第46話 焚書
蒙恬の三十万が北辺を押さえ、長城の建設が進む一方、咸陽では別の問題が持ち上がっていた。
天下は一つになった。
だが、人の考えまで一つになったわけではない。
旧六国には、それぞれの歴史があり、制度があり、秦とは異なる学問がある。郡県制が敷かれた後も、昔の制度へ戻すべきだと唱える者は少なくなかった。
ある日の宴で、それが表に出た。
「陛下。恐れながら申し上げます」
進み出たのは、儒者の淳于越だった。
「天下は広うございます。すべてを咸陽より治めるのは容易ではありません。古の王たちは、一族や功臣を各地へ封じ、王室を支える藩屏といたしました」
母上の表情がわずかに硬くなる。
「封建に戻せと申すか」
「すべてを戻せとは申しませぬ。ただ、古から続いた制度には、それだけの理由がございます。今の制度のみを正しいとし、過去を退けるのは危ういかと」
宴の席が静まった。
俺は淳于越の言いたいことも分かった。
郡県制は強い。
地方の支配者を中央が任命する以上、諸侯が独立して争う危険は小さくなる。
だが、その強さは中央が正常に機能していることを前提としている。
皇帝の命令一つで天下が動く。
ならば、その皇帝が誤った時も、天下すべてが同じ方向へ動くことになる。
俺が以前から感じていた不安だった。
「古に倣え、か」
母上は杯を置いた。
「五百年、天下が争ったのは何ゆえだ。諸侯が土地を持ち、王を名乗り、互いに兵を向けたからではないのか」
「されど」
「その六国を私が滅ぼした。そして今さら、秦の中に新しい六国を作れと申すのか」
淳于越は答えられなかった。
そこで、李斯が進み出た。
「陛下。問題は封建を復すか否かだけではございませぬ」
「申せ」
「天下が一つになった後も、人々はそれぞれ己の学んだ古を基準に、今の政を論じております」
李斯は淳于越を責めるような口調ではなかった。
淡々と、問題を整理していた。
「斉の学者は斉を語り、楚の者は楚を語る。ある者は周を理想とし、ある者はさらに古の王を持ち出す。法令が出るたび、『昔は違った』と論じる者が現れます」
「それが何だ」
母上が問う。
「天下には、陛下の法と、古人の言葉という二つの基準が存在することになります」
広間が静まった。
「民が何を守るべきか分からなくなる。それでは、文字や度量衡を統一しても、政は一つになりませぬ」
いかにも李斯らしい考えだった。
彼女にとって、問題は本の内容そのものではない。
国家の命令とは別に、国家を批判できる権威が存在することだった。
「では、どうする」
「民間にある書を整理すべきかと存じます」
俺は李斯を見た。
嫌な予感がした。
「秦以外の諸国の史書は、旧国への執着を残します。また、詩書や諸子の書を用いて現在の法令を非難する者も絶えませぬ」
李斯は頭を下げた。
「官府に置く書は残します。医薬、卜占、農事など、実用に必要な書も禁じる必要はございませぬ」
そして続けた。
「それ以外の民間の書は、期限を定めて官へ提出させ、焼却するのがよろしいかと」
やはり、来た。
焚書。
前世で知っていた始皇帝の政策の一つだった。
◆
「母上」
俺は口を開いた。
母上がこちらを見る。
「何だ」
「丞相の言うことには、理があります。旧六国の史書が反乱の旗印に使われる危険もあるでしょう」
李斯が少し意外そうに俺を見た。
「ですが、書そのものを焼けば、後から取り戻すことはできません」
「官府には残すと申しておる」
「はい。ならば、民間のものまで一律に焼く必要はないのではありませんか」
俺は言葉を選んだ。
ここで「焚書は後世に悪名を残します」などと言うわけにはいかない。
「禁ずるべきは、書を根拠として法令に従わぬ行為ではないでしょうか。書を持っているだけの者まで処罰する必要はないと思います」
「公子」
李斯が俺へ向き直った。
「書があるから、それを根拠に議論する者が生まれるのです」
「議論すること自体が罪なのですか」
「議論のすべてが罪とは申しませぬ」
李斯は静かに答えた。
「ですが、国家には最後に従うべき一つの基準が必要です」
「それが法だと」
「はい」
迷いのない答えだった。
俺は李斯が嫌いだから反対しているわけではない。
むしろ、彼女の理屈が分かるから厄介だった。
七国がそれぞれの価値観で争った時代を終わらせる。
そのために文字も貨幣も法も一つにする。
ならば、思想も同じ方向へ揃えたい。
秦という国家の延長として考えれば、筋は通っている。
だが。
「陛下」
俺は母上を見た。
「天下を一つにすることと、天下に一つの考えしか残さぬことは、同じではありません」
母上はしばらく黙っていた。
◆
「扶蘇」
やがて母上が口を開いた。
「お前は、六国がなぜ滅びたと思う」
「秦に敗れたからです」
「それだけではない」
母上は周囲を見渡した。
「同じ言葉を使わず、同じ銭を使わず、同じ法に従わず、それぞれが己こそ正しいと思っていた。だから天下は一つになれなかった」
その目が俺へ戻る。
「私は、それを終わらせた」
「分かっております」
「ならば最後までやる」
母上の決断は変わらなかった。
「李斯の案を採る」
詔が出された。
秦の官府が管理する書を除き、民間にある旧六国の史書、詩書、諸子百家の書を提出させる。
医薬、卜占、農事などの実用書は除外。
提出された書は焼却する。
期限を過ぎて隠し持つ者には罰を科す。
俺はそれ以上、言わなかった。
母上はもう決めていた。
ここで食い下がっても、政策は止まらない。
ただ、広間の端にいた趙高が、俺と母上のやり取りを静かに見ていた。
◆
数日後。
咸陽の各所へ、書が集められ始めた。
竹簡を抱えた老人。
父祖から受け継いだ史書を持ってきた旧六国の者。
何十年も読み続けた本を、役人へ渡す学者。
皆が反乱を企んでいるわけではない。
ただ命令に従って、自分の持つ書を差し出していた。
それらが積み上げられた。
火がつけられる。
乾いた竹が割れる音がした。
俺は遠くから、その様子を見ていた。
「扶蘇様」
隣にいた蒙凛が俺を見る。
「……お止めになれなかったのですね」
「ああ」
「悔しいですか」
少し考えてから答えた。
「分からない」
前世では、焚書と聞けば始皇帝の暴政として覚えていた。
だが実際にその時代へ来ると、単純ではなかった。
母上には母上の理屈がある。
李斯にもある。
天下を再び割らせたくないという思いも、嘘ではない。
それでも、目の前で燃えているものが戻らないことだけは確かだった。
「正しい目的なら、何をしても正しくなるわけではない」
俺がそう言うと、蒙凛は黙って火を見た。
竹簡が次々と崩れていった。
◆
同じ頃。
趙高は宮中で記録を整理していた。
東海への船団。
扶蘇は反対した。
方士への支出。
扶蘇は疑問を呈した。
そして今回の焚書。
また、扶蘇は皇帝の決定に異を唱えた。
どの進言にも、それぞれ理由がある。
それだけを見れば、忠臣の諫言とも言える。
趙高は竹簡へ目を落とした。
事実は変えなくていい。
順番を揃えるだけでいい。
皇帝が望んだ仙薬に反対した。
皇帝が定めた政策に反対した。
皇帝が天下を一つにしようとするたび、扶蘇は違う道を勧めた。
その記録だけは、すでに残っている。
趙高は筆を置いた。
まだ使う時ではない。
だが、いつか「扶蘇という公子がどのような人物であったか」を誰かに説明する必要が生じた時、この記録は役に立つ。
焚書の火が咸陽で燃える中、趙高はその竹簡を他の記録とともにしまった。




