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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第2章 秦の栄光と崩壊編

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第51話 橋上の老人

 博浪沙で始皇帝の暗殺に失敗した張良(ちょうりょう)は、秦の追手を避けながら南へ逃れた。


 秦は十日にわたり大規模な捜索を行った。


 街道には兵が立ち、宿は調べられ、旧韓の地では不審な者が次々と尋問された。


 それでも張良は捕まらなかった。


 名を変え、衣を替え、時には商人の一行へ紛れながら追跡をかわし、やがて下邳(かひ)へ辿り着いた。


 そこでしばらく身を隠すことにした。


 始皇帝は生きている。


 長い時間をかけて探した力士も、用意した鉄槌も、博浪沙の一撃ですべて失った。


 張良はその失敗を何度も考えた。


 力が足りなかったわけではない。


 あの鉄槌が本車へ当たっていれば、始皇帝はまず助からなかった。


 自分が読み違えたのだ。


 秦がどこまで暗殺を警戒しているのか。


 皇帝がどのような備えをしているのか。


 それを見抜けないまま、一度しかない機会へ賭けた。


「……力だけでは、届かない」


 張良は一人、そう呟いた。



 ある日のこと。


 張良は下邳の橋を渡っていた。


 橋のたもとに、一人の老人が座っている。


 白い髪を長く伸ばし、古びた衣をまとった、どこにでもいそうな老人だった。


 張良がその前を通り過ぎようとした時。


 老人が片方のくつを脱いだ。


 そして、橋の下へ落とした。


 張良は足を止める。


 偶然には見えなかった。


 老人は張良を見た。


「そこの娘」


「私ですか」


「下へ降りて、履を拾ってまいれ」


 張良は眉を寄せた。


 見ず知らずの相手である。


 頼むでもなく、当然のように命じている。


「ご自分で拾われては」


「年寄りに橋の下まで降りろと申すか」


 老人は平然としていた。


 張良は言い返しかけた。


 亡国とはいえ、張良は代々韓の宰相を務めた家の娘である。幼い頃から礼を受ける側であり、見知らぬ老人に下僕のように扱われることには慣れていない。


 だが、怒鳴ったところで何にもならない。


「……分かりました」


 張良は橋を下りた。


 泥の中へ落ちていた履を拾い、戻ってくる。


「どうぞ」


 差し出す。


 しかし老人は受け取らなかった。


「履かせよ」


「……何ですって?」


「拾ったのなら、履かせるところまでやれ」


 張良の眉がぴくりと動いた。


 さすがに腹が立った。


 それでも老人は悪びれない。


 張良はしばらく相手の顔を見た。


 ただの横柄な老人なのか。


 それとも、自分を試しているのか。


 分からない。


 結局、張良は膝をついた。


 老人の足へ履を履かせる。


「これでよろしいですか」


「うむ」


 老人はそれだけ言って立ち上がった。


 礼も言わず、そのまま歩き去っていく。


 張良は呆れてその背中を見送った。


「何だったの、あの老人は……」



 ところが老人は、数十歩ほど進んだところで振り返った。


「娘」


 張良が顔を上げる。


「お前は見込みがある」


「……は?」


「五日の後。夜明けに、この橋へ来い」


「なぜです」


「来れば分かる」


 それだけ言い残し、老人は去った。


 無視してもよかった。


 だが、妙に気になった。


 履を落としたところから、すべて意図的だったように思える。


 あの老人は、張良が怒るかどうかを見ていた。


 怒りを抑えて拾うか。


 さらに履かせろと言われても耐えるか。


 そう考えると、ただの奇人ではない気がしてきた。


 五日後。


 張良は夜明けに橋へ向かった。


 老人はすでに立っていた。


「遅い」


「……夜明けと言われましたが」


「老人との約束に、老人より後から来る者があるか」


「ですが」


「五日の後、また来い」


 老人はそのまま去った。


 張良はその背中を睨んだ。


「……なんなのよ」



 さらに五日後。


 今度は鶏が鳴く頃には橋へ着いた。


 これなら文句はない。


 そう思った。


 だが。


「また遅い」


 老人はすでにいた。


「どうして……」


「出直せ」


「待ってください」


「五日の後」


 老人は張良の抗議を聞こうともしなかった。


 怒りが込み上げる。


 ここまで来て、また追い返される。


 何のためにこんなことをしているのかも教えない。


 その時、博浪沙での失敗が頭をよぎった。


 自分は、待てなかった。


 始皇帝の車列を前にして、一度しかない機会だと焦った。


 確信がないまま、最も豪奢な車を本車だと決めつけた。


 そして外した。


 張良は拳を緩めた。


「……分かりました」


 老人は何も答えず去った。



 三度目。


 張良は夜半のうちに橋へ向かった。


 月が高いうちに着き、誰もいない橋の上で待つ。


 夜は冷えた。


 何度か眠気も襲った。


 それでも動かなかった。


 やがて東の空がわずかに明るくなり始めた頃。


 老人が現れた。


 張良を見る。


 そして、初めて笑った。


「うむ」


「今日は、私の方が先です」


「それでよい」


 老人は懐から一巻の書を取り出した。


「受け取れ」


 張良は両手で受け取る。


「これは?」


「兵法の書だ」


「兵法?」


「よく読め」


 老人は張良を見た。


「これを学べば、王者の師となることもできよう」


 張良は思わず老人を見返した。


「あなたは、何者なのです」


「それを知る必要はない」


「では、なぜ私に」


「履を拾った」


「それだけですか」


「拾い、履かせ、待った」


 老人は答えた。


「力を持つ者は多い。才ある者も珍しくない。だが己を抑え、時を待てる者は少ない」


 張良は黙った。


「お前は、鉄槌で皇帝を殺そうとしたそうだな」


 張良の顔色が変わる。


「……なぜ、それを」


「さてな」


 老人は笑った。


「一人を殺せば天下が変わると思うたか」


 張良は答えなかった。


「天下は一人では動かぬ。兵を動かす者がいる。民を動かす者がいる。王を動かす者がいる」


 老人は張良の手の中の書を見た。


「人を動かせぬ者に、天下は動かせぬ」


 それだけ言うと、背を向けた。


「待ってください」


 張良が呼び止める。


 老人は振り返らなかった。


「五年もすれば、その書の意味が分かろう」


 そして去っていった。



 宿へ戻った張良は、すぐに書を開いた。


 そこに記されていたのは、太公望(たいこうぼう)の兵法だった。


 軍をどう配置するか。


 敵の虚実をどう読むか。


 兵をいつ進め、いつ退くか。


 補給をどう保ち、どの時点で戦うべきか。


 張良は夢中になって読み進めた。


 だが、その書は戦場だけを扱ったものではなかった。


 君主と臣下。


 将と兵。


 人が何を恐れ、何を欲し、何を与えられれば動くのか。


 相手の心を読むことも、兵法の一部として記されていた。


 さらに頁を進めたところで、張良の手が止まった。


「……これは」


 そこには、男について記した章があった。



 この世では、男は少ない。


 女十人に対して一人ほどしか生まれない。


 だから男は幼い頃から守られ、大切にされる。


 同時に、多くの女から求められる存在でもあった。


 書には、その男の心を得る方法が記されていた。


 どのような言葉を喜ぶのか。


 どのように頼られれば、自分が必要とされていると感じるのか。


 女がどの距離まで近づけば警戒されず、どの時に目を合わせ、どの時に視線を外すべきか。


 声を柔らかくする時。


 あえて弱さを見せる時。


 相手の得意なことを頼り、誇りを満たす時。


 逆に、過度に追えば男は身構える。


 こちらから求め続けるだけではなく、男自身に「この女の傍にいたい」と思わせることが重要だとも書かれていた。


「……兵法書でしょう、これ」


 張良は思わず呟いた。


 だが読み進めるうちに、その意図が分かってきた。


 単なる媚び方ではない。


 相手が何を望んでいるのかを知る。


 どう接すれば心を開くのかを考える。


 自分の言葉、表情、距離の取り方まで含めて使う。


 そして、相手自身の意思でこちらへ力を貸したいと思わせる。


 それもまた、人を動かす術なのだ。


 書には夫婦や男女の親密な関係についても触れられていた。


 女が自分の欲だけを押しつければ男は疲れる。


 相手の反応を見て、何を心地よいと感じ、何を嫌がるかを知る。


 喜ばせることを一方的な奉仕と考えるのではなく、互いに心を許すための手段として用いる。


 男の身体だけを求めるのではない。


 安心させ、満たし、また会いたいと思わせる。


 そうして心を得れば、言葉だけでは得られなかった信頼を得ることもある。


 張良は頁から顔を上げた。


「……ここまで書く?」


 太公望という人物への印象が少し変わった。



 しかし、笑って済ませられる内容でもなかった。


 張良は考える。


 この世界では、強い女は珍しくない。


 軍を率いる女。


 国を治める女。


 財を持つ女。


 だが男は少ない。


 一人の男を中心に、複数の有力な女たちが結びつくこともある。


 ならば、男の心を得ることが、その周囲の人間関係まで動かす場合がある。


 逆も同じだ。


 男を粗末に扱えば、その男を大切にする女たちまで敵に回す。


「人を動かす、か」


 老人の言葉を思い出した。


 兵を動かす者がいる。


 民を動かす者がいる。


 王を動かす者がいる。


 戦場で敵兵を倒すことだけが兵法ではない。


 味方を増やし、敵を減らす。


 相手の心を知り、自分から動いてもらう。


 そのためなら、言葉も、礼も、信頼も、女としての魅力さえ使う。


 張良は書を閉じた。


 博浪沙では、鉄槌一つで秦を倒そうとした。


 だが秦は一人の身体ではない。


 皇帝がいる。


 官僚がいる。


 将軍がいる。


 兵がいる。


 その全てを繋いでいるのは、人だった。



 それから張良は、太公望の兵法を何度も読み返した。


 最初は軍略の章ばかりを読んでいた。


 やがて、人心を扱う章の方へ長い時間を割くようになった。


 相手が何を欲しているのか。


 どこまで押せばよいのか。


 いつ引くべきなのか。


 どうすれば、命令しなくても相手が自分から動くのか。


 男女の章も例外ではなかった。


 張良は鏡の前で表情まで試した。


「……こう?」


 少し笑う。


 違う。


 書には、作った笑みは警戒を招くとある。


 今度は力を抜く。


「……馬鹿みたい」


 一人で何をしているのかと思いながら、それでも続けた。


 声の調子。


 視線。


 距離。


 相手を褒める時にも、何でも持ち上げればよいわけではない。


 本当に相手が誇りに思っている部分を見抜かなければ響かない。


 それは男に限った話ではなかった。


 人は、自分を理解してくれる者へ心を開く。


 張良は少しずつ、それを理解していった。



 やがて、一つの結論に辿り着いた。


 自分は王になる器ではない。


 軍を率いて前に立つ将でもない。


 だが、王を支えることはできる。


 人を見抜き、その長所を使い、必要な時に正しい方向へ導く。


 その役なら、自分にもできる。


 問題は、その王がどこにいるかだった。


 強いだけでは駄目だ。


 頭が良いだけでも足りない。


 人が集まる男。


 女たちが自分から力を貸したくなる男。


 身分の高い者も低い者も、なぜかその傍に居続けてしまう男。


 太公望の兵法に記された人心の術を、教えずとも自然に使えるような者。


「そんな男、本当にいるのかしら」


 張良は書を閉じた。


 その時は、半ば冗談のつもりだった。


 だが数年後。


 張良は、本当にそういう男と出会うことになる。


 高貴な生まれでもない。


 立派な官職があるわけでもない。


 酒と女が好きで、細かなことにはだらしがなく、とても天下を取る人物には見えない男。


 それなのに、不思議と人が集まる。


 女たちは彼を助け、危険な時には命まで張る。


 そして本人は、それを特別なこととも思っていない。


 その男の名を。


 劉邦(りゅうほう)という。

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