第49話 母と娘
その日の軍議は、ひどくやりづらかった。
蒙恬はいつも通りだった。地図を広げ、烽火台の配置と匈奴の動きを説明し、各隊へ指示を出していく。
蒙凛も黙って聞いている。
ただし、俺とは一度も目を合わせなかった。
「では、今日はここまでといたします」
蒙恬が軍議を終える。
将たちが次々と退出していき、最後に残ったのは俺と蒙恬、そして蒙凛だった。
蒙凛が立ち上がる。
「母上」
「……何だ」
「話があります」
蒙恬の顔が少し強張った。
「扶蘇様も残ってください」
「俺も?」
「当然です」
逃げ道はなかった。
◆
三人だけになった天幕で、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に沈黙を破ったのは蒙凛だった。
「いつからですか」
「凛」
「母上に聞いています」
蒙恬が小さく息を吐く。
「昨夜だ」
「そうではありません」
蒙凛は母をまっすぐ見た。
「いつから扶蘇様を、そういう目で見ていたのですか」
今度こそ蒙恬は黙った。
俺も答えられない。
これは母娘の間で決着をつけるべきことだった。
「……分からぬ」
やがて蒙恬が答えた。
「いつから、と言われてもな」
「母上は扶蘇様の乳母でしょう」
「ああ」
「私が幼い頃から、ずっとそうでした」
「ああ」
「なのに」
蒙凛の声が少し震えた。
「なのに、どうして」
責めている。
だが、怒りだけではない。
俺には分かった。
蒙凛が傷ついている。
◆
「凛」
蒙恬が娘へ一歩近づいた。
「私も、こうなるつもりではなかった」
「ならなければよかったではありませんか」
即座に返された。
蒙恬が言葉を失う。
「扶蘇様は、ずっと母上ばかり見ていました」
俺は思わず蒙凛を見た。
彼女は俺を見ない。
「子供の頃からです。母上が戦へ行けば心配して、戻れば安心して。母上が傷つけば、自分が傷ついたような顔をして」
「凛、それは」
「分かっています」
今度は俺を見た。
「扶蘇様が母上を大切に思っていることくらい、昔から知っています」
「……」
「でも私は」
そこで言葉が止まった。
蒙凛は拳を握った。
「私は、ずっと扶蘇様の隣にいたのに」
その一言で、ようやく俺は彼女が何に怒っているのか理解した。
母親を取られたからではない。
俺を取られたと思っているのだ。
◆
「凛」
俺は口を開いた。
「すまない」
「謝らないでください」
「でも」
「謝られたら、私が惨めになります」
強い言葉だった。
「私は扶蘇様が好きです」
初めて、はっきり言われた。
蒙恬が目を見開く。
「凛、お前」
「母上は気づいていなかったのですか?」
「……いや」
「でしょうね」
少しだけ皮肉に聞こえた。
「楚へ行った時もそうでした。母上を助けるためなら、私はどこへでも行くつもりでした。でもそれは母上のためだけではありません」
蒙凛が俺を見る。
「扶蘇様と一緒に戦いたかったからです」
幼い頃から何度も一緒に木剣を振った。
学問では俺が勝ち、武ではいつも俺が負けた。
戦場では背中を預けた。
ずっと近くにいた。
近すぎて、俺はその気持ちに甘えていたのかもしれない。
「俺は」
言葉を探した。
「凛のことも大切だ」
「それは知っています」
「でも、それが蒙恬と同じ意味なのかは」
「今すぐ答えろとは言いません」
蒙凛は俺の言葉を遮った。
「私も、それくらいは分かっています」
◆
今度は蒙凛が母を見る。
「母上」
「……何だ」
「扶蘇様を好きなのですか」
蒙恬は逃げなかった。
「ああ」
短い答えだった。
「乳母だからでも、陛下に命じられたからでもない?」
「ああ」
「一人の女として?」
「そうだ」
蒙凛はしばらく母を見つめていた。
それから、力が抜けたように肩を落とした。
「ずるいです」
「凛」
「母上はずるい」
声はもう怒鳴っていなかった。
「私が物心つく前から扶蘇様の傍にいて。扶蘇様が初めて笑ったところも、初めて歩いたところも知っていて」
蒙恬が困った顔をする。
「それは乳母だったからだ」
「分かっています」
蒙凛の目に涙が溜まった。
「だから余計に勝てないではありませんか」
蒙恬が娘を抱きしめた。
最初、蒙凛は抵抗した。
「離してください」
「嫌だ」
「母上」
「嫌だ」
「子供ではありません」
「私にとっては娘だ」
とうとう蒙凛は抵抗をやめた。
「……本当に、ずるい」
「ああ」
「認めるんですね」
「今日ばかりはな」
蒙凛が母の胸元へ顔を押しつけた。
◆
しばらくして、二人は離れた。
蒙凛が袖で目元を拭う。
「一つだけ言っておきます」
「俺に?」
「二人にです」
その顔には、いつもの負けず嫌いが戻っていた。
「私は諦めません」
「凛」
蒙恬が苦笑する。
「母上が扶蘇様と結ばれたからといって、私まで引く理由はありません」
「それは……」
「この国では、男が複数の女性を妻に迎えることなど珍しくないでしょう」
確かにそうだ。
男が極端に少ない世界である以上、一人の男に複数の女性が伴うこと自体は珍しくない。
だが、理屈で整理できるほど簡単な話でもない。
「扶蘇様」
「はい」
「なぜ敬語なのです」
「なんとなく」
蒙凛が少し笑った。
「今すぐ私を選んでほしいとは申しません」
そして真剣な目で俺を見る。
「ですが、母上を選んだからという理由だけで、私を女として見る可能性まで捨てないでください」
俺は少し考えた。
曖昧な答えで逃げるのは違う。
「分かった」
そう答えた。
「約束する」
蒙凛は頷いた。
「それで十分です」
◆
天幕を出ると、北辺の風が吹いていた。
先ほどまでとは違って、三人とも妙に疲れていた。
「戦より疲れたな」
俺が言うと、蒙恬が珍しく同意した。
「私もです」
「母上は自業自得でしょう」
「凛」
「事実です」
少しだけ笑いが起きた。
まだ何も解決してはいない。
蒙凛の想いも、俺自身の気持ちも、これから向き合わなければならない。
それでも、黙ったまま傷を残すよりはよかった。
遠くでは、今日も長城の工事が続いている。
兵たちが土を運び、見張り台では烽火の準備が行われていた。
咸陽から離れた北辺で、俺たちはしばらく穏やかな日々を過ごした。
だが、その平穏は長く続かなかった。
◆
東方。
旧韓の地を、一人の女が歩いていた。
名を、張良という。
その家は代々、韓の宰相を務めた。
だが韓は滅んだ。
王も、国も、秦に奪われた。
張良は一族の財を使い、長い間ある人物を探していた。
そして、ついに見つけた。
目の前にいるのは、並の兵より頭一つ大きな男だった。
その足元には、巨大な鉄槌が置かれている。
「これを、本当に投げられるのですか」
張良が尋ねる。
男は答えず、鉄槌の柄を握った。
持ち上げる。
それだけでも常人には難しい重さを、男は肩まで運んだ。
張良の目が細くなる。
「十分です」
彼女は男の前へ金を置いた。
「あなたに、殺してほしい者がいます」
「誰だ」
張良は答えた。
「始皇帝」
復讐のために用意された鉄槌が、静かに地面へ下ろされた。




