第47話 坑儒
焚書から一年ほどが過ぎた頃、方士たちの間に動揺が広がっていた。
東海へ向かった徐福は戻らない。咸陽に残った者たちも、仙薬を得たとは誰一人として報告できなかった。
それでも母上は諦めなかった。
「まだ見つからぬだけだ」
方士にはさらに財が与えられ、各地へ人が送られた。
だが、求められる成果が大きくなるほど、方士たちが負う危険も増していった。
仙薬など見つからない。
そう口にすれば、これまでの言葉が偽りだったと認めることになる。
やがて、盧生をはじめとする数人の方士が咸陽から姿を消した。
◆
「逃げた、だと」
母上の声は低かった。
宮中に集められた臣下たちは、誰も顔を上げない。
「はい。与えられていた財の一部も持ち出しております」
「理由は」
「……陛下を誹る言葉を残した者もおります」
報告した官吏が、さらに頭を下げた。
「申せ」
「皇帝は人を信じず、刑罰を好み、己の権勢に執着している。そのような者には、仙人も薬を授けぬ、と」
母上は何も言わなかった。
俺はその横顔を見た。
怒っている。
だが、それだけではない。
徐福は帰らない。
西にも東にも仙薬は見つからない。
そして、今度は方士自身が逃げた。
これまでなら「まだどこかにある」と考える余地があった。
だが、その余地が狭くなり始めている。
「捕らえよ」
母上が言った。
「逃げた者だけではない。奴らと交わりのあった者も調べよ。方士、儒者を問わぬ。私を欺いた者が誰なのか、すべて明らかにせよ」
「御意」
命令はすぐに実行された。
◆
数日のうちに、咸陽では多くの者が捕らえられた。
逃亡した方士と親しかった者。
仙薬について語った者。
皇帝の政策を批判した者。
儒者同士の議論の中で、始皇帝のやり方を非難した者まで調べられた。
詮議は広がった。
一人が一人の名を挙げ、その者がまた別の名を挙げる。
やがて捕らえられた者は、四百を超えた。
そして母上は命じた。
「埋めよ」
俺は耳を疑った。
「母上」
「何だ」
「今、何と」
「生き埋めにせよと申した」
広間の中で、誰も動かなかった。
俺は一歩前へ出た。
「お待ちください」
母上の目が俺へ向く。
「逃げた方士を罰することには反対いたしません。財を持ち逃げし、陛下を欺いたのなら、その罪を問うべきです」
「ならば何を止める」
「捕らえられた者すべてが、その罪を犯したわけではありません」
俺は周囲を見た。
「方士と話しただけの者もいる。陛下の政治を批判した者もいる。それだけで四百人余りを埋めるのですか」
母上の表情が硬くなった。
「私を欺く者を放置すれば、また同じことが起きる」
「だからといって、関わりの薄い者まで殺せば、誰も陛下へ本当のことを言わなくなります」
「本当のこと?」
「はい」
俺は母上を見た。
「陛下が聞きたいことだけを語る者しか、残らなくなります」
広間の空気が張りつめた。
言い過ぎたかもしれない。
それでも、引く気にはなれなかった。
◆
「扶蘇」
母上の声に怒鳴るような激しさはなかった。
むしろ静かだった。
「また、お前か」
その一言が重かった。
東海への派遣。
焚書。
そして坑儒。
確かに、俺は続けて母上へ異を唱えている。
「俺は母上に逆らいたいわけではありません」
「だが、逆らっている」
「陛下のために申し上げています」
「皆、そう言う」
母上の目が細くなった。
「諫めるのは陛下のため。法を緩めるのも陛下のため。民の声を聞けというのも陛下のため。便利な言葉だな」
「母上」
「では聞こう。私のやり方が間違っていると、お前は思うのか」
答えに詰まった。
ここで否定すれば、四百人以上が死ぬ。
だからといって、始皇帝の統治そのものを否定したいわけではない。
「今回の処罰は、重すぎると思います」
俺はそう答えた。
母上はしばらく黙っていた。
◆
「恐れながら」
声を上げたのは趙高だった。
母上の傍らで文書を扱っていた女が、静かに前へ出る。
「公子のお言葉には、以前より一つの筋が通っております」
嫌な言い方だった。
「仙薬を求めた時も、反対なされた」
趙高は俺を見ない。
母上だけを見ていた。
「焚書の折にも、反対なされた。そして此度もまた、陛下がお決めになった処罰を止めようとなされております」
「それぞれ理由が違う」
俺が口を挟むと、趙高は初めて俺を見た。
「承知しております」
穏やかに答える。
「公子は、いつも理をもってお話しになる」
だからこそ厄介だった。
「ですが、結果だけを見ればどうでしょう」
趙高は母上へ向き直る。
「陛下が望むものに、公子は異を唱える。陛下が天下を一つにしようとなされれば、公子はそれを行き過ぎと申される」
「趙高」
母上が名を呼んだ。
「何が言いたい」
「公子が反逆を企てているなどとは申しません」
一呼吸置いた。
「ただ、陛下と公子では、天下の治め方があまりに違うのではないかと」
事実だった。
だから反論しづらい。
◆
「丞相」
母上が李斯を見る。
「そなたはどう思う」
李斯は少し考えてから答えた。
「公子のお心は、民を思ってのことにございましょう」
趙高とは違い、声に敵意はなかった。
「ですが、法は一度定めれば、身分や情によって曲げるべきではございませぬ」
「四百人を殺すこともか」
俺が尋ねる。
「公子」
李斯はまっすぐ俺を見た。
「問題は四百という数ではございませぬ。陛下の命に背き、国家を欺いた者をどこまで許すかです」
「関係のない者まで含まれている」
「ならば詮議を尽くすべきでしょう」
そこで一度言葉を切った。
「ですが、公子のお考えと陛下のお考えが大きく隔たっていることも、また事実にございます」
母上は黙って聞いていた。
李斯が続ける。
「公子には、一度咸陽を離れていただくのがよろしいかと」
俺は眉を寄せた。
「どこへ」
「北辺でございます」
◆
李斯の言葉に、俺はすぐ意味を理解した。
「蒙恬のもとへ、ですか」
「はい」
北辺には三十万の秦軍がいる。
河南を確保し、匈奴を抑え、長城を築いている。
「公子は、戦場も民の暮らしもよくご存じです。しかし天下を治める者には、辺境を守る者たちの現実を見ることも必要かと存じます」
聞こえは悪くない。
だが事実上、咸陽から遠ざけるということだった。
母上は俺を見ていた。
その顔からは、何を考えているのか読み取れなかった。
やがて口を開く。
「扶蘇」
「はい」
「北へ行け」
俺は黙った。
「蒙恬の軍へ入り、北辺を見てこい。咸陽の宮で民を語るだけでは分からぬものもあろう」
「……承知いたしました」
反論はしなかった。
前世で知っている歴史が、また一つ形になった。
扶蘇は始皇帝を諫め、北辺の蒙恬のもとへ送られる。
その先に何があるかも、俺は知っている。
沙丘。
偽りの詔。
そして、扶蘇と蒙恬の死。
ただ、同じようにはならない。
そのために、ここまで生きてきた。
◆
退出した俺を、趙高は黙って見送っていた。
扶蘇は咸陽から離れる。
皇帝へ直接言葉を届ける機会は減る。
それだけでも、十分だった。
だが、北辺には蒙恬がいる。
三十万の軍もある。
趙高にとって、それは無視できない。
皇帝から遠ざかった公子が、秦で最も強大な軍の一つと結びつくことになるからだ。
そして何より、趙高は覚えていた。
「亡秦者胡也」と聞いた時、扶蘇が胡亥を見たことを。
仙薬にも反対した。
焚書にも反対した。
坑儒にも反対した。
これから先、この公子が何をするのか。
趙高は、それを見届けるつもりだった。
◆
北へ発つ日、蒙凛が俺の前へ現れた。
「扶蘇様。私も参ります」
「凛?」
「母上が北におります。それに、扶蘇様だけを行かせるわけにはまいりません」
迷いのない返事だった。
俺は少しだけ笑った。
「厳しい土地だぞ」
「楚へ三千で突っ込んだ時よりは、ましでしょう」
「……それを言われると弱いな」
蒙凛も少し笑った。
「では」
「ああ。一緒に来てくれ」
こうして俺は、蒙凛とともに咸陽を発った。
北には蒙恬がいる。
そして、三十万の軍がある。
俺の知る歴史では、扶蘇が最後の日々を過ごした場所。
上郡へ。




