は、皇帝ではないということです」
胡亥の眉が寄る。
趙高は黙って二人を見ていた。李斯は胡亥へ阿諛するつもりがなく、むしろ皇帝という地位が好き勝手に振る舞うためのものではないと教えようとしていた。
「兄上は、それができるのか?」
「扶蘇様は、多くを学んでおられます」
「私よりも?」
「現状では」
胡亥の顔に不満が浮かんだが、李斯は構わず続けた。
「だからこそ、公子も学ばれるのであれば、今から始めるべきでしょう。扶蘇様が積み重ねてこられた年月は、今日明日で埋まるものではございません」
「……分かった」
胡亥は手元の竹簡を引き寄せた。
「なら教えろ。兄上にできることなら、私にもできる」
「承知いたしました」
李斯は深く頭を下げた。
◆
部屋を出た後、李斯は廊下を歩きながら趙高へ尋ねた。
「そなたが勧めたのか」
「何をでしょう」
「胡亥様に政務を学ばせることだ」
「きっかけを作っただけにございます」
李斯は歩みを止めた。
「妙な考えを吹き込むなよ」
「妙な考えとは?」
「皇位だ」
李斯の声は低かった。
「陛下はまだ後継を定めておられぬ。扶蘇様が北へ送られたからといって、胡亥様が次と決まったわけではない。公子同士を無用に争わせれば、秦そのものを乱すことになる」
「もちろん承知しております」
「ならばよい」
李斯はそのまま歩き去った。
趙高は背中を見送りながら、李斯がまだ皇位争いに加わっていないことを確認した。始皇帝が生きているうちから扶蘇を排除しようとも、胡亥を玉座へ押し上げようとも考えていない。
李斯が見ているのは、あくまで秦という国家の秩序だった。
今は、それでよかった。
◆
夜になると、胡亥は昼に読んだ竹簡をもう一度開いていた。普段ならとっくに放り出しているところだが、今日は違った。
扶蘇は遠い北辺にいる一方で、自分は母のすぐ傍にいる。兄が戦や政治で名を上げたのなら、自分も今から学べばいい。少なくとも、兄にできることが自分にはできないと認めるのだけは嫌だった。
だが、読み進めているうちに、その理由は少しずつ変わっていった。
もし、自分が皇帝になったら。
天下の役人が自分の命を受け、将軍が兵を動かし、各地の郡県から報告が届く。これまで欲しい物を与えられてきたのとは違う。天下そのものが、自分の言葉によって動くことになる。
「……もし、母上が私を選んだら」
誰にも聞こえない声で呟いた。
そうなれば、誰にも兄と比べられなくなる。
扶蘇の弟ではない。
自分が、この国の一番上に立つ。
胡亥は竹簡を閉じた。
その日初めて、皇帝という座を自分のものとして欲しいと思った。
◆
別の部屋で、趙高はその日の出来事を記録していた。
胡亥が政務へ関心を示した。
記したのは、それだけだった。
扶蘇を貶める言葉も、胡亥を持ち上げる言葉も必要ない。誰が次の皇帝になるのかは、まだ決まっていない以上、今から一人へ賭ける理由もなかった。
扶蘇には、蒙恬と三十万の北軍がある。統一戦争を通じて得た将兵からの信望もあり、政務の経験も胡亥とは比べものにならない。
それに加えて、趙高には別の疑問も残っている。
扶蘇が時折見せる、説明のつかない先読み。
「亡秦者胡也」と聞いた瞬間に胡亥を見たことも、博浪沙や北辺の出来事に対して妙な反応を見せることも、偶然だけで片づけるには引っかかるものがあった。
だからこそ、扶蘇を侮るつもりはない。
一方の胡亥には軍歴もなく、政治について学び始めたばかりである。今の時点で二人を比べれば、後継者として扶蘇が圧倒的に有利なのは趙高にも分かっていた。
ただ、胡亥には一つだけ扶蘇にないものがある。
始皇帝のすぐ傍にいることだった。
そして今日、そこへ新たに皇位への欲が加わった。
趙高は筆を置き、竹簡を他の記録とともに収めた。
皇帝の寿命があと何年あるのかは、誰にも分からない。ならばその時まで、誰が何を望み、誰と結びつき、どのような力を持つのかを見ておけばいい。
胡亥もまた、これから観察する価値のある存在になった。




