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【秦末興亡記】 ~始皇帝の子に転生した公子は、乱世を生き抜く~  作者: 越後⭐︎ドラゴン
第2章 秦の栄光と崩壊編

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第49話 母と娘

 その日の軍議は、ひどくやりづらかった。


 蒙恬(もうてん)はいつも通りだった。地図を広げ、烽火台の配置と匈奴の動きを説明し、各隊へ指示を出していく。


 蒙凛(もうりん)も黙って聞いている。


 ただし、俺とは一度も目を合わせなかった。


「では、今日はここまでといたします」


 蒙恬(もうてん)が軍議を終える。


 将たちが次々と退出していき、最後に残ったのは俺と蒙恬(もうてん)、そして蒙凛(もうりん)だった。


 蒙凛(もうりん)が立ち上がる。


「母上」


「……何だ」


「話があります」


 蒙恬(もうてん)の顔が少し強張った。


「扶蘇様も残ってください」


「俺も?」


「当然です」


 逃げ道はなかった。



 三人だけになった天幕で、しばらく誰も口を開かなかった。


 最初に沈黙を破ったのは蒙凛(もうりん)だった。


「いつからですか」


「凛」


「母上に聞いています」


 蒙恬(もうてん)が小さく息を吐く。


「昨夜だ」


「そうではありません」


 蒙凛(もうりん)は母をまっすぐ見た。


「いつから扶蘇様を、そういう目で見ていたのですか」


 今度こそ蒙恬(もうてん)は黙った。


 俺も答えられない。


 これは母娘の間で決着をつけるべきことだった。


「……分からぬ」


 やがて蒙恬(もうてん)が答えた。


「いつから、と言われてもな」


「母上は扶蘇様の乳母でしょう」


「ああ」


「私が幼い頃から、ずっとそうでした」


「ああ」


「なのに」


 蒙凛(もうりん)の声が少し震えた。


「なのに、どうして」


 責めている。


 だが、怒りだけではない。


 俺には分かった。


 蒙凛(もうりん)が傷ついている。



「凛」


 蒙恬(もうてん)が娘へ一歩近づいた。


「私も、こうなるつもりではなかった」


「ならなければよかったではありませんか」


 即座に返された。


 蒙恬(もうてん)が言葉を失う。


「扶蘇様は、ずっと母上ばかり見ていました」


 俺は思わず蒙凛(もうりん)を見た。


 彼女は俺を見ない。


「子供の頃からです。母上が戦へ行けば心配して、戻れば安心して。母上が傷つけば、自分が傷ついたような顔をして」


「凛、それは」


「分かっています」


 今度は俺を見た。


「扶蘇様が母上を大切に思っていることくらい、昔から知っています」


「……」


「でも私は」


 そこで言葉が止まった。


 蒙凛(もうりん)は拳を握った。


「私は、ずっと扶蘇様の隣にいたのに」


 その一言で、ようやく俺は彼女が何に怒っているのか理解した。


 母親を取られたからではない。


 俺を取られたと思っているのだ。



「凛」


 俺は口を開いた。


「すまない」


「謝らないでください」


「でも」


「謝られたら、私が惨めになります」


 強い言葉だった。


「私は扶蘇様が好きです」


 初めて、はっきり言われた。


 蒙恬(もうてん)が目を見開く。


「凛、お前」


「母上は気づいていなかったのですか?」


「……いや」


「でしょうね」


 少しだけ皮肉に聞こえた。


「楚へ行った時もそうでした。母上を助けるためなら、私はどこへでも行くつもりでした。でもそれは母上のためだけではありません」


 蒙凛(もうりん)が俺を見る。


「扶蘇様と一緒に戦いたかったからです」


 幼い頃から何度も一緒に木剣を振った。


 学問では俺が勝ち、武ではいつも俺が負けた。


 戦場では背中を預けた。


 ずっと近くにいた。


 近すぎて、俺はその気持ちに甘えていたのかもしれない。


「俺は」


 言葉を探した。


「凛のことも大切だ」


「それは知っています」


「でも、それが蒙恬と同じ意味なのかは」


「今すぐ答えろとは言いません」


 蒙凛(もうりん)は俺の言葉を遮った。


「私も、それくらいは分かっています」



 今度は蒙凛(もうりん)が母を見る。


「母上」


「……何だ」


「扶蘇様を好きなのですか」


 蒙恬(もうてん)は逃げなかった。


「ああ」


 短い答えだった。


「乳母だからでも、陛下に命じられたからでもない?」


「ああ」


「一人の女として?」


「そうだ」


 蒙凛(もうりん)はしばらく母を見つめていた。


 それから、力が抜けたように肩を落とした。


「ずるいです」


「凛」


「母上はずるい」


 声はもう怒鳴っていなかった。


「私が物心つく前から扶蘇様の傍にいて。扶蘇様が初めて笑ったところも、初めて歩いたところも知っていて」


 蒙恬(もうてん)が困った顔をする。


「それは乳母だったからだ」


「分かっています」


 蒙凛(もうりん)の目に涙が溜まった。


「だから余計に勝てないではありませんか」


 蒙恬(もうてん)が娘を抱きしめた。


 最初、蒙凛(もうりん)は抵抗した。


「離してください」


「嫌だ」


「母上」


「嫌だ」


「子供ではありません」


「私にとっては娘だ」


 とうとう蒙凛(もうりん)は抵抗をやめた。


「……本当に、ずるい」


「ああ」


「認めるんですね」


「今日ばかりはな」


 蒙凛(もうりん)が母の胸元へ顔を押しつけた。



 しばらくして、二人は離れた。


 蒙凛(もうりん)が袖で目元を拭う。


「一つだけ言っておきます」


「俺に?」


「二人にです」


 その顔には、いつもの負けず嫌いが戻っていた。


「私は諦めません」


「凛」


 蒙恬(もうてん)が苦笑する。


「母上が扶蘇様と結ばれたからといって、私まで引く理由はありません」


「それは……」


「この国では、男が複数の女性を妻に迎えることなど珍しくないでしょう」


 確かにそうだ。


 男が極端に少ない世界である以上、一人の男に複数の女性が伴うこと自体は珍しくない。


 だが、理屈で整理できるほど簡単な話でもない。


「扶蘇様」


「はい」


「なぜ敬語なのです」


「なんとなく」


 蒙凛(もうりん)が少し笑った。


「今すぐ私を選んでほしいとは申しません」


 そして真剣な目で俺を見る。


「ですが、母上を選んだからという理由だけで、私を女として見る可能性まで捨てないでください」


 俺は少し考えた。


 曖昧な答えで逃げるのは違う。


「分かった」


 そう答えた。


「約束する」


 蒙凛(もうりん)は頷いた。


「それで十分です」



 天幕を出ると、北辺の風が吹いていた。


 先ほどまでとは違って、三人とも妙に疲れていた。


「戦より疲れたな」


 俺が言うと、蒙恬(もうてん)が珍しく同意した。


「私もです」


「母上は自業自得でしょう」


「凛」


「事実です」


 少しだけ笑いが起きた。


 まだ何も解決してはいない。


 蒙凛(もうりん)の想いも、俺自身の気持ちも、これから向き合わなければならない。


 それでも、黙ったまま傷を残すよりはよかった。


 遠くでは、今日も長城の工事が続いている。


 兵たちが土を運び、見張り台では烽火の準備が行われていた。


 咸陽から離れた北辺で、俺たちはしばらく穏やかな日々を過ごした。


 だが、その平穏は長く続かなかった。



 東方。


 旧韓の地を、一人の女が歩いていた。


 名を、張良(ちょうりょう)という。


 その家は代々、韓の宰相を務めた。


 だが韓は滅んだ。


 王も、国も、秦に奪われた。


 張良(ちょうりょう)は一族の財を使い、長い間ある人物を探していた。


 そして、ついに見つけた。


 目の前にいるのは、並の兵より頭一つ大きな男だった。


 その足元には、巨大な鉄槌が置かれている。


「これを、本当に投げられるのですか」


 張良(ちょうりょう)が尋ねる。


 男は答えず、鉄槌の柄を握った。


 持ち上げる。


 それだけでも常人には難しい重さを、男は肩まで運んだ。


 張良(ちょうりょう)の目が細くなる。


「十分です」


 彼女は男の前へ金を置いた。


「あなたに、殺してほしい者がいます」


「誰だ」


 張良(ちょうりょう)は答えた。


「始皇帝」


 復讐のために用意された鉄槌が、静かに地面へ下ろされた。

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