第52話 毒
博浪沙で鉄槌が副車を砕いてから、始皇帝は巡幸の警備をさらに厳しくした。宿泊地は直前まで伏せられ、食事には何人もの毒見役が置かれる。車列には以前より多くの副車が加わり、皇帝がどの車に乗っているのか、外からはますます分かりにくくなっていた。
それでも、始皇帝自身の意思で口にするものだけは、誰にも止められなかった。
仙薬である。
◆
「陛下。新たな丹薬が出来上がりました」
方士が小さな器を差し出すと、始皇帝は中を覗き込んだ。これまでにも似た薬を何度も飲んできたが、今回のものは丹砂をさらに精錬したものだという。
「以前のものとは違うのか」
「はい。丹砂を幾度も焼き、天地の精気を凝らしております。長く服せば五臓を清め、老いを遠ざけるものと」
方士の返答には、かつて徐福が見せた慎重さがなかった。徐福は「必ず」とは言わなかったが、今の始皇帝の前では、曖昧なことを言う者ほど遠ざけられ、効くと言い切る者ほど重く用いられるようになっていた。
「寄越せ」
始皇帝は器を受け取り、そのまま飲み干した。
その丹薬には、水銀が含まれていた。
当時、それを不老長寿へ通じるものと信じる者はいたが、実際には身体を蝕む毒だった。
◆
最初に現れた異変は、頭痛や倦怠、眠りの浅さといった小さなものだった。政務の途中で指先が震えることもあり、以前なら一度で覚えた報告を聞き返す場面も少しずつ増えていく。
「陛下」
竹簡を差し出そうとした李斯が、始皇帝の手を見て動きを止めた。
「何だ」
「少し、お休みになられてはいかがでしょう」
始皇帝は自分の指先を見る。細かな震えはしばらくすると治まったが、李斯の視線はそこから離れなかった。
「この程度で政を止められるか。続けよ」
「……御意」
李斯はそれ以上強く言わなかった。
始皇帝自身も、以前と違うことには気づいていた。丹薬を飲み始めてから身体が軽くなったわけではなく、むしろ重くなっている。頭痛も増え、夜も眠りづらい。それでも、薬と不調を結びつけて考えることを避けていた。
◆
「これは、効いている証ではないのか」
ある日、始皇帝は方士に尋ねた。
頭痛や震えが続いていることを告げると、方士は一瞬だけ言葉に詰まった。ここで毒の可能性を口にすれば、これまで献じてきた薬そのものを否定することになる。
「仙薬が御身体を改めている途中なのでございましょう。常人の身から、仙人の身へ近づく過程にございます」
始皇帝はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……ならば続けよ」
方士は深く頭を下げた。
こうして丹薬の服用は止まらなかった。
◆
政がまったく疑っていなかったわけではない。
むしろ、自分の身体だからこそ分かっていた。
薬を飲む前より調子が悪い。飲むたびに頭が重くなり、指先の震えも増えている。それでも服用をやめられなかったのは、薬への信頼が強かったからではない。
他に縋るものがなくなっていたからだ。
徐福は戻らず、盧生たちも去った。東海にも西方にも仙人の確かな証はなく、丹薬まで捨てれば、「自分もいずれ死ぬ」という結論だけが残る。
そして政にとって、死を認めることは、後継者を決めることとほとんど同じ意味を持っていた。
その夜、机の上に置かれた丹薬を長く見つめながら、政は何度も手を止めた。
飲まなければいい。
理屈では、それだけのことだった。
だが最後には器を取った。
「……まだだ」
誰に聞かせるでもなく呟き、薬を飲み干す。
それが命を延ばしているのか、それとも削っているのか。政自身、もう確信を持てなくなっていた。
◆
死を恐れる理由は、命そのものへの執着だけではない。
政は机上に広げられた秦の地図を見ていた。
韓も、趙も、魏も、楚も、燕も、斉も消えた。長い戦いの末に、すべてを一つの国へまとめた。それを、自分が死ねば誰かへ渡さなければならない。
候補はいる。
考えなくとも、最初に浮かぶのは扶蘇だった。
統一戦争に参加し、軍事を知り、政務にも関わってきた。将兵からの信望もあり、今は北辺で蒙恬とともに三十万の軍を支えている。能力だけを見れば、他の子より明らかに皇帝に近い。
政自身、そのことを誰より理解していた。
だからこそ、迷いは深かった。
「……呂不韋」
静かな寝所で、その名だけが落ちた。
自分の父。
そして扶蘇の父。
扶蘇には、あの男の血が濃く流れている。扶蘇が皇帝となり、その子へ天下が継がれていけば、秦は世代を重ねるほど呂不韋の血を強く残すことになる。
それを受け入れられない。
だが扶蘇を外せば、代わりに誰を立てるのか。
そこには答えがなかった。
「私が生きておればよい」
政は呟いた。
自分が死ななければ、後継者を選ぶ必要もない。扶蘇へ渡す必要もなく、他の子へ無理に継がせる必要もない。
永遠に自分が皇帝でいればよい。
理屈として成り立たないことは、政にも分かっていた。それでも、後継を選ぶよりは、その不可能へ縋る方がまだ耐えられた。
丹薬は、もはや不老不死の薬である以上に、決断を先延ばしにするための道具になっていた。
◆
北辺。
俺は長城沿いの砦を巡った後、咸陽から届いた公文書を読んでいた。
その中に、母上の体調についての短い報告があった。巡幸の後から政務を早めに切り上げる日が増え、頭痛を理由に謁見を断ることもあるという。
「陛下のお身体が?」
隣にいた蒙恬が文書へ目を落とした。
「大事ではない、と書いてある」
「巡幸のお疲れでしょうか」
「……そうならいいんだけどな」
胸の奥に嫌なものが残った。
前世で知っている歴史が、すぐに頭へ浮かぶ。
始皇帝。
不老不死。
方士。
そして水銀。
もちろん、今の母上が実際に何を飲んでいるのかまでは分からない。だからこそ、今回は勝手に結論を出さずに確かめるべきだった。
「蒙恬」
「はい」
「咸陽へ使者を出したい。母上が飲んでいる丹薬について、材料と処方を調べさせてくれ」
蒙恬は少し驚いた。
「御薬の中身まで、お調べになるのですか」
「ああ。何もなければ、それでいい」
俺は文書を折りたたんだ。
蒙恬はそれ以上問わず、頷いた。
「すぐに使者を出しましょう」
「頼む」
俺が北辺から咸陽へ問いを送った時には、母上はすでに丹薬を何度も飲んでいた。
◆
咸陽では、趙高が皇帝の服薬記録を確認していた。
「本日も服用を?」
「はい。朝と夜に一服ずつ」
侍医が答えた。
趙高は竹簡へ目を落としたまま、続けて尋ねる。
「震えは以前より増えておりますか」
「……はい」
「方士は何と」
「仙薬が御身体へ効いている証だと申しております」
趙高はそこで初めて侍医を見る。
「あなたは、どう見ます」
侍医は周囲を気にしてから、声を落とした。
「丹薬を飲み始めてから、陛下のお身体は明らかに弱っております。服用を減らすよう申し上げましたが、お聞き入れにはなりませんでした」
「そうですか」
趙高は薬を止めようとも、逆に勧めようともしなかった。
皇帝が何を飲み、身体にどんな変化が出ているのかを、ただ記録していく。
そこへ官吏が入ってきた。
「趙高様。上郡より、公子扶蘇様の使者が参っております」
趙高の筆が止まった。
「用件は」
「陛下へ献上されている丹薬について、材料と処方を確認したいとのことです」
趙高は少し考えた。
仙薬を求めた時、扶蘇は異を唱えた。
焚書にも反対した。
坑儒の処罰も止めようとした。
そして今度は、遠く北辺から丹薬について尋ねてきた。
「どういたしましょう」
「答えさせなさい」
官吏が意外そうな顔をする。
「よろしいのですか」
「陛下の御薬です。隠す理由はありません。侍医と方士に、分かる範囲で説明させてください」
「御意」
官吏が退出すると、趙高は新しい竹簡を取り出した。
扶蘇が皇帝の丹薬について問い合わせた。
それもまた、事実として記しておく。
趙高は扶蘇の言葉を作り変える必要はないと考えていた。何を止めようとし、何に異を唱え、どこまで皇帝の選択へ踏み込んだのか。
事実を並べれば、それだけで一つの人物像になる。
皇帝の身体は少しずつ衰えている。
北辺には扶蘇と蒙恬、そして三十万。
咸陽には胡亥がいる。
後継者は、まだ決まっていない。
趙高は急がなかった。
必要な時が来るまで、記録を増やしていけばよかった。




