第45話 万里の長城
蒙恬に与えられた兵は、三十万。
先に楊端和と羌瘣が率いた五万とは、規模からして違っていた。
だが、蒙恬は兵数だけを頼みにして草原へ踏み込むことはしなかった。
「我らの目的は、単于を討ち取ることではありません」
出陣を前に、蒙恬は諸将へそう言った。
「匈奴を河南の地から退け、秦の北辺を守れる場所まで押し戻す。それ以上、草原の奥へ追う必要はありません」
卓上には北方の地図が広げられていた。
前の戦で何が起きたのかは、すでに詳しく調べさせている。
匈奴は追えば退く。
秦軍の隊列が伸びれば、その横や後ろへ回り込む。
そして将が救援や追撃を急げば、その一瞬を逃さない。
「敵が退いても追わないのですか」
若い将が尋ねる。
「必要なところまでは追います」
蒙恬は答えた。
「ですが、相手が逃げた方向へそのまま進み続けることはしません。こちらが取る土地は、こちらで決めます」
三十万という兵力は、敵を追い回すためではない。
匈奴に、秦軍へ正面から近づくことそのものをためらわせるために使う。
それが蒙恬の考えだった。
◆
北へ進んだ秦軍は、まず河南の地へ入った。
黄河の南側に広がる地域であり、匈奴が中華へ侵入する際の足場にもなっている。
頭曼も騎兵を出した。
だが、五万を相手にした時とは勝手が違った。
秦軍の列は長く、それでいて各隊の間隔が崩れない。前方へ騎兵を出せば弩兵が待ち、横へ回ろうとすれば別働隊が先に陣を敷いている。
匈奴が少数で近づけば追い払われ、大軍を集めようとすれば秦の斥候に察知された。
「追ってこぬな」
遠くから秦軍を見ながら、頭曼が呟いた。
挑発のために出した騎兵が退いても、秦軍は必要以上に動かない。
こちらが離れれば、蒙恬はその土地へ兵を置く。
また別の場所へ騎兵を出せば、今度はそこへ守備隊を進める。
戦場で匈奴を捕まえようとはしていなかった。
土地を一つずつ奪っていた。
「面倒な女だ」
頭曼は吐き捨てた。
五万ならば、引き込んで崩せた。
三十万ならば、一部を誘っても残りがいる。
しかも、その三十万を率いる女は、自分から罠へ入ってこない。
頭曼は何度か戦いを仕掛けたが、秦軍を大きく崩すことはできなかった。
やがて河南から兵を退かせた。
◆
秦軍はそこで止まった。
匈奴がさらに北へ退いても、蒙恬は追撃を命じなかった。
「全軍、停止」
将たちの間には、まだ進めるという声もあった。
「敵は退いております。このまま単于の本隊まで」
「追いません」
蒙恬は即座に退けた。
「我らは河南を取るために来たのです。草原そのものを征服するためではありません」
「しかし、今なら」
「今だからこそです」
蒙恬は地図を指した。
「ここから先へ行けば、補給路はさらに伸びます。匈奴は退けば済みますが、我らは三十万の兵へ毎日糧を届けなければならない。敵の都もありません。どこまで行けば勝ちなのか、決められなくなります」
諸将は黙った。
蒙恬は河南各地へ兵を置き、砦を築かせた。
そして、もう一つの仕事へ取りかかった。
長城である。
◆
北辺には、何もない場所へ一から壁を築くわけではなかった。
かつて趙や燕が北方の騎馬民族を防ぐために築いた城壁が残っている。それを修復し、途切れている場所を新たな壁で繋いでいく。
兵だけではなく、多くの労役が集められた。
土を運び、突き固める。
石の取れる場所では石を積み、一定の距離ごとに見張り台を設ける。
烽火を上げる施設も整えられた。
匈奴が一か所を越えようとしても、知らせはすぐ隣の守備隊へ伝わる。
壁だけで敵を防ぐのではない。
壁、砦、烽火、道、そしてそこに置く兵を一つの仕組みにする。
「随分、大きなものになりましたね」
工事の様子を見ていた副官が言った。
遠くまで土壁が続いている。
完成したところから兵が入り、見張り台には秦の旗が立っていた。
「まだです」
蒙恬は答えた。
「匈奴は壁ができるのを黙って見てはいません」
その言葉通り、工事への襲撃は何度もあった。
夜間に少数の騎兵が近づく。
資材を運ぶ隊を狙う。
遠くから矢を放ち、秦兵を追わせようとする。
だが蒙恬は、工事の周囲にも十分な守備兵を置いた。
「追うのは三里まで。それ以上は出ないでください」
敵が逃げても、追撃の限度を最初から決める。
楊端和と羌瘣の敗北を、忘れてはいなかった。
誰も同じ形では失わない。
蒙恬はそう決めていた。
◆
咸陽にも、北方から報告が届いた。
「河南の地を回復。匈奴は北へ後退。現在、旧趙・燕の城壁を利用しながら、北辺の防備を整えております」
母上は満足そうに頷いた。
「三十万を与えた甲斐はあったな」
俺も報告を聞きながら、胸の中で息を吐いた。
知っている。
ここは俺の知っている歴史に近い。
蒙恬が匈奴を北へ追い、長城を築く。
前世で何度も読んだ始皇帝の事業だ。
だが、以前のような安心はなかった。
楊端和と羌瘣の名が頭に残っている。
史実通りに進んでいる部分があっても、その外側ではすでに多くのことが変わっている。
「扶蘇」
母上がこちらを見た。
「お前の壁は、役に立っているようだぞ」
「俺一人の策ではありません。昔から北辺に壁はありました。それを大きく繋いでいるのは蒙恬です」
「相変わらず功を欲しがらぬな」
「本当のことです」
母上は小さく笑った。
「ならば、その蒙恬には完成まで北辺を任せる」
俺は母上を見る。
「長く、ですか」
「当然だ。三十万を率い、匈奴を抑えられる将を途中で戻してどうする」
正論だった。
それでも、胸の奥に小さな引っかかりが残った。
蒙恬が北へ行く。
長城を築く。
そして扶蘇も、やがて北辺へ送られる。
そこまでが、俺の知っている歴史だった。
◆
長城の北側。
頭曼は馬上から、遠くに伸び始めた秦の壁を見ていた。
近づけば、すぐに烽火が上がる。
騎兵を出せば秦兵が備える。
以前のように好きな場所から入り、好きな場所から帰ることが難しくなりつつあった。
「これを作っているのが、蒙恬か」
「は。秦では王翦と並び称されるほどの将と聞きます」
部下が答える。
「女だな」
「は?」
「楊端和や羌瘣より、強いのか」
「軍を率いる才ならば、おそらく」
頭曼は再び壁を見た。
三十万を率いても深入りせず、土地だけを奪い、こちらが近づけないよう壁まで築く。
戦場で腕が立つだけの女ではない。
「……そうか」
それだけ言って、馬を返した。
その名を、頭曼は覚えた。
蒙恬。
北辺の壁とともに、その女の名もまた、匈奴の中へ広まり始めていた。




