第48話 北の夜
北へ向かうほど、道は荒れていった。
咸陽を出てから幾日も馬を進め、俺と蒙凛はようやく上郡へ入った。
遠くには、築かれたばかりの城壁が続いている。
その内側には兵の天幕が並び、資材を運ぶ荷車が絶えず行き交っていた。
三十万。
数字では聞いていたが、実際に見ると規模が違う。
「扶蘇様」
隣で蒙凛が前方を指した。
一団の騎兵がこちらへ向かってくる。
先頭にいる女を、俺はすぐに見つけた。
「蒙恬」
馬を降りた蒙恬が、こちらへ歩いてくる。
以前より日に焼けていた。北辺の風に晒され続けているせいか、顔つきも少し鋭くなっている。
それでも、俺を見る目だけは昔と変わらなかった。
「扶蘇様」
蒙恬は俺の前で膝をついた。
「長旅、お疲れにございました」
「堅苦しいな。俺は監軍として来ただけだ」
「それでも、公子は公子にございます」
そう言ってから、蒙恬は隣を見た。
「凛」
「母上!」
蒙凛が駆け寄った。
さすがに軍中なので抱きつきはしなかったが、二人とも顔を見ただけで頬が緩んでいる。
「元気そうで安心した」
「母上こそ。随分と日に焼けましたね」
「毎日、外にいるからな」
親子の会話を聞いていると、少しだけ肩の力が抜けた。
咸陽を離れてから、久しぶりに気持ちが軽くなった気がした。
◆
その日のうちに、蒙恬は俺を北辺の防備へ案内した。
「こちらが新たに繋いだ区画にございます」
城壁の上から北を見る。
その向こうには、見渡す限りの土地が広がっていた。
「この壁だけで匈奴を止めるわけではないんだな」
「はい」
蒙恬が頷く。
「一定の間隔で烽火台を置き、騎兵が現れればすぐに知らせます。大きな侵入なら周辺の砦から兵を集め、小規模なら守備隊だけで対処します」
「道も整えているのか」
「兵と糧を早く動かすためにございます」
俺が咸陽で考えていたものより、ずっと具体的だった。
壁を作れば終わりではない。
警戒し、伝え、兵を送り、補給する。
その仕組みを蒙恬が作っている。
「さすがだな」
「何がでしょう」
「俺は壁を繋げればいいと思っていた。ここまで考えてはいなかった」
蒙恬は少し笑った。
「扶蘇様が方向を示され、私は現場で形にした。それだけにございます」
「それが一番難しいんだ」
俺が言うと、蒙恬は一瞬黙った。
それから、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
◆
城壁を下りた後、俺はもう一つ尋ねた。
「楊端和と羌瘣について、何か分かったか」
蒙恬の表情が変わった。
「生きておられることだけは、確認しております」
「返還交渉は」
「三度、使者を送りました」
「全部拒否された?」
「はい」
蒙恬は短く答えた。
「単于は、両将を返すつもりはないようです」
俺は何も言えなかった。
あの二人が捕らえられた原因を、すべて俺が背負うつもりはない。
戦を決めたのは母上で、軍を率いたのは本人たちだ。
それでも、俺が違和感を覚えながら黙った事実は消えない。
「扶蘇様」
蒙恬が俺を見る。
「ご自分を責めておられますか」
「……少しな」
「おやめください」
意外にはっきり言われた。
「扶蘇様は神ではございませぬ。すべての戦の先を知り、すべての者を救えるわけではありません」
胸を突かれた。
この人は俺が未来を知っていることまでは知らない。
それでも、俺が何かを背負っていることには気づいている。
「そうだな」
俺は北を見た。
「そうならなきゃいけないんだろうな」
◆
夜。
軍議を終えて天幕へ戻った俺は、久しぶりに一人になった。
外では見張りの兵が交代する声が聞こえる。
咸陽とはまるで違う。
あちらでは宮殿の壁の向こうに、趙高や李斯や母上がいた。
ここには兵と土と風しかない。
少なくとも、言葉一つを誰かに拾われて別の意味へ並べ替えられる心配は薄かった。
天幕の入口が揺れた。
「扶蘇様。まだ起きておられますか」
「蒙恬?」
「失礼いたします」
入ってきた蒙恬は、甲冑を着ていなかった。
簡素な衣をまとい、手には小さな竹簡を持っている。
「何かあったのか」
「陛下より、扶蘇様がこちらへ来られる前に密命を受けております」
嫌な予感がした。
「母上から?」
「はい」
蒙恬は俺の前に座った。
いつもの彼女ならすぐに用件を告げる。
だが今夜は、珍しく言葉を探している。
「何を命じられた」
俺が尋ねると、蒙恬は覚悟を決めたように顔を上げた。
「扶蘇様のお子を、産むようにと」
「……は?」
しばらく意味が分からなかった。
「俺の子?」
「はい」
「お前が?」
蒙恬の頬が少し赤くなる。
「……はい」
俺は額を押さえた。
母上。
何を考えている。
咸陽から追い出したと思ったら、今度は北で子を作れというのか。
「断っていいぞ」
俺はすぐに言った。
蒙恬が目を見開いた。
「これは母上の命令だ。お前が従う必要はない。俺から母上には」
「扶蘇様」
「何だ」
「私は、命令だから参ったのではございません」
その言葉で、俺は黙った。
◆
蒙恬はしばらく俺を見ていた。
「扶蘇様が幼い頃から、私はあなたを育ててまいりました」
「ああ」
「転んで泣かれたことも、初めて木剣を握られたことも覚えております」
「それは忘れてくれ」
思わず言うと、蒙恬が少し笑った。
「忘れられませぬ」
その笑みがすぐに消える。
「だからこそ、考えぬようにしておりました」
「何を」
答えるまで少し間があった。
「扶蘇様を、一人の殿方として見ることを」
心臓が強く鳴った。
蒙恬は視線を逸らさなかった。
「私は扶蘇様の乳母でした。十八も年上です。凛の母でもあります」
「知っている」
「ならば、このような気持ちは持つべきではないと」
俺は息を吐いた。
「俺も同じことを考えてた」
今度は蒙恬が黙る。
「お前は俺を育てた人だ。だから言えなかった」
「扶蘇様……」
「でも、ずっと好きだった」
口にしてしまえば、驚くほど簡単だった。
何年も言えなかった言葉なのに。
「乳母だからじゃない。蒙恬だからだ」
蒙恬の目が揺れた。
「楚でお前が包囲された時、本当に怖かった。助けられなかったら一生後悔すると思った」
「だから、三千で来られたのですか」
「無茶だったのは分かってる」
「本当に無茶でした」
少しだけ笑う。
その後、蒙恬の目から涙が一筋落ちた。
「……嬉しかったのです」
「何が」
「扶蘇様が来てくださったことが」
蒙恬が目元を拭う。
「公子としてではなく。私を失いたくないから来たのだと、心のどこかで思ってしまいました」
「その通りだよ」
俺が答えると、彼女はもう何も言わなかった。
◆
俺は蒙恬の手を取った。
剣を握り続けてきた手だった。
幼い頃、俺を抱き上げた手でもある。
「母上の命令は関係ない」
「はい」
「子供のことも、今は関係ない」
「……はい」
「それでも、俺と一緒にいたいと思うなら」
蒙恬が手を握り返した。
「おります」
迷いはなかった。
「私自身の意思で、あなたのお側に」
俺は彼女を抱き寄せた。
蒙恬の腕も、ゆっくり背中へ回る。
昔、何度も抱かれたことがある。
けれど、今は違った。
「扶蘇様」
「何だ」
「一つだけ、お願いいたします」
「言ってみろ」
「今夜だけは、乳母ではなく、一人の女として見てくださいませ」
「ああ」
俺は答えた。
「最初から、そのつもりだ」
その夜、俺と蒙恬は初めて、互いの想いを隠さなかった。
◆
翌朝。
目を覚ますと、蒙恬がすでに起きていた。
衣を整えながら、こちらを見ない。
「おはよう」
「……おはようございます」
声が妙に硬い。
「どうした」
「どうしたも何もございませぬ」
「顔が赤いぞ」
「扶蘇様」
「はい」
「少し、お黙りください」
将軍として三十万を率いる女が、俺の一言で耳まで赤くなっている。
思わず笑うと、睨まれた。
「笑わないでくださいませ」
「すまん」
そう言いながら、まだ少し笑ってしまった。
すると蒙恬も最後には諦めたように笑った。
◆
天幕の外へ出ると、蒙凛が待っていた。
「扶蘇様。母上を見ませんでしたか」
俺と蒙恬が同時に止まる。
蒙凛の視線が母を見る。
次に俺を見る。
そして再び母へ戻った。
「……母上」
「何だ」
「なぜ扶蘇様の天幕から出てこられたのです?」
沈黙。
俺は空を見た。
蒙恬は珍しく答えに詰まっている。
蒙凛の目が少しずつ細くなった。
「まさか」
「凛」
「……そういうことですか」
声が低い。
まずい。
「いや、凛。これには」
「扶蘇様は少し黙っていてください」
「はい」
昨日の母親と同じことを言われた。
蒙凛はしばらく母を見つめた後、深く息を吐いた。
「後で、きちんと話してください」
「……分かった」
蒙恬が答える。
蒙凛は俺にも視線を向けた。
「扶蘇様もです」
「分かった」
それだけ言うと、彼女は先に歩いていった。
怒っているのか、困っているのか、それとも別の何かなのか。
俺にはまだ分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがある。
北辺へ来て、俺と蒙恬の関係は変わった。
そしてそれは、蒙凛との関係も変えることになる。
三人で向き合わなければならない時が、来ていた。




