第44話 秦を亡ぼす者は胡なり
中華の北には、匈奴と呼ばれる騎馬の民がいた。
水と草を求めて移動し、男も女も馬を駆り、弓を引く。城に拠って戦う中華の軍とは違い、敵が来れば退き、追撃をやめれば再び現れる。
この頃の匈奴を束ねていたのが、単于の頭曼である。
男が少ないのは中華と同じだったが、血統への考え方は異なっていた。匈奴では、強い単于の子を残すため、戦で捕らえた優れた女をその相手とすることがある。
強い女の血もまた、次代へ残す価値がある。
そこに本人の意思はなかった。
◆
天下統一後も、北辺では匈奴の侵入が続いていた。
家畜を奪われ、集落を襲われ、ときには女が草原へ連れ去られる。報告が重なると、政はついに討伐を決めた。
「一度、北へ退かせる必要がある」
その言葉を聞いた時、俺は前世の記憶を思い出した。
匈奴討伐。
蒙恬、三十万。
河南の地。
そして長城。
知っている戦だった。
「将は楊端和と羌瘣。兵は五万とする」
俺は顔を上げた。
違う。
将も、兵数も。
「母上」
声を出しかけて、止めた。
何を根拠に反対する。
楊端和も羌瘣も歴戦の将だ。匈奴がまだ巨大な勢力ではない以上、五万でも戦えると考えるのは不自然ではない。
それに、これまでも歴史は細部を変えながら、最後には俺の知る流れへ戻ることがあった。
(今回も、そうかもしれない)
俺は黙った。
◆
草原へ入った秦軍は、すぐに戦い方の違いを思い知らされた。
匈奴は正面から長く戦わない。秦軍が進めば退き、追えばさらに離れ、足を止めれば矢を射かける。
それでも楊端和と羌瘣は深追いを避け、二隊の距離を保ちながら進んだ。
やがて楊端和の隊が、頭曼の本隊を捉えた。
「単于がいる」
斥候に周囲を調べさせてから、楊端和は兵を進めた。
戦いは秦軍が押していた。
頭曼も自ら馬上で槍を振るい、やがて楊端和と刃を交える。力は強い。だが、技では楊端和が上だった。
数合の後、頭曼の槍が大きく流れた。
「そこだ!」
楊端和が踏み込む。
その時、角笛が鳴った。
「将軍、左右から騎兵です!」
低い草地を使って回り込んでいた匈奴騎兵が、一斉に姿を現した。
狙いは楊端和だった。
馬を射られ、地面へ投げ出される。
すぐに立ち上がって剣を振るい、迫る兵を斬り伏せたが、数が違った。
「触るな!」
背後から腕を取られ、別の兵が脚へ組みつく。
楊端和は最後まで暴れたが、数人がかりで地面へ押さえ込まれた。
「単于! 秦の将を捕らえました!」
剣を向けた兵を、頭曼が止める。
「殺すな。生かしておけ」
◆
捕縛の報せは、すぐに羌瘣へ届いた。
「楊端和将軍が捕らえられました!」
羌瘣は目の前の戦場を見た。
こちらは優勢だった。
このまま押せば、敵の一隊を崩せる。
「単于はどこです」
「北西へ移動中です」
僅かな沈黙の後、羌瘣は決めた。
「向かいます。楊端和将軍を取り戻します」
救援を急ぎ、進軍の速度を上げた。
その結果、隊列が伸びた。
頭曼はそこを突いた。
左右から現れた匈奴騎兵が秦軍の間へ入り、前後を分断する。
「止まって! 隊列を戻してください!」
羌瘣はすぐに命じたが、間に合わなかった。
夕刻まで戦い、馬を失い、それでも剣を振るった。
最後は背後から縄をかけられた。
「離して!」
振りほどこうとしたところへ、さらに兵が飛びかかる。
羌瘣もまた、捕らえられた。
◆
その夜、二人は頭曼の前へ引き据えられた。
武器も甲冑も奪われ、両手を縛られている。
「秦では名のある将らしいな」
「殺すなら早くしろ」
楊端和が睨みつけた。
「殺さぬ」
「なら、身代金でも取るつもりか」
「返すつもりもない」
頭曼は二人を見比べた。
「お前たちは強い。だから、その血を残す」
羌瘣が顔を上げる。
「どういう意味です」
「我が子を産め」
楊端和の顔色が変わった。
「……ふざけるな」
「強い女の血を、次の単于へ残す。それが草原のやり方だ」
「殺せ!」
立ち上がろうとした楊端和を、兵が押さえた。
「こんなことをするくらいなら、ここで殺せ!」
「その選択はお前にはない」
羌瘣も縄を強く引いた。
「私たちは秦の将です」
「知っている。だからこそ欲しい」
「拒んでも?」
「聞かぬ」
二人は言葉を失った。
戦場で死ぬ覚悟はあった。
だが、生かされたまま自分の身体を奪われ、敵の血統のために使われることまで覚悟していたわけではない。
頭曼が兵へ命じた。
「二人とも連れていけ」
「触るな!」
楊端和が激しく抵抗した。
縛られた腕を取られ、足を踏ん張る。それでも数人に押され、同じ天幕へ引きずられていく。
「楊端和将軍!」
羌瘣も後を追うように縄を引かれた。
「離してください! 自分で歩きます!」
兵は手を緩めなかった。
天幕の入口で楊端和が最後に身体を突っ張った。
「殺せと言っているだろう!」
そのまま中へ押し込まれる。
続いて羌瘣も連れ込まれ、入口の布が閉じた。
しばらく、中から争う音が聞こえた。
「触るな!」
楊端和の怒声。
「やめてください!」
普段ほとんど声を荒らげない羌瘣の叫びも続いた。
やがて、それはすすり泣きに変わっていく。衛兵はその泣き声に、甘い声が混じるのを聞き逃さなかった。朝が来るまで衛兵はずっと聞き耳を立てていた。
天幕の前には二人の剣と甲冑が乱雑に置かれていた。
二人は外へ出てこなかった。
秦軍を率いて草原へ来た二人の女将は、その夜から、単于の子を残すための女として匈奴に留め置かれることになった。
◆
敗報が咸陽へ届いた時、俺は朝議の席にいた。
「五万の軍は大きな損害を受け、楊端和将軍、羌瘣将軍はともに捕縛。匈奴側は、両将を返還する意思を示しておりません」
使者が言いにくそうに続ける。
「現地の習俗に従い、単于の子を産ませるため留め置かれているとのことです」
俺は俯いた。
将の名を聞いた時、違うと思った。
兵が五万と聞いた時もそうだった。
それでも、俺は黙った。
(史実では勝つ)
そう考えたからだ。
だが、俺が知っているのは、この世界の未来ではない。
歴史が変わっていると知りながら、都合のいいところだけ前世の知識へ縋った。
「返還を要求せよ」
母上が命じた。
「財で済むなら払う。だが、返すとは思えぬ」
「母上。それでも、取り戻す道を探してください」
「そのつもりだ」
母上は険しい顔で続けた。
「だが、二人を救うためにまた五万を草原へ入れ、さらに失うことはせぬ」
俺は何も返せなかった。
正しい判断だった。
だからこそ、苦しかった。
◆
「ならば三十万を送り、単于を討っては」
臣下の一人が進言した。
「草原の奥まで追うべきではありません」
今度は、俺はすぐに口を開いた。
「匈奴には、落とせば終わる都も城もない。深く追えば、こちらの補給だけが伸びます」
「ではどうする」
母上が聞いた。
「まず河南から押し退けます。その後は、趙や燕が築いた北辺の壁を修め、足りない場所を繋ぐ。烽火と守備兵を置けば、匈奴の侵入路を絞れます」
「長い城壁を作るのか」
「はい。壁だけで完全には止められませんが、今より守りやすくなります」
母上はしばらく地図を見つめた。
「よかろう。ただし、先に奴らを退かせる」
そして将の名を告げた。
「蒙恬に三十万を与える。匈奴を河南から追い、その地を取れ。その後、北辺の壁を繋がせる」
俺の胸がざわついた。
三十万。
蒙恬。
河南。
今度は、俺の知る歴史に近い。
けれど、もう安心する気にはなれなかった。
そこへ戻るまでに、二人の人生は変わってしまったのだから。
◆
その時、方士の盧生が進み出た。
「陛下。古い予言に、秦の行く末を記したものがございます」
「申せ」
盧生は頭を下げた。
「亡秦者胡也。秦を亡ぼす者は、胡なり、と」
広間がざわめいた。
「胡……」
母上は北辺の地図を見た。
「匈奴か」
「このたびの敗北を思えば、軽んじるべきではないかと」
母上の表情に、不安が浮かんだ。
「北伐を急がせよ。蒙恬にはすぐに準備をさせる」
俺は「胡」という一字を頭の中で繰り返した。
母上は北方の胡を見ている。
だが、俺には別の名が浮かんでいた。
胡亥。
思わず弟へ視線を向けた。
歴史は変わっている。
だから、同じ結末になるとは限らない。
それでも今度は、その言葉を安心するための理由には使えなかった。
◆
その一瞬を、趙高は見ていた。
「胡」という一字を聞いた直後、扶蘇が胡亥へ目を向けた。
(なぜ、そこで胡亥を見る)
答えは分からない。
だが、覚えておく価値はある。
趙高の中で、扶蘇への疑いがまた一つ増えた。




