第42話 始皇帝
天下統一の翌年、政は群臣を宮へ集めた。
韓、趙、魏、楚、燕、斉。長く並び立っていた六国はすでになく、かつてそれぞれの王が治めていた土地も、今ではすべて秦の版図に組み込まれている。
その天下を治める者を、これまでと同じ「王」と呼んでよいのか。
議論は以前から続いていた。
群臣が居並ぶ中、玉座の政が口を開いた。
「王では、足りぬ」
広間が静まった。
「天下に並び立つ王は、もうおらぬ。古の三皇、五帝の号を取り、その上に立つ新たな称号を定める」
扶蘇は頭を垂れたまま、その言葉を聞いていた。
「今より、天下を統べる者を皇帝と称する。そして私は、その最初の皇帝となる」
政は群臣を見渡した。
「始皇帝と称せ」
誰かが深く頭を下げ、それに続いて広間の全員が平伏した。
「始皇帝陛下、万歳!」
声が重なった。
扶蘇も頭を下げていたが、驚きはなかった。
始皇帝。
前世で何度も目にした名だった。
歴史の中にしか存在しなかった呼び名を、今、自分の母が初めて名乗った。
(……ここまで来たんだな)
それが最初に浮かんだ感想だった。
秦王政ではない。
始皇帝政。
知っている歴史と違うことは、すでにいくらでも起きている。それでも、この名だけは変わらず現れた。
扶蘇は顔を上げ、玉座に座る母を見た。
そこにいるのは、確かに天下を統一した最初の皇帝だった。
◆
統一のあと、政が着手したのは戦ではなかった。
六国を一つにした以上、その土地を本当に一つの国として動かさなければならない。
まず定められたのは、度量衡だった。
土地によって違っていた長さ、容積、重さの基準を秦のものへ揃え、役所や市場で用いる器具も新たな規格へ改めさせる。同じ量の穀物を指しているのに地方によって数値が違うという状態をなくし、税や交易を一つの基準で扱えるようにした。
貨幣も統一された。
各地で使われていたさまざまな銭を廃し、半両銭を天下共通の貨幣とする。
文字についても、李斯を中心に整理が進められた。
「同じ言葉を書いているのに、地方ごとに字形が違っていては、官吏が扱いに困ります」
李斯は並べられた木簡を示しながら説明した。
「公文書に用いる文字を小篆へ揃えます。地方の旧字体については、時間をかけて改めさせればよいでしょう」
政は頷いた。
「進めよ」
さらに、車輪の間隔まで基準が決められた。
地域ごとに車幅が違えば、道についた轍も違う。車軌を揃えれば、各地の道を同じ車が通れるようになる。
扶蘇は、それらの決定が実際に地方へ伝えられていく様子を見ていた。
前世では、始皇帝の事績として数行で覚えたものばかりだった。
だが実際には、その一つ一つに膨大な人手が必要になる。
地方役人へ命令を送り、新たな基準器を配り、古いものを回収する。文字を改めるなら官吏を教え直さなければならず、貨幣を統一するなら旧貨との交換も必要だった。
「戦が終われば楽になると思っていたか?」
隣にいた政が尋ねた。
扶蘇は少し考えた。
「少しは」
「私もだ」
思いがけない返事だった。
政は机の上に積まれた木簡を見る。
「国を取るより、取ったあとを治める方が細かい」
「母上でも、そう思うんですね」
「私を何だと思っている」
「何でも最初から分かっている人かと」
「そんな者がおるか」
政は呆れたように言ったが、口元には僅かに笑みがあった。
「だが、やらねばならぬ。同じ国を名乗りながら、土地ごとに文字も銭も秤も違うのでは意味がない」
「はい」
「戦で領土を取るだけでは、統一とは呼べぬ」
その言葉に、扶蘇は素直に頷いた。
剣で国境を消すことと、人々の暮らしを同じ制度の中へ組み込むことは別だった。
母が今やろうとしているのは、後者だった。
◆
だが、制度を巡ってすべてが簡単に決まったわけではない。
もっとも大きな議論になったのは、旧六国の土地を誰に治めさせるかだった。
功臣や皇族を諸侯として各地へ封じるべきだという意見は根強かった。
広大な天下を中央だけで治めるのは難しい。
ならば信頼できる者へ土地を与え、その子孫に継がせればよい。
古くから行われてきた方法だった。
しかし、李斯は反対した。
「周が諸侯を封じた結果、後世に争いが起きました。初めは親族でも、何代も経てば血縁は遠くなります。その者たちが兵と土地を持てば、いずれ再び国同士の争いとなります」
政が尋ねる。
「では、どうする」
「天下を郡県に分け、中央から官吏を遣わすべきです。土地を世襲させず、皇帝の命によって治めさせるのです」
広間にざわめきが起きた。
扶蘇は黙って聞いていた。
これも知っている。
郡県制。
後の中国王朝へ長く影響を残す仕組みだ。
「採る」
政の決断は早かった。
「諸侯は置かぬ。天下は一つだ。そこへ再び小さな国を作る必要はない」
李斯が深く頭を下げる。
他の臣下たちも、皇帝が決めた以上は従うしかない。
扶蘇も、その制度の合理性は理解できた。
地方の権力を中央へ集めれば、諸侯が勝手に兵を起こす危険は減る。税も法も統一しやすくなる。
ただ、一つ気になることもあった。
すべてが中央へ集まる。
つまり、中央が崩れれば、天下全体へ影響が広がる。
(母上が生きている間は、これで回る)
その先はどうなる。
前世の記憶があるだけに、考えずにはいられなかった。
だが、今ここで「この制度はいずれ秦を救えなくなる」と言ったところで、根拠を説明できるはずもない。
扶蘇は何も言わなかった。
◆
政にとっても、統一後の問題は制度だけではなかった。
皇帝という新しい座を作った以上、その座を誰が継ぐのかという問題が生まれる。
皇子は扶蘇一人ではない。
だが、長子であり、これまで政務や戦にも関わってきた扶蘇が最も有力であることは、群臣の多くが理解していた。
政自身も、それを否定できなかった。
法を学び、軍を知り、民の暮らしにも目を向ける。
魏の大梁では、敵国の民まで可能な限り救おうとした。蒙恬を救うためには王命を待たず兵を動かし、その件では叱責したものの、結果として多くの秦兵を連れ帰った。
自分と意見が合わないことも多い。
だが、それでも他の子よりはるかに皇帝の座に近い。
問題は、能力ではなかった。
(あの子に継がせるのか)
政は一人になった時ほど、その問いを考えた。
扶蘇の父は、呂不韋。
そして呂不韋は、自分自身の父でもあった。
それを知ったのは、あの男が死ぬ前だった。
知らずに父の子を宿した。
生まれた子は、自分の息子であると同時に、自分の異母弟でもある。
考えれば考えるほど、血の繋がりは歪んでいた。
扶蘇自身は何も知らない。
悪いのはあの子ではない。
それも分かっている。
それでも、自分が死ねば帝国は扶蘇へ渡る可能性が高い。
そう考えるたび、政の中で説明のつかない抵抗が生まれた。
呂不韋は死んだ。
だが、その血は自分の中にも、扶蘇の中にも残っている。
(継がせるに足るのは、あの子だ)
その判断だけなら迷わない。
なのに決められなかった。
扶蘇以外には任せたくない。
扶蘇にも渡したくない。
政は、その矛盾を誰にも話せなかった。
◆
その頃、趙高も扶蘇を見る機会を増やしていた。
皇帝の近くで文書を扱う立場にあれば、皇族や大臣の動きは嫌でも目に入る。
扶蘇については、以前から気になることが多かった。
幼い頃から戦の流れを読むことがあった。
李牧という名を、まだ秦で広く知られていない頃から警戒していた。
趙攻略では、敵国の宮廷を金で崩す策を口にした。
荊軻の暗殺では、自ら刃を取って皇帝を守った。
魏では水攻めを思いつきながら、同時に民の避難まで考えた。
偶然と呼ぶには、重なることが多い。
そして今回もそうだった。
政が皇帝号を定めた時、群臣の多くは驚いていた。
扶蘇だけは、驚きが薄かった。
郡県制が決まった時にも、似たものを感じた。
(知っていたように見える)
趙高は、その考えをすぐに打ち消した。
未来を知る者などいるはずがない。
ならば理由は別にある。
思い出すのは、牢の外で偶然聞いてしまった呂不韋と政の会話だった。
扶蘇の父。
そして、政自身の父。
どちらも呂不韋。
あの秘密を知る者はほとんどいない。
趙高は、今でも誰にも話していなかった。
(呂不韋も、先を読む男だった)
一介の商人から秦の丞相まで上り詰めた。
人の価値を見抜き、何年も先へ賭けることができた。
その男の血を、扶蘇は濃く受け継いでいる。
趙高は、そう考えるようになっていた。
血が能力をそのまま伝えるわけではない。
だが、そう考えれば納得できる部分がある。
何より、扶蘇が次の皇帝になる可能性は高い。
もしそうなれば、自分はどうなる。
扶蘇は蒙恬を信頼している。
李斯とも意見が合うことがある。
だが、趙高とは距離がある。
それだけでも十分だった。
趙高はまだ何もしなかった。
ただ、覚えておくことにした。
皇帝の長子が何を考え、誰と近く、どこで何を口にするのか。
必要になる時が来るかもしれない。
◆
統一事業が進む中、政は各地を自ら見るため巡幸へ出ることを決めた。
最初に向かったのは、西の隴西だった。
秦が勢力を伸ばす以前から関わりの深い土地であり、中華の西端にも近い。
扶蘇も同行を命じられ、護衛には蒙恬がついた。
整備された街道を馬車が進む。
以前なら地域ごとに車幅が違い、道の状態にも大きな差があったが、統一後は主要路から少しずつ基準が揃えられていた。
「実際に走ると分かりやすいな」
扶蘇が馬車から道を見る。
「何がですか?」
馬で横を進む蒙恬が尋ねた。
「車軌を揃える意味。宮で話を聞いてる時は地味だと思ってた」
「陛下がお聞きになったら怒られますよ」
「だから母上の前では言わない」
「今、後ろにおられますけど」
扶蘇は振り返った。
少し離れた馬車に政がいる。
「聞こえてないだろ」
「どうでしょうね」
蒙恬は少し笑った。
こうしていると、戦が終わったことを実感する。
以前なら蒙恬が遠征へ出るたび、生きて帰ってくるかを心配していた。
今は皇帝の巡幸を守るため、同じ道を進んでいる。
もちろん、すべての戦がなくなったわけではない。
北方にも敵はいる。
地方の反乱も起こり得る。
それでも六国を相手に大軍をぶつけ続けた時代とは違った。
◆
隴西へ着いたあと、扶蘇は城外からさらに西を眺めていた。
遠くに山が連なっている。
その先には、前世で知っている土地が広がっている。
「蒙恬」
「はい、扶蘇様」
「あの山の向こうって、どこまで知られてる?」
蒙恬も西を見る。
「交易に出る者の話なら聞いたことがあります。さらに西には砂漠があり、その向こうにも国があるとか。こちらでは見ない馬や宝石を持つ民もいるそうです」
「もっと先にも国がある」
扶蘇は何気なく言った。
「もっと?」
「ああ。たぶん、俺たちが思ってるよりずっと広い」
前世の記憶がある。
この時代の西には、すでにさまざまな国と文化が存在している。
いずれ中国と西方を結ぶ交易路が発達し、絹をはじめとする品が遠くへ運ばれていく。
「いつか、この辺りからずっと西へ道が繋がるかもしれないな」
「道、ですか」
「商人が行き来する道。中華の絹を西へ持っていって、向こうの馬や品をこっちへ持ってくる」
蒙恬は少し考える。
「ずいぶん遠い話をしますね」
「遠いけど、面白いだろ」
「扶蘇様は、昔からそういう話がお好きですね」
後ろから別の声が聞こえた。
「私にも聞かせよ」
扶蘇と蒙恬が振り返る。
政が護衛を伴って歩いてきていた。
「母上」
「西の先に国があると言ったな」
「はい。俺も実際に見たわけじゃありませんけど、商人の話を聞けば、もっと遠くまで人は住んでいると思います」
「中華の外にもか」
「あります」
扶蘇は頷いた。
「中華が世界の全部じゃありません」
政はしばらく西を見ていた。
「どれほど遠い」
「分かりません。何月も、あるいはもっとかかる場所もあると思います」
「そこには、中華にない物もあるのだな」
「当然あるでしょうね」
政は黙った。
扶蘇は、母も未知の土地に興味を持ったのだと思った。
だが、次に出た言葉は違った。
「ならば、不老不死の薬もあるかもしれぬな」
扶蘇は母を見る。
蒙恬も僅かに表情を変えた。
「……母上?」
「中華にない物があるのだろう」
政は西を向いたまま続けた。
「ならば、人を老いさせぬ薬や、死を遠ざける術があってもおかしくはない」
「それはないです」
思わず、すぐに否定していた。
政が振り返る。
「なぜ分かる」
「人は死ぬからです」
「西の果てまで見たのか」
「見てません。でも」
「ならば、言い切れぬだろう」
声音は穏やかだった。
それなのに、扶蘇は続ける言葉を失った。
冗談ではない。
母は本気で考えている。
「母上。不老不死なんてものを探しても」
「私は天下を取った」
政が遮った。
「六国を滅ぼし、長く続いた戦を終わらせた。これから制度を整え、道を作り、天下を一つの国として治めていく」
「はい」
「それを途中で手放せと言うのか」
扶蘇は眉を寄せた。
「手放す?」
「人は死ぬと言ったのはお前だ」
政は西から目を離し、今度は扶蘇を見た。
「私が死ねば、誰かがこの座へ座る」
その言い方が気になった。
普通なら、子が継ぐと言えばいい。
だが、母は「誰か」と言った。
「母上は、後継ぎのことを心配しているんですか」
政は答えなかった。
ほんの僅かな沈黙だった。
「死ななければ、考える必要はない」
「でも」
「もし西の果てにその法があるなら探す。東の海の向こうにあるなら、そこも探させる」
扶蘇は母の顔を見た。
死が怖いだけではない。
そう感じた。
もちろん、死にたくないという気持ちはあるのだろう。
だが、それ以上に、自分がいなくなった後に皇帝の座を誰かへ渡すことそのものを嫌がっているように見えた。
なぜそこまで嫌なのかは分からない。
「母上」
「何だ」
「俺は、不老不死を探すより、母上が長く生きられるよう身体を大事にしてほしいです」
政は少しだけ目を細めた。
「お前は相変わらず現実的だな」
「普通だと思います」
「皇帝になれば、普通では足りぬこともある」
それ以上、政は話さなかった。
護衛を連れて戻っていく。
扶蘇は、その背を見送った。
「……蒙恬」
「はい」
「今の、どう思う?」
蒙恬はすぐには答えなかった。
「陛下は、本気だと思います」
「だよな」
前世の知識がある以上、扶蘇にはこの先が分かる。
方士。
仙薬。
東海への使者。
そして、死を遠ざけようとして飲み続けるもの。
それが何につながるのかも知っている。
ただ、これまで歴史書の中では理解できなかったことが一つあった。
なぜ政が、そこまで死を恐れたのか。
今、その理由の一端を見た気がした。
母は死にたくないだけではない。
自分が築いた天下を、誰かへ渡すことを恐れている。
そして、その「誰か」の中に自分も含まれているのだろうか。
そこまでは分からなかった。
扶蘇が西の先に見ていたのは、まだ知らない国々と、それらを結ぶ道だった。
政は同じ場所に、死を避ける方法があるかもしれないと考えた。
二人が見ているものは、すでに違い始めていた。




