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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第2章 秦の栄光と崩壊編

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第52話 毒

 博浪沙で鉄槌が副車を砕いてから、始皇帝は巡幸の警備をさらに厳しくした。宿泊地は直前まで伏せられ、食事には何人もの毒見役が置かれる。車列には以前より多くの副車が加わり、皇帝がどの車に乗っているのか、外からはますます分かりにくくなっていた。


 それでも、始皇帝自身の意思で口にするものだけは、誰にも止められなかった。


 仙薬である。



「陛下。新たな丹薬が出来上がりました」


 方士が小さな器を差し出すと、始皇帝は中を覗き込んだ。これまでにも似た薬を何度も飲んできたが、今回のものは丹砂をさらに精錬したものだという。


「以前のものとは違うのか」


「はい。丹砂を幾度も焼き、天地の精気を凝らしております。長く服せば五臓を清め、老いを遠ざけるものと」


 方士の返答には、かつて徐福(じょふく)が見せた慎重さがなかった。徐福は「必ず」とは言わなかったが、今の始皇帝の前では、曖昧なことを言う者ほど遠ざけられ、効くと言い切る者ほど重く用いられるようになっていた。


「寄越せ」


 始皇帝は器を受け取り、そのまま飲み干した。


 その丹薬には、水銀が含まれていた。


 当時、それを不老長寿へ通じるものと信じる者はいたが、実際には身体を蝕む毒だった。



 最初に現れた異変は、頭痛や倦怠、眠りの浅さといった小さなものだった。政務の途中で指先が震えることもあり、以前なら一度で覚えた報告を聞き返す場面も少しずつ増えていく。


「陛下」


 竹簡を差し出そうとした李斯(りし)が、始皇帝の手を見て動きを止めた。


「何だ」


「少し、お休みになられてはいかがでしょう」


 始皇帝は自分の指先を見る。細かな震えはしばらくすると治まったが、李斯の視線はそこから離れなかった。


「この程度で政を止められるか。続けよ」


「……御意」


 李斯はそれ以上強く言わなかった。


 始皇帝自身も、以前と違うことには気づいていた。丹薬を飲み始めてから身体が軽くなったわけではなく、むしろ重くなっている。頭痛も増え、夜も眠りづらい。それでも、薬と不調を結びつけて考えることを避けていた。



「これは、効いている証ではないのか」


 ある日、始皇帝は方士に尋ねた。


 頭痛や震えが続いていることを告げると、方士は一瞬だけ言葉に詰まった。ここで毒の可能性を口にすれば、これまで献じてきた薬そのものを否定することになる。


「仙薬が御身体を改めている途中なのでございましょう。常人の身から、仙人の身へ近づく過程にございます」


 始皇帝はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「……ならば続けよ」


 方士は深く頭を下げた。


 こうして丹薬の服用は止まらなかった。



 政がまったく疑っていなかったわけではない。


 むしろ、自分の身体だからこそ分かっていた。


 薬を飲む前より調子が悪い。飲むたびに頭が重くなり、指先の震えも増えている。それでも服用をやめられなかったのは、薬への信頼が強かったからではない。


 他に縋るものがなくなっていたからだ。


 徐福(じょふく)は戻らず、盧生(ろせい)たちも去った。東海にも西方にも仙人の確かな証はなく、丹薬まで捨てれば、「自分もいずれ死ぬ」という結論だけが残る。


 そして政にとって、死を認めることは、後継者を決めることとほとんど同じ意味を持っていた。


 その夜、机の上に置かれた丹薬を長く見つめながら、政は何度も手を止めた。


 飲まなければいい。


 理屈では、それだけのことだった。


 だが最後には器を取った。


「……まだだ」


 誰に聞かせるでもなく呟き、薬を飲み干す。


 それが命を延ばしているのか、それとも削っているのか。政自身、もう確信を持てなくなっていた。



 死を恐れる理由は、命そのものへの執着だけではない。


 政は机上に広げられた秦の地図を見ていた。


 韓も、趙も、魏も、楚も、燕も、斉も消えた。長い戦いの末に、すべてを一つの国へまとめた。それを、自分が死ねば誰かへ渡さなければならない。


 候補はいる。


 考えなくとも、最初に浮かぶのは扶蘇(ふそ)だった。


 統一戦争に参加し、軍事を知り、政務にも関わってきた。将兵からの信望もあり、今は北辺で蒙恬(もうてん)とともに三十万の軍を支えている。能力だけを見れば、他の子より明らかに皇帝に近い。


 政自身、そのことを誰より理解していた。


 だからこそ、迷いは深かった。


「……呂不韋」


 静かな寝所で、その名だけが落ちた。


 自分の父。


 そして扶蘇の父。


 扶蘇には、あの男の血が濃く流れている。扶蘇が皇帝となり、その子へ天下が継がれていけば、秦は世代を重ねるほど呂不韋(りょふい)の血を強く残すことになる。


 それを受け入れられない。


 だが扶蘇を外せば、代わりに誰を立てるのか。


 そこには答えがなかった。


「私が生きておればよい」


 政は呟いた。


 自分が死ななければ、後継者を選ぶ必要もない。扶蘇へ渡す必要もなく、他の子へ無理に継がせる必要もない。


 永遠に自分が皇帝でいればよい。


 理屈として成り立たないことは、政にも分かっていた。それでも、後継を選ぶよりは、その不可能へ縋る方がまだ耐えられた。


 丹薬は、もはや不老不死の薬である以上に、決断を先延ばしにするための道具になっていた。



 北辺。


 俺は長城沿いの砦を巡った後、咸陽から届いた公文書を読んでいた。


 その中に、母上の体調についての短い報告があった。巡幸の後から政務を早めに切り上げる日が増え、頭痛を理由に謁見を断ることもあるという。


「陛下のお身体が?」


 隣にいた蒙恬(もうてん)が文書へ目を落とした。


「大事ではない、と書いてある」


「巡幸のお疲れでしょうか」


「……そうならいいんだけどな」


 胸の奥に嫌なものが残った。


 前世で知っている歴史が、すぐに頭へ浮かぶ。


 始皇帝。


 不老不死。


 方士。


 そして水銀。


 もちろん、今の母上が実際に何を飲んでいるのかまでは分からない。だからこそ、今回は勝手に結論を出さずに確かめるべきだった。


「蒙恬」


「はい」


「咸陽へ使者を出したい。母上が飲んでいる丹薬について、材料と処方を調べさせてくれ」


 蒙恬は少し驚いた。


「御薬の中身まで、お調べになるのですか」


「ああ。何もなければ、それでいい」


 俺は文書を折りたたんだ。


 蒙恬はそれ以上問わず、頷いた。


「すぐに使者を出しましょう」


「頼む」


 俺が北辺から咸陽へ問いを送った時には、母上はすでに丹薬を何度も飲んでいた。



 咸陽では、趙高(ちょうこう)が皇帝の服薬記録を確認していた。


「本日も服用を?」


「はい。朝と夜に一服ずつ」


 侍医が答えた。


 趙高は竹簡へ目を落としたまま、続けて尋ねる。


「震えは以前より増えておりますか」


「……はい」


「方士は何と」


「仙薬が御身体へ効いている証だと申しております」


 趙高はそこで初めて侍医を見る。


「あなたは、どう見ます」


 侍医は周囲を気にしてから、声を落とした。


「丹薬を飲み始めてから、陛下のお身体は明らかに弱っております。服用を減らすよう申し上げましたが、お聞き入れにはなりませんでした」


「そうですか」


 趙高は薬を止めようとも、逆に勧めようともしなかった。


 皇帝が何を飲み、身体にどんな変化が出ているのかを、ただ記録していく。


 そこへ官吏が入ってきた。


「趙高様。上郡より、公子扶蘇様の使者が参っております」


 趙高の筆が止まった。


「用件は」


「陛下へ献上されている丹薬について、材料と処方を確認したいとのことです」


 趙高は少し考えた。


 仙薬を求めた時、扶蘇は異を唱えた。


 焚書にも反対した。


 坑儒の処罰も止めようとした。


 そして今度は、遠く北辺から丹薬について尋ねてきた。


「どういたしましょう」


「答えさせなさい」


 官吏が意外そうな顔をする。


「よろしいのですか」


「陛下の御薬です。隠す理由はありません。侍医と方士に、分かる範囲で説明させてください」


「御意」


 官吏が退出すると、趙高は新しい竹簡を取り出した。


 扶蘇が皇帝の丹薬について問い合わせた。


 それもまた、事実として記しておく。


 趙高は扶蘇の言葉を作り変える必要はないと考えていた。何を止めようとし、何に異を唱え、どこまで皇帝の選択へ踏み込んだのか。


 事実を並べれば、それだけで一つの人物像になる。


 皇帝の身体は少しずつ衰えている。


 北辺には扶蘇と蒙恬、そして三十万。


 咸陽には胡亥がいる。


 後継者は、まだ決まっていない。


 趙高は急がなかった。


 必要な時が来るまで、記録を増やしていけばよかった。


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